第10節、精神及び行動の自由   

 リベラリストにとっては「精神及び行動の自由」が特に重要です。思想・信条・学問・表現・集会・結社の自由、および通信の秘密などです。いわゆる自由のない専制的な社会左右の全体主義国家、軍部などによる恐怖独裁の社会ではこれらの自由が特に束縛されます。しかしたとえこれらの自由が認められていても、普通選挙権など参政権が国民全体に充分保障されていなければ、デモクラシーではありません。自由主義国家と民主主義国家は区別されるべきです。制限選挙を実施していた自由主義国家は中産階級の支配とは言えても、民衆の支配という意味で民主主義ではないからです。また中産階級には「精神及び行動の自由」が保障されていても、労働者階級の労働運動や社会運動は財産権の侵害や、自由競争の阻害等と様々な理由をつけて警察力を動員して取り締まっていたのです。

 1837年イギリスでは労働者階級にも選挙権を要求する『人民憲章』が発表され、その実現に向かってチャーチスト運動が展開されました。この運動は1848年に大弾圧にあって敗北しましたが、労働者階級を社会勢力として歴史舞台に乗せたのです。フクヤマは1848年のイギリスをリベラル・デモクラシー国家に含めていますが、労働者階級に参政権を認めないのにデモクラシーとは納得できません。

 「精神及び行動の自由」を国家権力が侵害してはならないことはもちろんですが、問題は企業や学園あるいは地域社会の中で侵害されていないかどうかです。日本の大手の自動車会社で職制と御用組合が協調して、階級的な立場に立つ労組の組合員を職場ぐるみで村八分にしたり、職場にチョークで円を描いて、その中に居ることを強制したりする人権侵害がありました。

 また三菱樹脂訴訟では、採用決定に際して、学生時代の生協理事活動を記載しなかった事を理由に、試用期間終了時に採用取消したことに関して、最高裁は一九七三年に次のような驚くべき判決を下しました。「思想・信条による差別待遇を禁止する憲法の規定は、 国や地方自治体の統治行動に対して規制するものであり、私人相互間の関係を直接規律するものではない。憲法は広く経済活動の自由も基本的人権として保障しているから、企業者が特定の思想・信条を有する者をその故をもって雇い入れを拒否しても違憲とはならない。」としたのです。

 思想・信条の自由は、自己の思想・信条を明かしたら社会的・経済的に不利になる場合、それを隠す自由と表裏一体です。もし最高裁判決の論理を承認するのなら、採用試験時に思想調査をして、採否を決定してよいことになり、革新的な思想を持つために企業に就職できないことになりかねません。結局、経済的な脅迫と締めつけによって思想・信条の自由を著しく束縛することになります。そんな社会が果たして自由社会と言えるでしょうか?

 原告は学生時代に安保反対闘争のデモや集会にも参加していたそうですが、平和について自分の考えを持ち、それに基づいて行動することが、企業に就職する妨げになるような社会が果たして自由な社会なのでしょうか?はなはだ疑問と言わざるを得ません。実際、下手に企業内で安保や自衛隊、原発について批判がましい言動をしたり、労働者の正当な権利を主張するような態度を取りますと、上司からも労組からも相手にされなくなり、同僚からも敬遠されるような雰囲気の職場が相当多いと言われています。果たしてそんな社会が自由社会と言えるでしょうか?

 この最高裁判決に対しては法曹界でも反論は多いようです。国民の人権を抑圧するのは何も国家権力に限りませんね。特に近代管理社会では会社・学園・組合その他巨大組織による諸個人に対する人権侵害はたくさん起こっています。これに対して憲法が全く無力では、憲法は国民の人権を守るものではないことになってしまいます。読売憲法草案はこの問題を回避していますから、改正案としてはお粗末です。私人間の人権問題に憲法の規定がそのまま適用できるかどうかは、憲法判例を調べればいかに重大な問題かすぐに分かる筈です。憲法改正にあたっては当然この問題に決着を与えておく必要があるのです。

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