持統天皇の心の闇


 鸕野皇女は六八六年の天武天皇の没後、皇太子草壁皇子が既に二十四歳であったのに、病弱だったためか皇位を継がせず、称制を行い、自ら天皇の職務を代行した。すると翌年大津皇子の謀反が発覚した。大津皇子は自害に追い詰められたのである。そして六八九年には草壁皇子は病没してしまった。そこで皇位が天武天皇の他の遺児たちに継がれてしまうのを嫌がり、自ら天皇に即位している。

 草壁皇子の息子の軽皇子に皇位を継がせる為の中継ぎの天皇になったのだ。

 当時高市皇子が草壁皇子亡き後、最有力の皇子なのである。それで後皇子尊と呼ばれていた。もし高市皇子が皇位を継承していれば、その次は高市皇子の子である長屋王に移っていくことになっただろう。そうすれば孫の軽皇子への皇位継承はできなくなってしまう。

 高市皇子はどうせ自分の方が、鸕野皇女より先に死ぬことはあるまいと考えたのだ。それで太政大臣のポストで我慢することにした。下手に抵抗すると大津皇子のように謀略で殺されるかもしれないと思ったのだ。ここで鸕野皇女にはいい子にしておいたほうが得策だと思った。それに高市皇子は、大津皇子事件で、叔母の鸕野皇女をそれ程疑っていなかったのかもしれない。

 大津皇子が草壁皇子擁立派の大規模な謀略で非業の死に追いやられたことは、連座した連中がほとんど無罪になっていることから、賢明な高市皇子なら自明のことだっただろう。次は我が身が危ないと警戒していたに違いない。でもそれは謀略を仕組む悪臣がいて、その悪玉が皇后の知らないうちに事をすすめていたように見えるのである。それは何故か、人はどうしても喜怒哀楽の表現、特に女の涙で騙されてしまう。叔母
鸕野皇女は歴史に翻弄された気の毒な女性だという先入見が天武の皇子たちにはあったのである。

 鸕野皇女は中大兄皇子の娘として生まれ、大海人皇子に嫁いだ。その為に壬申の乱では夫と共に逃げ回ったりしなければならなかったし、弟を殺す側に身をおかなければならなかった。その際、平然と弟の遺体を見て、勝ち誇った笑みを浮かべていただろうか。内心は笑みを浮かべていたとしても、それでは夫も夫の皇子たちも恐ろしい女だと警戒するに違いない。女に期待されているのは、家族が殺しあわなければならない歴史の運命悲劇の前に、泣き崩れる姿である。

 姉の大田皇女が亡くなった時も、これで大海人皇子の第一夫人に成れたと、内心はほくそえんでいたかもしれない。しかし表面では頼りの姉をなくして狼狽する哀れな妹を演じなければならない。そうでなければ夫や皇子たちに恨まれてしまう。
鸕野皇女は皇后になり、天皇にまでなったので、いかにも気丈でいつも堂々としていたように受け取られがちだが、それは本質においてそうであったとしても、そのような素振りは微塵もみせなかったのではないか、「ああおいたわしや、おば上は悲しみに堪えて、重い荷を背負ってよくやっておられる」と心から慕われていたのである。

 表面的な演技では、心まで届かない。すぐに本性を見破られてしまう。だから鸕野皇女は、真情からそう感じるようにしたのである。それは意識的にやれるものではない。無意識の自我防衛機制なのだ。それだからこそ彼女は恐ろしい女なのだ。

 彼女は強い男、権力の頂点を極める男に憧れていた。そして自分の理想とする国造りに邁進できる強固な意志をもつ男にである。そのためには、あらゆる障害を断固として排除する。たとえ肉親でも容赦なく排除し、殺してしまえる男にである。その理想は父中大兄皇子だった。だから鸕野皇女はファーザー・コンプレックスだったのだ。その点で父には詰めの甘いところがあった。大海人皇子を殺しておかなかったことである。

 父の本当の理想は安定した律令国家体制である。その場合皇位継承は、原則的には、皇后の長子への直系相続でなければならない。何故なら兄弟相続なら、だれが後を継ぐかで兄弟が争い、それが派閥や党派の争いと結びついて国が乱れてしまうからである。しかし大海人皇子は、大和や東海の豪族たちと強く結びついていて、侮りがたいものがあった。だから天智天皇は即位したときも、次は大海人皇子だと公言していたのだ。

 大海人皇子は、兄の理想が分っていたから、兄の息子の大友皇子に皇位継承権を譲って、吉野に引きこもったのである。ところが大友皇子は大海人皇子が恐ろしいから、つい吉野を攻めてしまった。その時点で大海人皇子は大友皇子を討つ名目ができたのである。おそらく大海人皇子は、そのことを鸕野皇女に語っていたのだ。

 「律令国家では直系相続が理想で、兄弟相続を続けてはいけないのだ。だから私は、その考えに基づいて吉野に引いたのだ。ところが大友皇子は、そのことを幾ら言っても信用してくれないのだ。この道理が分らないようでは、大友皇子では理想の律令国家はできない。だから私が討たれてやるわけにはいかないのだ」と言って、正当防衛権を行使して、大友皇子を討伐したのである。

 鸕野皇女が皇后の長子への直系相続にこだわり、この原則を元明・元正の両女帝が
「不改常典(あらたむまじきつねののり)」と強調したのも、それが「壬申の乱」の精神だったからである。一見、壬申の乱は直系相続を否定して兄弟相続にしたように見える。もしそうなら持統天皇は天武天皇を裏切り、父天智天皇の仇をとったことになる。だがそれでは決して天武の皇子たちの理解を得られないことになる。

 それなら草壁皇子が病没した時点で、何故高市皇子に皇位を継がせなかったのかが謎になる。草壁皇子は天皇にはならなかったのだから、直系相続の原則では、高市皇子になって当然であろう。おそらく高市皇子は、大津皇子事件が引っかかっていて、身の危険を感じていたと思われる。
鸕野皇女には高市皇子の即位に反対する理由は何もなかった。

 もちろん内心は草壁皇子に継がせられなかったのが残念でたまらず、草壁皇子の死で皇位がころがりこんで喜ぶであろう高市皇子が憎くて堪らなかったかもしれない。殺したいくらい憎かったかもしれない。あるいは自分が天皇になる絶好の機会だと思っていたかもしれない。しかしそんな素振りを見せれば、かえって逆効果で、持統天皇は実現しなかっただろう。

 鸕野皇女は、真剣に高市皇子に皇位を継いでくれるように頼んだのである。しかし高市皇子はそれを固辞した。正体の分らない陰謀団から脅かされ、身の危険を感じていたこともある。また中大兄皇子のように皇位を継がないで、実権を振るっているほうが改革政治はやりやすいという気持もあったのだろう。そのことを正直に皇后に告げた。そして
「もし許されるなら、私は太政大臣として思う存分実力を示し、父の皇親政治の理想を実践したいのです」と申し出たのである。自分の父中大兄皇子を手本にしたいと言われれば、ファーザー・コンプレックスの鸕野皇女は、それ以上反対できない。

 
「それでは私が天皇になって高市皇子が存分に腕を振るえるように協力しましょう」ということになったのだ。「その代わり次の皇位は必ず継いでくださいよ」と念を押すことは忘れなかった。高市皇子は、「そのお言葉は身に余る光栄ですが、二人だけの話にしておきましょう。臣下である太政大臣が皇太子では格好がつきません」といなして立太子はしなかったのである。しかし後皇子尊と呼ばれていたのだから、実質的な皇太子のようなものである。もしここで立太子をしようと動けば、大津皇子を葬った連中が動いて、高市皇子も闇に葬られたかもしれない。それは皇后の心の奥底にある高市皇子への憎悪を代行しようとする、闇の権力者が動くからである。

 鸕野皇女は、天武が病床についてからどんどん近江側の人物を復権させている。壬申の乱は急進的な天智天皇の律令国家形成への反撥の力を、大海人皇子がまとめ上げて成功させたものである。しかし時代は後戻りできない。律令国家づくりのためには、近江側の人材を取り込まなければならないのである。恩讐を超えて、復権した近江側の人材には石上麻呂や藤原不比等らがいて、持統天皇即位の儀式には典礼にくわしい彼らが中心的役割を演じたのだ。

 高市皇子は、太政大臣として律令国家形成に手腕を発揮した。そうすると天皇は内心面白くないのである。草壁皇子に継がせることができなかった皇位を自分の直系ではない皇子に持っていかれるのがやはり悔しいのだ。彼女はいつも孫の軽皇子を連れていた。目の中に入れても痛くない草壁皇子の忘れ形見である。どうしてこの孫に継がせていけないことがあろうかという思いが日増しに強くなってくるのである。

 持統天皇にとって最もショッキングな事件は、中国史上、唯一の女帝である聖神皇帝(在位 六九〇〜七〇五)の登場である。彼女の名は武照である。唐の高宗の皇后であったので則天武后と呼ばれていた。高宗を「天皇」として祭り上げて、実権は完全に掌握していた。「天皇」という呼称が、日本でも採用されたのは、それ以後の筈だから、日本最初の天皇は天武天皇だという説の論拠はここにある。(梅原猛は推古天皇の時代に天皇号が始めて使用されたという説を採用している。)

 高宗の死後、息子の中宗・睿宗を相次いで即位させたが、結局これを廃してしまった。そして多くの人民に自分の即位を請願させ、六九〇年に国を大周と改め皇帝に即位したのである。彼女は皇帝としては有能で、密告制度による強権体制を布く一方で、優秀な人材は積極的に登用し、強大な官僚機構を作り上げたと言われる。同年に即位した持統天皇が憧れたのも無理はない。それで則天文字と呼ばれる新字を積極的に日本に導入した。徳川光圀の「圀」も則天文字の一つである。

 倭国は卑弥呼以来、女王の時代にはよく治まるところがあった。ところが、それを男尊女卑の中国から蔑視されていたこともあり、隋に対しては推古女帝を隠していたという解釈もある。その真偽はともかく、則天武后が聖神皇帝になったということで、日本の女帝コンプレックスは吹っ飛んだのである。

 女が天皇になってもよい、女の天皇というのは男の天皇の代役ではないということになれば、皇位継承に対する捉え方も変わってくる。たしかに草壁皇子の亡くなった時点では高市皇子が最も皇位継承者にふさわしかったかもしれないが、彼は即位を固辞し、持統天皇が誕生した。持統天皇から皇位を直系相続するとなれば、それは傍系に当る高市皇子よりも、孫の軽皇子の方がはるかにふさわしいことになる。そのためには高市皇子が行政手腕で実権を振るっているのに対抗して、持統天皇は天皇の神格性を強める方向で権威付けをおこなわなければならない。

 そのために持統天皇は吉野にたびたび御幸している。称制をはじめて五年目の六九一年から七〇一年までで実に三十三回も吉野の神仙境に遊び、山の神や川の神と交わって自らも神となろうとしているのである。それで柿本人麻呂を伴って、天皇を神と讃える歌を詠ませている。

吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 國見をせせば 疊づく 垣山 山神の 奉る御調を 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり、逝き副ふ 川の神も 大御食に仕え奉ると 上つPに 鵜川を立ち 下つPに 小網さし渡す 山川も 依りて 仕ふる 神の御代かも
 反歌
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(万葉集)

 六九二年、持統天皇は伊勢神宮に御幸している。伊勢神宮の信仰は外宮の豊受大神の信仰だった。それは大地の作物を生み出す産土神だったのである。内宮の天照大御神の信仰は、この時に造られたと想像される。伊勢の二見が浦からの日の出は、大変神々しいものである。その日の神と持統天皇は自らを一体化させたのである。

 日の神が女性なのは、持統天皇が日の神と自己を同一視したからなのだ。『古事記』には、新羅の王子「天之日矛」が渡来した記事がある。新羅で日の神が昼寝中の女性の陰を射して、その女性に玉を産ませた。この玉を天之日矛が手に入れることになる。この玉が美しい女性に変身して、天之日矛の妻になったが、夫に文句を言われた妻は、父である日の神の国に帰ってしまう。その国は日の神が東から昇るので、新羅からだと日本だということになる。それで天之日矛は妻を追って、日本に渡来したのである。

 この神話から日の神は男神だと見なされていたことが分かる。この話は新羅系の説話だから、別に日の神が大八嶋で女神とされていた可能性はある。しかし記紀の天照大御神信仰が七世紀以前に遡れるという資料はないのだ。持統天皇が日の神と自己を同一視することによって、天照大御神が女神であり、皇室の祖先神だという信仰が生まれたという推理は説得力がある。伊勢が天照大御神の国であることを持統天皇に教えたのは、実は夢に現れた天武天皇だったのである。次の持統天皇の歌を紹介しよう。

 
天皇崩りましし後八年九月九日、奉為の御齊會の夜、夢のうちに習ひ給ふ御歌一首
明日香の清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡きし波に 潮氣のみ 香れる國に 味こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


 持統天皇は天照大御神に皇位継承問題を仮託した。アマテラスは孫のニニギノミコトに豊秋津瑞穂國の支配権を与えるのである。もし皇位継承の原則が兄弟でなく、直系相続だというのなら、何もわざわざ祖母から孫への支配権の付与という説話を作る筈がない。天照大御神に仮託して、持統天皇は自分から孫の軽皇子への皇位継承のモデルを創作したのである。神話で前例を作っておけば、軽皇子への皇位継承の正当化ができるのである。それにアマテラスを主神の地位に据える事によって、女帝がこの国に相応しいと思わせることができる。

 このアマテラス神話は、
「高照らす日の皇子」という持統天皇の夢の発想からきたものとしても、神話に具体化するには詩人の力が必要である。それには常に吉野御幸に同行していた柿本人麻呂がもっともうってつけなのだ。
 柿本人麻呂は、持統天皇から「日の皇子」としての天皇の捉え方を聞き、草壁皇子への思いや軽皇子への思いを聞いている。たとえ口に出さなくても、軽皇子に対する態度で自分の直系に皇位を継承したがっていることは、分かってしまうものである。そのような女帝の気持に応えようと、人麻呂は、皇孫への皇位継承の神話を創作したのだ。

 柿本人麻呂と持統天皇との対話を側で聞いたり、陰で見ている者も、持統天皇の意志が皇孫軽皇子への皇位継承にあるということがはっきりすれば、高市皇子をいつまでも野放しにしておくわけにはいかない。高市皇子が太政大臣としての権勢を用いて、やがて大津皇子を葬った闇の陰謀団を摘発する能力を身に付けるかもしれないからだ。そうなれば持統天皇の思惑通りの皇位継承も当然できなくなる。

 人麻呂が高市皇子の生存中に皇孫への皇位継承神話を披露したとしても、持統天皇の明確な指示で行ったものでない以上、その政治的意図を問題にすることは、高市皇子もできなかった。持統天皇はただ面白そうに微笑んで、拍手を送っていればよかった。その政治的意義について論評をだれも加えようとはしなかっただろう。しかしだれも批難しなかったとすれば、結局それが建国神話に採用されることになる。

 六九四年、最初の本格的な都城となった藤原京への遷都が行なわれた翌年、高市皇子は病没した。これが実は闇の陰謀によって葬られたのが実相なのかどうかは、誰も断定できない。もちろん持統天皇は、高市皇子の妃御名部皇女よりも激しく嘆いた。身を捩じらせて慟哭したのである。そして
「私が代わりに死んであなたを即位させればよかったのに」とまで言って泣き崩れたのである。

 その様子を見て柿本人麻呂もいたく感動した。そして高市皇子に捧げる挽歌を作っている。これが柿本人麻呂の勇み足でつい、高市皇子こそ皇位を継ぐべきだったと言わんばかりの表現になったので、持統天皇への批難と受け止められ、持統太政天皇の逆鱗に触れた。しかし歌の内容では罪を問えるほどでもないので、全く歌の内容とは無関係の姦淫の罪を問われて、流刑の憂き目にあったのである。

 さて高市皇子が亡くなった以上次の皇太子を決めることになる。もちろん持統天皇は軽皇子にしたいのだが、孫に皇位継承するというのはあまり前例がないし、まだ十六歳で他の皇子たちに比べれば頼りない感じがする。そこで群臣に相談させた。衆議紛々でなかなか決まらなかった。その時、大友皇子の第一皇子である葛野王が次の言葉で大勢を制したのである。

「わが国では神代の昔から、皇位の継承は直系相続でやってきました。兄弟相続にしますと乱が起こってしまいます。天下は天の意志で決まるものだから、天の意志はこうだと言って、互いに主張し合えば、天意を知っている人はいませんから、結局剣で勝負をつけようということになってしまうのです。直系で親から子へ、子から孫へと受け継いでいくことにすれば、世継ぎ問題は自然に定まりますから。世継ぎ問題で戦争や内乱などで殺しあわなくても済むのです。」

 こうして持統天皇の思いは貫かれた。直系相続の原則がここで確立したかに思われるかもしれない。そして持統天皇が大友皇子も大津皇子も高市皇子も自分の権力欲と肉親愛の犠牲にして抹殺したように見えるかもしれない。もちろん持統天皇に、そのような権力欲や息子のライバルの皇子たちへの殺意がなかったかといえば、それは完全には否定できない。しかしそれは持統天皇のあくまで心の闇の部分である。それを見抜いた闇の陰謀団があって、律令国家形成を自分たちの都合が良い方向に捻じ曲げていったのである。

 だから事は兄弟相続か直系相続かが本質的な問題ではなかったのだ。天武の皇子たちは決して兄弟相続を求めていたのではない。親子相続でもいいのである。彼らが求めていたのは天皇を皇子たちで補佐して皇族が国家を集団指導する皇親政治の体制である。

 それに対して持統天皇と結びつき、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇を実現していった勢力が目指したのは、直系相続でもなんでもない。天皇の権力を象徴化し、皇子たちの活動を学問や芸能に限定し、藤原氏を中心にする貴族が官僚機構の上層部を独占する体制である。

(梅原猛『海人と天皇』での持統天皇像とこの作品の持統天皇像は少しずれている。梅原は、持統天皇を大友皇子の遺体を平然と見れる、意志の強い権力者で、思慮深い政治家として描いているが、私は、彼女は確かに権力欲もあり、子、孫への皇位継承にこだわるあまり、皇親政治を解体させてしまったのだが、その謀略的な政治過程を政治家として冷静に策を練り、指示を与えて指導したわけではないと思う。むしろそのような持統天皇の心の闇を見抜いて、それを利用することで藤原不比等たちが、律令国家体制を彼らに都合よく捻じ曲げたと見ている。)
 

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