第9節、経済活動の自由

 

 近代的な人権の最も基礎を成すのが、「自己保存権」です。要するに生きようとする権利ですが、現代的な生存権と違って、自力で生きようとするのを妨げられない権利です。ここから当然、「経済活動の自由」や「財産権」が出てきます。またその為の「居住・移 住・職業選択の自由」が認められなければなりません。これら経済的自由は封建社会の束縛から解放される自由だと言えます。従って、封建社会が解体し、市場経済が発達し、資本主義が支配的に成れば成るほど広がっていく自由だと言えます。

  ただし経済活動を野放しにしますと、売り惜しみや買い占めなどで投機的に暴利を貪り、正常な経済秩序が守れないことがあります。そこでアリストテレスは交換的正義を重視し、市場における価値通りの交換を守るために、投機を取り締まるべきだとしたのです。このように「公共の福祉」に反する場合は、経済活動の自由は制約されるのです。

 「公共の福祉」による自由制限は精神的自由の領域では余程の事がない限り、適用されませんが、経済の自由はむしろ積極的に適用されるようになりました。元々『人及び市民の人権宣言(フランス人権宣言)』で「自由とは他人を害しない限り、何事もなし得るということである」とあるように、自分の自由の主張は他人の自由の侵害であってはなりません。

 特に経済的自由競争の結果、資本主義的生産が発展し、貧富の差が極端になりました。これを野放しにしておきますと、階級対立が激化して、暴力的な革命を誘発することになりかねません。また大多数の窮乏化した労働者階級とごく少数の富裕な資本家階級に人口が二極分化しますと、国民全体の購買力が低下しますから、過剰生産恐慌をひきおこして しまいます。

 そこで財政の働きの一つとして「所得の再分配」が重視されるのです。これは所得税の累進課税と社会保障政策を組み合わせること等により、可処分所得の均等化を計るものです。この機能は景気の自動調節装置(ビルト・イン・スタビライザー)の役目も担っています。

 このような「所得の再分配」を計れるのは、財産権に対する「公共の福祉」による制限条項を憲法に明示しているからです。1919年ドイツの『ワイマール憲法』では「所有権は義務を伴う、その行使は同時に公共の福祉に役立つべきである。」と記され、1947年『日本国憲法』でも「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とあります。

 このような所有権の公共の福祉による制限は、資本主義経済の恐慌や失業、所得格差などが著しく公共の福祉を侵害していると見なされたり、資本・賃労働関係自体が不当な搾取関係であると国民の大多数から非難された場合は、大規模な生産手段の私的所有を禁止 して、集団的所有や公共団体による所有に移行することも考えられます。これが社会主義の主張です。

 70年間ソ連では一応この実験をしたとされています。その結果、資本主義経済以上の経済合理性を示し、国民生活の質的向上を実現したとは言えません。ですから当分の間は資本主義システムそれ自体を不法なものと認定する声が、国民の大多数になるとは考えられません。とはいえ社会主義一般がリベラル・デモクラシーに対立するとも言えないのです。

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