第4節、ヘーゲルは「民主主義者」か?

 フクヤマはヘーゲルが保守的な権威主義者だと誤解されてきたことに対して次のように反論しています。

  「ヘーゲルが君主制を支持したことは事実としても、『法の哲学』の275〜286節で述べられている彼の君主の概念は現在の国家元首と近いし、現存の立憲君主像とも矛盾しない。ヘーゲルは、自分の時代のプロシア王政を正当化するどころか、一般には分からない形で現実政治を批判していた、と彼のテキストは読める。」(350頁)

 先述しましたように、それに該当する箇所はたしかにあります。

 「国家がおのれ自身を規定するところの完全に主権的な意志であり、最終の決心であることは、容易に思い浮かぶことである。もっと難しいのは、この『われ意志す』が人格として理解されなくてはならないということである。そうはいっても君主はきままに行動してもよいというのではない。むしろ君主は審議の具体的内容に拘束される。憲法がしっかりしていれば、君主はしばしば署名する他になすべきことはないのだ。しかしこの名前が重要なのであって、それは越えることのできない頂点なのである。」(『法の哲学』280節) 

 「完成した国家組織にあっては、形式的決定を行う頂点だけが大事なのであり、激情に対する自然的抵抗性だけが大事なのである。だから君主に客観的性質を要求するのは間違っている。君主はただ『然り』と言って、画龍点睛の最後のピリオドを打ちさえすればいいのである。というのは頂点というものは性格の特殊性が重きをなすようであってはならないからである。・(中略)・・しっかりした秩序を備えた君主制においては、客観的な面は当然法律にだけ帰属し、君主はただこの法律に主体的な『われ意志す』を付け加えさえすればいいのである。」(同上、同節「追加〔君主の個性〕」) 


 ヘーゲルは君主に最終決定権として主権を認めています。そこで暗愚な君主やきままな君主によって主権が行使されれば、国家が危うくなるではないかという批判を浴びます。それに対して引用文のように非難をかわしているのです。

 ヘーゲルの考えている立憲君主制国家は、国家の理念を体現したいわば理想的な国家です。君主制と対立した民主制や憲法を持たない専制的な君主制は、理性的な国家とは言えません。憲法体制が整い、全体が一つの意志に有機的に結合した君主制こそが理性的な理想国家なのです。       
 ヘーゲルは、無秩序に民衆がそれぞれ一としての権利を主張し、数の勢いでパンとサーカスを要求する衆愚政治が行われて、その上に君主が象徴的に君臨するような体制は下劣だと考えます。たとえ形式的に民主的な立憲君主制の憲法があって、君主がただサインで形式を整えればそれでいい体制に成っていても、ヘーゲルはそれを自由な理性的な国家として合格だとは考えません。そのような民主制に屈伏した君主制は、人民主権だけがあって君主主権がないのですから、真の理性的な国家ではないのです。ですからフクヤマの「彼の君主の概念は現在の国家元首と近いし、現存の立憲君主像とも矛盾しない。」という理解は表面的なのです。
      
 逆に一人の君主の恣意に国家意志の決定が委ねられてしまって、理性の判断が力を持たない専制君主国家も、もちろん自由で理性な国家としては良くない状態です。彼はそれを「憲法を持たない専制的な君主制」と批判します。ヘーゲルのいう「憲法」とは一貫した理念に基づいて、きちんと構築された国家意志の決定及び執行機構の諸原則と諸規定のことです。必ずしも成文憲法に成っていなくても構いません。イギリスのような不文憲法でも良いのです。そのような憲法がなければ、結局君主や僭主の独断あるいは力関係で事が決まって、国家の理性的な意思の統合が行えないのです。
    
 国家意思の統合は審議と決定から成りますが、審議が理性的に行われれば、その結論は決定を縛りますから、君主はサインだけをすれば良い事になります。もし人民と君主の利害が対立して、人民の代表が審議し、その結論を決定させようとしますと、君主は審議内容を無視せざるを得ません。そうすれば憲法は成立しません。そこで象徴的な君主制を憲法に明記して、君主の最終決定権を否認すれば、これもヘーゲル的には憲法の否定です。君主の決定権を否認すれば、審議は理性で統合されることを拒否して、利害をぶつけ合うだけの修羅になり、決定内容は統一的な理念が欠けてしまいます。 

   そこで審議は、国民が抽象的に一として権利を行使するのではなく、それぞれの特殊性を通して全体に係わるという職能代表の集まりである院と、市民社会と距離を保てて、国家に客観的発言が期待される土地貴族階級(ユンカー)の代表と自治体の代表からなる院で審議し、更に理性的な閣僚級の官僚から構成される君主に対する最高諮問機関で審議されるべきだとしたのです。君主が最終的にサインで済ませる為にはこのような機構が必要なのです。そうなっていれば理性の力が強力に発揮されて、君主はただ国家意志が一つに統合されていることの体現者として、形式的な意志決定の象徴的パフォーマンスを示せばよいのです。

 彼は職能団体の代表が審議に加わることで人民主権を満足させていると考え、普通選挙によって議会が民主的に構成されていなければならないとは考えません。結局、職能団体と自治体と土地貴族出身官僚のボス達による審議を、理性的結論を導く審議の形だと主張したことになります。もしこのようなヘーゲルの理念に沿った国家が出来上がったとしたら、かなり封建的な色彩の濃厚な国家になったでしょう。とてもわれわれの基準でリベラル・デモクラシー体制とは言えません。

 フクヤマは、ヘーゲルをリベラル・デモクラートとして評価する立場から、こう注釈しています

 「ヘーゲルが直接選挙に反対し、社会組織の階級化を支持したのは事実である。けれどもそれは、人民主権の原理自体への反対から生じたものではない。ヘーゲルのコーポラティズムはトクビルの『アソシエーションの技術』に対応するものとして理解できる。巨大な近代国家では、政治参加は一連の小規模な組織や協会(アソシエーション)を通じて行われてこそ能率的かつ有意義なものになる。ある階級に所属する場合にも、出自ではなく職業が基準となるし、その階級は万人に開かれているのである。」(350頁)

 しかしヘーゲルは、職能団体の代表の選出も、特殊利益をよく弁え、それによって普遍的利益を損なわない見識を持った、経験豊富な人格者がふさわしいと考えます。普通選挙ではかえって特殊利益を優先する党派に代表が取られてしまいますから、良くないというのです。結局古株の親方の代表、各界の長老の集まりになってしまいます。そういう議会が人民の権利を守り、利益を代表できるというのですから、ヘーゲルをリベラル・デモク
ラシーの思想家に含めるのはかなり無理がありますね。


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