第7節、「法の支配」の原理の普及

 

 「法の支配」は恣意的な「人の支配」を排して、理性の法が支配することを意味します。暴君の法を無視した苛政を批判して、十三世紀にブラクトンが「王といえども神と法の下にある。」と言った言葉がよく引き合いに出されます。この場合の神は普遍的正義、法は理性の法である自然法に基づく正しい法のことです。

 イギリスの歴史は議会と王権の綱引きの歴史でした。どちらに主権があるか明確ではなかったのです。議会の承認なしで国王が決定できる権限、つまり国王大権の範囲を巡って争いが絶えなかったのです。絶対王政の時期には議会の権力は有名無実でしたが、王権が弱まれば議会の権限が強くなりました。十七世紀になり、コークはブラクトンの言葉と『マグナカルタ』の再確認を国王に迫り、『権利請願』を認めさせたのです。これが反故にされてピューリタン革命となります。そして名誉革命の後の『権利章典』により議会主権は確立し、ここに議会制定法と判例法による「法の支配」が確立します。両者とも健全なコモンセンスをもった良識有る人々の合議によって決定されるので、自然法に忠実だと考えられるからです。

 二十世紀の初めに憲法学者ダイシーは司法裁判所による判例の積み上げが、イギリスの人権の憲法に当たるとし、司法権の優位を「法の支配」の中心に置きました。アメリカでは違憲立法審査権によって、憲法の番人としての司法の優位が確立し、「法の支配」が守られると考えられています。その点、日本は自然法思想に基づく『日本国憲法』があり、それに基づく政治が「法の支配」の貫徹なのですが、それを保障する筈の司法の優位は確立しているとは言いがたいようです。何故なら、人事権を行政府に握られてしまった最高裁は、「統治行為論」を口実に違憲審査の役割を殆ど放棄し、憲法の番人の役割を果たせていないからです。アメリカでは最高裁裁判官は元老院の承認を得て大統領が任命することになっています。これに代わるのが日本の場合、最高裁裁判官の国民審査ですが、とても有効に機能しているとは言えません。

 「法の支配(rule of law)」の中には、罪刑法定主義など法によって支配する「法治主義(rule by law)」が含まれています。しかし狭い意味の「法治主義」は、「法の支配」と対立する概念なのです。近代自然法思想はグロチウス『戦争と平和の法』(1625年)以来盛んになりましたが、フランス大革命(一七八九年)の挫折を経験して以来、功利主義・実証主義から批判されます。

 ドイツの歴史法学派は、法は歴史的社会的条件によって成立するものであり、その社会の主権者の権力意志の表明であると主張しました。つまり、自然法と呼ばれている超歴史的な全人類に普遍的な理性の法など幻想であるとしたのです。その上で主権者の意志は制定法によって示されなければ有効ではないとされ、制定法による支配、つまり狭い意味の法治主義が強調されました。しかし制定法が理性の法である自然法に叶っているかどうかは問われませんから、立法府の決定次第でいかなる悪法も正当性を持つことになります。 

 そうしますと人間である限り、生得的に持っている神聖不可侵な基本的人権という発想が成り立たなくなります。権利は主権者の許容する法律の枠内で成立する事になります。立法府が必要と認めれば無制限に権利を縮小することも可能になるのです。大日本帝国憲法は歴史法学派の影響の強いプロイセン憲法を参考にして作られましたが、そこでは権利は天皇の支配に忠実な臣民の権利として恩賜的に与えられるものに過ぎません。法律次第でいくらでも制限できる弱々しいものだったのです。実際、治安警察法や治安維持法によって極端な人権侵害が行われたのです。

 プロレタリア独裁の名目の下に共産党一党独裁を行ってきた「社会主義」諸国では「法の支配」も「法治主義」も貫徹しませんでした。組織の命令、上部機関の指令が法の代わりをしていたのです。一応法律は最高会議で制定されていましたが、なにしろ最高会議は年に数日しか開催されていませんでした。党指導者の長時間演説と各地の代議員 の指導者を讃え、党を讃える演説だけで日程のほとんどを潰してしまいました。最高会議 幹部会から提案される法案は万雷の鳴り止まぬ拍手で一括採択されましたから、一体どんな内容の法律が成立したのか良く理解できなかったのです。

 最高会議の制定法、内閣の決定事項、各地の行政機関の指令、各級の党組織の指示などが乱れ飛び、相矛盾する有り様だったのです。しかもどれも法としての権能を主張していたのです。そうなりますと下手に動きますと、何らかの法に触れることになり、どんな取締りや処罰を受けるかもしれません。そこで一般大衆はできるだけ自主的な動きをするのは避けようとします。具体的に何らかの指令を受けた場合にのみ、行動するのです。こうした受け身の態度を取ることに慣らされてしまった結果、創造的発展的な活動ができなくなって深刻な停滞が起こったのです。

 ペレストロイカ以来、機構改革を積み重ね、法治国家への変身を模索していますが、各権力機関相互の勢力争いや新旧諸勢力のせめぎあいもあり、なかなかスムーズに法治国家に脱皮できていません。この課題を立派にやり遂げないと、とてもリベラル・デモクラシー体制の国家とは言えません。

 

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