髪長姫伝説


  九海士(くあま)の里というのは現在の和歌山県御坊市にあったらしい。そこに早鷹と渚という海人の夫婦が暮らしていた。九海士という地名は神功皇后が忍熊王との戦いで、先に武内宿禰に連れられてきていた誉田別皇子と当地で落ち合った。そして九人の兵士を当地に残していったことに由来している。だからこの夫婦もおそらくは九兵士の末裔の海人であろう。それでこの夫婦は八幡宮を氏神としていたのである。八幡宮は誉田別皇子(応神天皇)を御祭神にしているのである。

 夫婦は八幡宮に、ひたすら祈願した。四十過ぎても子宝に恵まれないのだ。その祈願が天に通じたのか、白鳳八(六七九)年に女の子を出産した。その子に「宮」という名をつけた。八幡宮から授かったからだ。ところが高齢出産が祟ったのか、女の子なのに、かわいそうに宮の頭には髪の毛が一本も生えてこなかったのだ。夫婦は宮を目の中に入れても痛くないほど可愛がり、大切に育てた。両親は、いつまでも宮の髪が育たないことに心を痛めていた。

 ある年、九海士の浦は不漁が続いた。その原因はどうも海底からさす不思議な光のようである。しかし誰も、恐ろしくて怪しい光の正体を確かめにゆこうとはしなかった。そこで宮の母、渚が勇気を振り絞って、村の危機を救おうと、自己犠牲を買って出たのである。

 渚はそれが罪滅ぼしになればと考えていたのだ。もちろん渚は何も罪になるほどのことをしたわけではない。まだ本格的な浄土教信仰が広まっていない時代だから、漁師が魚を獲るのも殺生には違いないから、罪になるということまでは思い至らなかった。たとえそう思っていても、すべての漁師が魚を獲っているのだから、自分だけが罰を受けるわけはないのだ。

 つまり渚は自分の娘に髪が生えないのは、母親である自分の前世の報いだろうと考えたのだ。前世の自分が何か恐ろしい罪を犯し、その報いが、この何の罪もない娘に、あわれにも髪が生えないという罰を与えたと受け止めたのである。もしそうなら「罪滅ぼしをすれば、この子の髪が生えるかも」と思ったのだ。たとえその怪しい光に近づいて、我が身は死ぬようなことになっても、それで罪滅ぼしができ、この子に恐ろしい親の因果が報いることがなくなれば、それで何の悔いもない、そう思い定めて、渚は海に入ったのだ。
 

怪しい光を確かめに海へ


   夫早鷹は小船の上で心配でたまらなかった。海人の夫婦は夫が船頭、妻が海女と役割分担が決まっていて、潜水技術では渚にはとてもかなわないので、その日だけ代わってやるわけにもいかなかったのだ。ただおろおろしながら、八幡神に加護を祈願するしかなかったのだ。

 渚は、髪に光るものをつばりつけて帰ってきた。その光の正体はなんと小さな黄金の観世音菩薩であった。海から光は消えたせいか、大漁が続いた。人々は渚に感謝し、その勇気を褒め称えた。渚は黄金仏を庵に大切に祀り、浦人のために毎日礼拝した。普通ならその際、宮の髪が生えますようにとお祈りするところだが、それでは罪滅ぼしにならないと思ったのだろう。ひたすら浦人の幸せを祈願したのだ。

 そのことを哀れと思し召されたのか、ある夜、「補陀洛浄土の観世音なり」と渚の夢に黄金仏が現れた。そして渚の願いを直接尋ねられたのだ。渚は、「髪は女の命なのに、髪の生えない娘が不憫でなりません」と訴えた。「美しい髪など、かえって女の憂いのもとですよ」と観世音は優しく諭された。「女に生まれたからには、女としての幸せを掴んで欲しいのです。頭に毛がなくては、言い寄る男もいません。それが母としては不憫でなりません」と母渚は切に訴えた。「髪が生えると、言寄る男ができるだろうが、それがその子を幸せにするかどうか分らないよ」と観世音菩薩は応えて消えた。それでも渚は、夢から醒めても、ひたすら宮に髪が生えますようにと祈り続けた。

 すると、不思議や不思議、宮に緑の黒髪が生え始めたのだ。そして髪は日に日にのび、ついに肩を越え、腰に届いてもまだ伸び続け、身の丈よりも長くなった。とうとう七尺あまりの美しい黒髪となった宮は、「髪長姫」と呼ばれるようになった。

 宮の髪は観音様からの賜りものだと、抜けた髪も捨てずに大切に木の枝にかけていた。ある日、一羽の雀が飛んできて、雀さえ物珍しいと思ったのか、木の枝にかかった長い髪をくわえて飛び去ったのだ。なんとその髪の毛は奈良の都まで運ばれたのである。

 宮廷の軒端に雀の巣があった。そこから、長い髪が垂れ下がっている。それがなんと七尺余りもあるのだ。衛士たちが取り除こうとしている時、偶然にも、右大臣の藤原不比等が参内して、この有様を見て驚いた。「七尺余りもある黒髪の女はさぞかし美しいに違いない」と不比等の胸は高鳴った。

 不比等は、この世で最も長くて美しい髪を持つ女を鄙で埋もれさせておくのはもったいないと考えた。この髪の持ち主を宮仕えさるというのはいい思い付きではないか、不比等は自分の思いつきで三国一の髪長美人が、宮中で男たちの目を独り占めしている光景を想像して悦に入った。

 さてどうして見つけ出そうか、藤原氏の力で見つけ出せればそれに越したことはないが、藤原氏にはまだまだその力はなかった。六七二年の壬申の乱の後十年間ぐらい、天武天皇が実権を振るっていた頃は、藤原氏は、近江方として冷飯を食わされていた。それが天武帝が病で床に就かれ、実権が皇后に移ってから、近江側だった人々がにわかに重用されだしたのである。それは高市皇子など天武の利発な皇子たちに対抗する必要からだった。だから不比等が重用されるようになって、まだ十二年ほどしかたっていなかった。やはりこのことを帝に申し上げて、勅命で探し出すしかあるまいと不比等はつぶやいた。

 時の帝は持統天皇という女帝だった。持統天皇も孫の軽皇子を喜ばせてやれるかもしれないと思って、諸国の国司に髪長美人の情報を集めて報告させた。そして粟田真人に勅命を賜り、諸国を尋ねさせることになったのだ。やがて紀の国からの情報がもたらされ、真人の一行は九海士の浦にたどり着いた。そして宮に出会って、思わず息を呑んだ。そこには身の丈の二倍はありそうな麗しい髪の乙女がいた。

 その美しさは、とてもこの世の者とは思えなかった。傾国の美女西施もこれほど美しくはあるまいと思った。もし真人がもう十歳若かったら、宮をさらって新羅にでも逃げたかもしれない。真人にはそんなことをしても、きっと新羅の王に宮を奪われるはめに陥るだけだと分っていた。真人は、その比まれなる麗しき髪を是非とも見せてほしいという帝の勅命を伝えた。

 早鷹と渚は、宮と別れるのは身を引きちぎられるほど切なかったが、娘にとってそれが一番の幸せかもしれないと思い、これを受け入れた。それで宮は都へ上ることになったのである。でも海人として育った宮は、イルカのような野性の少女だった。殿上での言葉も知らないし、文字の読み書きもできない。それに殿上での立居振舞もまるでわからない。そのまま宮中にあげるわけにはいかないのだ。

 都で宮は、ひとまず藤原不比等の養女として迎えられた。宮の名は宮子と改められ、不比等の妻の一人だった賀茂比売に預けられた。宮子は、不比等と賀茂比売の娘として、和製マイ・フェアレディに大改造されたのだ。養父母は、宮子に対して実父母に負けないぐらい愛情を注ぎ、熱心に指導した。不比等は、公務や学問また政界工作で大変多忙だったが、宮子の父に成りたかったので、直接文字の読み書きから国家の仕組みまで、そして不比等がどんな国造りを進めているのかまで教えたのである。

 賀茂比売は不比等との間に子供ができていなかったので、やっと子供を得たという喜びと、その娘を殿上で堂々と輝いていられるようにしなければならないという責任感で、宮子の大変身に熱中したのだ。

 宮子もそれに応えようと素直にしたがっていた。宮子は好奇心旺盛で、負けん気の強い少女だったので、傍目からは、海女から貴族の娘へ大変身に元気に、喜んでチャレンジしているように見えた。しかしそれはあくまで表面的なことである。宮子は逃げ出すと、九海士の両親に迷惑をかけ、心配させることになるので、辛い、さびしい気持を健気にも必死に抑制していたのである。自由に魚と泳ぎまわっていた少女が、殿上での固苦しい決まりだらけの生活にいつまでも耐えられる筈はなかったのだ。

 この海女を貴族の姫にする国家的プロジェクトは見事に成功したように見えた。折しも文武一(六九七)年八月に、軽皇子は持統天皇から譲位されて天皇になった。その儀式に養母賀茂比売と共に参列したのが、いわば宮子姫のお披露目ということになった。新しい御門は、宮子姫を一目見ただけで自分が天皇になってしまったという憂鬱を、吹き飛ばすことができたのである。

 軽皇子を天皇にしようとしたのは、祖母の持統天皇の執念だった。軽皇子にすれば、祖母の期待を叶えるために天皇にならなければなれないことは、大変気の重いことだったのだ。皇位を巡る血なまぐさい争いの中で、立派に天皇としての威厳を保ち、職責を果たせるか、それを考えると、軽皇子には全く自信が持てなかったのである。宮子も軽皇子も周囲の期待に押しつぶされそうであり、新しい境遇に不安で一杯だった。

 自分の子に皇統を継がせたいという思いは、天皇の妻になれば誰しも願うことである。特に第一夫人である皇后にしてみれば、その沽券にかけても、他の夫人の皇子に皇位を持っていかれるのは許せないことだった。

 鸕野皇女(後の持統天皇)は自分の子供が天皇に成れるかどうか不安だった。なぜなら天武天皇には、大津皇子や高市皇子などの利発で徳の高そうな皇子たちがたくさんいたからである。天武天皇は、皇子たちをうまくまとめ上げ、彼らを政権の中枢に据えて、皇親主導の皇親政治を行っていた。ところが皇后が自分の息子に皇位を継がせようとする動きが、天武天皇の理想をあえなく色褪せさせるのである。

 それまで皇位継承者は大王が生前に非公式に指名する形で決まっていた。それがなければ、群臣の合議で決まった。わざわざ皇太子であることを宣言するような立太子はなかったのである。それを皇后は草壁皇子の立太子を正式な儀式として天武天皇に行わせた。ところが天武が崩御した時、皇太子はまだ幼かったので、天皇は置かず、皇后が天皇の職務を執る称制を採用した。これに反撥した大津皇子を自害に追い込み、皇親政治に亀裂を入れた。

 ところが三年後草壁の皇子は夭折してしまう。皇后は涙が枯果てるまで泣いた。そしてもう皇太子の成長を待つという理由での称制を続けられなくなった。しかしこの悲しみから、密かに喜びを得ようとする者がいると思うと、悔しくて悔しくてしようがない。そこで皇后は、他の皇子に皇位を継がせたくない一心から、自分が天皇に六九〇年に即位してしまったのである。彼女はまだ当時満七歳だった軽皇子に皇位を継がせるまではと決心したのだった。しかしこの執念や決意を露骨な形で主張したのではなかろう、潜在的な衝動として働いたのである。

 軽皇子の最大のライバルは、太政大臣の高市皇子だった。この高市皇子も六九六年に謎の急死を遂げた。翌年二月、持統天皇は軽皇子の立太子を決定し、八月に即位を実現したのである。持統天皇が高市皇子の死に関わっていなくても、持統天皇の意志は、皇孫である軽皇子に皇位を継がせることを熱望していたのである。
 文武天皇が即位した同じ月に宮子姫は、満十八歳で文武天皇の夫人となったのである。まさに天皇即位を記念して婚儀が行われたのである。同時に紀竈門娘と石川刀子娘の二人も妃となった。もし宮子姫が不比等の実子であったら、彼女も夫人ではなく、妃として迎えられた筈である。宮子姫が養女だったので、出身が海女だということで夫人にしかなれなかったのである。
 
 宮子姫のお陰で、妃たちは影が薄くなってしまった。御門はすっかり宮子姫に夢中になってしまい、他の妃には目もくれなかったのである。

  宮中の宮子(左) 髪が長く美しい


  宮子は海女から雲上人となった。多くの侍女にかしづかれ、きらびやかな衣服を身にまとい、最高の料理をいただくことができた。それは厳しくて貧しい海女の生活から比べれば、まるで夢のような生活だった。

 何不自由ない暮らしのようだが、宮子にとっては、それは自分の意志で選び取った暮らしではなかったのだ。それでも御門や養父母のやさしさに包まれて宮子は幸せの絶頂のようにみえた。本人もそう思い込もうとして、明るく振舞ってきたし、事実新婚の三年間は、夢のように過ぎていった。しかし破綻は幸せの絶頂が不幸のどん底に急転する形で襲ってきたのだ。

 大宝元(七〇一)年、婚姻して四年目で宮子は文武天皇の皇子を身ごもった。天皇も持統太上天皇も初めての皇子の懐妊なので、宮中はこぞって喜びに溢れた。しかし初産ということもあり、宮子はつわりもひどく、大変な不安に陥った。すると当然のことながら、激しいホームシックに陥ったのである。

 しかし宮子は、母渚の性格を引き継いだのか、父母が恋しい、九海士の里に帰りたいとは、口が裂けても言えなかった。そんなことを言えば、父母が苦しい立場に追い込まれると遠慮していたのだ。それで宮子は「粗末な祠にお祭りしている黄金の観世音菩薩が雨風に打たれてないか心配だ」と言った。「観音様のお陰で、こんな夢のような生活を与えていただいたのに、観音様のことを忘れていて、とても罪深いことです」と大粒の涙を流して語った。「つわりがこんなにひどいのも、御仏を蔑ろにした私の罪の所為です。だから一度里に帰ってみてくることをお許しください」と頼んだのである。

 ことが仏教信仰のことになると、『憲法十七条』に「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」とあるから、御門も、太上天皇も妊娠中の危険を理由に、この申し出を無碍に扱うことはできない。八月に『大宝律令』が完成した後、九月十八日に紀伊行幸が行われた。

 おそらくこれは朝廷あげての行幸となったのだろう。文武天皇、持統太上天皇、宮子姫、藤原不比等、粟田真人等主だった人々が、紀伊国司でもある大納言紀麻呂(道成)に案内されて九海士の里を訪れた。ミニ黄金仏に参拝するためである。黄金仏は、朝廷から早鷹・渚夫婦がいただいた御褒美のほとんどをつぎ込んで造られた、小さなお堂に祭られていた。早鷹と渚の家は、お堂の側にこぎれいに建て替えられていたが、他の海人たちに遠慮して、質素に作られていた。

 太上天皇と御門はたいそう夫婦の信心をお褒めになり、紀道成に命じて、九海士の里に観音像を安置する勅願寺を建てることになった。紀道成はこの寺院建設の資材を筏に組み、日高川を運搬したが、その途中に事故で殉職した。紀道成は紀道神社に祭られ、寺院は完成して道成の名をとって道成寺と呼ばれるようになった。寺の本尊には千手観音が祀られていたが、その胴の中にミニ千手観音が安置されていたのである。

(以上がいわゆる道成寺に伝わる「髪長姫」伝説を歴史物語に直したものである。したがってもちろん確かめられた歴史的事実ではない。梅原猛の解釈では、髪長姫として評判の海女宮を紀麻呂が見出し、紀竈門娘が文武天皇の妃として入内した時に、その侍女として従ったのではないか、ところが紀竈門娘に子供ができなかったこともあり、藤原不比等が宮中で女官を仕切っていた橘美千代と結んで、宮を養女にした上で、天皇の夫人にして、首皇子を生ませたのではないかということである。)

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