第5節、何故、歴史が終わるのか?

 コジェーブは『ヘーゲル読解入門』で、繰り返し「歴史の終わり」を強調します。

 「人間がもろもろの新しい世界を創造し、それを創造しつつ自己を変革してきた歴史的な発展の実在的過程が、ナポレオンにおいて、そしてナポレオンによりその終局に到達したために絶対知は(客観的に)可能となった。」(引用は上妻精・今野雅方訳、国文社版、48頁)
          

 ヘーゲルは『精神現象学』で絶対知まで到達して、哲学体系を展開する予備学を仕上げました。絶対知は世界史の総括を踏まえ、国家がその本質である自由の概念に相応しいものに完成して、客観的精神から次の芸術・宗教・哲学といった絶対精神の段階に達することを意味します。

 そこで問題にすべきなのは、世界史の総括は世界史が終わってからでないとできないのかということです。ヘーゲルは彼の学の中で世界史を展開させて民族精神の発展により、等質的な市民の自己意識が「自由な精神」に達して、公民として認知されるに到った事を踏まえます。これで国家は概念に相応しく自由の発展過程である「世界史」として把握され、客観的精神が概念把握されたのです。それで次の学の段階が展開される番だというのです。ですからやっと国家が概念に相応しい姿に成ってきたところで、これから本格的に国家の成長や民族精神の発展が見られると、世界史の更なる発展を考えていたと解釈してもいいのです。ただ哲学体系の中では国家が国家の概念に相応しく展開できれば、国家の次の段階を論じる順番だというだけです。
            
 だけどコジェーブは、世界史を主人と奴隷つまり「主と奴」の闘争の歴史に還元する議論を展開するのです。

 「主と奴との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が生まれ、歴史が始まった。すなわち(その起源においては)人間はつねに主であるか、奴であるかであり、主と奴とが存在するところを除いて真の人間は存在しない。そして世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘する主と労働する奴との相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史は主と奴との相違、対立が消失するとき、歴史は停止する。」(58頁)

 ヘーゲルは世界史を国家の発展として展開しているのですから、ヘーゲルが国家の本質を階級闘争であると捉えていることの論証抜きでは、この議論は成立しません。ところが周知のようにヘーゲルは、国家を最高の人倫態として捉えています。国家は人倫の分裂態である市民社会が特殊利益を互いに争って調和を失っているので、普遍的利益を貫徹させるために法を定めて、それにより統治する有機的な全体です。ですからヘーゲルによれば、特殊的利益と普遍的利益の調整が必要な限り、国家は存続し、発展します。

  ヘーゲルは、縦の関係である階級闘争を原理に国家の成立を説いたのではなく、横の関係を基盤に国家を見たのです。だから

 「世界史とは、主であることと奴であることとの弁証法的な、すなわち行動的な関係の歴史以外の何物でもない。そういうわけで、主と奴との総合、全的な人間、すなわちナポレオンにより創り出された普遍的で等質的な国家の公民という総合が実現されるときに、歴史は仕上がることになる。」(59頁)というコジェーブの議論はヘーゲルの議論とはかなりずれています。

 なぜなら近代市民社会の等質な人間こそ、私的利害の追求に絶対的な自己関心を示す特殊利害の権化みたいな存在なのですから、国家はいよいよ本領発揮だということです。それに主と奴関係でも産業革命を背景に、近代的な賃金奴隷制つまり近代資本制生産がこれから確立するところなのです。その意味ではイエナで鳴り響いた砲声は、決して「歴史の終わり」ではなく、新たな展開を告げていたのです。

 

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