世阿弥の謡曲にみられる宗教思想
            
   

                                   やすいゆたか著

3.『砧』―夫への想いが強すぎて地獄で苦しむ女

砧打つ音がいつしか法華経の読経となりて白道を往く 

ワキは九州芦屋某で、訴訟のため在京して三年になる。九州のことが気掛かりで、侍女を下して、今年の暮れには帰ると告げさせた。前シテの妻は、音信なく待たされた苦しみを訴え、夫に思いを届けようと、唐の蘇武の故事にならい砧(きぬた)を打って京までその音を届かせようとする。ところが夫から今年の暮れも帰れなくなったとの知らせが届き、さては自分への想いが薄れたせいかと心乱れて、病の床に打ち沈み、ついに帰らぬ人になってしまった。

その知らせを聞いて夫は故郷に戻るが、そこに後シテの妻の亡霊が出て、余りに想い焦がれる気持ちが強すぎたので、邪淫の罪で責め苛まれ、砧を無理やり打たされ涙は火焔となって身を焦がして苦しめられているという。

つまり地獄は悪いことをしたから行くだけでなく、在世での苦悩が強すぎると、死後もその思いが残って往生できず、苦しみ続けるということらしい。そこで砧打つ音から夫は法華読誦を思いついて、法華経の力で往生させたということである。法華読誦というが、おそらく「南無妙法蓮華経」の唱題かもしれない。その方が単調な繰り返しが砧打つ感じに合っているので。

この話は妻が三年間も待たされ続けて、そのあまり夫の愛が信じられなくなって病に沈みついに死んでしまった可哀想な話である。罪は夫にこそあるはずなのに、妻が地獄で苦しめられている。確かに訴訟や何かで都を離れられない事情があったかもしれない。それならそれでこまめに手紙を書くとかしないと、夫が都で別の女が出来たために、帰らないのではないかと心配しても当然である。当時は一夫一婦制が確立していたわけでない、都に別の女とできてしまっても、夫の方に世間的には咎められることはないのだ。

ところがそういう嫉妬や夫のいない寂しさなどの人間的な感情は、煩悩それも淫欲の情と決め付けられる。夫の帰りをせかせるために届けと砧を叩くことも、夫への呪いとして咎められ、地獄で砧を叩き続けなければならない 報いを受けるのだ。

それでは世阿弥もこの妻の思いを罪深く、地獄で苦しんで当然と考えていたのだろうか。もちろんそのように描いている以上、妻の行動は煩悩であり、そういう夫への妄執に取り付かれていては何時までも地獄から抜け出せないという仏教思想を語っているわけである。しかし、妻の夫への焦がれる想いが純粋で、強すぎたので、待ちわびて死んでしまったのは、実にいたましいことである。その悲劇への憐憫がひしひしと伝わるから、この妻の死や地獄落ちは不条理の極みだと感じていただろうと思われる。

せっかく結婚しても夫は都に出たきり戻ってこず、待たされ続けるのは地獄のような苦しみなのだろう。そのせいで死んでしまった女は、きっと悔しい思いで成仏できないはずである。そこで夫が 『法華経』で成仏させたという。なぜ『法華経』にはそれほどの功徳があると思われたのか。それは恐らく『法華経』というのは久遠の本仏である釈迦如来がいつか現れて、全ての衆生を救済されるというありがたいお経 だからである。

だから夫を想い、辺地の寂寥の中で、ひたすらに帰りを待ち続ける願いが真実ならば、久遠の本仏は必ず皆をいつかは救うように、必ず夫は帰ってくる。三年目の暮れには戻れなくても、四年目にはあるいは十年目には、そしてたとえ今生では逢えなくても、生まれ変わって必ず真実の夫と出会えるのである。

いや、それは永遠の過去に既に出会っているし、たとえ今は別れていてもまた必ず出会えるのである。 釈迦如来は既に永遠の過去に覚りを開かれ、我々に法を説かれているのである。だから夫に対して心の中に常に変わらない思慕を懐き続けている限り、常に共にいるのと言えるのである。だから砧の単調な音は、夫の帰えらないことを恨み、呪う想いが入っていたかもしれないが、常に夫と共に生きているというメッセージを送っていたわけだから、それは久遠実成の 『法華経』でもあったわけである。

だから夫は『法華経』を唱えることで、妻を成仏させることができたということである。天台智は「十界互具」「一念三千」の教義を唱えた。地獄の苦しみの中に仏の境地もあるということである。たしかに夫の帰りを願う妻の想う一念には、夫を性的に独占したいという淫欲もあるかもしれないし、辺地に一人残されたことへの恨みもあるだろうが、真実の愛に生きようとする不滅の願いもあるわけなのだ。『法華経』の読経を通して、妻の一念の中の仏の部分が大きくなって成仏できるということなのだ。

ただ天台思想でいくと、煩悩の中に涅槃があるにしても、逆にそういう涅槃も煩悩の炎に身を焦がすことの中にこそあるということになるから、地獄の苦しみは永遠に続くことにならないのかということになる。そこで世阿弥は、その絶対矛盾を能の舞台に表現することによって、人間存在の哀しみを謳いあげ、砧打つ音と読経とをかぶせて幽玄の世界を作り上げることで、一つの浄土を舞台に作り上げたのである。