第11節、参政権の拡大  

 リベラル・デモクラシーの勝利による「歴史の終わり」という発想は、リベラル・デモクラシーの実現しているとされる国でさえ、リベラル・デモクラシーがまだまだ不十分で あるというこれまでの検討結果から見て、再考の余地があります。既に「歴史の終わり」が始まったとしたら、この「歴史の終わり」という時代は、リベラル・デモクラシーを成長させる苦闘の長い歴史を必要とするということになります。まことにイローニッシュ( 皮肉な)なお話ですね。
 フクヤマは普通選挙権が認められていない時期から、リベラル・デモクラシーに含めていますから、リベラル・デモクラシー体制の中で普通選挙権が与えられ、労働組合が合法化され、社会権が確認され、女子にも普通選挙権が与えられたという歴史を持っています。つまりリベラル・デモクラシー体制というのは自由で民主的だという看板を掲げながら、実はまことに不自由で非民主的な体質を引きずっていたのです。

 普通選挙権を認めていても、一党独裁の政権下では選択の余地は有りませんから、投票は政権党に対する忠誠を示す義務的な行動になってしまいます。ソ連の共産党一党独裁はそれが世界を二分する超大国に成長させ、国民生活を充実させてきたという成果によって、ある程度の説得力を持っていました。もっともそれはKGBや収容所という恐怖独裁と結合していたからですが。しかし一九七〇年代以降の停滞の原因を追求する歴史の見直しが進み、情報公開が積極的に行われるに従い、全ての責任は共産党の官僚的な独裁にあるとされ、一切合切の責任をとらされて解散させられてしまったのです。

 デモクラシーを「民衆の支配」と規定すれば、政治は民意を忠実に反映させて、民意に沿って行われるべきなのです。その意味では普通選挙と平等選挙が重要です。普通選挙は制限選挙の反対で、成人に達している国民には性別や所得(あるいは納税額)、学歴や社会的地位などと無関係に選挙権を認める制度です。平等を嘔ったアメリカやフランスの人権宣言にも係わらず、普通選挙権の定着は遅れました。比較的早かったのがフランスで一七九二年の国民公会の選挙は普通選挙で行われ、ジャコバン党の進出を招きました。翌年ジャコバン独裁下で作られたジャコバン憲法には普通選挙が明示されていたのです。しかしこの憲法は実施されず、ジャコバン派の恐怖独裁政権は崩壊して、制限選挙になります。一八四八年の二月革命で第二共和政ができて普通選挙が定着したのです。

 アメリカは南北戦争後の一八七〇年、ドイツはその翌年です。イギリスでは労働者の参政権は一八八四年の第三次選挙法改正でやっと認められましたが、一家に一票の戸主投票権でした。一九一八年にやっと第四次選挙法改正がなされて実現したのです。古代ギリシアのアテナイでも一般市民が参政権を得たのは、槍の購入が可能になり、戦争に参加できたからですが、イギリスでも第一世界大戦への国家総動員体制が労働者参政権のきっかけになったのです。

 人口の半分は婦人です。婦人の参政権は、J・S・ミルの『婦人論』に影響されて、十九世紀末にオーストラリアやニュージーランド、アメリカの幾つか州で認められたのを例外として、主要国では二十世紀以降になってやっと認められました。イギリスでは一九一八年に男子普通選挙と組で、婦人制限選挙が開始され、一九二八年にやっと婦人に普通選挙権が認められたのです。ドイツでは一九一九年のワイマール憲法に男女平等の公民権が明記されて、認められました。アメリカは一九二〇年、フランスと日本は一九四五年です。

 一七八九年の大革命の発端になったバスティーユ監獄の襲撃は婦人の集団が先頭に立ちました。婦人解放運動はフランスでは先駆的に戦われていました。にも係わらず、フランスでは家父長家族の伝統が強固で、婦人は家庭を守るべきで、社会に進出すべきではないという差別意識が強かったのです。あの貴婦人の男妾をしていたルソーですら、婦人参政権には断固反対だったようです。

 婦人が政治に男性と同じぐらいの発言権を持てば、生産中心主義で好戦的で民族主義的な政治が、環境保護や平和を重視し、国際協調主義的な政治に転換できるかもしれません。政党がソフトイメージを出すために婦人候補を利用しているようでは駄目ですね。不平等選挙というのは、身分によって票の重さを差別する選挙を指していました。例えば貴族院を設けて貴族だけで選挙を行えば、貴族の数は僅かですから、貴族院の権限次第では貴族の投票権は大変大きいことになります。ルイ王朝時代のフランスでモンテスキューは三権分立の原理を説きましたが、立法権は人民の代表によって構成される議会が担当すべきだとしました。ただし、彼のいう人民には貴族と民衆が含まれていまして、貴族会と民会が区別されていないと、立法において貴族の権利は守れないと考え、貴族会制度を擁護しました。裁判も一般民衆と同じ司法裁判所で貴族が裁かれてはならないとし、貴族は貴族会で裁判すべきだと主張したのです。

 イギリスでは世襲貴族と王の勅選議員から構成される貴族院はながらく庶民院と対等な権限を持っていましたが、一九一一年の議会法で、予算を伴う金銭法案は庶民院の議決だけで成立し、その他の法案は三会期(一九四九年からは二会期)連続で庶民院で可決されれば成立することになり、庶民院の優越が確立しました。デモクラシーとは大多数の民衆が支配することですから、庶民院の決定をごく少数の、しかも選挙で選ばれてもいない貴族たちが拒否できる制度はとても民主的とは言えません。

 現在日本では議員定数の不均衡が問題になっています。選出される議員一人当たりの有権者数が不平等だと、有権者の一票の重みに差があるということです。これは参政権の平等原則を侵していますから、法の下の平等を定めた憲法第十四条および第四十四条に反します。そこで衆議院議員定数配分規定違憲訴訟では、最高裁で二度も違憲判決が出ています。なにしろ酷い場合には五倍近い格差でしたから。結局一九八五年の最高裁判決では三倍を越えてはならないという基準が示されましたから、国会では三倍を越えないように定数是正を計っています。

 このような不均衡は人口の都市集中によって過疎・過密が深刻になると大きくなります。人口の変動に合わせて選挙区をいじっていると、大都市圏の住民の代表が国会の議席の大部分を占めてしまいます。そうすると国土のほんのわずかの部分でしかない都市に住んでいる人々が、日本全土の事を決めてしまうことになるのです。農山村や漁村に暮らす人 達にとったら、平等選挙も非民主的に思えるかもしれませんね。

 ともかく国民一人一人が平等な参政権を持つのが、人格の尊厳を平等に重んじる民主主義の原則です。格差が三倍以内でも納得いきません。せめて二倍以内に調整するべきでしょう。ところが参議院の選挙区(各県ごと)の場合は六倍を越えても違憲とはしない最高裁の判断がでているんです。各県ごとに選出しますと過疎県でも最低一人は出さなければなりません。人口の多い県で人口に比例して選出しますと、参議院議員の数が膨大になりすぎるのです。しかし参議院議員も「国民代表の原理」から言えば、全国民の代表であって、決して県民の代表ではありません。あくまで国政選挙であって、自治体選挙ではないのですから、県単位で選出しなければならない根拠はありません。

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