聖武天皇の逃避行


   「朕、意(おも)ふ所あるに縁(よ)りて、今月の末、暫く関東に往(ゆ)かんとす。その時に非ずと雖も事やむこと能(あた)はず。」

   この詔勅は七四〇(天平十二)年十月二十六日に書かれている。時まさに藤原広嗣の乱の真最中であった。こんな国家の危急の時に都を捨て、太宰府とも反対の方向に行くとは、いったいどういうことなのだろう。広嗣の乱の最中にも係わらずといったが、実は広嗣の乱の最中だったからこそ、聖武天皇は都にいたたまれなくなったのである。

 広嗣の乱に関する話しを聞くたびに御門の胸は痛んだ。そしてあの忌まわしい光景が頭をかけめぐる。それは忌まわしいというよりも、凄まじいと言った方がいいかもしれない。その様を見て怒りも悲しみも起こらなかった。それは全く次元が異なっていたのだ。たしかに皇后とは若い頃はよく同衾して夫婦の営みを交わしていた。しかしそれはかなり国家的な事業を遂行しなければならないという、使命感に基づくものだった。皇位継承者をこの世に生み出すというのは、皇位についている者にとって最大の国家的事業なのだ。

 全く同じ行為なのに、それはまるで違っていた。それはもちろん子供を作る行為などではない。あるいは単純に快楽を貪る行為でもない。快楽の果てにこの世の全ての煩悩を突き抜けた、涅槃の世界がある。そこに達して恍惚の海に漂っている表情をしていた。そして、慈悲の光が全身から放たれていた。ふたりとも、観音のようであった。ああ、これが御仏の世界なのだと思った。広嗣はこれに優る重罪はないと、姦淫の罪を喚きたてたが、御門はその光景に圧倒されてしまったので、それを罪として追及する気にはなれなかったのだ。かえって広嗣を太宰府に左遷して事を収めた。

 広嗣は人一倍正義感が強い男だ。御門の為に吉備真備と僧玄ムの二人の排除を要求して乱を起こしたのである。その場では圧倒されて足がすくんだが、御門も一人の男である。時折あの光景が目に浮かんでは、気分が落ち着かなく成り、無性にいらいらして腹立たしかった。その場では嫉妬すら感じなかったのにである。皇后との姦通は国家に対する反逆罪である。本来なら広嗣が忠臣で、僧玄ムは希代の悪僧である。八つ裂きの刑にされても仕方ないぐらいの罪なのだ。

 大宝律令は天皇にとって極めて安直にできている。詔勅は全部中務省が文書を作成する。もちろん太政官会議の合議にもとづいてである。天皇は「日」を入れて、最後に「可」を書くだけである。気に食わなければ「可」を書かなければよいのだが、なにしろ詳細な審議に関わっているわけではないので、よほどのことがない限り、「可」と書くしかないのだ。

 大野東人を大将軍として広嗣追討に派遣する詔勅に「可」を書くときは、さすがに御門の手が震えた。しかし乱が起こった以上鎮めなければならない。広嗣の要求を容れれば、吉備真備と僧玄ムの左遷をしなければならないが、そうすれば当然、姦淫事件を認めたことになるので、皇后の処分もしなければならなくなる。どうしても御門には皇后を罰することはできなかったのである。

  広嗣に皇后の姦通を報告されて、それが観音に見えたのも、皇后を罪人にしたくなかったからである。それは普通の夫婦とは大いに違っている。妻の裏切りに直面しすれば、普通の夫なら離縁するかどうかは別にして、夫は妻を叱責する筈である。そして張り倒すぐらいの事はするだろう。まさか観音様だと手を合わせるようなことは、する筈がない。いかに仏教に深く帰依していてもである。そして観音に見えたというのは『源平盛衰記』の作者の推量だから、実際はどうか分からない。とにかく聖武天皇は光明皇后に対して姦通の現場に居合わせても何もできなかったような関係だったのである。

 二人は生まれたときから一緒に育てられていた。そしてどちらかといえば、安宿媛の方が首皇子より、体格的にも、利発さにおいても圧倒し、姉御的に振舞っていたのである。そして二人は幼い頃から夫婦になるものとされていたから、互いに他人としての意識はまるでなかった。

 首皇子は、先に成長していく安宿媛をまぶしく見上げていた。それだけに憧れや執着は強かったに違いない。その点、安宿媛は首皇子と結婚し、生涯連れ添わなければならないのは、宿命と納得させられていた。一緒に育てられただけに姉が弟を愛するようには愛していただろう。自分のありったけの力を発揮して、首皇子を立派な男にし、御門としても自分の命に代えても守ってあげようとは思っていただろう。しかし首皇子は憧れの対象にはなり得なかったし、胸を焦がして恋焦がれるような恋愛対象にはならなかった。

 光明皇后は『楽毅論』の臨書作品によく現れているが、男勝りで、大変情熱的な性格である。そして仏教の信仰も熱心で、菩薩行として悲田院・施薬院などの救癩施設を作り、癩病患者の膿を吸い取ってあげるという献身ぶりを示したという伝説的な話まで残っている。唐で活躍した僧玄ムに憧れ、皇后の宮に呼び寄せ、身近にありがたい話を聞いているうちに、気持が高まって、恍惚とした表情になっていたことは充分に考えられる。

 当時唐は玄宗皇帝の盛唐時代である。玄ムは、この華麗な長安の都で、智周大師について、法相教学の奥義を学んだ。その俊才ぶりは長安でたいそう評判を得た。なにしろ、玄宗皇帝から紫の袈裟を賜ったくらいである。帰国後三年にして僧玄ムは大僧正となり、皇族たちの帰依を集めたのである。そして彼が光明皇后のいわば熱狂的な帰依をかちえたのは、天皇の生母である宮子の病を治したことによる。そのお陰で宮子は産んだっきりで、会ったことのない首皇子つまり聖武天皇に対面できたのである。実にその間、三十六年が経過している。

 法相宗は唯識論である。唯識論では意識の根源性を体験するために、意識が身体を自由に動かせるヨガの修行を行なっていた。特別の呼吸法を会得させ、独特の体の姿勢に導き、意識と肉体の関係を変革させることで、宮子の意識をノイローゼから解放させてあげられるようにするため、手とり足取り、必要とあれば体を交合させるまでして、宮子の精神に活を入れたのである。

 草壁皇子、文武天皇、聖武天皇の三代は腺病質である。自分の与えられた天皇になるという栄光を素直に喜んで、大いに理想を燃やして国家づくりに野望をたぎらせるというようなところがない。つまり自分はそれができる人物だという自信がまるでないのである。自分に課せられた重荷から逃れたいと喘いでいるタイプなのだ。病気になりがちなのも、病気に逃げる事で面倒な権力争いから逃避しているのである。

 彼らは宿命的に天皇に成らされているという被害者意識から抜けきれない。だから妃や夫人に対しても、自分を天皇にさせる道具立てや演出家として懼れている。あるいはその懼れを否定しようとして過度に執着しようとする。性生活も世継ぎを産むという国家的事業であるから、何か追い立てられてしているような気がして気が乗らない。それでそういう気持に反撥して、身勝手な楽しみ方をしようとしたりする。ともかくそういう性生活では御門自身も疵付くが、相手にされる女性はたまったものではない。

 文武天皇は宮子には優しかったし、互いの孤独な魂が慰めあって、その執着的な愛はある意味で純粋だった。宮子も妊娠するまでは、御門の愛で救われていたのである。しかし御門は精神的には宮子に執着するものの、肉体的にはまったくおざなりなように宮子には感じられた。それは御門にとって国家的事業であるというプレッシャーのせいでもあったが、ともかく燃え上がるようなものは宮子には、少しも感じられなかったのである。御門は自分の孤独を癒すために宮子を必要としているだけだった。宮子は王宮という檻に閉じ込められ、御門の慰め者にされて、世継ぎを産まされるだけの存在だということに、次第に堪えられなくなったのである。

 九海士の青い空と海、たくましい海人たちと魚たちの世界、そこで思う存分跳ね回って燃えるような恋がしたい。この檻から逃げだしたい。そう切実に思った。でも家族の暮らしや立場が苦しくなる事はとてもできなかった。妊娠で御門の足が遠退くと精神が不安定になり、つわりもひどく、出産も生死を彷徨うほどの難産になった。そして長くノイローゼに陥って、御門にも、自分が産んだ皇子にも面会を拒絶していた。彼女は光明子の所有する法華寺の中の小さなお堂にひたすら閉じ篭ったのである。

 七三七(天平九)年僧正に任命された玄ムは、御門から生母宮子の治療を頼まれた。それも興福寺の中の四恩堂という小さなお堂での治療である。九海士の里に連れて行って療養させるのが最もよいとは思ったが、それはいけないと釘をさされた。天皇の母が哀れな姿を民の前に曝すのは、貴族社会全体が許さないのである。それに宮子は既に五十四歳である。海に戻されても、今更海女にかえれるわけではない。また御門の母が、たくましい海人と恋に落ちるわけにもいかない。それを考えると、玄ムも無理に帰郷させても成功の見込みはないと思った。

 玄ムは、九海士の里を訪れ、宮子の親族や知人に昔話を聞きこんできた。そして四恩堂で二人きりで話しをしたのである。食事を運んでくる以外はだれも近づけなかったのである。始めは宮子は脅えていた。全く何を言っても反応がない。近づけば脅えてぶるぶる震えていたのである。九海士の話しをしても全く聞いている様子はなかった。髪長姫伝説にも反応しなかった。髪は自殺予防で短く刈られていたのである。

 玄ムは自分の生い立ちを話し始めた。彼は大和の生まれで、阿刀氏の出身であったという。子供の時に寺にもらわれた。厳しい修行に耐え、見込みありとされ、岡寺の義淵上人について、法相唯識論を学んだ。そしてとうとう義淵の弟子の中でも行基、良弁等と共に、七上足の一人とされたということだ。しかし宮子にはほとんど自慢話はしなかった。実は貧しい農民の出身だが、里長から利口な子なので、お寺に入れて修行させれば出世するといわれ、寺に入れられたが、幼かったので失敗ばかりで、小坊主たちからさんざん苛め抜かれたという苦労話をした。無理に話しを聞かせようとすれば、脅えて聞かないが、
「聞きたくなければ聞かなくてもいい、勝手に自分で思い出にふけっているだけだから」と言って、自分で子供時分の失敗談をしたり、唐での苦労話や女性体験などを、話しだした。

 彼はしまいに宮子が側にいることなど忘れてしまっているように、失敗したときのことなど腹の底からゲラゲラ笑い、悔しかったことでは相手もいないのに、本気で怒鳴りつけた。寺で飼っていた犬が死んだ話では、目に一杯涙を溜めてしみじみと語ったのである。宮子は自分に向かってきている時は脅えて話など聞かなかったが、彼がまったく彼自身に向かって話しているように見えたので、安心して眠った。しばらく眠っていると、夢か現か分からないが、彼の話が聞こえてきた。特に唐の国で辛い修行に耐えながら故郷の母を思って泣いた話などは、自分の身につまされてもらい泣きしてしまったのである。
 
 そこまでくるのに十日かかった。それから玄ムは、宮子の生い立ちなどを聞き始めた。宮子は自分のことになると口を詰むいだが、玄ムは、宮子の幼馴染から昔話を聞きだしていたので、誘導尋問のような形で話しを引き出した。宮子と仲がよかったらしい、従兄弟の名前を出すと、宮子は激しく泣き出した。都に行く前の日に宮子の方から呼び出して、海岸の岩場の陰で激しく抱き合った話しをしたのである。

 いつしか宮子は玄ムの胸の中で泣いていた。宮子の体は温かかった。温かくて震えていた。怯えて震えているのではなく、興奮して震えていたのだ。玄ムの体の奥から慈悲の心が溢れてきて止めようがなかった。それは気のようなもので玄ムの体から流れ出して、宮子の鼻や口から入り、体中の穴から流れ出している。皮膚からも染み出している。二人は確かにまぐわったが、それは止めようがない仏の慈悲の営みであった。宮子の哀しみが体の中から野草のような芳香を放って部屋中に溢れ出た。

 一月近い治療ですっかり正常に戻った。十二月二十七日宮子は、三十六年たって始めて自分が産んだたった一人の息子、聖武天皇と面会した。宮中こぞって喜びに感涙したことは言うまでもないが、御仏の慈悲による奇跡として聖武天皇も光明皇后も信仰の心が深くなったのである。特に光明皇后は、その年に藤原四兄弟を天然痘で相次いで亡くしており、激しい哀しみと失意のどん底にいた、何か自分を救ってくれる人はいないかと思っていただけに、僧玄ムの法力の凄さに強く憧れたのである。

 それからというもの、皇后はよけいに悲嘆に沈み込み、体調を崩しては皇后宮に閉じ篭るようになった。心の苦しみから来る病を治すには、御仏の力を借りるしかあるまいと思った聖武天皇は、これこそ僧玄ムの出番だと玄ムに治療を頼んだのである。そうでもないといかに僧とはいえ、皇后の寝室にまで堂々と入り込めるわけがない。玄ムに皇后は、苦しいから早く宮子にしたような治療をして直してくださいと頼んだ。

 しかし玄ムはこう返した。
「話を聞くのが宮子皇太夫人にしてさしあげた治療でございます」と言った。「どうか皇后陛下の胸の中にわだかまる哀しみをすべて語って、胸のつかえを降ろしてください。」

 すると皇后はつまらなそうに言った。
「私がどんな境遇なのか、みんな知っているでしょう。私は藤原不比等と橘三千代の娘です。首皇子と生まれたときから一緒に育てられて、一生御門をお支えする役目を背負ってきました。」

玄ムはうなずいて言った。
「それは尊いお役目です。」

  
「ええ存じています。でもそれは藤原氏が家族ぐるみでお支えしてきたからこそ、できたことです。父不比等が亡くなってからは大変でした。やっと基皇子が生まれて立太子までしたのに、誕生日まで持ちませんでした。」

「それは御辛かったでしょう。」

「それがなんと基皇子は長屋王に呪い殺されたという話なんです。まさかあれほどのお方が御謀反を企てられるとはね。私の立后になにかと異議を唱えられ、どうも様子はおかしいとは思っていたのですが、長屋王には吉備皇女様が嫁いでおられ、太上天皇も一緒のお屋敷にお暮らしだったのに、もうどなたを信じて支えにしたらよいのやら、途方にくれました。」

 
  「皇后陛下のお兄様方がご活躍なされて、立派にお収めになられました。」

「それでやっと私が皇后になれたばかりの時に、お母様が亡くなられて、あのころから全てがはかなく思え、生きるはりがなくなってきたのです。それで体調を崩すようになったのです。」

「『親孝行したいときには親はなし』と言います。」と相槌を打った。

 
  「それでもお兄様たちがいましたから、まだまだ藤原の力をまとめてことにあたれば、哀しみにも堪えていけるし、御門のお力にもなれるものを、その兄たちが今年になって天然痘という疫病神に次々と倒れられ身罷ってしまわれたのです。四月十七日に次男房前が、七月十三日には四男麻呂が、そのすぐあと七月二十七日には長男左大臣の武智麻呂が、そして八月五日には三男の宇合までも疫病神の魔の手から逃れられなかったのです。これは何かの祟りでしょうか。」

  
「確かによりによって四人が四人とも倒れたというのは、何か恐ろしい恐ろしい妖気が藤原氏を包んでいるのかもしれません。私の弟子の行信にその正体を突き止めさせ、対策を考えさせましょう。藤原氏もここまで権力の中枢に入り込めたのには、それなりにご苦労があったのでしょう。ご先祖の中には深い怨みを買われている方もおられるかもしれません。こちらには全く身に覚えがない事でも、自分たちが不幸な目に遭っているのは、あいつらの謀略の所為に違いないと、逆恨みされている場合も多多ありますからね。」

   
「それじゃあ世間で言われているように長屋王の怨霊の祟りだったといわれるのですか。」玄ムはうっかり口を滑らして、このデリケートな問題で言質をとられてはまずいと思った。長屋王が基皇太子を呪殺したと密告されたのは、基皇太子が亡くなった翌年になってからである。神亀六(七二九)年二月十日、左京の人漆部造君足・中臣宮処連東人等が長屋王の謀反を密告したのだ。「私(ひそ)かに左道を学びて国家(みかど)を傾けんと欲」すというのだ。左道とは道教の呪術のことだ。

 早速その夜、式家の藤原宇合らが兵を率いて長屋王邸を囲んだのである。実はこの密告は「誣告」であった。「誣告」とは旧刑法第一七二条[誣告]によれば、
事である。おそらく誣告者のバックには「人をして刑事又は懲戒の処分を受けしむる目的を以て虚偽の申告を為したる」藤原房前がいただろう。基皇太子が亡くなっただけでなく、聖武天皇と県犬養広刀自の間に安積皇子が誕生したのだ。

 藤原氏にすれば光明子の子供をどうしても天皇にしたい。それには光明子の立后が不可欠となった。しかし長屋王は皇族以外からの立后は認めそうにない。天皇の生母宮子を「大夫人」と称する勅令に、長屋王が令に合わないとクレームをつけ、「皇太夫人」と改称させられているのだから。出身身分にこだわって天皇の母の意味に限定しているのだ。それで長屋王を抹殺する必要に迫られたのだ。そうでなくても長屋王は太上天皇(氷高皇女)との強いつながりを利用して、引っ込み思案の天皇に成り代わって権力を振るい始めていた。このまま長屋王の政権が続けば、天皇が何かの際には、安積皇子が皇太子にでもなっていれば、幼少ということで長屋王が天皇になる可能性すらある。

 翌日、知太政官事舎人親王・大将軍新田部親王という存命していた二人の天武天皇の皇子に窮問使として長屋王を訊問させた。この二人の皇子は首皇太子の養育に関わらされて、藤原氏に取り込まれていたのである。その翌日に長屋王は自尽に追まれた。哀れだったのは長屋王の正妻吉備内親王とその四人の子供たちも自殺したことである。なお『日本霊異記』によれば王は自ら子孫に毒を飲ませた上絞殺し、その後服毒自殺したという。

 藤原氏の狙いは、長屋王だけてなく、その皇子たちも含めて抹殺することだっただろう。生かしておけば数十年後には、また強力な対抗勢力となったり、藤原氏に対して報復する危険がある。だから長屋王にすれば、一族を殺すよりも、一族には生き残って、王の怨念を晴らして欲しいと考えたに違いない。毒を盛ったのは、だから藤原氏の可能性が強い。

 しかし一族まで死に追いやっていれば、長屋王が怨霊となって藤原氏を苦しめることになると藤原氏が考える筈で、柿本人麻呂を神社に奉ったように長屋王を神として祀ったり、聖徳太子の怨霊を再建された法隆寺に閉じ込めたように、長屋王の怨霊を寺に封じ込めたりしなければならないはずである。そこまでしていないところをみると、藤原氏から見て長屋王の所業が随分凶悪にみえて、一族含めての征伐は当然と考えたのか、それとも一族の死はやはり長屋王の意志だったのかはわからない。

 玄ムは話題を変えた。
「長屋王の野望は潰えました。その野望を挫いて国家(みかど)をお守りしたのが藤原氏ではありませんか。あるいは長屋王の怨霊の祟りで兄君たちが倒れられたにせよ、それは尊い犠牲です。いまは冥福をお祈りしましょう。ひたすら御仏にお仕えし、善行を積まれれば良いのです。皇后陛下が菩薩として修行を積まれ、慈悲の行に励んでおられれば、兄君たちの行いはこの国を仏国土にするのを妨げた悪人を取り除いたことになります。藤原氏の行ないも皇后陛下の行い次第で、藤原氏が国を我が物にして食い潰すようなことにもなりかねませんし、御門を中心にまとまって御仏に帰依する理想の国にもなるのです。」

「しかし私など未熟者でどのようなことをすればよいのやら分かりません」と言った。

「なんとご謙遜を。悲田院や施薬院などを設けられ、癩で苦しむ患者に献身的なお世話をなさっているとのこと、まるで観世音菩薩のようだと評判です。」

 皇后は首を振った。
「私の中には哀しみや不安が一杯なのです。それを忘れたくて、御仏に頼っているのです。慈悲行もそれで自分の哀しみや不安を忘れる為に行なっているのです。とても衆生に対する慈悲などという気高いものではありません。」

 
「修行の中で自己を忘れるという境地は、高い境地です。慈悲行を行なっていますと、自分は己を犠牲にして行なっているのに、どうして御利益がないのだと不満に思いがぢてす。これでは結局御利益目当ての自分の為の慈悲ですから、少しも慈悲などではないのです。やがてそういう自己欺瞞に気づきます、これは利他行ではなく利己行だと。そしてひたすら自己を忘れて利他に没頭します。するとまたこれは自分の中の苦しみ哀しみから逃れようとしている利己行だという思いになるのです。もっと続けていれば利己にも利他にもとらわれなくなります。利他の行いが利己になっても別にいいわけですから、大切な事は、ある行いが利己か利他ではないのです。」

  
  「利己か利他はどうでもよいとはどういうことですか。」と皇后は聞き返した。

「慈悲の行いで救われるのは、慈悲を受けた人で、救った側はその犠牲になったように捉えてはいけません。体から膿や爛れをきれいにふき取ってあげても、かえって苦しむばかりで病気がそれですこしもよくならないとしたら、それでもふき取りますか。」

「いいえ。患者さんがそれで大変救われた気持になられ、少しは元気になられるので、ふき取るのです。」

僧正はうなずいた。
「その時陛下はとてもうれしいお気持になられるでしょう。」

「ええ、救われます。」

「それで自分の中の哀しみや不安まで薄らぐのではありませんか。」

「ええ、それで自分の苦しみから逃れるために行なっているのだと感じたのかもしれません。」

「救われた側が、救われたことによって、救う側に入れ替わっています。そして救う側が救われているのです。こうして御仏は慈悲行を行なう者の中にも、慈悲を受ける側にもいて、世界は御仏の慈悲に包まれ、我と汝の区別から解放されるのです。あなたの哀しみは私の哀しみになり、私の喜びはあなたの喜びになります。」

  
「では僧正様には私の哀しみがお分かりになるのですか。」

「陛下、あなたの哀しみは私には受けとめられません。あなたの哀しみは海のようなので、私はその中で溺れてしまいます。あなたの求める理想にはとても近づけません。それをどなたかに求めておられます。それが叶えられないのが、あなたには堪えられないのです。あなたの中で鳴門の渦のように、激しい憧れが渦を巻いています。」

 その言葉を聞きながら、光明皇后の中で何か熱いものが渦を巻き始め、意識が薄らいでいった。玄ムは、崩れ落ちる光明子を抱きとめた。もともと寝室の床でしどけない姿をしていただけに、豊満な肉体から立ち上る芳香に玄ムの感覚もしばし麻痺状態に陥った。それはほんの一・二分だったか、数十分だったか、定かではない。その姿を誰かが、部屋の外から覗き見たら、あるいは激しい交合の末の桃源郷のようにみえたかもしれない。

 光明皇后は藤原四兄弟を失った穴を埋めるため、天平一〇(七三八)年、母橘三千代の同母異父の兄橘諸兄を夫聖武天皇に推挙し右大臣に就任させた。これが諸兄政権の出発である。橘諸兄は留学生だった吉備真備と僧玄ムを重用した。藤原広嗣は、聖武天皇への忠誠心から僧玄ムと光明皇后の姦淫事件を注進したのに、かえって太宰少弐に左遷された。それでも正義感に燃えていたので、次のような上表文を天皇に寄せてきた。

「1.玄ムは正道に反し紫の袈裟を着、僧であるにも関わらず財を積み、香華で身を飾り女色に愛著する。遂に今、金身丈六の仏眼に涙を流さしめ、下賎の女子を矯しめて偽りて弥勒と称す」
2,金光明経にある通り、天子は諸天の護持を必要とするが、賢臣良将を用いる代わりに悪人に親近している。疫病流行などはこの故である。
3.新羅・蝦夷・隼人らの侵略の危険性を説き、軍備縮小政策(前年五月の諸国兵士の停止)を批判。
4.玄ムは天皇皇后を騙し秘かに宝位を狙っている。諸国兵士の停止も実は「大唐の相師」を帝位に即かせんがためである。また外道真備は玄ムと契って国を転覆させようと企んでいる。この両者を除かなければならぬ。」(『松浦廟宮先祖次第并本縁起』(『本朝文集』に所収)から)

 これは単なる意見書ではない。天皇は
「これは謀反じゃ。直ちに広嗣を召喚せよ」と詔勅を出すが、広嗣はこれに従わず直ちに挙兵した。広嗣の独善的な上表文は、あまりに居丈高で天皇を馬鹿にしているような内容である。とはいえ玄ムは皇太夫人宮子と皇后光明子の双方と姦淫している。これを罰しないで、それを告発した式家宇合の子広嗣だけ罰するのはどうにも間男された当人として体面が悪いし、胸が痛むのである。しかし精神的なストレスで悩んでいた妻の治療を頼んだ以上、その治療方法で咎めるのは気が引ける。それに母宮子を三十数年の憂愁から救ってくれた恩人である。宮子への治療にもそういうことがあったかもしれない。それしかなければ、だれがその行為を批難できようか、光明子の場合もおなじことなのだ。

 
「しかしこの胸の痛みは何だ。元々、自分は天皇など向いていないのだ」と聖武天皇は思った。「本当の天皇なら、あの傲慢な広嗣め、天皇を馬鹿にしたような上表文を送ってよこしただけで、充分打ち首にしていいのだ。少しもうろたえる必要はない。」周囲にだれもいないのを確認してから、聖武天皇は刀を抜いて、空を斬り、打ち首の様子をした。

  
「玄ムもつけあがって、分も弁えず皇太夫人と皇后と治療を口実に姦淫するとは、言語道断だ。天位を汚す行為として股裂きの刑にしてもいいのだ。皇后だって天皇をこけにしたのだから、自分の手で成敗するぐらいでないと、天皇として体面が立たない。」

  
「しかし自分はつい相手の気持を思いやってしまう。自分の言葉できずつくのではないかと思ってしまう。それでかえって人の気持や言葉に疵つけられ、振り回されてしまう。このままでは駄目だ、皇后や大臣たちの意向に追随するのではなく、自分自身の意向に皇后や大臣たちを従わせなければならない。自分の描く理想に従わせ、自分の気分や思いを皇后や大臣たちが思いやるようにさせなければならないのだ。」

  そこで聖武天皇は、
「朕思うところあって東国にいかんとす」といって都を捨てるという暴挙に出た。いかにももう平城京にはいたたまれないという、家出少年のようなパフォーマンスである。平城京では常にだれかにイニシアティブを取られてしまう、長屋王や藤原房前、武智麻呂、あるいは光明皇后に振り回されるのだ。橘諸兄政権だって、吉備真備や玄ムが皇后とつるんで天皇の意向も考えず、我が物顔に振舞うようになるのも目に見えている。

   しかし聖武天皇のエスケープは、もし藤原不比等が存命中ならできただろうか。あるいは四兄弟が健在なら、または長屋王がいたとしたら、御門が都を捨てるのを実力で阻止したかもしれない。光明皇后も阻止したかっただろうが、なにしろ広嗣の乱の原因には僧玄ムと光明皇后の姦淫事件が絡んでいるだけに事を穏便に収めるためにも、ついていくしかなかったのではないか。光明子の兄、橘諸兄にはまだ天皇に対して実力行使するだけの力はなかったのだ。

  橘諸兄はあきれ果ててものが言えなかった。御門というものは、こんなにわがままなものなのか、如何なる無理難題でも聞かなければならないのか、しかしここで御門に抵抗してみても余計に御門がかたくなになられるだけだろう。むしろここでは精一杯、御門の御意向に従うふりをしておこう。そのうち都はそう簡単にどこにでも作れるものではない、やはり平城京が一番いいということに気づかれるに違いない。橘諸兄は、この機会を捉えて七四〇(天平十二)年自分の領地に近い恭仁京への遷都を実現した。

 聖武天皇はとにかく遷都したことで、貴族官僚を天皇の意のままに動かす事ができたのである。しかしその事で天皇として偉大なことが何かできたわけではない。彼がしたことは貴族官僚を引き回し、不便なところに都をつくって莫大な国費を無駄遣いしただけである。もっと立派なことをしなければと思った。理想主義者の光明皇后もあこがれるようなすごいことをやるんだ。早速橘諸兄に相談した。

 「光明子は仏教に随分熱を入れていますから、造寺造仏をすれば感心するでしょう。新しい都の近くにこの国で一番立派な寺院でもぶったてましょう。」諸兄は光明皇后の兄だけに自信ありげに言った。すると聖武天皇はニヤリと笑って、「どうせそんなことしか言わないだろうと思っておった。日本国中に御門の権威を知らしめるのには、全国津々浦々の国衙の近くに国ごとに護国の寺を建てるのだ。全国各地での不作や疫病の流行を考えるとき、都にばかり寺を建てるのはあまりありがたみがない。」

  諸兄は度肝を抜かれた。
「それはものすごい計画です。しかし国ごとに建てるとなったら国家財政が持ちません。」御門は笑った「そなたは都を移すことにも賛成してくれたではないか。都を造るには大変な金が要る筈だ。都が造れて、国毎に寺が建てられない事はないだろう。」

 諸兄は首を傾げた。「だから両方一遍はとても無理だと思われます。都はやっと内裏ができただけでこれから本格的な造営にはいるのですから、とても国ごとの寺にまでは手が回りません。」

 
「都は平城京のように巨大なものにする必要はない、巨大な建物や雑踏などはかえってそこに住む人間たちを萎縮させる。また天下の富が都に集まりすぎるということは、地方の方が干上がってしまうというではないか。だから、朕は逃げ出したかったのだ。せっかく奈良から逃げ出したのに、恭仁京を奈良にするのか。今、天下の状況を見るに、内乱あり、疫病あり、凶作ありで心ある者は皆胸を痛めておろう。こういうときこそ天下こぞって御仏に護国の祈りを捧げるべきだ。国ごとに護国の寺を建てる事こそ優先させるべきなのじゃ。」

 そこに光明皇后が入ってきた。
「あらお兄様、いらしていたのね。なにやら御門とお話が弾んでいたようだけど。」諸兄は大仰に礼をして「これは皇后陛下、ごきげんいかがですか。ただいま陛下より、素晴らしい国造りの御計画を伺い、あまりに有り難いお話なので、陛下を拝みもうしあげていたような次第です。」

 光明皇后は驚いて、「ええ、平城京に帰れるのですか、それはすばらしい。陛下こんな中途半端な遷都は人も財も大変な無駄遣いになりますよ。それにこんな鄙びたところを都にすると皆気が滅入ってしまいます。善は急げ、早速準備に入りましょう。」

 御門はあきれた顔をする。
「おいおい、気が早いな。朕はここが気に入っておる。帰りたければ皇后一人で帰りなさい。」

 諸兄は、皇后が何か言い返す前に、口を挟んだ。「陛下の御提案というのは、全国各地の国衙の近くに、護国を祈願する寺院を建てよというものです。皇后陛下の望んでおられる理想の仏国土の建設がいよいよ開始されるのです。」皇后はびっくりして目を丸くした。

 少し照れ気味に御門は口を開いた。
「最近の内乱、疫病、不作は聖徳太子の『篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり』と言われた『憲法十七条』を軽んじたからと思う。全ての国で護国の寺を作り、この国の平安を祈願させるのじゃ。」

 皇后はさかんに頷く。「陛下、それは素晴らしいですわ。恭仁京計画の何万倍も素晴らしい。これで陛下は聖徳太子以来、仏教をこの国に盛んにされた菩薩天子として、未来永劫に歴史に残ります。」

 天皇は素直な笑顔になっている。「これで朕もすこしは天皇らしいことができる。今まで自分で考えたことを、決定し、実現することができなかった。いつも誰かの意見に振り回されていただけのように思う。朕の意志によって国家を動かすということは、遷都によって実行された。これからは朕の理想によって国家を動かすことを実行するのだ。」

 
「それは素晴らしいことです。しかし陛下、陛下御自身の意志や理想は、良き輔弼の臣の言葉によく耳を傾ける事によってはじめて、正しく形成されるのです。願わくば、護国の寺の造立計画に、尼寺の計画も加えていただくようお願いいたします。国の乱れも、疫病も、不作も結局は罪の報いだといいます。護国の寺と組にして尼寺を建てて、私ども衆生の罪の滅罪を祈っていただくのです。そうすれば御門の惟神の政も輝かしいものになるに違いありません」と皇后は付け加えた。

 聖武天皇は恭仁京を造営しながら、そこからもっと辺鄙な山奥に入った甲賀の里に紫香楽宮という離宮の建設を命令した。しかも七四三年にはそこに大仏を造立せよとの詔を出したのである。紫香楽宮は宗教的な聖都として構想された。政治的な都とは別に、清らかで静かな山中に菩薩天子である天皇がいて厳かに神仏に鎮護国家の祈りをささげるという場所として構想されたのである。

 しかし天皇は年中、山に籠もるわけにはいかない。それで、天皇を仏像にした廬舎那仏が聖都にいて、天皇に代わって鎮護国家の祈りを捧げるというイメージである。聖武天皇は理想国家造りがいよいよ本格化してきたので、興奮していた。彼はこの廬舎那仏を天皇の権力で作ったのでは駄目だと考えた。民間から浄財を集め、人民の信仰の結集が巨大な廬舎那仏となって、現れる姿を夢見たのである。

 というのはこの大仏発願のきっかけは、実は三年半前の天平十二(七四〇)年二月にある。天皇は河内の知識寺でそこの盧舎那仏を参拝した。そしてそれが民間の勧進によって造られたものであることを知って、いたく感動したのである。そこで聖武天皇は、民間に布教していた行基を大僧正に任命し、大仏造立の勧進を行なわせた。紫香楽宮の造営と大仏造立のアイデアは実は行基の発案ではなかったかという解釈をする人もいるようだが、それは大いにあり得る仮説である。

 行基は恭仁京に泉橋院という名の寺院を構えていた。聖武天皇は恭仁京に来て、三月目にその寺院を訪れて、行基とじっくり話している。この泉橋院は泉橘院とも呼ばれるので、そこから橘諸兄と行基の深いつながりが想像される。それで遷都の情報が前もって伝えられていたので、行基は恭仁京にいち早く寺を構えられたのだという解釈がある。ともかく橘諸兄の仲介で聖武天皇と行基は膝を交えて話し合い、意気投合したのである。

 日本では仏教は鎮護国家の仏教であり、国家や豪族が寺院を管理してきた。僧侶の仕事は祈祷と仏典の解釈に限定されていた。民衆への布教は禁止されていたのである。池や橋を作り、病気の治療をするかたわら、民間に布教していた行基たちの活動も、国家の統制がきかないので、うさんくさく思われていたのだ。それが大仏造立に際して、一躍大僧正に抜擢され、諸国の勧進に大活躍する事になる。実は聖武天皇の行基抜擢にこそ、賎なるものの中にこそ、聖なるものがあるという仏教の平等思想の現れがあるのだ。

 聖徳太子は、行き倒れの乞食に自分の衣服を与えるが、実はその乞食こそ仏だったという話や、光明皇后が悲田院で癩病患者の膿を吸い取って治療したが、その患者こそ観世音菩薩だったとか、聖なるものはもっとも賎なるものの中にこそあるという発想である。

 聖武天皇は、僧の中で最も尊い大僧正に、最も賤しい遊行僧を抜擢したのである。寺に籠もって祈祷や経典解釈ばかりしている官人僧では、いざ大仏造立の大事業を全ての公民を総動員して行なうというような仕事はとてもできないのだ。行基のように民衆の中に入り、その病を治し、その地域の抱えている事業に民衆を組織し、民衆に知恵と情報と勇気を与える僧こそ、大仏造立事業の指導者に最も相応しいのである。

 甲賀の山奥に聖都を建設するという紫香楽宮構想は、その崇高な理想を行基以外にはだれも理解できなかった。それは全く聖武天皇の道楽としか思えなかったし、実際、そのために莫大な国費を浪費し、中央貴族官僚が山奥にくぎ付けになる事により、国政の遅滞ははなはだしく、彼らの不満は我慢の限度を超えたのである。

 恭仁京と国分寺・国分尼寺の建設、紫香楽宮の建設で財政破綻すると、恭仁京構想は御破算になり、急に難波宮への遷都が決まった。難波宮の再建は、すでに神亀三年(七二六年)聖武天皇即位から二年後に開始していたのだ。聖武天皇が難波宮の再建を進めたのは、われこそは天武直系の天皇であり、難波に副都を築くという天武朝の事業を継承するものだということをアピールしたかったからだといわれている。
 
  七三二年頃には難波宮は完成に近い姿となっていた。恭仁京の建設破綻で天平一六年(七四四年)に、ここ難波宮がいったん首都に定められた。ところが聖武天皇は難波宮を留守にし、紫香楽宮に籠もってしまう。そして、紫香楽宮が都だと宣言したのである。これは明らかに聖武天皇が 聖都構想に固執していたことをしめしている。しかし難波宮と紫香楽宮は離れすぎていて両立しない。
 
 紫香楽宮の東の山が燃えている。つい十日ほど前にも大仏造立中の甲賀寺の東の山が燃えたところだ。難波宮に移ってからも紫香楽宮建設は続けられた。そこで反対派はついに実力行使に打ってでたのだ。天平一七年(七四五)四月のことである。この動きに呼応するのかように五月に入ると地震が頻発したのだ。

 聖武天皇は元々自信家ではない。天皇の意志によって国を動かすということも、人民の支え、天地の支えがあって始めてできるのだ。このまま放火が続けば紫香楽宮は、遠からず灰燼に帰してしまうことは、火を見て明らかである。本来なら国家権力の総力を挙げて犯人を追及し、治安を維持すべきところだが、むしろ権力の中枢にいる連中が放火させているかもしれないのだ。橘諸兄だって本音では紫香楽宮には反対なのだ。光明皇后だって怪しいものだ。

 放火を見て、卑怯なやり方に怒っていた聖武天皇も、地震には怒りのやり場がなく、恐怖に足ががくがく震えていた。
「天地までも紫香楽宮を見放しているのだ」と聖武天皇は落ち込んで床から起きてこなかったのだ。

 五月二日に、官人たちは意見を求められた。ずばり、
「都をどこにすべきか」である。やはりこぞって「平城京」と答えた。その三日後、聖武天皇は、紫香楽宮をあとにした。五月一一日、聖武天皇は歓呼に迎えられ、平城京にもどった。そして六月一四日には、平城京が首都であると正式に表明されたのである。そして大仏造立も平城京の東に隣接する地域で行なわれたのである。

 平城京に都が戻った天平十七年十一月、聖武天皇は遂に僧玄ムを左遷したのだ。僧玄ムは相変わらず、下半身スキャンダルの震源地だったらしい。その噂を聞く度に、聖武天皇は虫唾が走る。それで僧玄ムは、筑紫の観世音寺に遣わされることになった。観世音寺の建設は、斉明天皇の追善のため天智天皇の頃からはじまっていたが、いまだに未完成だったのだ。その仕上げと、落慶の大導師を務めるためという名目ではあった。

 玄ムが赴任してから観世音寺の完成は、半年もかからなかった。ところが天平十八年六月十八日、落慶法要の大導師を務めた玄ムは、法会の場で急死したのである。その死の真相は、黒雲が俄かに立ちこめて、激しい落雷があり、雷に打たれてショック死したということらしい。しかしそのような数奇な死に方をすると、話に尾ひれがつくものだ。すぐに怨霊の祟りだということになってしまう。もちろん藤原広嗣の怨霊である。

 赤い衣を着て冠を被った怨霊が玄ムを掴んで空に上がり、彼の体を散々に引きちぎって落とした。それで玄ムの弟子たちがそれを拾い集めて葬ったというのである。そういう空恐ろしい怨霊話が伝わると、その話の続きが作られた。翌年の六月十八日、玄ムという銘を書いた枯髑髏が、奈良の興福寺の庭に落とされた。その時、二・三百人が虚空でどっと笑う声がしたという。その髑髏は頭塔に葬られているという。

 怨霊は神として祭ることによって、祟らなくなり、かえって祭る人を守護してくれるとされている。唐津市の鏡山には鏡神社がある。その主神は神功皇后であるが、別殿の祭神が藤原広嗣なのである。奈良市高畑町の新薬師寺西南にその分社がある。

 さて聖武天皇は、天皇としての自らの意志で国家を、自分の理想に従って導くという大実験を行なった。しかし遷都の試みは大失敗に終わり、国家財政に甚大な被害を与えた。その結果、深い挫折感が聖武天皇を襲ったらしいことは想像に難くない。そこで彼の心の支えになったのは、大仏造立事業をやり遂げる事である。平城京に戻ってから更に七年の年月が大仏開眼供養までに費やされている。

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