孝謙上皇と道鏡

                       ー聖と俗のアンビバレンツー

聖武天皇が、天皇の意志で国家を動かせるかという大実験を試みたのは、自らの出自に対するコンプレックスがあったからかもしれない。自分が聖なる天皇であるという証しが、聖武天皇にとっては、理念の上では、自らの意志で国家を動かせるということだった。その意味では、平城京からの逃避行の時期は、天皇としての自己を存分に確認できた時期であったと言える。 

 しかし結果として遷都は惨めな失敗に終わったのであり、結局、聖武天皇は天皇としての資質に著しく欠けていたことを自覚して、政治への意欲を喪失して、落込まなければならなかったのである。そうなれば政治の実権は光明皇后に移ることになる。

 橘諸兄は恭仁宮への遷都事業を率先して行なっていただけに、発言権に衰えが見えてくる。そんなときに藤原武智麻呂の長男仲麻呂が台頭してきた。この逞しくてきらきらした甥を光明皇后は、大いに引き立てた。光明皇后は、聖武天皇がふさぎこみ、しきりに体調不良を訴えて、公務に就こうとしないので、やむを得ず天皇の代わりに執務していたのである。

 光明子と仲麻呂は六歳しか離れていない。仲麻呂にすれば、夫の聖武天皇が理想の追求に燃え尽きて、挫折したので、夫に代わってけなげに凛々しく執務している皇后を支えたいと思っていた。父の世代の藤原氏はすべていなくなっていたし、房前の子広嗣は乱を起こし、征伐されてしまっていたので、藤原氏を代表して仲麻呂が、光明皇后を支える必要があったのである。皇后の異父兄である橘諸兄も深刻な挫折感に見舞われていたので、仲麻呂はよけいに使命感に燃えていた。

 光明皇后には傷心の聖武天皇を支える責任があった。聖武天皇が平城京を捨てた原因は皇后と玄ムとの不倫である。あれほど気の弱かった御門が、きゅうに断固として都を飛び出した。あれほど聖武天皇に対して強かった光明皇后がこのときばかりはオロオロと従う他なかったのである。

 しかし傷心の聖武天皇は天皇を続ける気力などなかった。叔母である元正太上天皇(氷高皇女)が天平20(748)年に亡くなられてから、聖武天皇の心はよけいに大仏造立のことばかり考えるようになった。翌年、大仏造立の勧進で中心になって活躍した大僧正行基がなくなった。行基菩薩が橋を架け、池を掘り、道普請などの土木工事や、病気の治療、加持祈祷などをして全国にめぐり仏の功徳を施してきたからこそ、大仏造立が進んできたのである。いよいよ大切なところにきて行基菩薩の死は、聖武天皇にとって両手両足をもぎ取られるようなきもちであったろう。とはいえ行基は既に八十一歳の大往生である。これまでの働きに感謝するしかないのだ。

 行基没後二十日目に陸奥の国から大仏鋳造のための黄金が献上されてきた。これも行基菩薩の功徳である。これでやっと大仏造立は目処がたった。聖武天皇は四十九歳で三十二歳の娘の皇太子阿倍内親王に譲位したのである。皇太子になってから十一年目のことだった。譲位したのは天皇の仕事がこまごました儀礼が面倒になったからである。聖武太上天皇はひたすら御仏に帰依したかったのだ。

この譲位の時に「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝のせむまにまに」と言われたと、後に孝謙上皇は主張している。おそらくそれに近いことを云われたに違いない。そうでないと孝謙上皇の高慢極まりない振る舞いは理解できない。「不改常典」といわれる(草壁皇子)⇒文武天皇⇒聖武天皇⇒孝謙天皇と直系相続されてきた皇位を格別に神格化して、淳仁天皇の皇位を軽視し、上皇として専制権力を維持できたのも、この父帝からの特別の言葉なくしては考えられない。

 もともと天智天皇の
「不改常典」は、直系相続の意味で大海人皇子ではなく、大友皇子に継承させるべきだという考えだった。それに基づき大海人皇子は吉野に引き篭もったにも関わらず、短慮から大海人皇子を大友皇子は討とうとして返り討ちにあってしまった。それで大海人皇子が継承して天武天皇になった。

 天武天皇崩御後、鸕野皇女が四年間称制をしたのは、皇太子草壁皇子が皇后であり天智天皇の娘である鸕野皇女(持統天皇)の皇子だったので、もっとも相応しいと考え、その継承の中継ぎになるためであった。ところが草壁皇子が夭折してしまった。直系相続ということで、草壁皇子の皇子である軽皇子への相続にこだわった。それで中継ぎとして持統天皇が即位したのである。そして無事軽皇子が文武天皇になったものの、病弱で夭折した。それで皇統を直系の首皇子に引き継がせるために、首皇子の祖母と叔母の元明天皇と元正天皇が相次いで皇位についたのである。

こうして聖武天皇が実現したが、光明皇后の長男基皇子は誕生日までもたなかった。それで基皇子の姉であった阿倍内親王が皇太子となり、皇位をついだのである。孝徳天皇の誕生だ。女帝ではあったが、直系の男子への中継ぎではない。彼女自身が直系の相続者なのである。中国で則天武后が聖神皇帝になったことにも影響されたのかもしれない。ところが彼女は結婚していないから、次へ直系相続できないという矛盾にぶつかった。

七五六年聖武天皇は亡くなったが、遺詔で新田部親王の皇子道祖王を皇太子にするように指示している。聖武天皇は道祖王と孝謙天皇を結婚させて二人の子に皇位を継がせようと思っていたかもしれない。しかしもう孝謙天皇は婚期を過ぎていた。それで道祖王は皇太子になったのだが、翌年早速廃位させられている。

その理由は、聖武天皇の喪中にもかかわらず淫蕩のふるまいが多かったからとされている。ひょっとしたら聖武上皇から孝謙天皇と肉体関係を持つようにいわれていたのかもしれない。四十歳になろうとしている高齢出産で、生命の危険もおおきいが、直系の孫ができれば、「不改常典」の通りにいくのだから。ちなみに、孝謙天皇の祖母である橘三千代は三十八歳で安宿媛を出産している。

 ところが孝謙天皇が嫌がってセクハラということになってしまったのであろう。仲麻呂と既に男女の関係にあったし、孝謙天皇も男性に対する理想が高かった。吉備真備に帝王学を習っていたことがある、その時には胸にときめきがあった。やはり学者や高僧に惹かれるところは母親の影響だろう。そのものさしから道祖王の性急な迫り方は、帝位を冒涜する行為と不快に感じたのだ。

実権を握っていた藤原仲麻呂と光明皇太后にとって、このセクハラ事件は絶好のチャンスだった。道祖王は橘諸兄の人脈に属していた。だから気に入らない存在であったからだろう。仲麻呂は光明皇太后と孝謙天皇の将来について、相談していた。光明皇太后には仲麻呂を独占したい気持ちがあった。でも娘のことを託すには他に適当な人物がいなかった。もっとも頼りがいのある仲麻呂に任すしかなかったのである。

玄ムと光明皇后との間の不倫は、多分にノイローゼやヒステリーの治療とからんだものであり、藤原広嗣が乱を起してまで問題にすべき内実があったかどうか疑問が残る。それに対して藤原仲麻呂と光明皇太后との関係は、かなり本格的な不倫であったようだ。光明皇太后が聖武天皇にかわって朝廷での実権を握ったのは、聖武天皇の遷都の企てが完全な失敗に終わって、天皇自身が権力をふるって理想を実現しようとする気力はなくなってしまったのである。だから甥の藤原仲麻呂が皇后と親密になり、権勢を誇るのは、聖武天皇にとって批難すべきいわれはなかったのである。

光明皇后は聖武天皇を支えることを使命と考え、それで権力をふるってきたのだが、平城京に戻ってからは、聖武天皇は政治的には引退したも同然だったので、光明皇后の意識の中に聖武天皇を命がけで支えるという気持ちは消え去っていた。聖武天皇に成り代わって、光明皇后が朝廷を取り仕切っていたのである。だから以前なら玄ムにあこがれても、聖武天皇の命がけで支えるというアイデンティティがあってのことで、多分に抑制されていた。それが藤原仲麻呂に対しては、聖武天皇の存在をほとんど意識する必要がなかったのである。

仲麻呂にすれば気位の高い孝謙天皇に性的に奉仕するのは、あまり気の進まないことであったかもしれない。しかし権勢を持続するためには光明皇太后から孝謙天皇にじょじょに乗り換えざるを得ない。そこで孝謙天皇に自分の養子格だった大炊王を皇太子とさせ、そして譲位を実行させたのである。

母の勧めもあり、仲麻呂に身を任せることにしたものの、仲麻呂に自分の求めるものを見出すことはできなかった。美男子という点で、仲麻呂は貴族たちの中で群を抜いていたし、当時の数学では随一だった仲麻呂は教養や頭脳明晰という点でも吉備真備に決して引けを取らない男だった。しかし彼の行動はすべて計算ずくで、利用されているという感じだ。何か冷たいのである。仲麻呂が熱い思いを孝謙天皇に寄せているのなら、孝謙天皇も燃え上がるものがあっただろうが、胸が熱くはならなかったのである。

四十歳の孝謙天皇は、もう出産はあきらめていただろう。藤原仲麻呂に頭の上がらない仲麻呂の娘婿大炊王を皇太子にした。橘諸兄が亡くなったばかりで、藤原仲麻呂は橘諸兄の息子奈良麻呂派を厳しく排除し、弾圧していたのである。この対立が厳しくなっており、この時期には孝謙天皇は母光明皇太后にまったく逆らえなかったようだ。ロボット的な天皇では我慢できなかったので、新しい皇太子が決まって一年余りで孝謙天皇は譲位している。

孝謙上皇はロボット天皇を引き受けた淳仁天皇を見下し、まともな天皇として認めていなかったのだ。彼女も、もう四、五歳若ければ、皇位は自分の子供に継がせたいと思っていたのだろう。しかし未婚で子供がいないのだから仕方がなかった。七五八年に孝謙天皇が四十歳で淳仁天皇に譲位してから、藤原仲麻呂は天皇から「恵美押勝」の名を贈られている。これは美しさに恵まれた、押しに勝れた人物という意味である。仲麻呂を見ると光明皇太后がおもわず微笑むというところからきたらしい。しかし聖武上皇が亡くなって四年後の七六〇(天平宝字四)年、光明皇太后もなくなったのである。  

仲麻呂は淳仁天皇と孝謙上皇の保養のために保良宮を造営した。そして七六一年に、天皇と上皇は保良宮に保養にでかけた。そこで道鏡禅師も従って、孝謙上皇の病を癒したと言われている。『続日本紀』には「看病に侍してやうやく寵幸せられる」とある。孝謙上皇の病はメランコリー(鬱病)である。吉備真備が「宿曜秘法」で治療にあたったが、孝謙上皇は体のあちこちのを抑えながらもがくばかりであった。

孝謙上皇は母をなくしてから、無性に孤独感に苛まれた。父母以外に結局自分を心から愛し、支えてくれる者はいないということが、身に沁みて分かったのである。仲麻呂は親身になって心から打ち解けてはくれない。ただ義務感から仕えてくれているに過ぎないのだ。本当の燃え上がるような恋をしたこともなく、あたら齢を重ねてもう四十五歳になりかかっていた。早く自分も父母のいる天寿国に迎えいれて欲しいと切実に願うこともあった。

でもこのまま空しく人生を終えるのは納得がいかない。そう思うと胸が塞ぎ締め付けられるようで時折苦しくなった。食べる物が喉を通らず、嘔吐がして胃液まで吐くこともあったのだ。夜床に就くと、寝入りばなに何者かに押さえつけられ、首を締められるような圧迫感にも苛まれた。もがき苦しみの声が寝室に響き渡った。女官たちはその度にオロオロしていた。

道鏡は金襴の袈裟を纏い、大きな杖を持っていた。そして苦しんでいる孝謙上皇の床の前に台を置き、そこに大きな黒い髑髏を祀った。香木を焚き厳かに経文を唱えはじめたのである。その異様な鬼気迫る表情に孝謙上皇は圧倒されて頭を抱えたままじっと蹲っていた。その状態で二時間ほど過ぎた。道鏡は一心不乱に呪文を唱え続けていた。

上皇はその二時間の間時折、かすかなうめき声をあげていたが、突然体をうねらせ始め、「ギャー―――」とわめき声を上げた。「物の怪が悲鳴をあげた」道鏡はつぶやいた。「物の怪に乗り移られてはいかぬゆえ、お供の方はお下がりください」と叫び、部屋を密室にしてかんぬきを外からかけさせた。「物の怪などではない、」上皇はそう叫びたかった、「孤独の風が体内を吹きぬけ、哀しみが間欠泉のように悲鳴となって出てくるのだ」そう訴えたかったが、声になるのは「ギャーー−」という悲鳴だけだった。

「物の怪調伏!物の怪退散!」と叫ぶと道鏡は、閻魔のように恐ろしい形相をして杖で上皇の体を打ち始めた。驚愕に顔を歪め上皇は逃げようとするが、恐怖に足が竦んで一歩も動けなかった。したたかに打っているようだが、それほど怪我にはならないように、手心は加えていた。十発ぐらい打ち据えられて、上皇は動けなくなった。「ううううう」と低いうめき声が泣いているようだ。

道鏡は上皇を手荒く突き倒し、仰向けに寝かせた。そこで黒髑髏を手に持って、眼前に近づけた。「物の怪調伏!物の怪退散!」と唱えながら。上皇の恐怖は極点に達し、したたかに失禁し、意識は朦朧としていた。なおも道鏡は容赦しないという勢いで、仰向けに寝かされている上皇に覆い被さるようになり、黒髑髏で顔面を撫で、さらに体中を衣服の上から撫でまわした。「物の怪調伏!物の怪退散!」という呪文を早口で繰り返すので、それは「うわう、うわう」という唸り声にしか聞こえなかった。上皇は恐ろしい獣に陵辱され、食べ尽くされているという感情に襲われた。ぶるぶるぶるぶる小刻みに体が痙攣して止まらない。

「しぶとい物の怪じゃ。上皇様の孤独と哀しみが固まって物の怪になり、上皇様の体を食い尽くそうとしている。上皇様、ご安心下さい。道鏡めの命に代えて、あなた様の物の怪となった孤独と哀しみを追い出してしんぜましょう。」

やにわに上皇の衣服を剥ぎ取り、失禁した尿と下痢便の混ざった汚物をそれになすりつけ、また「物の怪調伏!物の怪退散!」と叫ぶや、その激臭のする汚物を上皇の裸身に塗りつけ始めたのある。「無礼な、打首にしてやる」と上皇は叫ぼうとしたが、「ああああああ」と言葉にならない無力で情けない声をあげるだけだった。

「物の怪め、まだ参らぬか」と言うや、道鏡はぬっくと立ち上がり自分の股を広げ、前をはだけた。そこにはすりこぎのような巨根が怒ってビクビク震えていた。上皇の眼は飛び出しそうになった。「これでもくらえ」と叫ぶと、滝のように上皇の顔面に放尿したのである。「わわわわわ」と呟くばかりで抗議もできない。放尿は体中になされ、上皇の汚物を洗い流すようだった。それが杖で叩かれて蚯蚓腫れになっているところに沁みてヒリヒリと痛みが走る。「ヒクヒクヒク」としゃくりあげる様な声を挙げた。

「どうじゃ物の怪、苦しかろう、この道鏡が命に代えて、全身全霊で上皇様をお守りするからには、もはや上皇様の体内にお前の棲家はないのじゃ。上皇様の体内から、孤独の虫も哀しみの虫も永久に追放じゃ、ワハハハハ。上皇様、今物の怪には止めをさしますから、ご安心を」というなり、激臭と汚物にまみれた上皇の裸身に自らの裸身を重ね、怒りの巨根を上皇の陰部(ほと)に挿入したのである。

孤独と哀しみで上皇の陰部は、ぽっかり大きな空洞になっていたのだ。仲麻呂に抱かれてもその空洞は埋まらなかった。道鏡の巨根は、上皇の空虚を埋めたのだ。これは実際のサイズの問題ではない。伝説では蜂に刺されて巨根になったということであるが、たとえどんなに巨根であっても、上皇の精神的な空虚を埋めることはできないのだ。たとえ短小であっても、上皇の空虚を埋めることができたのなら、精神的には充分巨根なのである。

一介の禅師が上皇を杖で叩き、裸身にして汚物を塗りたくり、強姦したとなると確実に死刑である。道鏡はもとより命を投げ出して、失敗すれば死刑だと覚悟した上で、上皇の病を癒したのである。その命がけの思いが孤独地獄にもがき苦しんでいた上皇の魂を激しく揺さぶったのだ。仲麻呂は自らの美貌と英才で光明皇后の心を掴んだ。しかし彼はあくまでも自分の権勢のために光明皇太后や孝謙天皇に奉仕しただけである。道鏡のように命がけで、孤独地獄から孝謙上皇を救い出そうとはしなかったのである。

道鏡の熱いものを受け容れながら、上皇は毘蘆遮那仏の声を聞いていた。「糞尿にまみれよ。地上で最も尊い筈のそなたでも、自らの体内は最も穢れているとされる糞尿に満ちているのだ。糞尿すら御仏の慈悲の光に照らされれば黄金に輝き、どんな香料よりも芳しく匂うのだ。御仏の慈悲の前では、御門も奴もないのだ。ただの裸身の女にかえり、生まれたままの命にかえってこそ、命の喜びが躍りだすのだ。愛を知れ、そなたのために命を投げ出して、全身全霊でそなたとまぐわっている男を愛するのだ。」悲鳴とも嬌声ともつかぬ声をあげながら、上皇は幾度もオルガスムスに達したのである。

保良宮ではすっかりノイローゼから快復した孝謙上皇は、片時も道鏡を離そうとしなくなった。人前でも道鏡とべたべたするので、淳仁天皇は「宮中であまりに淫らなお振る舞いは、いかがなものでしょう。お控えください。」と注意を与えたのだ。「何を言うか」と気色ばんで上皇は天皇を睨みつけた。あわてて道鏡は上皇をなだめた。

上皇と天皇の関係は日本独特である。上皇は天皇の隠退者であるが、正式には太上天皇と呼ばれ、「天皇」の一種のごとく表現されている。これは上皇になっても天皇に対して臣下の立場に立つことなく、親としての権威で命令できることを意味している。だが孝謙上皇は淳仁天皇の親ではない。しかし皇太子に任命したので、その意味では親と同格の地位にあると考えていたのだろう。それに自分は「不改常典」の直系の尊い血筋なのだという誇りがある。仲麻呂の娘婿ごときに舐められてたまるかという意気があったのだ。

道鏡によって孤独地獄から救われた孝謙上皇は、恵美押勝の美称で正一位につき、並ぶところない権勢を誇っていた藤原仲麻呂に敵愾心を抱くようになる。仲麻呂の権勢はあくまで光明皇太后の寵愛によって得たものであり、その権勢を維持しようとするのなら、孝謙上皇に対して誠を尽くさなければならない筈である。しかるに仲麻呂はノイローゼに陥って苦しんでいる上皇を面倒がり、自分の権勢を強めようとばかりしてきた。

橘諸兄が亡くなってからは、道祖王をはじめ橘諸兄ゆかりの皇子たちを死に追いやり、橘奈良麻呂も乱に追い詰めた。孝謙天皇に迫り、淳仁天皇に譲位させたのも仲麻呂独裁を狙ったものである。仲麻呂から道鏡に乗り換えた以上、孝謙上皇にすれば、もはや仲麻呂の専横を許すわけにはいかないのだ。手を拱いていると、遠からず上皇を惑わすものとして道鏡が弾圧されることになるだろう。

孝謙上皇も道鏡も意志が強く、いかなる迫害や苦境に立とうとも、戦い抜く気概は持っていたが、なにぶん政治的なセンスや謀略の才がない。そこで孝謙上皇が頼りにしたのが、聖武天皇によく仕え、阿倍内親王(後の孝謙天皇)に帝王学を教え、橘諸兄に重用された吉備真備に頼ろうとした。彼は六九五年生まれだから六十六歳にもなる長老であった。吉備真備なら朝廷内での反仲麻呂勢力を結びつけて、仲麻呂追放のクーデターを企てることができるかもしれない。

吉備真備によれば、淳仁天皇とのつながりで恵美押勝の権勢があるのだから、まず淳仁天皇の権限を奪ってしまうことが肝要だということだ。日本の律令はその点、上皇と天皇の関係が曖昧なので、相手から排除される前に、こちらから先手を打って相手を排除しておくことが大切だ。それと平行して藤原氏の中での反仲麻呂勢力との連係を図って、仲麻呂の孤立化を図ればよい。

天平宝字六(七六二)年の六月三日ついに孝謙上皇は淳仁天皇から権限を奪うクーデターを敢行した。

太上天皇の御命を以て卿たち諸に語へと宣りたまはく、朕が御祖大皇后の御命以て朕に告げたまひしく、岡宮御宇天皇の日継はかくて絶えなむとす。女子の継ぎには在れども嗣がしめむ、と宣りたまひて、此の政行ひ給ひき。かくして今の帝と立てすまひくる間に、うやうやしく相従ふ事はなくして、とひとの仇の在る言のごとく言ふまじき辞も言ひぬ。為まじき行もしぬ。凡そかくいはるべき朕には在らず、別宮に御坐しまさむ時しかえ言はめや。此は朕が劣きに依りてしかく言ふらしと念し召せば、愧かしみ、いとほしみなも念ほす。またひとつには朕が菩提の心を発すべき縁に在らしとなも念ほす。是を以て出家して仏の弟子と成りぬ。但し政事は常祀小事は今の帝行ひ給へ。国家大事、賞罰二柄は朕行はむ。かくの状聞きたまへ悟れ、と宣りたまふ御命を衆聞きたまへよと宣りたまふ。(『続日本紀』)

この宣命に対して、仲麻呂―淳仁帝ラインは抵抗した筈である。もし朝廷内で太師(太政大臣)であり、正一位でもある仲麻呂が絶大なイニシアティブを発揮できれば、逆に孝謙上皇が捕らわれていただろう。それができなかったということは、朝廷内で反仲麻呂の動きが高まっていたからである。それは道祖王の廃太子にはじまる橘氏排除や、皇太后や天皇との性的結合を足がかりにした実権掌握のやり方は、藤原氏の内部にも強い反感をかっていたのである。孝謙上皇が道鏡とつるんで仲麻呂に反旗を翻したことに対して、ざまあみろという気持ちで受け止めていたのだ。

たしかに大炊王を立太子させ、皇位につけるのは、これまでの「不改常典」に執拗にこだわってきた経緯を考えると、あまりに皇位を軽くしてしまっている印象を受ける。それだけに孝謙上皇が淳仁天皇を見下して、「政治上の常の祀りや小さなことは今の天皇が行いなさい。国家の大事、賞罰の二柄は私がやります」と宣告しても当然のような空気が朝廷内にあったのだろう。

この時、孝謙上皇は聖武天皇の血が騒いだのだ。彼女は天皇だったときには、光明皇太后や仲麻呂の傀儡にすぎなかった。自分で何か重要な政治決定をする能力も意志もなかった。道鏡に救われて愛に目覚めてはじめて、彼女には自分の意志が生まれ、それを貫くために権力欲がふつふつと湧いてきたのである。それにしてもこの宣命では、道鏡との関係に口出しをしたり、邪魔をいれたりしたことに怒って、天皇の権限を奪ったことがはっきり宣言されている。そんな私的な感情に振り回されて、政変がおこってしまったのだ。

仲麻呂は自分の権力が藤原氏全体の力を代表していると思い込んでいたのだ。ところが、この宣命がでると藤原恵美氏を除く藤原氏は、みんな気迫に押されて孝謙上皇に従ってしまった。形勢不利と見た太政大臣恵美押勝は、太政官から引上げてしまったのである。

そして密かに謀略を練り、二年間の準備を経て仲麻呂は道祖王の兄塩焼王を皇位につけて、乱を起した。天平宝字八(七六四)年九月のことである。仲麻呂は淳仁天皇を担いで乱を起したかったのだが、吉備真備の指図で、天皇の身辺は監視の目が張り巡らされて、大極殿からどうしても脱出できなかったのである。

この乱は仲麻呂が二年間かけて準備したものだが、その間に上皇側も吉備真備の指令で仲麻呂の乱を予測して、鎮圧の準備をしていたのだ。そのために内偵を送り込み、情報は筒抜けだった。だから乱を起そうとしたときには、既に官軍に取り囲まれていたのだ。

吉備真備と道鏡は宿曜の秘法を行い、朝敵調伏の呪いを行った。上皇は、あのかつての独裁者仲麻呂をあまりにたやすく敗死させたものだから、これは道鏡の宿曜の秘法の威力だと思った。道鏡の朝敵調伏の呪いは、密室でだれも入れずに行われた。戦が始まる頃から三時間ばかり密室に篭って呪文を唱え続けたのだが、道鏡の篭った部屋からは悲鳴やわめき声がし、物が倒れる音などがした。とても一人とは思えなかった。しかしいかなる物音がしても三時間は空けてはならぬとされていた。三時間後物音もなくなり、部屋をあけると袈裟が引きちぎられ、血まみれになって道鏡が倒れていた。

一時間ほどして意識が回復した道鏡は、仲麻呂の生霊と戦っていたというのである。そして仲麻呂を調伏したと叫び、奴は死んだ筈だと断言した。後から調べてみると道鏡の仲麻呂の生霊を仕留めた時刻と、戦場で仲麻呂が敗死した時刻はほぼ一致するという話だ。

上皇にはこの二年間の吉備真備を中心にする朝廷側の対仲麻呂対策がいかに緻密であったか、その苦労など理解できる筈もなかったのだ。それに藤原氏内部で藤原恵美氏を排除する動きが、この時期に活発化したことも忘れてはならない。上皇は道鏡と組んで、ふたりで仲麻呂を倒したという、勘違いと驕りにかられて破綻への道を歩み始めるのである。

上皇と道鏡コンビは、仲麻呂の怨霊が祟るのを恐れた。それで西大寺の造営を思い立ったのである。そして「百万塔」を作成させた。これは「無垢浄光陀羅尼経」を納経した小さな三重塔を百万基造ったものである。陀羅尼経というのは、真言(サンスクリット)の呪文である。「無垢浄光陀羅尼経」とは塔を造る功徳について書かれたものである。百万基も造ったのだから、怨霊の祟りを鎮めるのにさぞかし効果が期待されていたのである。ちなみにこの「無垢浄光陀羅尼経」は大量印刷されたものとしては現存する世界最古のものといわれていたが、最近では新羅の仏国寺のものの方が古いとされている。

仲麻呂の乱の直後、孝謙上皇に対する謀反を理由に淳仁天皇は天皇を廃された。親王に貶められて、淡路に幽閉されたのである。もう淳仁天皇には後ろ盾がいない。そして孝謙天皇にとっても利用価値がない。放っておいても謀反を企てるだけだろうから、退位させてしまったのである。翌年の天平神護元年十月、逃亡を計ったが捉えられた。そしてその翌日変死している。まだ三十三歳の若さだった。

淳仁天皇を廃して、孝謙上皇は復位した。称徳天皇である。この天皇の最大の目標は、道鏡を天皇にすることである。これは聖武天皇が阿倍内親王を孝謙天皇に即位させるにあたって語った言葉の実践である。「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝のせむまにまに」という言葉だ。この言葉の前半は、淳仁天皇の皇位を剥奪して、淡路に幽閉し、殺してしまったことで実現した。今度は、この言葉の後半を、どこの馬の骨かわからない禅僧の道鏡を天皇にすることで実現するのである。

もちろん聖武天皇はこの言葉を「不改常典」に基づく天皇の権威の絶対性の比喩として使ったのだろう。だから称徳天皇はみずからの権威の絶対性を、聖武天皇の言葉どおり実践しようとしたのである。しかし「不改常典」の元来の意味は、皇后の長男に皇位を継承させるべきだという原則の筈である。まさか「どこの馬の骨かわからない者」にでも皇位を継承させる権利のことではない。その意味では称徳天皇の目論見は、とんでもないことである。

もし天皇位を道鏡に継がせても、自らが皇后に納まり、道鏡の子を産んで、その子に皇位を継承させることができるとすれば、道鏡の皇位も「不改常典」の実現のための中継ぎということになる。しかし既に四十台半ばに達していた称徳天皇が子供を生んで、母胎が大丈夫なのかという問題がある。ひょっとしたら、父方の曾祖母も母方の祖母三千代も高齢出産だったので、自分も大丈夫だと思い込んでいたかもしれない。

一介の僧を天皇位につけるということは、これは血統による身分制度に対する根源的な否定である。それは仏教的な平等思想の影響かもしれない。あるいは、仏教に深く帰依していた称徳天皇のことだから、日本を理想の仏国土にするには、もっとも高徳な僧を天皇に据えるべきだという、至極もっともな発想があったかもしれない。しかしこれは天皇制というシステムの実質的な否定である。もし道鏡が継げば、その後の皇位継承は高徳の僧でなければならないことになり、もう実質的には「天皇」ではなくなってしまう。

天皇制に対する怨念のようなものが称徳天皇の血統の中に受け継がれていて、それが天皇制を実質的になくしてしまおうとさせていたのかもしれない。祖母の海女出身宮子の悲劇があり、母宮子の出自からコンプレックスを抱えた聖武天皇が破滅的な行動に出た。これらの伏線から考えると、天皇制そのものを危機に追い詰める彼女の行動は、称徳天皇の中の「俗なるもの」が衝動的に求めているのである。元々「聖なるもの」は一人一人の「俗なるもの」の中にこそある。しかし「俗なるもの」は、それに憧れるがなかなか自覚できない、それで誰か一人を「聖なるもの」に選んで、みんなの中にある「聖なるもの」をそこに対象化したものである。

「聖なるもの」とされる原理が血統なのはいちいち吟味しなくてもいいからだろう。しかし血統にはどうしても「俗なるもの」が混ざってしまう。海女だった宮子が俗なる血として出自コンプレックスを持ち込んだ。その精神的重圧は「聖なるもの」から解放されたいという潜在意識を植え付ける。あるいは聖なるものを否定して俗に還ることに抑えがたい衝動を感じるのである。そのことを孝謙上皇は目覚めさせられたのである、道鏡のあの涜聖的な治療によって。それが彼女の身分制と天皇制への挑戦の底にあったのだ。

実際、称徳天皇は、天平神護元年に最も低い身分の姓のなかった安房国平群郡人壬生美与曽・広主の二人に「平群壬生朝臣」が与えたのである。天武期に制定された「八色の姓」があり、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つに整理されていた。真人は近しい皇胤に、朝臣は臣のうち勢力のあるものに、宿禰は連のうち勢力のあるものに与えられた。なお忌寸は十一氏族に与えたのち廃止され、道師と稲置は与えられなかった。臣は景行天皇以前に分かれたとされる皇裔に、連は有力な臣下に、それぞれ与えられていた。称徳天皇はそういう原則を無視したのである。朝臣、宿禰という尊い姓をどんどん乱発したのである。約六年間の間にこの改変で千数百人が恩恵を受けたそうである。

天平宝字八(七六四)年、藤原仲麻呂の乱を平定した道鏡は大臣禅師に任命され、翌年太政大臣禅師に、その翌年は聖徳太子に倣って法王に任命されている。この時藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣に任命された。そして法王宮職を設置した。道鏡が法王の位にあって行ったことは、西大寺の創建と、国分寺の堂塔の修理のみである。道鏡はしたがって、なにか政治的な見識を持ち、自らの国家構想をもっていて、その実現のためになにかをするような政治家ではなかった。だからあくまでも称徳天皇が自分が愛し、尊敬している道鏡を天皇にしたいと思っていただけである。道鏡自身は、称徳天皇を色仕掛けでたぶらかして、皇位を手に入れようとしていたのではないのである。

道鏡を天皇位につけるという称徳天皇の願いは、あまりに歴史的な皇位継承の伝統を無視したものである。しかし子供のいない称徳天皇にすれば、天皇位をどうせ譲るのなら、愛する道鏡に譲りたいという思いは抑えがたいものがあった。そこで困ったときの神だのみである。かつて孝徳天皇が即位したばかりの頃、大仏造立の為に宇佐八幡神が上京したことがあった。その宇佐八幡神の権威を借りて、道鏡を天皇にしようというのである。

宇佐八幡神は豊前の土地の八幡神に、大和三輪の大神比義が応神天皇の神霊を持ち込んで、合体させたものなのだ。だから皇室の祖霊にあたるわけである。皇室の祖霊が道鏡の皇位継承を認めるのなら、文句はないだろうということで、宇佐八幡神の意向を伺うことになったのである。

和気氏出身で葛木戸主の妻であった広虫は、称徳天皇の御側に長く仕えていた。称徳天皇は気心の知れた広虫になんでも悩み事を打ち明けで相談していたのである。

「広虫や、御仏の前では天皇も奴もない。父聖武天皇は、自分は『三宝の奴』だと申されていた。」
「聖武天皇はこの世界を仏国土にしようと、生涯を御仏に捧げられましたからね。ほんとうにもったいない御言葉です。」
「私が御位について三年目、大仏開眼供養があった。父も母も祖母もいっしょだった。都中が祝賀に沸きかえり、盛大な供養だった。」
「ええ、天竺からこられた
インドの偉いお坊様、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼の導師をつとめられました。一万人を超える人々が儀式に参列されたそうですね。」
「まったく夢心地だった。あの時を生きたのと、生なかったのとでは全ての物事がまるで違って感じられる、そんな大きな出来事だった。」

「そうでしょうとも、陛下は唐・天竺の舞楽の後で、久米舞を見事に舞われました。羽衣の天女もあれほど美しくは舞えないと思うほどでした。」

「へつらはずともよい。自分の舞の程度は自分がわかっておる。」
「何をおっしゃいます。やはりすめろぎの舞には神々しさがありました。」

「アハハハハハ、血で舞が舞えるというのか、血で舞が舞えぬように血では国は治められぬ。なまじすめろぎの血統に生まれたために何の徳も智恵も才能もないのに御門にならなければならず、民草を苦しめ当人も悪い臣下に振り回された、不幸な帝も多かった。」
「しかし血の権威がなければだれも国に従いません」

「それなら天智天皇や天武天皇の血を引く親王たちのなかで、この国を御仏の国にできるお方はおられるのか、そんなお方がおられたら、喜んで御位を差し上げるものを。」
「どなたもご立派に見えますが」
「御仏に心から帰依している者はおらぬ。これでは聖徳太子の目指された仏法の国には程遠くなってしまう。私は御位も血ではなく、もっとも徳の高い御方に継いでいただきたいのじゃ。」
「やはり道鏡法王に御位をとお望みなのですね。でも血統を否定されてしまわれますと、皇孫たちが納得しませんし、皇孫の血を引いたり、お仕えすることで地位を保っていた貴族たちも黙っていますまい。」

「それで何かいい思案はないものかと。そなたにも相談しておるのじゃ。よいか、わが国が全てにわたって手本にしている大唐の国では、天子の徳が衰えれば徳の高い人に御位をお譲りするのが当然とされているそうじゃ。聖神皇帝は唐の高宗の皇后だったが、息子たちに徳がなかったので、天下万民の推戴の声に押されて御位に就かれたというではないか。」

「それはまったくその通りでございますが、一介の僧が法王はおろか天皇にまで成り上がるとは、とても常軌に逸しております。」
「一介の僧?一介の僧とは無礼な言い方だ。厚く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なりと『十七条の憲法』にあるのを知らないのか、仏国土を作るには徳の高い僧が御位に就かれるのがもっともふさわしいとは思わぬのか。」
「そうでございますね、やはり道鏡様が御位につ就くのが相応しいと存じます。でも百官の納得を得るのは難しいかと。」
「それ故何か妙案はないのかと聞いておるのじゃ」
「そんなことを言われましても、私にはそんな国家の一大事に口を差し挟むことはできません。」
「それは水臭い、広虫と私の仲ではないか、私のために妙案を考えておくれ。」
「それでは困ったときの神頼みで、氏神さまにでもお伺いを立ててみましょう。妙案を教えてくれるかもしれません。」「それだ、それだ。道鏡を御位につければ、天下太平という神託をもらって、それを口実に譲位するのだ。ただしそこらの氏神では駄目だ。皇室の祖先神である伊勢大神でなければ。」
「それはまずいですわ。伊勢大神は藤原氏の意向に忠実ですから、反対されるに決まっています。」

「それでは宇佐八幡神がよい。宇佐八幡神が大仏造立の応援にきていただいた折は、大いに盛り上がった。あれなしには大仏殿の完成は難しかったと父聖武天皇が言っておられたぐらいだ。それに八幡神はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の息子応神天皇の御神霊をお祭りしていいるのだから、効き目は格別だ。というのは、天智天皇と天武天皇の父敏達天皇はオキナガタラシヒロヌカと呼ばれ、オキナガタラシの血統を引いておられるのだから。」
「宇佐八幡神はそんないい神託をくださるでしょうか?」
「それは大丈夫だ。太宰帥には道鏡の弟弓削浄人を任命してある。宇佐八幡神の宮司もその人脈で固めてあるそうな。万が一にも道鏡に不利な神託を出すことはあるまい。」

「それじゃあ、何かはじめから話が出来ているという感じで、反発されるのではないでしようか。」
「では、こうしよう。私の夢に八幡神が出て、道鏡に位を譲れば天下太平になるというお告げがあったことにするのだ。それを確かめる為に八幡神に神託をいただきに行くというのでは。」
「そんなご自分に都合の良いお告げなど、信用されません。」
「それではこうしよう。広虫、悪いがそなたが夢で道鏡に位を譲れば天下が太平になるという夢のお告げを受けたことにしてくれないか、そして私の夢には反対に皇位は皇統を守れというお告げがあったことにする。そしてどちらが正しいか分からないからと言って、直接八幡神にお告げを聞きに行ってもらうのだ。」
「さすがは陛下、なかなかの妙案でございます。それでは宇佐八幡宮には、気心の知れた私の弟の和気清麻呂に神託を取りに行ってもらうことに致しましょう。」

この妙案は実行されることになるのだが、この話を聞いた道鏡は、待ったをかけた。先に宇佐八幡宮の支持を前もって取り付けておくべきだと思ったからだ。それで弟弓削浄人を通して、宇佐八幡の宮司をしていたと思われる太宰主神習宜阿曽麻呂に「道鏡を御位に就けたら天下太平ならん」という神の教えをでっちあげさせたのである。こうして,先ず阿曽麻呂の神託が報ぜられ、広虫こと法均が夢のお告げを告白し、その上で御門の夢が報告されて、道鏡がそれでは和気清麻呂に神託を確かめに行かせようと提案したのである。

姉は清麻呂に直前まで打ち明けていなかった。清麻呂が果たして賛成してくれるか自信がなかったし、反対された場合、御門が広虫にしたような見事な説得ができる自信もなかったのである。突然の重責に清麻呂は動転した。神勅を伺ってくるだけなら、そこに清麻呂の裁量の余地はないのだが、事が事である。清麻呂がもたらす返事次第で、朝廷の皇統は絶え、新たな王朝になるのである。こんなことが、夢のお告げや、地方の神のお告げで決まっても良いのか疑問である。そのお告げをもたらす自分も朝廷を覆す大罪人ではないのかと思うと体の震えが止まらなかった。

姉から清麻呂は、御門が道鏡に譲位したい理由が皇統に徳が衰え、高徳者への禅譲の時期がきたこと、御仏の国を造るには僧として最も優れている道鏡こそ御位にふさわしいという論理を聞かされていた。確かにそれも一理ある。徳の衰えた皇統は有力豪族の傀儡になり、国家は私物化され、皇帝はみじめな飾り物の境涯に置かれがちである。

しかし日本は「和の国」である。皇帝の個人的能力によって国は治まるのではなくて、集団的な協力体制によって国を保ってきたことになっている。皇帝の資質の欠陥は集団によって補えるのである。むしろ皇帝に求められるのは、集団的な結合のシンボルとなることによってである。それには尊い血が受け継がれているという幻想としての血統が大切になる。

問題は、道鏡にもある。道鏡に果たして皇帝が務まるのか。彼には仏法以外に知識も技術もない、また政敵に対抗して謀略をめぐらす政治力もない。ただ女帝に取り入って、寵愛を独り占めにできたにすぎない。たとえ一時御位を極めても、すぐに老獪な貴族たちに引きずりおろされるに違いないのだ。その時道鏡を天皇にした責任は清麻呂にも回ってくるに違いない。

道鏡は、清麻呂を九州に向かわせる際に、良い返事をもたらせば、官爵で報いるからと、人事面での厚遇を約束している。道鏡政権では清麻呂は宰相にまで出世するかもしれない。ということは道鏡が失脚したときは、自分も最後である。しかも道鏡政権はそう長くは続かないだろうから、道鏡にかけるわけにはいかなかったのだ。 

清麻呂は以前に道鏡の師である路真人豊永が、「もし道鏡が天位についたら自分はその臣とならなければならず面目が立たない。そうなれば私は今日の伯夷になろう。」と言っていたことを思い出した。つまり道鏡といえども天皇の臣下にすぎず、臣下が主君に取って代わるのは不義だということだ。伯夷は武が殷王を打倒しようとしているときに、臣が君に取って代わることの不義を訴えたので有名である。そんなことをすると世の秩序が崩壊してしまうのだ。それでも世が混乱を極め、朝廷の機能が麻痺して、国を根本から立て直すべき時期なら、まだしもである。今は御門が自分の恋しい人に帝位を継がせたいという私的感情によって、引き起こされたことにすぎないのだ。

しかし清麻呂は御門や道鏡を恐れていた。もし道鏡に都合の悪い内容の神託をもたらせば、死刑にされる可能性は極めて高い。その時は姉も殺されるかもしれない。かといって道鏡に都合の良い神託をもたらしたら、一時的には宰相にまで上り詰めることができるかもしれないが、半年も持たないうちに政権は崩壊するだろう。その後に待っているのはやはり死刑である。同じ死刑になるのなら、後世の人に清麻呂は大義を貫いて、義のために死んだとほめられるほうがいいと考えた。それなら道鏡を斥け、皇統による皇位継承の伝統を守る側についた方がいいと判断したのである。

人間ならだれしも殺されるのは覚悟の上で、行動しなければならないことがあるものだ。その時に堂々と命を投げ出してこそ、自分の存在価値を歴史に主張できるのである。清麻呂は今こそその時である。清麻呂の時が来た、見事に死んでやろうと覚悟したのだ。

清麻呂は宇佐八幡宮に行って、和気清麻呂を名乗り、道鏡に天位を授けるべきかどうかを伺った。かねての手筈通り、「道鏡が天位を継げば、天下太平」という託宣を巫女は語ったのである。これで清麻呂はおとなしく引き下がれば、道鏡は天皇になれたかもしれない。しかし和気清麻呂は納得しなかった。「これは国家の大事です。道鏡が位を継げば、皇統は絶えてしまいます。とても納得いきかねます、直接神意をお聞かせください。」と叫んだのである。

これには巫女は仰天し、うろたえた。その時神殿から、神の声が響いたのだ。「われこそは八幡神なり。我が国家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。旡道の人は宜しく早く掃除すべし」(『続日本紀』)おそらく和気清麻呂は予め忍びの心得のある従者を、神殿の中に潜ませていたに違いない。

法均尼と和気清麻呂は御門に報告に訪れた。法均尼は神託の内容を書いてある紙を一気に読み上げる。
「我が国家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。旡道の人は宜しく早く掃除すべし。」
それを聞いて称徳天皇は絶句した。「その神勅は偽物じゃ、本物には『道鏡に譲位すれば、天下太平』とあったはずじゃ」と質した。

清麻呂は落ち着き払って答えた。「たしかに巫女は、そう託宣しました。しかしその後、急にあたりは暗くなり稲妻が走り、落雷がありました。そして大声で『われこそは八幡神なり。我が国家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。旡道の人は宜しく早く掃除すべし』と八幡神のお怒りの声が響いたのです。」
「そのような作り事、誰が信じるものか。」

法均尼はきっぱりとした口調で言った。「よかったではございませんか。やはりこの国は大唐国ではないのです。たしかに道鏡様は徳が高い方ですが、徳だけで国は治まりません。尊い血筋のスメロギをみんなで盛りたててこそ成り立ってきた国です。その血筋を離れてしまいますと、勝手な判断で我こそは天より選ばれた天子だという者たちで争乱がたえなくなります。」
「血よりも徳で選ぶべきだという朕の考えを納得したのではなかったのか。」
「あの時は確かに陛下のお考えが正しいと思いました。しかし此処一月あまりの朝廷内の動きを見ていますと、とても道鏡様が即位して平和に収まるような雰囲気ではないのです。藤原氏の有力者たちは道鏡即位を実力で阻止するための準備を整えています。ここで無理に道鏡様への譲位を決行されますと、道鏡様も陛下も捕らえられて、闇のうちに殺され、別のお方が急遽即位されることになるでしょう。」
「そなた裏切ったのか」
「いいえ、陛下のお命をお助けしたい一心で申し上げているのでございます。ここは悔しいでしょうがお引きください。」

「だれも朕の心の苦しみは分からなかったし、分かろうともしなかった。仲麻呂のように家柄もよい、顔も良い、最高の知識と智恵と権勢を誇っていても、何一つ心の中には入ってこなかった。あやつはただ自分の権勢を伸ばすことしか頭にない。そんな人間が国を治めて、果たして人を救えるのか。皇統や家柄やにしがみついて、生きていこうとする連中は、人の心を見ようとはしないのだ。この不改常典の血統を引く最後の皇帝たる朕自らそういうのだから、間違いない。結局、だれにも渡したくない、皇統を何時までも独り占めしていたいだけなんだ。しかし権力を握っても自分のことしか考えない、人の心など分からないそんな心の狭い者が御門の衣を着、冠を被って,いったい何になるというのだ。誰も救われない、誰も救えないのだ。」

「いえ、すくなくとも私は、陛下によって救われています。陛下のやさしいお心遣いで、どんなに生きることの喜びを感じたことでしよう。」
「朕は道鏡によってはじめて心の中にある哀しみを知り、愛されることの意味、愛することの意味を知った。道鏡は朕を命を投げ出して救おうとしてくれた。そこには血統も身分も地位も権勢もすべて超えて、本当の心と心として結び合う喜びに出会ったのだ。朕も本当の自分に戻るために全てを投げ出し、命がけで愛に生きるべきだと思う。」

「それは素晴らしいことですが、道鏡様を帝位におつけになられると、そのことでかえって縛られてしまって、本当の自分を失ってしまわれるのではないでしょうか。」
「帝位というものは恐ろしい、人間を歪めてしまう。だからこそおいそれと他人に譲れないものなのじゃ。道鏡は無欲で野心がない。たとえ帝位についても、無心の心は保たれるお方だと朕は見込んでいる。」

和気清麻呂が口を開いた。「道鏡法王の高潔なお人柄は、かねがね敬服いたしております。しかしながら法王の取り巻きは弓削氏ゆかりの者を重用され、宗教界を仕切りつつあります。これで天皇になられますと、新興弓削氏や物部氏ゆかりものの台頭が起こり、藤原氏との確執が強くなって、どんな内乱にならぬとも限りません。」
「そのようなことそなたに言われずとも、すでに道鏡は心をいためておることじゃ。藤原氏とか蘇我氏とか物部氏とかの豪族の抗争の時代を終わらせ、天皇も庶民も皆三宝の奴となり、御仏への帰依の許で、みんなが心を一つにして菩薩行に励む、そんな国づくりの理想を抱いているのが道鏡じゃ。その理想の国づくりの理想のもとに譲位を考えておるのに、みんなよってたかって朕の理想を台無しにしてしまうのか。」

「もとより万人平等の仏国土を築こうとされる陛下の高いお志には、熱く心打たれます。しかしそれは今の時代には受け入れられません。譲位を押し通そうとされれば、間髪を入れずに陛下も法王も命奪われる仕儀にあいなりましょう。」
「朕を脅迫して、理想実現を阻むとあらば、そなたたちの命もうばわねばならぬ。」
法均尼が天皇の前に跪いて言った。「もとより陛下と法王様のお命をお救いするためなら、私たち姉弟の命は喜んで差し上げます。これまでの陛下のご恩に報いことができれば、この世になんの未練もないのです。どうか私たちの命に代えて、ご譲位の件は踏みとどまってください。」

称徳天皇の眼から大粒の涙が溢れた。そして「臣下たるもの朕の意を体して忠勤に励むべきものを、嘘の神勅まで作って、朕の理想の国づくりを妨害した。誠に許しがたい、流罪にする。清麻呂は今後は穢麻呂と名乗れ、また法均は広虫ではなく狭虫と名乗るのじゃ」と凛々しく言い放って、唇を噛み締めた。これは持統天皇が柿本人麻呂を流刑にしたときに、「人麻呂」を「佐留」と改名したのにまねたのである。この世にいう道鏡皇位覬覦事件は神護景雲三(七六九)年九月二五日のことであった。

その後も称徳天皇は、都を平城京から道鏡の根拠地、河内の由義宮に移そうと画策する。翌月由義宮に行幸し、そのまま由義宮に住み着いてしまったのである。そして翌年六月由義宮で重い病気に落ちて、八月に平城京で亡くなっている。一説には藤原百川らが治療をさせずに死なしてしまったといわれている。事の真偽はともかく、称徳天皇の存在は藤原氏にとって道鏡と共に一日も早く消え去って欲しい存在ではあったのだ。

もちろん道鏡の権力は瞬時にして費えてしまった。その月のうちに造下野国薬師寺別当に左遷されたのである。そして二年後、道鏡はそこで没している。(完)

 

             

あとがき

(道鏡と孝謙上皇の関係を物語にすると、どうしてもポルノ小説のようになってしまう。梅原猛は『海人と天皇』で『水鏡』をはじめとする両者の下半身スキャンダルに関して、巨根説も含めて紹介しいる。ただし巨根に溺れた淫乱女のような捉え方を梅原は、斥けている。「私はこの二人の恋は決して後世、語られるようなスキャンダラスなものであったとは思わない。四十五歳の女帝と五十八歳の僧は、少女と青年のような恋をしたに違いない。二人が結びついたのは肉体よりも先に精神であったと私は思う。」(一六二〜一六三頁)と述べている。かといって、肉体関係をを明確に否定しているわけではない。

梅原は下半身スキャンダルをたっぷり紹介した後で、こう述べている。「こういう記事を読むと私は、このスキヤンダルで泥まみれになった女帝のためにいささか弁護してみたくなるのである。もちろん、いくら弁護しようとしても、道鏡と女帝の愛人関係だけは否定しようがないであろう。しかしよく考えれば、孝謙女帝は独身女性である。独身の女性が一人の男性に恋をし、肉体関係を持ったとしても、そう咎められるべきものではないであろう。そしてその男性が僧侶であっても、少しも不思議ではない。さらに恋をした一人の女性がその恋の相手に自分の持っているものすべてを与えようとしても、それはごく自然の行為であろう。ただ彼女が恋人・道鏡に与えようとしたものが「天皇の位」であったということが問題なのである。」(一〇三頁)

女帝もまた人間であり、大人の女である。そして愛する喜びを与えてくれた男性を愛し、その男に自分の持っている最も大切なもの、つまり帝位を捧げようとしただけだと割り切っている。それは梅原の天皇教批判の視点と不可分に結びついた解釈だといえる。梅原は、この下半身スキャンダルを取り上げて、天皇制の脱神聖化を試みているのである。

ところが梅原の『海人と天皇』を歴史物語にするという私の試みは、この両者の下半身スキャンダルをサド・マゾ化している。現代思想研究会の藤田友治から、下半身スキャンダルを否定している梅原から、離れているのではという批判を受けた。これは「スキャンダラス」という言葉の遣い方にもよるが、二人が純愛であったことは確かである。とはいえ「少女と青年のような恋」といっても、それはセックスを伴わないという意味ではないだろう。

メランコリーの治療から二人の関係が始まっているのだから、孝謙上皇と道鏡が仏教の信仰を通して、高僧の人徳に惹かれていったというような形での愛の始まりはあり得ないと思う。孝謙上皇は自分の血の中の「聖なるもの」と「俗なるもの」の相克に苦しんでいた。何もかも捨てて裸の女にならない限り、この苦しみから解放されることはない。そのためには仏の前では無に等しい聖なるものを徹底的に無化する必要がある。それには糞尿によって汚辱にまみれさせる必要があった。またどこの馬の骨かわからない一介の僧によって、強姦されることも荒療治であった。

それにしても糞尿にまみれさせるという想像は、梅原の原作の品位を著しく汚すのではないかという葛藤に、私とて苦しんだのである。もっと現代の精神科医と患者の関係のように、医師の優しい思いやりや言葉づかいだけで、孤独が癒されることで、道鏡に帰依したことにしてはどうか、その方が「少女と青年のような恋」にふさわしいのでないかという忠言も受けた。

しかしそれでは道鏡のパフォーマンスは命がけではなくなる。私は命がけでなければ治せなかったと思う。しかも聖なるものを徹底的に無化しつくすようなものでなければならない。究極の冒涜として、女帝を糞尿でまみれさせ、強姦してしまうということが頭に浮んだら、これがこびりついて離れないのである。命を投げ出して、全身全霊で上皇を孤独地獄から救い出すにはこの方法しかないと、道鏡には思われたのではないか。この道鏡の捨て身の命がけの愛こそ、孝謙上皇の魂を根底から揺さぶったのではないか。こういう形でしか両者の純愛は考えられないし、その後道鏡に「天皇位」まで譲ってしまおうとする異常心理は理解できないのではないかという妄念で書いてしまった。

もとよりこれは歴史物語であり、フィクションである。事実としてこのような聖なるものへの冒涜による治療があったというのでない。あったとしたら、よく理解できるのではないかと思っただけである。)

 

 

 

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