世阿弥の謡曲にみられる宗教思想
            
   

                                   やすいゆたか著

はじめに

「死にたくない!」命の叫び伝へむと生まれたりしか幸なき人よ

 2004623日のことだ。イラクで斬首された韓国人、キム・ソンイル(キム・イルソンではない)の最後の言葉が全世界に放映された。「Korean soldiers, please, get out of here. I don't want to die. I don't want to die. I want to live. Your life is important, and my life is important.

彼はアメリカのイラクにある軍事会社で働いていたらしい。アメリカ軍だけでは足りないので危険な仕事を引き受ける民間会社が外国人などを雇って、イラクで対テロ対策を行っていたのだ。戦争の民営化である。そこに雇われていた韓国人であるキム・ソンイル氏は、テロ集団に拉致され残虐にも大刀で首を斬られてしまったのである。

彼がイラクに赴いた動機は、テロリズムを撲滅しようという英雄的な動機ではなかったようだ。それだったら、いかに脅かされても韓国軍の撤退など要求しない筈である。韓国では暮らしが楽にならないので、危険だが大きな収入になるイラクでの仕事をしてみる気になったのだろう。

イラクに行く以上ひょっとしてこういう目に遭う危険性は予測していただろう。でもなんとかしてまとまった現金を手に入れようとしたら、命がけの仕事をすることも時には必要だと決断したのかもしれない。

たとえある程度覚悟していても、実際に首を斬られるとなると「I don’t to want to die!」と叫ぶのは無理もない。死ねばその先はないのだから。この韓国人の青年のこれまでの人生は、それほどいいことはなかったかもしれない。今までが十分幸せだったら、なにも危険なイラクに行って大金を手に入れようなどとは思わないだろう。これまでが惨めで、辛い人生だったから、ここらで命がけで幸せを掴もうとしたのだ。だとしたら、彼はこれまでの踏んだりけったりの人生の末で大刀で首を斬り落とされるという終末を迎えたことになる。なんとも救いのない、哀れの極致である。

ではこの青年の菩提を弔うということはどうして可能なのだろう。この青年がキリスト教徒だったのなら、教会できっと天国に入れるだろうと言ってくれるだろう。キリスト教で天国に入るという意味は、一般に大きな誤解がある。少なくとも『聖書』には死んですぐに天国に入れるとは書いていないのだ。世の終わりつまり終末の後で、審判があって、地上に出来る神の国つまり天国に入れるか、ゲヘナ(地獄谷)に行くかの二者択一なのである。

本稿のテーマに即して語ろう。世阿弥の仏教思想では、このような悲惨な死に方をした人をどう弔うのかということである。何故、世阿弥の仏教思想を語るのにイラクで首斬られた韓国人青年を引き合いに出したのか、疑問に思われるかもしれない。私は何も反米思想からこういう話をするのではなく、世阿弥の時代には、こういう不条理な、悲惨な、残酷な救いようのない死に方をした人々がぞろぞろいて、死ぬに死に切れない怨霊がうようよしているように捉えられていたのである。

観阿弥、世阿弥は「阿弥陀仏」の「阿弥」を名前につけているが、元々は、時衆の信徒が阿弥号を名乗っていたらしい。彼らの多くは様々な芸能を得意にしていた。その才能は踊り念仏に興じるところから培われたのかもしれない。

室町時代になると将軍から一芸に秀でたものに阿弥号を名乗らせるということがあったようで、観世座の観阿弥、世阿弥などもそのように説明される。しかし私は能の謡曲の内容を見ると、むしろ仏教思想の表現として能が作られていたのではないかと思われるので、在俗の宗教者を意味する「居士」と同じような号と捉えるべきだと考える。

前置きはこれぐらいにして、具体的に謡曲を幾つか紹介し、それぞれの宗教思想を解釈していくことにしたい。ただ謡曲の場合、成立年代などを確定するのは難しいので、宗教思想の変化や発展などを跡付けることはできない。また当然同じような思想内容に帰結するのはやむを得ない。だからこの論稿に何か体系的な展開を求められても困る。幾つかの世阿弥作品に見られる仏教思想を確認して、最後にまとめるということで諒としていただきたい。