第3節、ヘーゲルの「自由」
 
 
  『法の哲学』といえば「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実である。」をすぐに思い起こします。ですから望ましい「自由」というのも、歴史的社会的現実と遊離して論じても始まらないのです。それぞれの社会に相応しい自由があります。たとえそれが他の社会からの来訪者にとっては因習や権力的統制でがんじがらめのように見えても、その社会が安定しており、人民が精神的な重圧でフラストレーションを昂進させていないかぎり、理性的な根拠を持つ体制として納得させられ、順応して暮らしていわけです。その限りで、人民は自由を享受していることになります。

  例えば現在の解放・改革路線下の中国には、共産党独裁にに対する公然たる批判の自由は存在しません。しかしそれは共産党を解体させたロシアに比べて、不自由とは言えないのです。現にロシアも経済改革の進め方を巡って、大統領派と最高会議派の対決が厳しくなり、ついに大統領は最高会議の解体の大統領令を布告し、これに反発した最高会議支持派は暴動を起こし、大統領派は最高会議ビルに砲弾を撃ち込んで決着をはかったのです。エリツィンは大統領権限を立法や司法にも及ぼし、地方議会でさえ反大統領的活動の責任を問われ、解体を迫られました。このような独裁者エリツィンをリベラル・デモクラートとして断固支持した西側諸国のリベラル・デモクラシーの質も問われるべきでしょう。

 既に中国の人民は拝金主義に侵され、資本主義化の道をロシア以上の猛スピードで突っ走っています。そこに営利の自由を享受しているのです。ロシアでは経済改革が破綻して窮迫しており、政治的自由はその不満の捌け口でしかありません。逆に中国では本当のところはどうか分かりませんが、政治的不自由によって経済的自由が保障されているという暗黙の了解がありますから、政治的不自由が人民によって選択されているのです。これもホッブズ的あるいはヘーゲル的には理性的な「自由な選択」に属します。      

 中国でも共産党の支配を心から歓迎している人民はごく少数でしょう。天安門事件で示された人民の意志はリベラル・デモクラシーの実現です。しかし仮に強引に共産党政権を崩壊させることができても、リベラル・デモクラシーの政治構造を作り上げ、スムーズに機能させるまでの移行過程のプログラムが立たないのです。むしろロシア以上のカタストロフィに陥り、軍閥の群雄割拠になるのではないかと危惧されているのです。そうなれば
経済は大混乱に陥り、億単位の大量の飢餓や難民の発生は避けられないのではないかという不安を抱いているのです。

 もちろん現在の共産党政権が持続できるのは、改革・解放路線が比較的順調に経済的発展を推進しているからです。経済政策を誤って、経済が混迷すれば、社会不安が醸成され、軍事クーデターや民主革命が生じる可能性があります。それまでにリベラル・デモクラシーの政治体制を構築できる条件を整えられるかどうかが、中国の命運を決めることになると予想されます。ということは現在の中国でロシア並みあるいは日本並みの政治的自由を即刻与えられることは、ヘーゲル的には必ずしも自由ではないのです。それは政治的大混乱を引き起こし、経済を大崩壊させるリスクを含んだ自由なので、かえって自由に取り扱えない不自由な自由だというのです。

 ヘーゲルは『法の哲学』で、立憲君主制国家における言論の自由の問題を取り上げ、それを重視していますが、他方で国王や政府に対する誹謗中傷を違法だとし、厳しく取り締まることを求めています。あらゆる冷静な批判でも、それが事柄の核心を捉えていれば、批判を受けた者はうろたえてそれを誹謗中傷だと反撃するものです。誹謗中傷に対する取締りが厳しいものになれば、実質的に言論表現の自由は死んでしまうことになるでしょう。

 言論の自由が尊ばれる国では、政権担当者に対する誹謗中傷に対しては、政府与党は堂々たる反論で応え、根拠のない誹謗中傷であることを国民の前に明らかにするのが筋です。野党や批判勢力の言論が低級な誹謗中傷だと明白になれば、かえって天に唾したことになり、国民の支持を失うことになる筈です。権力的に取り締まっては、国民の自由な言論活動が萎縮してしまい専制政治になってしまいます。

 その点、ヘーゲルの態度が自由主義的でもなければ、民主主義的でもないのは明白です。ヘーゲルは決して当時のアメリカ合衆国で実現していた自由やイギリスの自由を、プロイセン国家の自由を基準にして行き過ぎだと非難したりはしません。それは彼の考えによれば、それぞれの国にはそれぞれの国情に応じて許容される自由の範囲が違って当然だからです。ですからアメリカ合衆国やイギリスをいかにヘーゲルが好意的に論じても、彼が政治的な自由主義者だということにはならないのです。

 ヘーゲルは自由を「必然性の洞察」として理性的なものとして捉えています。確かに理性的な意味ではその通りだとしても、それを政治的な次元で主張するのは、自由主義者でも民主主義者でもありません。自由を人格に固有な不可侵の人権として捉え、その侵害と不断に戦っていく姿勢を持たなければ、自由主義者でも民主主義者でもないのです。

 

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