第9節、日本的スノビスム

 コジェーブは一九五九年に日本を旅行して、アメリカ的生活様式が人類全体の「永遠に現在する」未来だという認識を変更させられてしまいます。それは彼が、日本が江戸時代の鎖国の期間、三百年の長きにわたって「歴史の終末」の生活を体験したと認識したからです。

 「どのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである」と述べていますから、戦争の無い平和な社会を非歴史的な社会と見なしているのです。歴史には戦国時代もあれば、天下泰平の時代もあります。戦国時代のみを歴史的な時代と考えるのは一面的ですね。彼は主と奴の階級闘争を歴史の動力と見なすわけですが、階級的な闘争は江戸時代も基本的に続いていました。惣百姓一揆等惣村ぐるみの一揆が大規模に起こったのは江戸時代です。

 「農民であった秀吉により『封建制』が清算され、元々武士であったその後継者家康により鎖国が構想され実現された」(246頁)とありますように、コジェーブの江戸時代の知識は極めて杜撰です。封建制の頂点ともいうべき徳川幕藩体制を「歴史の終わり」の時代とした上で、同じ「歴史の終わり」でもアメリカのように所与を否定しない自然的・動物的な生活様式とは正反対の「生のままのスノビスム」が支配していたというのです。

 コジェーブは、「日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち『歴史的』という意味での『人間的』な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。」(247頁)と日本的スノビスムの特徴を記しています。この場合の「歴史的」とは承認を求めて現状を否定し、改革しようとするような動きの事です。労働をはじめ宗教・道徳・政治は、そのような歴史的な人間の営みとして歴史に関わってきたというのです。ところが歴史の終わっていた江戸時代には、現状を否定し、改革しようとするような価値観ではなく、ただすっかり形式化された価値で自己や文化や社会を規律しようとしていたというのです。

 スノビスムは単なる俗物主義という意味ではなく、形式としての価値に固執して内容に対立しようとする生き方を意味しているようです。その例にコジェーブは特攻隊などの純粋なスノビスムによる「無償」の自殺を挙げています。単なる形式は特攻隊の場合は〔国体〕を意味しているのでしょう。 特攻隊員の死は、果たして形式化された価値に殉じるものだったか疑問です。彼らは、擬似共同体的なイデオロギーの下で、自己犠牲的なヒロイズムに駆られていたのです。天皇制かリベラル・デモクラシーかの選択を行い、その上で、天皇制を護持しようとしたのではありません。特攻隊員は誰かが敵艦への突撃をしなければならないのなら、自分が犠牲になろうとしただけです。「古き良き日本の体制」擁護の為の自殺ではなかったのです。

 一般の日本人は人の為には死ねても、価値の為には死ねません。「どの日本人も純粋なスノビスムによりまったく『無償』の自殺を行うことができる。」(247頁)というのはとんでもない買い被りです。

 日本的スノビスムは、歴史的ではありませんが、形式化された価値に固執し、殉ずるという意味では人間的だと言うのです。だって動物にはそんなスノッブ野郎はいないから、あまりに人間的だというわけです。日本人は、純粋な形式としての自己自身を、内容として捉えられた自己自身及び他者に対立させるそうです。例えば、能楽や茶道や華道のような芸事は、形式化された価値としての流派の流儀をそのまま継承することが良しとされま
す。これは発展が求められない社会には最適です。ですからコジェーブによれば、日本と西洋の交流で、歴史の終わった「西洋人」は動物的な状態から、日本的スノビスムに感化されて日本化するようになるのです。

 フクヤマはコジェーブの「日本的スノビスム論」を、脱歴史世界における「優越願望」の捌け口の典型と解釈しています。脱歴史世界では懸案事項をめぐる戦いは決着が付いてしまっているので、「純粋に形式的なスノビズムが『優越願望』の、すなわち同僚よりも優秀だということを認めてもらいたいという人間の欲望の主要な表現形態になるというのである。」(320頁)つまり家元制度の下で継承されている芸事には、形式主義的な評価基準が出来上がっていて、それで上達したり、出来栄えを競い合ったりできます。それは政治的経済的な階級的利害や、すべての功利的な有用性を払拭していますから、純粋に形式的な芸術的価値に目覚めるというわけです。

 フクヤマは脱歴史世界では、スポーツや登山や医学研究や様々な発見・発明競争などで優越願望を競い合うとしています。ただ政治的独裁に繋がるような「優越願望」だけが禁じられると言うのです。そうなりますとリベラル・デモクラシーという政治形態に変化がないだけで、経済的・文化的な領域では激しい競争があり、大いに進歩発展があるわけです。それに政治形態もリベラル・デモクラシーという形式に変化は無くても、その内容は
当然変遷するでしょうから、「歴史の終わり」という発想は狭くて説得力に欠けるようです。

 フクヤマとは違い、コジェーブには「優越願望」「対等願望」から歴史を捉えるという視点がありません。もし優越願望の捌け口として日本的スノビスムを捉えていたのなら、特攻隊の自殺を典型に論じることはなかったでしょう。

 日本では、伝統的文化を最盛期の形のまま継承しようとして、家元制度が発達しています。でもそのことは日本文化の非歴史性を意味しません。歴史の中でともすれば埋もれてしまいがちなスタンダードな文化を継承して、現代に過去の達人たちのセンスを参加させ、現代の文化創造に役立てているのです。

 現代が歴史性を持つのは、現代人が承認を求めて、現状を打開し、変革しようとするからだけではありません。もし現実変革の闘争が、単なる現状への不満の表明でしかなかったら、既成の文化や価値が否定され、荒廃が残るだけです。長い歴史の変遷を生き抜いて、守り抜かれた様式やセンスが、古典文化を回路に現代に生き残っているからこそ、その土台の上に新時代の歴史的な文化が創造できるのです。

 歴史を越えて生き続けるものが守られているからこそ、それを土台に常に自己を革新し、発展させることができます。伝統文化の家元制による保存という面を、歴史的な文化創造という全体から切り離して、抽象的に検討するから、日本文化は形式主義で発展性が見られないことになるんです。文化創造は、保守と革新、スタンダードとアバンギャルドの対立と相互浸透のダイナミズムの上に成り立つのです。コジェーブの日本スノビスム論は、旅行者の主観的で一面的な印象の上に乗っかており、全く説得力がありません。

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