第2節、ローマにおける「歴史の終わり」

アリストテレス自身が六つの統治形態を循環史観で説明したわけではありません。循環史観はギリシア人の歴史意識、時間意識ですから、そのように受け止められただろうと推測されるだけです。ローマ時代になって、ギリシアの貴族出身で、ローマに帰順したポリュビオスが主著『歴史』で、この循環的解釈で統治形態を説明したのです。彼はこの循環性をギリシアの衰退の原因と見なしたのです。

ローマの強大な国家組織の安定性の秘密を、ポリュビオスは混合政体にあると分析しました。王政・貴族政・良民政のそれぞれの長所を結合し、調整して、牽制と均衡(チェック・アンド・バランス)を保つような混合政体こそが理想的だと考えたのです。そしてローマに見られる二人のコンスル(統領)は王政の原則、元老院は貴族政の原則、人民集会は良民政の原則をそれぞれ代表するものだと見なし、だからローマは安定していると考えたのです。つまり王政・貴族政・良民政のそれぞれの腐敗を互いのチェック・アンド・バランスで防止し合うシステムになっていますから、僭主政・寡頭政・愚民政に陥らずにすむのです。もはやローマは統治形態が堕落し、変遷する心配がありません。ですからこれはフクヤマの言う意味で「歴史の終わり」です。

ローマの地中海世界の支配が完成しますと、「パックス・ロマーナ(ローマによる平和)」の時代に到達しました。ポリュビオスより百年後、ローマ共和国末期のストア派の思想家キケロの『国家論』では、ローマ国家を素材に理想的国家論が展開されています。キケロによれば国家(レスプブリカ)は正義の協定と実利の共通性によって結ばれた人民全体の組織なのです。この発想はルソーの『社会契約論』に継承されていますね。この人民の政治的集合体は行動する人民全体であり、自ら存立を維持する権力を持つ自治的組織なのです。

  これは「ポリス」に代わって「キヴィタス」と呼ばれています。国家や法は人民のものであるこの集合的権力から生まれてくるのです。ですから当然、最高の法は人民全体の福祉です。コンスルや元老院も当然のことながらその権威は人民全体から派生したものであり、全人民の利益に基づいて行動すべきものです。

人民全体としての国家には従って究極的で絶対的な最高権があります。そしてそれと区別されて政府には近似的で制限的な、法的最高権があるというのです。分かり易く言えば、人民に究極的な主権(「主権」概念は十六世紀にボーダン『国家論六篇』で初めて定式化されます。)があるのですが、人民から権威を授けられた統治者が、自然法に基づく法によって人民の福祉の為に統治する限り、その政府には支配の正当性があるということです。

 つまり人民全体の政治的集合体である国家の統治形態は必ずしも民主政体でなくても良いのです。国家の難局に当たっては、人民集会や元老院で議論しても紛糾するばかりでまとまらないことがあります。強力なカリスマや統治能力を持った指導者を独裁官(ディクタツーラ)に任じて、全権を委任しても良いのです。

キケロもポリュビオスに従って王政・貴族政・良民政の混合政体を説き、そのチェック・アンド・バランスを志向しました。そしてもしいずれかの統治形態を選ばなければならない場合には、王政をとり、次善に貴族政を選ぶとしたのです。ここで王政・貴族政はあくまで人民全体の福祉を目指す自然法に則った公正な統治なのです。そうである以上、最も優れた徳を持つ一人による統治が最善で、少数の賢人による合議制は、卓越した王が見つからない場合の次善だということになるのです。            

しかし国家と政府の区別に、「人民の国家」という建前と、政治家=将軍による政治の私物化という現実の厳しい断絶が反映しています。共和制末期のローマは、属州からの貢物という利権を配分する機構になっており、属州支配で得た富で買収を行ってコンスルに選出されるのが常套だったのです。ローマ自体が寄生的な存在である以上、ローマの一般市民である民衆は、パンとサーカス見物の人気取り政策で容易に手懐けられる愚民に過ぎなかったのです。その意味で「歴史の終わり」に相応しい気概に欠けたラースト・マン(末人)でした。              

ローマ帝政と言いますが、皇帝といっても正式にはプリンケプス(元首)です。それは元老院の筆頭であり、ローマ市民中の第一人者という意味なのです。ですからその絶対的な権限は共和政的な官職の兼任、重任という形を取ります。より正確には別の人を官職に就けておいて、その命令権や職権を握って、無期限に権限を行使できるようにしたのです。こうして実質的に皇帝以上の実権を手に入る狡猾なやり方だったのです。しかし人民が救いがたい腐敗に陥っていたので、独裁者に徳の優れた人が選ばれてローマをリフレッシュさせてくれるのを期待するしかなかったのです。ですから帝政も共和政の腐朽過程なのです。その意味では歴史的な進展とは言えません。言わば「歴史の終わりの終わり」なのです。

 このように政治体制論を軸に「歴史の循環」や「歴史の終わり」を論じるのは興味深いことですが、それはあくまでポリス的な国家論の枠組の中で論じていることになります。ポリス的な世界は、ヘレニズム期のコスモポリスの形成によって衰退しました。さらにローマの世界帝国の形成で、ポリス的国家論の枠組を越えて歴史は、全く視角を変えて捉え返されるべきものだということが分かります。

 地中海世界を統合していく過程での戦争捕虜の増加や、商品経済の発達に伴う債務奴隷の増加に促され、大土地所有制と結合して荘園奴隷制が発達して、ローマ経済を支えるようになりました。こうしてローマ帝国中央権力と属州の隷属民との矛盾に加えて、大土地所有階級と荘園奴隷階級の矛盾が成長します。隷属民や奴隷の反乱が各地で発生し、その規模は次第に拡大していきます。他方でローマ万民法に示される自然法的な平等思想、世界市民的思想・文化が醸成されていました。

 富と権力、あらゆる物質的な力から解放された奴隷階級は、精神的な世界の中に自らの解放を求めました。それが自然法的博愛思想と結びついてキリスト教として現れたのです。キリスト教は武力ではユダヤを解放しませんでしたが、迫害するものにも愛を返すという愛の教えによってローマ世界で精神的優位をかちとり、ついに支配的宗教に成ったのです。

 ポリス的国家論の枠組からは「歴史の終わり」に見えても、地中海世界全体の世界帝国形成の動き、社会経済的文化的変遷などを視野に入れると、歴史は壮大な展開を示しています。帝国拡大が壁にぶつかると奴隷の補給が続かなくなり、これが荘園奴隷制の衰退の原因になり、引いては古代的世界の経済的基盤の喪失を招きます。

 こうした古代世界における「歴史の終わり」体験を参考にすれば、リベラル・デモクラシーの勝利による「歴史の終わり」という現代史の展開も再考可能だと分かります。民族国家や連邦国家の政治体制論の枠組からグローバルな政治的経済的文化的統合過程に視座を移すことで、壮大な「歴史のクライマックス」を展望できるのです。

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