首皇子と安宿媛


 髪長姫の悲劇は、めでたい筈の首皇子の出産によって起こった。初産ということもあり、ことのほか、難産で苦しんだ。なんとか首皇子は助かったものの、宮子は激しく衰弱し、出産後三日間は生死の境をさまよった。意識が戻っても何かに怯えて、動物のように喚くばかりで、赤ちゃんを見せても怯えるだけだった。とても母親としての自覚を持てそうもなかった。

 一時はそのまま心身ともに衰弱して死んでしまうのではないかと、宮中では皆心配したが、もともと海女として肉体的には頑強だったので、次第に回復してきた。しかし心の病は完治しなかった、自室に閉じこもって、御門にも会おうとはしなかった。ましてやわが子首皇子にもかたくなに会うことを拒否していた。

 心の病に陥った宮子を、御門は、故郷の両親の元に帰してやろうとはしなかったのである。御門も精神的に不安定だったのだ。首皇子が生まれたものの、宮子はノイローゼで塞ぎ込む、その上、最も頼りにしていた祖母持統太上天皇が病にかかり翌年崩御されたのである。元々御門は権力闘争に勝ち抜いて、地位を得たわけではない。祖母の期待を担って天皇に据えられたのだが、権力闘争の渦まく朝廷で、自らを守れる自信がない。その意味で俄仕込みの天皇夫人の宮子の憂愁は痛いほどよく分る筈である。しかしそれだけに、宮子への執着が強くなり、九海士に帰すと二度と会えない気がして帰せなかったのである。

 もともと神経の図太いほうではない御門は、精神が不安定になるとどうしても病気がちになってしまう。風邪をこじらして長い間寝込んだり、胃腸の具合が悪くなって、床に臥すことが多くなった。こうして七〇七年に藤原宮で崩御されたのである。そのような情況ではとても宮子が故郷に帰される筈もなかったのである。

 首皇子は、母宮子から離なされて乳母に育てられた。乳母になれる人はその時、ちょうど自分にも子供ができて、しかも母乳がよくでる女であることが、必要であった。それがぴったりの女性がいた。それがなんと藤原不比等の妻犬養三千代である。彼女は、安宿媛(後の光明子)を産んだばかりだったのである。つまり首皇子と安宿媛は、行く先十六歳で結婚するのだが、生まれてすぐに一緒に暮らした体験があったのである。

 犬養三千代は美努王との間に葛城王(後の橘諸兄)など三人の子供をもうけていたが、美努王が太宰帥となって筑紫に赴任している間に、藤原不比等とねんごろになってしまった。不比等は三千代の後宮での絶大な権力に目をつけていたのである。三千代は軽皇子の乳母として後宮に迎えられてから、持統天皇の篤い被護を受けていたのである。

 不比等は、養女宮子が後宮でうまくやっていけるようにと、三千代に接近した。もちろん最初は付け届けなどをして、宮子の立場が悪くならないようにとよろしく頼んでいただけだったのだが、宮子の改造の苦労話や、後宮での失敗談などついつい打ち解けて話し込んでしまったのだ。

 二人は互いに陰の権力者同士として相手を陰険な奴だろうと思っていた。三千代からみればどうせ宮子と陰で怪しげな関係があって、外戚関係を作るために政略結婚させようとしているのだろうと勘ぐっていたが、意外に純情な養父ぶりで、宮子に対する親心がとても誠実なのに感動させられたのだ。

 不比等からみれば、夫の美努王を筑紫にやっても平気で後宮での権力に執着している女は、さぞかし堅物で人情味のない怖い女ではないかと思っていたのだが、事情を聞けばそうではなかった。子煩悩の優しい母親で、筑紫にいかないのも、自分の権力を保つためではなく、葛城王(諸兄)・佐為王・牟漏女王の三人の子供たちを都で育てたいからだということだった。

 「つれあいと遠く離れられて、さぞかしおさびしいことでしょうな」とねぎらうと、「ええ冬の寒さはひとしお身にしみますわ」ともらしたときに、少し涙をこらえているように見えるところなど、もう三十路半ばを越えているのに、意外に可愛い女にも思えたのである。
 それに不比等は、三千代とは男と女という関係以前の人間と人間として話ができたのが、新鮮な感動だった。持統天皇は別格として、相手が女だとくどき言葉を言わないと、間が持たない。すぐに話題がなくなってしまうが、三千代とは宮子の事でなくても、話が弾む。つい政治のありかたや宗教政策のことなど難しい話をしても、三千代はそれなりの見識を持っていて、実のある話ができるのだ。

 実際、不比等は政治家としても学者としても、その才覚は比べる者はいない程の人物だから、頭の中には政治や学問のことで一杯なのである。そういう話は、しかしなかなか話し相手になってくれるものはいない。男どうしだと腹の探り合いがあって、不用意な発言はできないし、女を相手には興ざめということになってしまう。だから三千代こそ、なんでも話せるかけがえのない女ではないかという気がしてきた。

 三千代にしても不比等が、自分を女だからといって、見下すような様子はなく、一人の人間として自分の考えをまともに聞いてくれるのに感銘した。決して取り入るためにおもねたり、心にもない御世辞を言ったりしないで、じっくり意見を聞き、心から感心したり、不十分だと思うところは、分りやすい理由を示して、きちんとまともな批判を返して来るのだ。

 夫の美努王は、敏達天皇の血を引くという誇りがあって、それだけで自分には別に何のとりえもないのに、人を見下しているようなところがあった。また与えられた職務には勤勉で、誠実に生きているものの、そこで個性を発揮しようという創造的なところはまるでなかった。自分の頭で考えた理念や政策もないし、また人との対話によって自分を高めようとする気持もない。ましてや妻の考えを聞いて参考にしようとするようなことは、一切ない男だった。実は太宰帥になった夫について行く気がしなかったのも、そのせいでもあったのだ。

 不比等は、宮子に関わる後宮対策についての相談という口実で三千代に話しをすることが度重なるようになった。そこはふたりとも大人だから、噂にならないように細心の注意を払ったが、当人同士が互いに意識しあうようになり、五度目についに手紙をわたした。

 「決して狂おしく燃え盛る、若者のような恋心ではありません。でもこのまま、ただのお知り合いのままで終わってしまうのは、とてももったいないのです。私にはあなたのような語り合える女性が必要です。そしてできれば意見の合うことでは一緒に力を合わせてやっていけるような女性が、いや誤解しないで下さい、あなたの力を利用したくて言うのじゃないのです。一緒に辛苦を共にしても、あなたとなら励ましあっていけます。あなたが側にいてくれればとても気持に張り合いができると思うのです。またあなたも私となら、あなたの力が存分に発揮できて、きっと人生に輝きを増すことができる気がします。本来なら、和歌に思いを託すべきでしょうが、歌にすれば、どうしてもずれてしまうので、あえて歌にしません。決して思いが薄いからではないのです。」

 首皇子の出産の時期に合わせて、不比等が三千代に安宿媛(後の光明子)を産ませ、乳母役を見事に射止めたという見方も考えられるが、これには少々無理がある。なぜなら宮子が妊娠してから、三千代を妊娠させたのでは、間に合わないし、少し先に安宿媛を懐妊したのでは、予め宮子の懐妊時期を予知できなければならないことになる。ただ不比等にすれば、入内三年目で、そろそろ宮子が懐妊するのでないかと思って、三千代に求婚した可能性は否定できない。三千代は軽皇子の時に乳母役を務めているのだから、その子首皇子の場合も、乳さえ出れば、乳母役に就ける可能性は高かったから。

 三千代も三十七・八歳にはなっていたから、当時では相当の高齢出産で、さぞかし出産はきつかっただろうと思われる。もし不比等がそのことを承知で、計算高く、三千代に子を産ませようとしていたのなら、相当残忍な男だということになる。三千代はもうこの歳になって出産はごめんだという気持もあったが、宮中での大スキャンダルで結ばれた仲でもあり、不比等の妻たちの中で確かな存在感を持つ為にも、産めるものなら産みたいという気持が強かった。それにもちろん当時は妊娠してしまえば、堕胎は技術的に無理であった。幾ら危険が高くても産むしかなかったのである。

 二・三ヶ月安宿媛の方が早く生まれた。新生児の場合は一月でも違えば相当発育に差が出る。その上、首皇子は母親が死にかかったほどの難産だったので、新生児の中でも小さな方だった。この二人の赤ちゃんを並べて寝かして育てたのである。どうしても安宿媛が首を圧倒しがちて、太った手足で、首の比較的ほっそりした体を突き飛ばしたり、押しのけたりしていたのである。それは二人の将来の関係を暗示しているかのようである。

 不比等と三千代夫婦は、この二人の赤ちゃんが可愛くてたまらなかった。安宿媛は危険と特別の苦痛を伴っての高齢出産の子であり、三千代にとって何物にも代えがたい宝もののような気がしたし、首も養女宮子が生死を彷徨い、精神のバランスを崩してまで生んでくれた不比等の孫である。元気に育てないと天皇家にも九海士の実家にも申し訳がない。

 この二人は生まれついての夫婦のように不比等・三千代夫婦には思えた。夫婦にすれば、安宿媛をわざわざ別の男に嫁がせるのは極めて不自然のような気がしたのである。そして安宿媛が首を尻に敷いている様な関係まで、それがきわめて自然であるかのような気がしていたのである。それは藤原氏が天皇家を圧倒するという、考えようによっては不敬極まりない図であるが、藤原氏が天皇家をしっかり支えると捉えれば、名誉なことである。

 その後も、後宮を三千代が押えていたとすれば、安宿媛と首は叔母と甥だが、姉弟に近い形で一緒に育てられたことが想像される。藤原氏の朝廷工作の戦略目標は、これできまりである。首皇子を皇太子にすること、そして安宿媛を首皇子に嫁がせること。首皇子が天皇になれば、安宿媛を皇后にし、二人の子供を皇太子にすることである。そうすれば朝廷内での藤原氏の地位は確固としたものになるにちがいない。

 この戦略目標は見事に達成されるのだが、ここに二点ほど問題点がある。一つは首の母宮子の出自が賤しいとされた海人だったことである。その為に首の即位はなかなか実現しなかった。そしてそのことが首皇子の出自コンプレックスを生み、安宿媛に対して本当に頭が上がらなくなってしまう。もう一点は、二人が生まれつき一緒に育ちすぎたことである。つまり安宿媛は首皇子を弟分のように見下すように扱ってきた。運動能力でも学問でも実際にはどうか分らないが、安宿媛は首皇子より自分の方が優れていると思い込んでいたのである。それに余り身近すぎて、恋愛の対象にできなかったのである。恋愛の対象にするのはやはり、距離があって憧れる要素が必要だ。

 安宿媛も女である以上、男に憧れ胸を焦がす恋愛がしてみたい。両親からは可愛がられ、甘やかされて育てられてきただけに、この恋愛願望だけは、とても我慢することとなどできるものではない。これが彼女の人生だけでなく、奈良時代の歴史に大きな波紋を惹き起こすことになるのである。

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