第3節、王権神授説と社会契約説

    歴史も思想も進歩すると思われがちですね。リベラル・デモクラシーに向かって思想の発展史を綴ろうとすると、そこには大変無理があるのに気がつきます。むしろデモクラシーの思想の方が古くて、専制的な思想の方が新しい場合がよくあるのです。

 絶対主義的な王権神授説が先に幅を効かしていて、それを社会契約説が批判して市民革命の思想が形成されていったと受け止められがちです。なるほどフィルマーの王権神授説を批判してロックが『市民政府二論』を書いたのは有名です。また同じ社会契約説でも、ホッブズの『リヴァイアサン』、ロックの『市民政府二論』、ルソーの『社会契約論』と時代を経るに従ってより民主的に発展していると解釈されがちです。

 しかしフィルマーの『パトリアーカ(家父長制論)』は元来がピューリタン革命の議会主権の主張に反発して、王権は神が授けた民族の家父長としての支配権だとし、これに従わないのは神への反抗だと主張しました。彼は権力の無い自然状態があって、諸個人が独立して生活していて、自然権を守る必要から社会契約で国家を作ったという仮定を強く批判したのです。ファースト・マンであるアダムに最初から妻子や子孫を支配する権限を与えていたというのです。つまりより民主的な社会契約説が先行していて、それに王権神授説で反論しているのです。

 イギリスは元来混合王政と言いまして、議会の力が強く王権が制限されていたのです。これに反発してジェームス一世は王権神授説で反論して、王権を無制限にしようとしたのです。なんとジェームス一世は「王は神である」と宣言し、王に逆らうのは神への不信仰に他ならないとしたのです。これはバイブルにダビデ王に神は油を注がせ神の養子にしたとあるので、王は「神の子」即ち「神」という理屈なのです。

 王権神授説の代表はジェームス一世とフィルマーだと誤解されているようですが、実は彼らの発想は荒唐無稽ですから、王党派の中でもまともに支持している人は少なかったのです。王権神授説の元々の形はバイブルにある「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」という言葉です。この言葉をルターは農民戦争を非難して使いました。カエサル(皇帝)つまり地上の権力は神が建てられたものだから、それに逆らうのは神に逆らうことだと解釈したのです。その場合も農民自治の民主的な考えに対する反発として王権神授説が出現したことが分かります。

 ホッブズ→ロック→ルソーと社会契約説がより民主的なものに進歩していったとみるのは軽率です。確かにより民主的に成っていますが、時代順に継承発展したとは言えないのです。ホッブズの場合は、ボーダンの主権論を批判したネーデルランドのアルトゥジウス等、彼に先行するより民主的な社会契約思想があったのです。アルトゥジウスは人民主権論に立っていました。権力は契約に基づいて国家の行政官に与えられるが、悪用すれば人民の手に戻されるとしていたのです。ホッブズは民主的でリベラルな思想を批判するために、社会契約思想に内在して社会契約説に立っても、デモクラシーにではなく専制政治に帰結することを示したのです。

 ロックはホッブズを継承する気はありませんでした。彼が参考にした社会契約説はフッカー『教会政治の諸法』でした。もちろんホッブズの『リヴァイアサン』を念頭に置いていましたが、それは社会契約説の捩じ曲げを批判するためでした。ロックも究極的には人民主権と多数決原理を主張しましたから、その点は民主的ですが、代議制民主主義者とは言えません。代議制民主主義かどうかを決定するのは「普通選挙権」の主張です。ピューリタン革命当時レヴェラー(水平派)が主張していました。

 ロックは財産と教養のある名望家政治を期待していましたから、パーラメンタリ・アリストクラシー(議会貴族政)の枠内に止まっていたのです。彼の革命権の容認は、選挙権を与えなかったからこそ成り立ったのです。選挙権を持ちながら革命に決起するのはもちろん承認できません。

 ルソーはホッブズ・ロックを強く意識し、彼らから大いに吸収しようとしましたが、仕上がった理論内容自体は、社会契約説とローマ時代のキケロの理想的国家論の結合という性格が強いのです。彼のオリジナリティであり、最大の力点を置いたのは、全員参加の人民集会での一般意志(真の法)の形成で、立法段階での直接民主主義を主張したものです。モデルになっているのは町内単位で行われたというローマの人民集会です。人民集会・元老院・統領のうちルソーは、人民集会を根幹にしてローマ時代の思想を継承したのです。政治思想におけるルネッサンスはルソーまで続いていたのです。

 ルソー自身は自分を民主主義者だと考えていません。人民は法形成に参加した後は、その法に基づいて統治する統治者に政治を委ねます。統治者が一人なら王政、少数なら貴族政、多数なら民主政ですが、民主政はごく狭い小国家のみ可能でフランスのような大国は王政が相応しいとしています。ルソーは行政における民主政を主張する考えを民主主義と考えていたようです。

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