世阿弥の謡曲にみられる宗教思想
            
   

                                   やすいゆたか著

4.『檜垣』と『姥捨』―女の魂は美と官能の地獄に永劫に苦しむ

永劫にその魂は離れまじ白河の水更科の月 

『檜垣』のワキは肥後岩戸山の僧である。その白河に閼伽(あか)の水を汲む百歳にも見える老女がいた。その名を尋ねると「年ふれば我が黒髪も白河の水は汲むまで老いにけるかな」と詠んだ檜垣の白拍子だったという。年老いてから白河の辺に庵を結んでいたからその跡を弔って欲しいという。

これは往生できずに苦しんでいる霊に回向を頼まれたと思い、探しあてていくと現れた老女は痛ましい姿だが白拍子の時の罪が深くて熱鉄の桶を荷、猛火の釣瓶を提げて水を汲み熱湯を浴びているという。回向に来た僧のために水を汲み、「年ふれば」の歌の謂れを語る。藤原興範が老女が白河の辺で暮らしていた時に水を所望したので、水を汲んで差し上げたら、昔白拍子だった面影があるので、興範がしきりに舞って見せてくれるように頼むものだから、恥ずかしながら老醜を晒して舞ってしまったという思い出を語りながら、舞を舞う。そして成仏を僧に願うと言う話である。

坂口安吾は『青春論』「一わが青春」(「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房1990(平成2)年)で、若い美しい自分に執着して、老醜の苦しみが強すぎて往生できなかったようだ。僧の前で在りし日の姿を追うて恍惚と踊り狂ったことで妄執が晴れて成仏できたと解釈している。

それほどに女性というものは若くて美しいということが大切なのである。とくにそれが売りで生きてきた白拍子にとっては、老いて醜くなっていくということは耐え難い苦痛だったのである。坂口は『檜垣』の話を宇野千代に聞かせたら、宇野はよほどその話に胸を打たれたらしくて、それ以来謡曲にのめり込んだということである。1897年から1996年までほぼ一世紀を生きた宇野だがこの話を聞いたのが四十代の半ばごろだったらしい。

 彼女は尾崎士郎、東郷青児、北原武夫と、多くの有名芸術家との結婚遍歴と破局を繰り返す波乱万丈の人生を送っており、『色ざんげ』なる東郷青児をモデルにした小説を書いている。まさしく『檜垣』の白拍子と自分の人生が重なったのであろう。

『姥捨』のワキは都から来た旅の僧である。信濃の棚田の田毎の月で有名な更科の月を眺めようと姨捨山にやってきた。すると、一人の女が現れる。ワキが姥捨の跡を問うと、女は『万葉集』の読み人知らずの「我が心慰めかねつ更科や 姨捨山に照る月を見て」の跡を教える。ここに捨てられ人はそのまま土になって埋もれてしまったがその執心は残っているという。そして今夜は月の出と共に現れて夜遊を慰めようと言って姿を消す。

つまりあまりの美しい更科の月を愛でて遊ぶことが素敵なので、成仏しきれないで姥捨てで捨てられた老女までが、名月の夜に霊として現れたのだ。老女は月を愛で、月は勢至観音だと語り、田毎の月は無辺光で浄土に誘っているという。そして昔のごとく舞を舞う。昔の秋を返せと妄執を語るのだ。夜が明けると都の人は帰り、また、姥捨山になってしまう。

だからこの曲は姥捨の悲惨を嘆くというよりも、更級の月のカタルシスが強烈で、たとえ姥捨られた後もその思い出は永遠に朽ちないで残っているということがテーマなのかもしれない。つまり老女の妄執の中にこそ菩提があるということで、煩悩即菩提なのである。

美しい女の罪は永劫に消えない。だから美しかった女は、死後も永劫にその罪を地獄の業火に身を焦がして償わなければならないのである。『檜垣』の女も『姥捨』の女も美しい舞を舞い、男心を狂わせたのだから、その報いは永劫に受けなければならないだろう。

だから私は脇僧が念仏や法華経を唱えたぐらいでは成仏できないような気がする。だってどちらも結局、老醜を晒しても舞を舞って官能の世界に脇僧を誘おうとしてしまうのだから。それは美しすぎた女の魂は、美と官能の世界から離れることはできないということなのだ。だから浄土はむしろ億万土離れた西方にあるのではなくて、この白河や更科にこそあるのである。

そしてたとえ老醜となろうとも、身は朽ち果てて魂だけになってしまっても、澄んだ水、夜空に照り輝く月を見て、舞に興じる刹那に若く美しいままに永遠に生きているのである。それは億万年後に現れる仏と、二千五百年前に現れた釈尊と、億万年前に現れた仏が別物ではなく、我々の念仏や読経と共に現れる仏として永遠の今を生きているのと同じことなのである。

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