第三章、はたして歴史は終わるのか? 

                                   第1節、歴史はいかに始まったか

 歴史は均質的社会の形成によって、主と奴の闘争が無くなってしまうことで終焉するというのが、コジェーブ、フクヤマの主張ですから、歴史の始まりも当然、主と奴の闘争の開始によるということになります。フクヤマによれば、動物達も食物を奪い合ったり、テリトリーを奪い合ったりするのに戦いますが、それはあくまで自己保存を求める動物的欲望を充たすためです。決して自己保存本能に背いてまで、自己を生命の危険に晒すことはないということです。

 ところが人間だけが自然によって決定づけられずに、自己保存本能に反して「純粋な威信を求める戦いに進んで生命を賭ける」というのです。こうして人間は自分が自然によって決定付けられていない自由な存在であることを承認させようとするということです。フクヤマによりますと、家族を守るためとか、土地財産を奪うというような「合理的な目的」の為の戦いは、まだ動物的な欲求を満たす手段に過ぎないのです。(150頁)

 カントは欲望や利害に向かう傾向性を抑制して義務に従うところに道徳性を見出しました。義務とは実践理性が無条件に「〜すべし!」と呼び掛ける定言命令に従うことです。この内容はあくまで普遍妥当性を持ったものです。この命令は自己自身が定める自己立法に当たります。自己立法に従うことを「自律」と言うのです。自律的である主体こそが「人格」です。この人格的存在によって、人間は尊厳に値するのです。ヘーゲルも人格を真無限を宿すものと捉え、人格の尊厳性を重視していました。そこから所有や契約、法等が展開します。

 ですからカントやヘーゲルも「威信を巡って命がけで戦う」ところに人間性の成立を求めているわけではないのです。この人格的な世界を、フクヤマは自然の機械的世界の大海に浮かぶ「島」と呼んでいますが、この島を創造する第一歩をヘーゲルは「純粋な威信を求める死闘」だと捉えたと理解しています。しかしヘーゲルの場合でも、主と奴の段階は「自己意識」が対等な人格として互いに承認しあうに至る過程のことに過ぎません。互いに対等と認め合った後で、対等な人倫的世界が展開するのです。

   歴史はヘーゲルの論理では、人倫的精神の家族・市民社会・国家の国家の段階で取り上げられます。ですから死闘も辞さない威信を求める闘争を契機に、人間の歴史が開始されたという論理は、ヘーゲル的ではありません。またそのような仮定を置く場合は、それなりの説得力のある説明が必要だと思われますが、フクヤマの説明は説得的ではありません。

 「人間だけが、自分は死を恐がっていないという姿勢を示すためにのみ、そして自分が一個の複雑な機械や『みずからの情念の奴隷』以上の存在であることを示すためにのみ、つまりは自分が自由だからこそ人間固有の尊厳を持っているのだということを示すためにのみ、あえて血なまぐさい戦いに乗り出していくのである。」(151頁)結局死の恐怖に打ち克った者が、戦いに勝って主人に成り、死の恐怖に負けて戦いを投げ出した者が負けて、生き残った場合に奴隷に成るという構図です。

 これでは「ファースト・マン」の時代に、命知らずの暴れん坊が臆病者を震え上がらせて、歴史が始まったという寸法になります。そういう推理のするのは楽しいかもしれませんが、荒唐無稽です。第一威信のために命を賭ける者がどうして現れたのでしょう。その論理が明確ではありません。それに死の恐怖を克服して命賭けで戦う者が、そうではない臆病者に勝つというのも単純過ぎます。

 人間が他の野獣の襲撃を防ぎ、百獣の王でさえも捕獲できたのは、決して獅子よりも勇敢だったからではありません。ボス猿が支配する猿の群れでも、ボスに選ばれるのは腕力が強く、その上雌猿から支持された猿です。ボスを決める勝負だって殺し合いではありません。もし狂暴でライバルをすぐ殺そうとするような猿がいると、協力し合って皆で排除するでしょう。群れにおいては協同性が優勢な原理ですから、群れ内の覇権争いも、協同性を崩壊させる破滅的なやり方は避けなければなりません。

 命賭けの戦争が始まってからも、戦争に勝つのは命知らずの集団とは限りません。それに命の危険を承知で戦っているのですから、戦士達は当然死を覚悟して戦っているのです。未開共同体の戦士達は一体感が強く、共同体の為に戦うときには自分の生死に執着しないと言われています。
 ヘーゲルの主と奴の闘争のように、一対一の対決をモデルにして、死の恐怖を克服した者が勝って、命を惜しんだ者が負ける差しの真剣勝負で、支配階級と被支配階級に分かれたという図式を素朴に歴史の出発点に置くのは、ヘーゲル以上に形而上学的です。ヘーゲル自身は自己意識の成長の論理を説明する為にシンボル的に使っただけですから。

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