第8節、信教の自由 

 たとえ普通選挙権が与えられていても、デモクラシーとは言えない場合があります。それは基本的人権の保障が充分でない場合です。国家体制に対して批判する権利が認められていない場合は、地域的な利権や人気取り政策、選挙での買収や供応などで政権を維持することがある程度可能なのです。国家体制への批判は、その体制に包摂されて体制に経済的に依存している人達にとっては、国家と人民に対する裏切りと見なされがちなのです。 

 近代的な意味で人権が最初に深刻な意味を持ったのは、宗教改革に伴って生じた「信教の自由」の問題でした。元々ローマカトリック教会は、改革の動きを異端視して、破門したり、宗教裁判にかけて焼き殺したりしてきました。それで贖宥状(免罪符)の販売に反対したルターは、信仰の正統性を巡って、カトリック教会と生死を賭けた戦いを挑む他なかったのです。新旧両教徒は宗教戦争を繰り返して自らの信仰を貫こうとしたのです。

 カルヴァン派新教徒はフランスではユグノーと呼ばれ、商工業者の間で信徒を集めていました。十六世紀後半は フランスで大規模なユグノーの内乱が起こり、ユグノー戦争と呼ばれています。結局ユグノーの首領であったブルボン家のアンリ四世が王位に就き、カトリックに改宗するかわりに、ユグノーにも信教の自由と市民権を与える「ナント勅令」(1598年)を出したのです。

 信教の自由は、特定の宗教や宗派が正統と認められている国家では、他宗教や他宗派に対する宗教的寛容の問題として扱われます。イギリスは英国教会が正統ですから、他宗派に対する寛容を広げてきたのです。ロックは宗教的寛容を主張しましたが、例外として無 神論と宗教的不寛容を示すカトリックに対しては不寛容政策をとるべきだとしました。共産党一党独裁下の「社会主義」諸国でも、一応「信教の自由」は認めると表明していましたが、無神論が正統でしたから、キリスト教や仏教に対しては社会的経済的な基盤があって反体制勢力になる恐れのある場合は反宗教宣伝を強化し、教会外での布教を禁止しました。

 政教分離が徹底しますと、政府は宗教行事に一切係わりません。そしてあらゆる宗教活動が平等に認められます。日本の場合は政府は、建前上、一切宗教活動に係わりませんが、最高裁判例では「目的・効果」論を用いて、地鎮祭など習俗的に慣習化した宗教儀礼は 例外とされています。また日本国及び日本国民統合の象徴である天皇は、神道的な宗教儀式を執り行うのです。そこに憲法第二十条「信教の自由」条項との矛盾点が現れています。

      第一章第9節に進む        ●第一章第7節に戻る      ●目次に戻る