第8節、哲学と言説の消滅

 コジェーブは、歴史の終末によって哲学が消滅する理由を次のように述べています。

「なぜならば、人間はもはや自己自身を本質的には変化せしめず、人間が有する世界と自己の認識の基礎である(真なる)原理を変化させる理由もまたないからである。」(244頁〜245頁)

この謎めいた表現は、「人間の言説(ロゴス)の決定的な消滅」の説明 で正体を現します。

 「ホモ・サピエンスという種である動物は音声上の或いは手振りでの記号に条件反射的 に反応し、彼らが『言説』と自称するものはかくして蜂のいわゆる『言語活動』と似たよ うなものになるだろう。そうすると消滅するもの、これは単に哲学或いは言説による知恵 の探究だけではなく、この知恵自体でもあることになろう。何故ならば、ポスト歴史の動 物にはもはや『世界や自己の(言説による)認識』はなくなるであろうからである。」( 245頁)

 言語は人間特有のものです。動物の信号(蜂のいわゆる「言語活動」)とは根本的に異 なります。言語は主語・述語構造で客観的で対象的な実在としての事物を表現していますつまり感覚的な表象の背後に存在する筈の事物を、表象を素材に組み立てて言い当てて いるわけです。これが哲学或いは言説(ロゴス)による知恵の探究です。主観の側の言説 や知識が客観的な事物と一致すれば真理だということです。しかしこのやり方では、コジ ェーブの考えでは、真理は原理的に不可能です。何故なら、実在は表象の彼岸にある客観 的事物であるのに対して、言説は表象の組合せに過ぎないから、決して一致する筈がない のです。

 彼は、人間的な認識は誤謬に陥らざるを得ないと言うのです。だから人間は真理に決し て到達できないので、常に既成の知を乗り越えざるを得ません。哲学は自己および世界に 関する本質的な認識を、その都度改変せざるを得なかったのです。人間的な認識の誤謬の根本的な原因は、表象の彼岸に客観的事物の実在を置くからだと言います。表象つまり主 観の意識と客観的事物が一致するのは、両者の区別を原理的に止揚することによってのみ 可能だということになります。

  コジューブは、ヘーゲルがナポレオンに歴史の終焉 を見ることによって、人間的世界が実は自由な自己意識の展開に他ならなかったと総括し 、歴史的時間や有限的事物空間を乗り越えて、絶対知に到ったと解釈しました。ヘーゲル 哲学の世界では、絶対知の次元に達しますと、思惟の外に事物を想定する必要がないわけです。それでコジェーブは「歴史の終焉」つまり「人間の死」を迎えた後の人類も、客観 的な事物認識に他ならない言語での知の活動を止めることになったと言うわけです。

 事物認識としての本来の言語は消滅し、動物的な信号活動に戻ってしまったとコジェー ブは、現代思想を評価しているのかもしれません。つまりフッサールらの現象学のように 、意識現象の背後に実在を想定することをエポケー(判断停止)したり、ジェームスのよ うに実在を純粋経験として捉える根本的経験論に立ってしまえば、事象を反応すべき記号 (すなわち特定の生理状態)として取り扱っていることになり、条件反射の論理でカバー
できると考えたのでしょう。批判的にそう考えたのなら共鳴できる点がありますが。

 『精神現象学』が絶対知に到達すれば、主観・客観の分裂は克服されているわけですが、学が絶対知に到達しても、人間や歴史は学の中で止揚されているだけで、歴史的現実は 本を閉じれば相変わらず続いています。そこでは時間・空間的な事物認識、歴史認識を継続しなければなりません。哲学的な論理の展開と現実の歴史の発展の次元の違いを、コジ ェーブは全く無視します。なにしろナポレオンのその後も二つの世界大戦も、厳密には歴 史の継続じゃないと言うのですから。

 それに二十世紀の現代哲学が盛んに主観・客観図式の無効を宣言しましたが、感覚表象 の統合を主体的な事物として、客観的に捉え返す事によってはじめて、認識それ自体が成 立する事情は変わりません。感覚を事物の述語として捉えなければならない事は、客観的 事物が実在しない事を意味しません。かえって客観と主観の弁証法的な相互依存関係を示しているのです。(このことに関しては『状況と主体』1992年6月号拙稿「新しい人間観の構想、第五章パース『人間記号論の試み』について」を是非参照して下さい。)


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