第7節、アメリカと共産主義

 実際コジェーブは1948年から1958年までにアメリカ合衆国とソ連を数回旅行して、アメリカ人は豊かになったソ連人・中国人であり、ソ連人・中国人は急速に豊かになりつつあるアメリカ人だとしています。つまりアメリカは「階級無き社会」であって、欲しいものを手に入れるのに、望む以上に働く必要もないので、次のように言うのです。

「合衆国はすでにマルクス主義的『共産主義』の最終段階に達しているとすら述べることができる。(中略)アメリカ的生活様式はポスト歴史の時代に固有の生活様式であり、合衆国が現実に世界に現前していることは、人類全体の『永遠に現在する』未来を予示する」(246頁)
 
 彼の共産主義理解は、通俗的な社会主義と共産主義の区別に基づいています。「社会主義は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る。共産主義は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。」という粗雑な説明です。五〇年代のアメリカの繁栄は、はるかに抜きんでたものでしたから、人々の生活が押し並べて豊かに映ったのでしょう。みんな必要を充たし豊かに暮らしているのだから、必要に応じて受け取る共産主義の定義に叶っているという事になります。

 社会主義は、資本主義的な搾取を無くして、労働が生み出す価値に相応しい分配を保障する体制で、共産主義は労働量の如何に係わらず必要なだけ分配するというものです。もちろんどんな体制でも、生活の最小限度の必要は充たさなければなりませんから、必要なだけ分配するというのは共産主義固有の原理ではないのです。

 社会主義社会でも労働力の商品性は、市場経済が残っているので無くなりません。それで公共財・公共サービスを除く分配の原理は、労働に応じた分配よりも、労働力の価値の再生産費が労賃を決定する実際原理であるのは、実は資本主義でも、社会主義でも変わらないのです。その意味では「必要に応じた分配」は資本主義にも社会主義にも共通します。ソ連人とアメリカ人の共通性はむしろ商品経済に基づく、労働力商品としての共通性に他ならなかったのです。

 共産主義というのは、実は労賃という形での商品的な分配形態をミニマムにしていく方向性です。決して通常の労働時間で必要な生活用品が入手できるかどうかとは関係ないのです。たとえ貧しくても社会的な協業体制があり、生産物を必要に応じて、市場を介せずに構成員に分配するシステムになっていれば、共産主義なのです。

 アメリカ社会が私有財産制を克服した共産主義社会とは似ても似つかない社会であることはもちろんですし、アメリカ社会が「主と奴」の対立のない「歴史の終焉」した、「人間の死」んだ動物的な社会だというのもピンときません。資本家と労働者、エリートと大衆、定職者と失業者・受救貧民、複雑な人種・民族対立、これまで歴史の動因となったネタには事欠きませんし、それらが複雑に絡み合って政治・経済的に流動している事は周知
の事実です。

 それにマルクスは、共産主義は「歴史の終焉」だとは言っていません。

「ブルジョア的生産関係は、社会的生産過程の最後の敵対的な形態である。敵対的というのは、個人的な敵対という意味で言うのではなく、多くの個人の社会的な生活条件の中から生まれてくる敵対という意味で言うのである。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時に、この敵対関係を解決するための物質的な諸条件をもつくりだしつつあるのである。したがって、この社会構成を最後として、人間社会の前史は終わるのである。」(『経済学批判序言』)

 ですから歴史が「階級闘争の歴史」であるのは、資本制社会までで、自由人の連合としての「新しい共同体」が実現すれば、敵対でなく、協同によって人間的自然を発展させていく、人間社会の本史が始まると捉えていたのです。マルクスもヘーゲルも「主と奴」の対立から人間を本質規定し、階級闘争が無くなれば、歴史が終わり、人間が死んで、動物に戻るなどとは決して考えていませんでした。

 

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