中継ぎの女帝たち 


 文武天皇は、病弱だった。宮子の憂愁が彼にとっては生きようとする意欲に決定的な打撃を与えた。それでも祖母の愛情に支えられて、その期待に応えようとしたが、胸にポッカリ空いた空洞には冷たい風がいつも吹き抜けているようだった。首皇子は、文武天皇と宮子をつなぐたった一つの存在なので、首皇子にしばしば会いたがった。不比等や三千代との繋がりが、とても強くなったのである。

 文武天皇の最大の精神的な支えは、祖母の存在であった。しかしその祖母が七〇二年に藤原宮で崩御したのだ。祖母は宮中で輝いていた。皇子たちはみんな祖母を慕い、祖母を支えて立派な国を作ろうと張り切っているように見えた。その祖母が、軽皇子には特に優しく、祖母に抱かれていると、みんなの尊敬のまなざしが自分に注がれているような気がして、誇らしかった。その祖母が亡くなったということは、宮中から太陽の光が消えたようなもので、あれほど華やかだった宮中が暗く沈み、生気を失ってしまった様に見えたのである。

 軽皇子の母の
 阿閇皇女も、鸕野皇女の生存中は彼女に精神的に依存していた。 阿閇皇女の父は天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘である。だから鸕野皇女とは異母姉妹にあたる。姉の息子の草壁皇子に嫁いで軽皇子を産んだのである。鸕野皇女にすれば息子と結婚して、孫を産んでくれる妹だから、特別に親密にしていたことになる。阿閉皇女にしても自分の夫や息子の後ろ盾になってくれ、皇位継承が叶うようにしてくれるのは持統天皇の徳の力である。だから阿閉皇女は持統天皇にひたすら従順に仕えていたのである。

 
 阿閇皇女は夫草壁皇子の即位をひたすら待っていた。天武天皇の死によって皇太子だった草壁皇子に皇位が回ってくるかに期待していたが、病弱を心配されて皇后が称制することになり、本当に体が心配だっただけに、ホッとした。姉が他の皇子に皇位が回されるのを止めてくれたのだと感謝した。

 大津皇子の謀反には本当に胆を潰した。天武天皇の下で皇子たちは固い結束を誓っていただけに、最も高潔で知性的な大津皇子がそれを裏切ったということは、とても信じられなかった。案の定、大津皇子に連坐していた人たちはほとんど無罪である。これは大津皇子を偽りの謀反計画に嵌めて、殺す謀略だったのではないかという噂が立った。それでは誰の謀略なのか、皇子たちの中で互いに疑心暗鬼がはしった。

 大津皇子の才覚を恐れて、草壁皇子がライバル視して謀略を仕組んだのでないかという疑惑が流れた。
 阿閇皇女は、とても兄弟思いで心の優しい夫が、そんな謀略を考える人間ではないことはよく分かっていた。それでもそういう疑惑を持たれて、深く傷ついた夫が、元々病気がちだったのが寝込んでしまい、ついに大津皇子自害の半年後に病没してしまったのは、なんとも哀れであった。

 草壁皇子が亡くなったとなれば、いよいよ皇太子は高市皇子で決まりで、そうなればすぐにでも高市皇子が天皇になるとだれしも思った。すると大津皇子を嵌めた謀略を仕組んだのは、高市皇子ではなかったかという疑惑が、胸に浮かんでくるのを抑えられなかった。若しそうなら、恐ろしい人を天皇にすることになる。
 阿閇皇女は姉である皇后とふたりきりで話したときに、その疑惑の気持を打ち明けた。

 「高市皇子、草壁皇子、大津皇子のこの御三人を措いて皇位を継承できる御方はございません。今生き残ったのは高市皇子御一人です。どうしても高市皇子に大津皇子の事件で謀略の疑惑がかかってしまいます。そんな時に正式に皇太子になられたり、御門になられたりすると、とても皇子たちをまとめ上げたり、臣下の信頼をえられません。それではお気の毒ですわ。」

 皇后は少し微笑んで、応えた。
「私は高市皇子を信じています。あの方はとても高潔な方です。母君が胸形君徳善の女、尼子娘でそれで第一皇子なのに皇太子になれなかったのですが、そのことで少しもひがんだところはありません。かえって御門にならない方が、実力次第で出世したり、やりたいことができると思っておられます。私はこれまで何度も皇位を継がれるように頼んでいるのですが、『私はとても天皇の器ではありませんし、性に合わないことはやりたくないのです。それに皇子たちの間で疑心暗鬼が渦まく中で、御門を引き受けることはとてもできません』とはっきり断られたのよ。」

 結局、皇后が皇位を継がれることになり、その次は高市皇子というのが宮中では暗黙の了解になっていた。その高市皇子が太政大臣になって七年目に急死したのである。病気で死んだことになっているものの、何者かが毒をひそかに盛っていたのではないかという疑惑は捨てきれない。高市皇子の急死から半年余りで、息子の軽皇子が立太子させられ、さらに半年後には持統天皇が譲位し、十五歳の文武天皇が誕生した。阿閉皇女は、この事態の急展開に驚くだけで、ただ持統太上天皇の指図に従っていくしかなかった。

 息子はまだ少年で、自分が天皇になる心の準備も躾もほとんどできていなかった。がしっかり後見をするからと納得させられたが、本人もおどおど不安げにしていたにも関わらず、お膳立てだけが進んでいった。そのうえ、即位のお祝いのように二人の妃と一人の夫人がその月のうちに嫁いできた。神経質で病弱な感じの少年には、三人の妻をどう扱ってよいかも分からなかった。

 それでも髪長姫宮子にたちまち夢中になった文武天皇は、明るく元気な宮子に触れて、見違えるように陽気にふるまい、ぎこちなさはあるものの、太上天皇の指導に従って健気に職務を遂行るようになり、母親として少しはほっとしていた。

 ところが四年目待望の皇子の誕生が、文武天皇の短い人生を暗転させた。難産で苦しんだ宮子が産後ノイローゼに苦しみ、閉じこもってだれにも会わなくなったのである。それで文武天皇も精神が不安定になり、翌年太上天皇が亡くなってからは、病弱で床に就く事が多くなった。母親である
 阿閇皇女しか、文武天皇を支えるものはいくなった。

 文武天皇が病弱となれば、宮中は
 阿閇皇女が看病の傍ら仕切るようになる。もちろん後宮は首皇子の養育係りでもある犬養三千代が仕切っている。そしてなにかと政治向きのことは、藤原不比等に相談して処理していくことになる。

 宮子と首皇子を介して、不比等と三千代は今や天皇家族の一員のごとくになってきたのである。そうなると、天皇が病弱なので、首皇子の成長を待って、次の天皇にすることが、この家族の最大の目標のように意識されるようになる。

 ついに懼れていたことがやってきた。首皇子が生まれて七年目七〇七年六月十五日に文武天皇は崩御した。首皇子はまだ数えで七歳である。とても皇位継承は無理だ。それなら天武の他の皇子に継がせるのか、そうすれば首皇子が皇位を継承できる望みがなくなってしまう。
 阿閇皇女は三千代に相談した。三千代は、少し困った表情をして遠慮げに応えた。「私などがそのような国家の大事を相談されて、お応え申し上げることは、道に外れます。」

 そこで
 阿閇皇女は「これは気づきませんでした。家族のように暮らしているものだから、ついなんでも相談してもよいような気になって、でも私の頭ではどうすればよいのやら途方にくれます。病気ばかりで御門として何もできなかった息子の悔しい気持を考えると、せめて孫が息子ができなかった分をやり遂げることができればと思っているものだから、では世間ではどう考えているのか、参考までに聞かせてくれないか、これは相談ではないから。」

 
「私も大切に御育てしました首皇子の将来に係わることですから、とても心配です。夫とどうなされば無事首皇子への皇位継承ができるのか話しておりました。これは天皇の母君からの御相談にお応えしているのではありませんよ。あくまで夫婦の会話を聞いて参考にしたぐらいに受け止めてください。」「ええ、もちろん」「夫が申しますには、『直系相続という意味は、本来、天皇家の血筋が直系的に連綿と続くという意味だそうです。天武天皇⇒草壁皇子⇒軽皇子⇒首皇子へと皇位が継承されるようにするのが、直系相続ということだそうです。でも年齢的な理由などで直接この通り行かない場合がありますね。そんなときには、持統天皇の例にもありますように、皇統に連なる女帝を中継ぎに立ててもよい筈だと申していました。」

 
 阿閇皇女は困った表情になり、「しかしそのような適当な方はおられますか」とたずねた。三千代は思わず吹き出した。「ホ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ、ご冗談を、 阿閇皇女は天智天皇の第四皇女であらせれます。それに持統天皇の妹君ではございませんか、これ以上相応しい方は考えられません。そして首皇子の母君だから首皇子への継承も確実に保証されます。」

  しかし
 阿閇皇女ますます困った表情になり、「私には姉上のような輝きがない。こんなくすんだ女が天皇になるなんて、天皇の御位を汚すようなことは恥ずかしくてできない。」三千代は呆れ顔で言った。「皇女、皇后、天皇、皇太后とそれぞれ化粧法が違うのです。後宮の専門家にお任せください。 阿閇皇女は美しさに於いても、気品においても、素材的には持統天皇に優るとも劣るところはないと断言できます。」

  「とんでもない、私は平凡な女です。それに母親が息子の後を継ぐなんて、順序が逆というもの。」
「軽皇子から首皇子へ確実に皇位を継ぐためですから、この場合の順逆は方便として許されるのです。」
「そんな議論が皇子たちの間で受け入れられるとは考えられない。」
「ですから、陛下から直接、以前から病気を理由に母君に皇位を譲りたいと懇願されていて、いまわの際にも頼まれて断われなかったので、引き継がれたという宣命をお書きになればいいのです。それで決まりです。」
「宣命など書いたことがありません。」
「不比等はその道の達人ですから、下書きを書いてくれるでしょう。」

 七月十七日宮中に百官が集められた。儀式用の大広間は正面が北になっていて、少し高くなっている。そこに天皇が南面して座るようになっている。天皇の前には御簾がかかっている。百官と呼ばれた主だった官人たちが整列している。そこでしめやかに雅楽が演奏された。そして天皇の席にだれかが入っていく気配がした。しかし天皇は崩御されて御遺体は殯の宮に安置されている筈である。やがて雅楽が終わり、石上麻呂が御簾の前に立ち、深々と礼をした。すると御簾が静かにあがっていく、そのとき百官に期せずしてどよめきが起こった。

 五年前に亡くなられた筈の持統太上天皇が、天皇の時のお姿で南面して凛々しく立っておられるのである。
「鸕野皇女は甦られたのだ、神だ、すめろぎは現人神だ!」とだれかが、叫んだ。あちこちで同じ叫びが起こった。おごそかな雅楽の調べが流れ始めた。すると百官は我先にとひれ伏しはじめた。だれひとり神々しいすめろぎのお姿を仰ぎ見ることは恐れ多くてできないという空気が式場を制したのてある。驚愕のあまり全身がぶるぶる震えている者も少なからずいたのだ。

  
「勝った」と、最後にひれ伏しながら、不比等は呟いた。石上麻呂は御前に進み出、片膝をついて、宣命をいただき、そのままの姿勢で五メートルほどすり下がって、振り向き、ひれ伏したままの百官の頭上に宣命の御言葉を厳かな低音で響かせた。

「あきつ御神と大八洲国しろしめす倭根子天皇(持統天皇)が詔のりたまふ、親王、諸王、諸臣、百官たち、天下(あまのした)公衆もろもろ聞こしめさへとのりたまふ。この食国(おすくに)の天下の業を草壁皇子の嫡子、今天下とるかけまくもかしこき藤原宮に天下しろしめしし倭根子天皇、丁酉八月にしろしめしつる天皇(文武天皇)に授けたまひて、並びいましてこの天下を治めたまひとのべたまひき。こはかけまくも近江の大津宮に天下しろしめしし大倭根子天皇(天智天皇)の天地と共に長く、月日と共に遠く、改めまじき常の典と立てたまひ敷きたまへる法と受けたまはりまして行ひたまふ事と、もろもろ受けたまはりて、かしこみ仕へまつりつらくとのりたまふ大詔を、もろもろ聞こしめさへとのりたまふ。かく仕へまつりはべるに、去年十一月に、かしこきかも我が大王吾子天皇(すめろぎ)(文武天皇)の詔のりたまひつらく、朕、御身つからしくますがゆえに、暇間えて御病治めたまはむとす、この天つ日嗣の位は、大命にませ、おおましまして治めたまふべしと、譲りたまふ大命を受けたまはりまして、答へまをしつらく、朕はたへじといなびまをして受けまさずある間に、たびまねく日重ねて譲りたまへば、いとほしみかしこみ、今年六月十五日に、大命は受けたまふとまをしながら。
 この重(いかし)位に継ぎます事をなも天地のいとほしみいかしみ、かしこみまさくとのりたまふ大命をもろもろ聞きたまへとのべたまふ。かれここをもて親王を始め、王(おおきみ)、臣、百官人等の浄き明き心もちていや務めに、いやしまりにあななひまつりたすけまつらむ事によりして、この食国の天下の政事(まつりごと)は、平けく長くあらむとなもおもほします。また天地の共に長く遠く改めまじき常の典とたてたまはる食国の法も、傾く事なく動く事なく渡り行かむとなもおもほしめさくとのりたまふ詔をもろもろ聞きたまへとのりたまふ。遠き皇祖(すめろぎ)の御世と始めて、天皇(すめらが)御世御世、天つ日嗣と高御座(たかみくら)にまして、この食国の天下となでたまひめぐみたまふ事は、辞立(ことだつ)にあらず、人の祖(おや)のおのが弱児(わくご)を養ひたす事の如く、治めたまひめぐみたまひくる業となも、神ながらおもほしめす」(元明天皇御位に即きたまふ時の宣命]『続日本紀』巻第四、元明天皇より)

 かくして超法規的に死の間際に、二十五歳の天皇が直接四十六歳の母親に譲位したという、宣命が罷り通ったのである。この譲位の事実は確かめようがない。しかし元々文武天皇は主体的に天皇をしていたわけではないから、母子一体であり、この事実を否定する根拠も見つけることはできない。そしてこの儀式で神を見たという心理的体験は、この皇位継承に異論を唱えることを抑圧した。神聖なものを汚す気がして憚れたからである。しかし神聖なものを汚したのは、この儀式を仕組み、「鸕野皇女は甦られたのだ、神だ、すめろぎは現人神だ!」と叫ぶように密かに指示していた者の方ではなかったか。それにしても化粧次第で地味な控え目の暗いイメージだった 阿閇皇女が、見事に華麗なる持統天皇に変身したのである。

 この変身で自分が姉のように美しく、華やかで、神々しくまで見えることを知って、元明天皇は明るくなった。全くの中継ぎのつもりで引き受け、宣命にもそのことを強調しておいたのに、自分が天皇として、それも華やかで神々しい憧れの女帝として輝いていられることがうれしくて堪らなくなったのである。

 この変身を演出してくれたのは不比等と三千代夫妻である。早速翌年には、即位にあたって功労のあった石上麻呂を左大臣に、不比等を右大臣にしている。不比等を左大臣にしないのは、不比等の希望である。トップの地位につくとどうしても批難の矢面に立たされる。それよりナンバー・ツーやスリーの方が実力さえあれば、彼の考えにだれも反対できないから、存分にやりたいことがやれるという考えなのだ。そして三千代には元明天皇は橘宿禰の姓を賜わったのである。

 名演出家を得たスターのように、元明天皇は不比等の描いた律令国家確立の大仕事に夢をもって取り組んでいく。その中でも平城京の建設には特に熱心だった。姉の持統天皇が藤原京に熱心に取り組んだのに対して、潜在意識の中で対抗していたのかもしれない。唐から帰った留学生や留学僧が異口同音に長安の都の巨大さ豪華さ、そこに展開している文化がいかに多彩で、国際色に富んだものかを意気込んで話すのを聞くと、天皇の胸の中で長安への憧れはどんどん膨らんでいった。天皇が目を輝かし,胸をときめかせて聞いてくれるものだから、つい留学生たちは藤原京では狭すぎる、貧相だ、もっと大きな都を、長安のような都を造りましょう、というように盛り上がっていった。即位の翌年二月には平城京遷都の詔を出している。

 そしてたびたび平城京の建設の進捗状況を視察して、はっぱをかけているのである。そして銅が出たのを記念して「和同開珎」を出した時でも、首輪にして身に付けてはしゃいでいたのだ。そしていよいよ遷都となり、この巨大な都を作った時の天皇であることに誇らしげな幸福感を胸いっぱいに味わったのだ。

 不比等たちが作成した大宝律令では、天皇は詔勅や宣旨にサインするだけで、その内容の吟味は一切する必要がないように作られていた。天皇を頂点にする律令国家と言いながら、すべて太政官の合議で決裁されて、天皇の権限は象徴化されていたのだ。それは日本の天皇が女性である場合があるので、いちいち天皇に裁断を仰がないほうが、天皇にも面倒がなくて喜ばれたのである。そういう不比等の配慮のお陰で、律令国家の広告塔的な役割を女性天皇が荷なうこととなった。そして元明天皇はその役割を自ら楽しんで演じていたのである。

 古代の律令国家は天皇中心の中央集権国家なので、天皇の専制支配体制であったかに受け取られがちであるが、実際には天皇は国家の人格的表現でしかなかった。国家の運営は太政官がおこなっており、天皇の権限は象徴的であった。そこが唐の律令と日本の律令の違いである。

 赤い柱や青い屋根がカラフルな平城京への遷都のあとは、この国家がどういう謂れに基づいてに成り立ったている国家なのかということへの自覚が必要になってくる。そこで建国と発展の歴史の物語を作って、自らの国に誇りを持たせようという、国史編纂事業に熱が入る。このことでも元明天皇は大いに興味を示したのである。

 『古事記』は稗田阿礼が誦習したものを、太安万侶が筆録したといわれる。そこで稗田阿礼を古い物語を暗誦している語り部で、おそらく目の見えない老女ではないかなどと今日の歴史学者は議論してきたが、それは全く民俗学的な解釈に過ぎない。『天皇記』『国記』や『帝記』『旧辞』などの過去に書かれたものをよく読んで覚えていて、それを律令国家の国造りに役に立つ形に手直しできる人物ということである。そのためには当時の国家形成の方向性をしっかり認識している人物である必要がある。

 不比等は、元々「史」と書いた。史は単に歴史という意味ではなく、文書を意味している。藤原史は国家の重要文書を管理したり、作成したりしていたわけである。もちろん重要な歴史文書についてはだれよりも精通していた。だから元明天皇のもとで歴史書を編纂するとすれば不比等が中心人物であったはずである。太安万侶の実在は確認されているから、稗田阿礼の方は藤原不比等であった可能性が強いと思われる。

 天皇が宮中に不比等と太安万侶を呼んで、小部屋で御前で不比等に歴史物語を語らせた。それに対して物足らないところは充実させたり、都合の悪い所は削ったりの議論をしたのだ。そこには三千代も参加したかもしれない。不比等邸で行なわれた可能性もある。子供が聞いても胸がわくわくするところなどは、首皇子や安宿媛にも聞かせていたかもしれない。太安万侶はその日の議論を踏まえて、書き直して不比等に原稿をあげ、さらに不比等は加筆修正した。

 やはり元明天皇が最も興味を示したのは、柿本人麻呂が原作だと思われる天照大御神が孫のニニギノミコトに統治権を与えるところである。女神が主神で、孫に国を始めさせたとなれば、日本が女帝の国であっても当然だ。それに直系相続の改めまじき常の典(不改常典)に基づく皇孫への皇位継承が正当であるとがよく分かるだろうとよろんだのである。

 即位後すっかりのぼせ上がって、我を忘れていたが、『古事記』が出来上がった和銅五(七一二)年には、もう五十一歳を迎えていた。本当に皇孫首皇子への皇位継承を考えなければならない。しかし首皇子はまだ十三歳だし、その上、虚弱な体質でとても当分は天皇になれそうもない。天皇に無理にしてしまうと、父文武天皇の時の様に夭折させてしまうことになりかねない。

 それに文武天皇の即位に際して、妃になったのは紀竈門娘と石川刀子娘であり、首皇子の母宮子は夫人になったのである。しかし七〇一年の大宝律令では妃は皇族出身に限られた。それで二人の妃は嬪に格下げになった。それでもまだ安心できない。石川刀子娘には二人の皇子があり、紀竈門娘にも皇子があったかもしれない。ともかく宮子の方が身分が低いのでは皇位継承の障害になるのだ。それで翌年和銅六年にこの二人の嬪をさらに格下げして、嬪を名乗れないようにしたのだ。

 もちろん石川でも紀でも皇子は元明天皇の孫であることは変わりない。その意味では首皇子と同格である。しかし元明天皇が天皇に成れたのも、天皇として輝いていれたのも、全て不比等と三千代夫婦の演出の賜物である。そしてこの二人を敵に廻せば元明天皇は一日たりともやっていけないのだ。だから皇位継承も首皇子以外にはありえないのだ。

 元明天皇は、氷高皇女と吉備皇女を呼び、夕餉の後、親子水入らず女三人で話をした。
「私は息子の軽皇子から皇位を継承するなんていう、離れ業をして何とか無事ここまでやってきましたが、もう五十二歳でそろそろ限界になったようね」と溜息まじりに洩らした。吉備皇女は意外な様子をしていった。

 
「お兄様から皇位を引き継がれた時は、本当に信じられませんでしたわ。あの時、私にもお母様は持統太上天皇の甦りに見えたのです。あれ以来、地味でどちらかといえば暗い印象のお母様が、明るく女神のように輝いていらして、ほんとうに元気にやっておられます。もし御位をどなたかにお譲りになられたら、急に老け込まれるのではないかと心配です。どうかやめるなんておっしゃらないでくださいませ。」

 氷高皇女も驚いて言った。
「皇位継承の宣命で、お母様は中継ぎ宣言をされたわけでしょう。首皇子が大きくなられるまでは、お元気で頑張っていただかなくては、あの宣命はなんだったんだと後ろ指をさされますわ。」

 
「そりゃあ分かってるわよ。でもね五十を過ぎると一年、一年が勝負なのよ。『来年のことを言うと鬼が笑う』という通りよ。元気そうに見えても、時折めまいがしたりして、ともかくもしものことがあった場合のことを考えておかなくてはね、それこそ無責任だと思われるわ。」

 吉備皇女は釘を指すように言った
「まだ首は無理よ、可哀想だわ。」
 氷高皇女はすぐに返した。
「それじゃあ、おまえが次いであげたら、おまえなら花があるわ、天皇はお似合いよ。」
 「お姉さまをさし措いて私が継げるわけがないでしょう。家を継ぐのとわけが違うのよ、国家のてっぺんの御位をつぐのよ。群臣の納得が得られませんわ。」

 元明天皇は頷いた。
「それはそうね。継ぐなら、あなたよ、氷高皇女。」
 氷高皇女は、一瞬箸を落として、強張った。
「そんな、そんなの嫌です。結婚できなくなってしまうわ。」吉備皇女は微笑んで言った。「あら、お姉さまは一生結婚なんかしたくないとおっしゃっていたじゃないですか。」
 元明天皇は苦笑いした。
「正式にだれかの妻になるというのはできないかもしれない。でもお前も大人の女なのだから、いい人ができれば大人の関係を結んでもいいのよ。大周の聖神皇帝はたくさんの若い男性を七十過ぎまでかこっていらしたそうよ。」
 吉備皇女は吹き出した。
「へえー、それじゃあお母様も、どなたかいい方がいらっしゃるのですか。」
氷高皇女
「これ、御門に対してそのような失礼な口を聞くものではありません。」
 元明天皇は笑って流した。
「今夜は母と娘だから何でも聞いておくれ、私の場合は、そなたたちの父君草壁皇子をお慕いする気持が、いまでも少しも衰えていないものだから、他の男には関心が湧かないのよ。でも氷高皇女は夫を持った事がないのだから、だれにも気兼ねをすることはないわ。」
 氷高皇女
「まさか本当に私が天皇になるって話が決まっているわけじゃないでしょうね。天皇になって男を後宮に囲うようなのはいやよ。それよりいい人を見つけて、結婚するから、それから吉備皇女に天皇に成ってもらった方がいいわ。それまでもう二・三年待ってください。

 元明天皇は言いずらそうにしながら、
「それがね、高市皇子と私の同母妹の御名部皇女の長男長屋王が内親王(天皇の皇女のこと)と縁付きたいと申し入れて来たのよ。守りが堅くて直接文を送っても、受け取ってもらえないからね。」
 吉備皇女は驚いて、
「いままで男が言寄ってこないと思ったら、後宮がしっかり抑えていたのね。」元明天皇は慌てて、「そりゃあそうでしょう。あなたたちが勝手に相手を選んで、関係ができたら、そこにつけ込んで皇位を窺ったり、権力を握ろうとするでしょうから」と言い訳をした。そして「もし姉の氷高皇女を長屋王に嫁がせたら、長屋王が皇位継承を狙っていると思われるでしょうね。それではかえって長屋王の立場も我々の立場も危うくなるわ。」

 氷高皇女は怪訝な顔をして言った。
「右大臣藤原不比等が怖いのね、さんざん不比等の世話になっておきながら、今更そのライバルを育てようとするわけね。そりゃあ右大臣は表面は大人しそうだけど敵に回したら、恐ろしいって評判よ。」これに対して吉備皇女が反論した。「右大臣や橘三千代の世話になりすぎたのよ。あまりに藤原氏にべったりだと天武天皇の皇子たちや他の豪族から、反撥されて、孤立してしまうわ。」

 元明天皇は頷きながら、
「その通りなの。最近は不比等と私の間に怪しげな関係があるという噂を流されているわ。確かに不比等はすごい男よ、私がここまでやってこられたのは不比等のお陰だわ。これからも天皇家は藤原氏の力を頼らなければやっていけないでしょう。でもそのために皇親勢力や他の貴族勢力から孤立すれば、蘇我蝦夷・入鹿との関係に深入りしすぎた皇極天皇の二の舞になってしまうんだよ。だから長屋王の申し出は快く受け入れておこうと思うわけ。」

 吉備皇女はあわてて、
「そんなことをすれば藤原氏に恨まれるのでしょう」と突っ込んだ。「不比等も婆さま天皇とのあらぬ噂には、ほとほと困り果てているようよ。もしここで長屋王と内親王との縁談が破談になれば、どうせ御門とつるんだ不比等の横槍だろうといわれて、ますます不比等の立場は悪くなる。そこでその事情を考えて、長屋王は三千代を通して申込んできたのよ。それで不比等と三千代は、氷高皇女なら長屋王の皇位継承ねらいがみえみえだから反対するけれど、吉備皇女ならあえて反対しないということなの。」

 氷高皇女は怪訝な表情になり、
「もし私が天皇になったら藤原氏と長屋王の両方に気を使わなければならないのね。」吉備皇女は頷いて、「でもどうせ首皇子が成人するまでの辛抱よ。首皇子の即位には抵抗はないのでしょう。お母様のあの宣命が効いているし。」

 元明天皇は考え込んで、
「さあ長屋王は草壁皇子や文武天皇のことを考えて、首皇子も即位前か、即位後すぐに病気で死ぬかもしれない、そしたら、自分にお鉢が回ってくると考えているかもしれない。それに首皇子本人がある程度しっかりしていなくては、だれも即位は納得しないでしょう。それには年数がかかりそうだから、氷高皇女を立てておくのよ。それも急がないと、氷高皇女に虫でもついたら、だれも立てられなくなってしまう。」

 吉備皇女は思い切ったように、
「それじゃあ私もお姉さまの縁談がまとまらないうちに、長屋王に嫁いでしまうわ。お父様やお兄様と違って、長屋王は頑丈そうだし、頼りになりそう」と話を纏めにかかった。氷高皇女は悔しそうにしながら言った。「それじゃあ長屋王が私の即位や首皇子の即位にあたって反対しないことを条件に、吉備皇女との結婚を纏めてください。それから不比等と長屋王は互いに協力しあって、私や首皇子のまつりごとを支えることを約束してくれないと、絶対に即位はしませんから。それからお母様もお元気な間は太上天皇として働いてください。」

 元明天皇はホッとした表情になった。
「親孝行な娘たちだよ。その条件なら私も譲れないと思っていた、ちゃんと約束は取り付けておくから。もちろん元気な間はお前が困らないように、私も頑張るから安心しておくれ。それから長屋王の動きにはある程度警戒が必要だから、氷高皇女がいつでも吉備皇女を訪ねらるようにという口実で、小さな氷高皇女の宮を長屋王の大邸宅の敷地内に建てさせよう、それも条件に加えておくよ。」

  かくして吉備皇女は長屋王に輿入れした。長屋王の大邸宅の一角に住んでいたのである。七一四年に十四歳の首皇子の立太子が行なわれ、七一五年には元明天皇から氷高皇女への譲位が無事おこなわれた。元正天皇の誕生である。その時の様子を『続日本紀』には
「生れながらに心が広く、しとやかで美しく、朝廷の人々こぞって推戴し、その徳をたたえた」とある。この譲位の時の詔勅は和文の宣命体ではなく、漢文で書かれた。おそらく根まわしが周到だったので、くどくど譲位のいきさつを弁明する必要はなかったのだ。

(梅原猛『海人と天皇下』二〇頁〜二二頁に「吉備内親王は氷高内親王即ち元正帝の同母姉である。」とある。おそらく氷高内親王の宮が長屋王の邸宅内にあったことを示す木簡がでたので、吉備内親王が長屋王に輿入れした際、妹の氷高皇女を連れて入ったと解釈したのであろう。姉を連れて妹が輿入れするのは不自然であるから。しかしこの作品では、天皇家としては姉を長屋王に輿入れさせるのは、藤原氏との関係で難しいという見解を重く見た。)

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