梅原猛と聖徳太子の夢  

やすい ゆたか
 
 


         

 

                はじめに


 ヤマトタケルが白鳥になってまで、大和で叶えたかった夢とはなにか。それが実は聖徳太子とつながっているのだ。それは熊襲や蝦夷たちとの死闘を通して学び取った平和の大切さである。熊襲や蝦夷を武力で押さえつけて、貢を奪えばそれでいいわけではないのである。

大和が幾重にも山々の青垣で囲まれて守られているから美しいように、大和の人々の生活も、自然と融合している熊襲や蝦夷の暮らしによって守られているのである。そのことによって大和の国が自然との循環と共生の原理を貫いて、調和のとれた美しさを保つことができるわけである。つまりこれこれこそが、自然や人々の和を説いた「聖徳太子の夢」なのである。つまり戯曲『ヤマトタケル』(一九八六年、講談社刊)は『聖徳太子』(一九八〇年、小学館刊)のテーマを引き継いで誕生したのである。

戯曲『オオクニヌシ』も平和で豊かな国づくりをした大国主命が、そのために国をほろぼされ、自分の家族も滅ぼされてしまった。そのリスクを覚悟の上で、やはり平和で豊かな国づくりを行うべきだというメッセージである。それは聖徳太子の和の精神を戦後の平和と民主主義に継承し、平和な世界を創造することを呼びかけている梅原猛の憲法第九条論でもあるのだ。

戯曲『ギルガメシュ』は人間中心主義への警鐘である。人間に豊かさや幸福をもたらそうとするあまり、森の守り神を殺し、環境を破壊してしまったギルガメシュ王は、親友エンキドゥを神殺しの罪で身代わりに殺され、取り戻しに地の果ての向こうの死霊の国に出かける。さらに不死の妙薬を手に入れようとさえする。そこで自然環境あっての人間の文明であり生命であることを知る。命はつながりあい、死があっての生であること、大いなる生命の循環と共生に生きるべきことを知るのである。これも聖徳太子の和の精神からの西欧文明への根源的な批判である。和の精神は、生きとし生けるものへの無量の慈悲に基づく仏教精神に由来しているのだ。

だからどの戯曲も聖徳太子が目指した「和の国づくり」の夢を追い求めた物語なのである。それが神話や叙事詩を素材にすることによって、鮮やかに造形され、劇的空間が創造されている。そこに梅原の「哀しみのパトス」が燃やし尽され、花火のように目に焼きつき、胸に衝撃音が響いているのである。そこに火の鳥のごとく梅原猛の「天翔る心」は創造の喜びに歓喜の舞を舞っているのだ。

しかしそれらは悲劇としてしか表現されていない。スーパー狂言になって風刺喜劇になるが、主役は滅び行くものムツゴロウであり、滅び去った恐竜である。そしてそれらは人間の未来の姿を示してくれているのである。

 

1.聖徳太子実在論争

 

     厩戸の皇子はまことにおはせしや和を貴しと諭したまふや

 

梅原は聖徳太子に「日本」という国号成立の原点を求めている。歴史的に大和政権の西日本統合は、通説では三世紀ないし四世紀ということになるが、まだ国家理念をもったものではない。天照大神の子孫が天下国家を支配して、一つの家にするという「八紘一宇」が肇国の精神とされているにとどまっている。七世紀初頭の『憲法十七条』が和の精神に基づき、話し合いを基調にする国づくりの理念を打ち出したわけで、まことに画期的なものであり、我々もそれを民主主義的に改造した上で、継承すべき国家理念である。

「やまと」は元々「山門」であって扇状地のような地形を意味していていたようであるが、「大和」と書いて「やまと」と読ませるのは「大和なる山門」と言い習わしたところから「大和」を「やまと」と読むようになったのである。これは「和の精神」を国家理念にするという発想があったからである。

 『憲法十七条』があまりに見事に出来過ぎているので、これは後世の偽作だという説が古くは津田左右吉から、新しくは大山誠一まで、かまびしく説かれている。『日本書紀』に書かれたままの形で七世紀の初頭に書かれていたかどうかは分からないが、「和を以って貴しとなせ」とか、「篤く三宝を敬え」とか、「夫れ事獨り斷むべからず。必ず衆と論ふべし」とか、「人の違うことを怒らざれ…共に是凡夫ならくのみ」などは書かれていたとしてもおかしくはない。
 それに決して厩戸皇子(諡が聖徳太子)が一人で作ったのではない。国家的事業なのだから集団的な著作なのだ。当然高句麗僧慧慈や儒教博士といわれる覚狽ネどの渡来僧の指導や協力の下で作られたと考えて何の不都合もない。また立派な四六駢儷体で書かれていたとしても、それほど驚く必要はないのである。

 それより当時、国家のあり方や役人の心得などの憲章を作成する必然性があったかどうかで判断すべきなのである。その意味では隋による中国統一、中央集権的な律令国家体制の確立を受けて、倭国も国家理念ぐらいは整えて、律令国家形成の方向づけをしたいと考えていたのだから、『憲法十七条』の存在意義は十分にあったと思われる。

 とはいえ肝心の聖徳太子が実在しないと困る。周知のように聖徳太子実在論争があるのだ。非実在論には二つのタイプがある。一つ目は厩戸皇子が架空の人物だという見解である。もう一つは厩戸皇子は実在したが、聖徳太子と呼ばれるような偉大な業績は上げていないという見解である。

山崎仁礼男『蘇我王国論』(三一書房 一九九七年刊)によれば、暦のずれを調整するために架空の大王を設けたとされ、厩戸皇子の父用明天皇は実在しないとされている。父が架空ならば子も架空だという理屈である。あるいは石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(三一新書 一九九二年刊)によると、蘇我王朝があって、馬子・蝦夷・入鹿は大王だったらしい。するとその期間の大王は記紀のでっち上げということになる。つまり安閑・宣化・崇峻・推古・舒明・皇極は架空だったことになるのだ。もちろん推古朝の摂政厩戸皇子も架空である。

しかしこのようにたくさんの架空の天皇を立てなくても、敏達天皇の後を彼の皇子である押坂彦人大兄皇子が継いだことにすれば、その皇子の舒明天皇へとつながる。そうすれば安閑・宣化・崇峻・推古は必要ない。わざわざ架空の天皇をそんなに余分につくるのは不自然ではなかろうか。

とはいえ、蘇我王朝があったかもしれないと思われる節はいくつかある。蘇我氏の館が「御門」と呼ばれていたとか、蘇我氏の氏寺の法興寺が実質的に政治文化の中心だったことも否定できない。法隆寺釈迦三尊像の後背銘に「法興元丗一年」という年号があるのだが、この年号を記紀では採用していない。それは何故か、それは蘇我王朝の年号だったからではないかという推察が成り立つ。もっとも蘇我氏が実権を握っていた当時の年号だったから無視しただけで、蘇我馬子・蝦夷・入鹿の三代が大王であったとは限らないとも言えないことはない。

もっと蘇我馬子が大王であったと思わされるのが、馬子には冠位十二階の冠位が授けられていないで、別格だったことである。別格ということは実は大王だったからとも考えられる。それに遣隋使が伝えた倭王は明らかに「阿毎多利思彦」という男王だったことである。隋からの使い裴世清が小墾田宮でその大王に謁見しているから、実見して確かめているのだ。当時推古天皇だった筈なので、推古天皇架空説の有力な論拠になる。

女帝は中国では野蛮の証拠みたいに思われていたのでごまかしたと梅原は受け止めているが、『魏志倭人伝』に堂々と女王国として紹介されているのだから、今更ごまかそうとはしないともいえよう。それに渡来人がたくさんいて隋使に情報は伝わっているはずでごまかすのは不可能だったかもしれない。
 推古天皇は宗教的な祭祀だけ行い、実際の政治は摂政の厩戸皇子が仕切っていたので、厩戸皇子が大王として接見したという説もある。また実は裴世清は北九州の倭国を訪れたので、畿内王朝とは別の王朝だったという解釈もある。古田武彦の九州王朝説である。しかしそれだけで九州王朝の証明になるわけではない。

ことの真相は解明されていないことも往々にしてあるわけで、推古女帝に闇の部分があるからといって、すぐさま蘇我王朝や九州王朝の証明というのも飛躍がある。ましてや用明天皇や厩戸皇子が架空と言う結論は早計である。

大山誠一は厩戸皇子の実在は認めるが、彼が聖徳太子と呼ばれるような偉大な業績を遺したという事実を否定するのだ。もちろん聖徳太子がオカルト的な能力を持っていたというのは、荒唐無稽だが、遣隋使外交、冠位十二階制の制定、憲法十七条の制定、講経、斑鳩寺などの寺院建立、「三経義疏」の著述などを行ったことを殊更に否定する必要はないと思われる。当時は隋と対等に付き合い、進んだ文化や制度を取り入れようというのが国家目標であったし、そのために菩薩太子を養成して、菩薩太子を中心にその実現に取り組んでいた時代であるのだから。

もちろん当時は蘇我馬子が実力者だった。とはいえ、あくまでも当時は豪族の連合国家であったのだから、他の豪族たちをまとめ上げるためにも推古天皇や摂政厩戸皇子を最大限に活用したはずである。厩戸皇子を菩薩太子として育て、トロイカ(三頭立て馬車)体制でやっていたと想像される。ひとつひとつの事蹟についての信憑性はまた個別に検討しなければならないが、『日本書紀』通りではないにしても、仏教をよりどころにしつつ天皇中心の律令国家への方向性が模索されたとは言えるだろう。その象徴として聖徳太子は必要だったのだ。それにしても『十七条憲法』は出来過ぎだと思われるかもしれないが、ある程度期待に応えることができたからこそ、聖徳太子と呼ばれたのであろう。その意味で私は梅原猛の聖徳太子実在説に同調している。

 

         2.戦後民主主義と聖徳太子

 

      貴しや平和と民主の戦後価値和の心にぞ根付きまほしや

 

梅原猛は聖徳太子に夢を託しているのだ。梅原猛は「九条の会」に参加して平和憲法を守ろうと活躍している。聖徳太子の『憲法十七条』は憲法第九条の精神に通じているのである。

もちろん「憲法第九条」は戦争放棄・戦力不保持・国の交戦権の否認を定めた国家非武装の画期的な憲法条文である。『憲法十七条』にはそういう戦争放棄的な絶対平和主義の規定はない。それでも中核は「和の精神」である。これは当然『日本国憲法』の立場でもある。
 また『憲法十七条』は「凡夫の自覚」を説いている。「凡夫の自覚」に立って、独善的にならずに互いに協調的な精神で、知恵を出し合いみんなにとって最善の解決策を見つけ出そうとするものある。これは専制を退け、凡夫である国民に選ばれた人々で慎重に話し合って決めようという『日本国憲法』の民主主義に通じる面を持っている。
 一九四五年、梅原は二十歳で京都大学文学部哲学科に合格したが、入学式から帰ったら召集令状が来ていた。学徒出陣ではなかったので、京大生でもあわれな二等兵だ。運動神経も悪かったこともあり、上官に苛め抜かれて悲惨な軍隊体験をした。そして敗戦である。そのとたんアジア解放の聖戦だったはずが、それらは全くのデマゴギーで実態は恐ろしい侵略戦争に駆り立てられていたということが分かった。そしてそのために沢山の人々が無意味な死を遂げなければならなかったと分かったのである。

彼はこの戦争で死ぬことを覚悟していた。どうせ死ななければならないのなら、それだけの意義を掴みたかった。それで高山岩男の『世界史の哲学』に感化され、大和民族のモラールッシュ・エナジーを示すために死ぬのだと思いつめていたわけである。ところが敗戦で化けの皮がはがされ、その価値が脆くも崩壊したのだ。そんなバカな、そんな不条理があっていいのかと煩悶し、それでしばらくは深刻なニヒリズムに陥ったのである。

彼はおびただしい無意味な死を目の当たりし、自分が生き残ったことを後ろめたく感じていたのかもしれない。ハイデッガーの実存哲学を主体的に死に向かう哲学として解釈して、デガダンにのめりこんでいたのである。

しかし結婚で貧しいながらも懸命に生きる体験をした。小鳥のように羽で暖めあう中で命の尊さや愛の意味を知ったのである。はじめは家庭の幸福など仮面だと思っていたのに、仮面と自分の顔の区別がつかなくなったのだ。それでやっと「平和と民主主義」という戦後価値を体で納得するようになったのである。つまり理屈以前の生活体験に根ざさなければ身につかないということである。

梅原は、戦後のどん底から開き直って復興していく庶民のエネルギーを笑いを通して研究した。そしてそれをとっかかりに笑いや感情にも国民性を見出した。日本人の笑いと欧米人の笑いは違うわけである。それは哲学や思想でも違うのと同様である。梅原はギリシア哲学や実存哲学を専攻していたが、やはりそれらを理解しようとすれば文化や宗教を知る必要があると思った。だから日本人がいくら西洋哲学をしても西洋人以上には西洋哲学はできない。

「平和と民主主義」という戦後価値も啓蒙思想やプラグマティズムやマルクス主義という外来思想で語られ、納得させられてきたわけである、それでは日本人にはしっくりこないところがある。日本の伝統思想を踏まえた形で「平和と民主主義」という戦後価値を定着させられないかということである、そこに聖徳太子にお呼びがかかる事情があるのだ。

梅原の本格的な聖徳太子研究は戦後二一年目の一九七一年、四六歳で『隠された十字架ー法隆寺論』を衝撃的に世に問うてからである。すでに戦後民主主義の形骸化が問題にされ、全国各地で学園闘争が燃え上がった最中であった。梅原は全共闘の闘士たちから「戦後民主主義」の「牙城」と揶揄された立命館大学を紛争で辞職していた。「戦後民主主義の象徴」というべき広小路校舎の戦没学生像「わだつみ像」が見るも無残に白ペンキを塗られ、頭をハンマーで割られ空洞を曝していたのだ。
 私はだから戦後民主主義は不毛だったとは思わない。「わだつみ像」を破壊した蛮行に同調するつもりは毛頭なかった。無残な姿をさらした戦後の「平和と民主主義」の残骸を前に、立命館大学で自分探しをしてきた私は自らの青春の残骸を見つめて立ち尽くしていたのを覚えている。この事件は戦後民主主義が日本の伝統思想を踏まえて定着したものでなかったという弱点が露呈した出来事だったという面を持っていたのだ。

つまり戦後民主主義はプラグマティズムとマルクス主義から解釈されていたのだ。その場合、プラグマティズムは功利主義的にのみ解釈されていたし、マルクス主義も階級闘争主義に一元化してとらえたりした上での浅薄な捉え方だったのである。つまり駆け引きや建前だけの心のこもらない上滑りなものになってしまっていたのである。

梅原は、『隠された十字架』でこの世で虐げられ恨みを残した怨霊が祟ることを恐れ、勝者が敗者の思いを実現させるという怨霊史観で歴史を見る視点を提起した。彼の感情を重視する哲学が歴史に心を取り戻したのである。単なる闘争やかけひきや法則性での機械的解釈でなく、心の葛藤を生々しく浮かびあがらせたのである。
 それは情を重んじる日本的精神でもあり、敗者への思いやりがこもっている。また権力者のおごりをたしなめ、良心を呼び起こすものでもある。それは聖徳太子の「和の精神」にも通じているのだ。そう感じた梅原は、聖徳太子の本格的な研究によって、「平和と民主主義」の戦後価値を日本の伝統思想の中で根付かせようとしたのである。梅原が怨霊という情念的な存在で歴史を語るので、彼は、戦後の科学的な歴史学を否定し、戦後の合理主義を否定して、戦前の非合理主義に戻す反動的な存在の如き烙印を押されたこともあったが、そう梅原を非難することで彼らは、日本人のアイデンティティを喪失して、全く日本の伝統思想を軽蔑し、何一つ学ぼうとしない浅薄さをさらけだしたのである。


            3.菩薩太子への期待

 

      御仏の慈悲の光に照らさむと菩薩太子が経講じけり

 

厩戸皇子は、六〇四年に『憲法十七条』を制定したが、その二年後推古天皇は鞍作鳥に丈六の金銅仏を作らせて、法興寺に納めた。それを記念してか、厩戸皇子は、後に橘寺が立てられた宮で『勝鬘経』の講義を行ったのである。そして後に法起寺が立てられる宮で『法華経』の講義を行ったと梅原は解釈している。さらに六〇九年から六一五年にかけて『三経(勝鬘経・維摩経・法華経)義疏』を作成したとされている。

大山誠一は、難解な仏教の教理を解説できるほどの教養がその時代に可能だったのか疑問だという。(『<聖徳太子>の誕生』 吉川弘文館 一九九九年刊参照)だが厩戸皇子は、『日本書紀』によれば内教(ほとけのみのり)を高句麗僧慧慈に習い、外典(とつふみ)を博士覚狽ノ学んだとされている。ちなみに外典とは儒教や諸子百家など中国の古典教養だと思われる。彼らが来日したのは五九五年だからすでに十一年間経っているのだ。厩戸皇子が相当の秀才だったということを額面通り受け止めれば、決して不可能ではないだろう。 

梅原は『聖徳太子』四部作で東アジアの趨勢を踏まえて、聖徳太子の出現を解き明かしている。つまり国家的に菩薩天子を養成しようというのが、その時代の東アジアの趨勢だったというのだ。梁の武帝や百済の聖明王、そして隋の煬帝がその例にあげられている。彼らは熱心に仏教に帰依していたが、それだけではない。かなり本気で仏典の研究をして自ら菩薩になって衆生を救済しようと考えていたわけである。梁の武帝は儒教・玄学(道教)・仏教が究極において一致するという三教一致の教養主義的思想に立って、多くの著作を著わしているそうである。(七三頁)

当時倭の国にはほとんど文字文化がなかったのに、急に学問的な文章まで書けるなんて、ありえないと聖徳太子非実在論者は言う。だが渡来人のコロニーには学問や技術を持った人がいて、彼らのエリートと一緒に勉強したとも考えられる。三世紀の鏡には国内で作られたものにも文字や絵が刻まれている。そこには明らかに道教の影響が見られるのだ。つまり倭国内にいた渡来人には、それだけの教養があったということである。

隋の煬帝も菩薩天子の例に挙げたが、彼などは高句麗との戦争や黄河と揚子江を結ぶ大運河建造などで人民を苦しめた専制君主だったというイメージが強烈だ。結果論としてはその通りなのだが、高句麗という脅威を取り除くことで平和な世界を実現しようとしたと言えるし、大運河の建設で江南の食糧を華北に運んで、人民を飢餓から救おうとしたとも言えるのだ。

宗教的な自覚が強すぎると全能感が高まり、自分一代で理想国を築き上げようとして無理をするものである。ともかく煬帝は天台智に帰依して仏国土の建設を目指していた。聖徳太子は、煬帝に憧れ、遣隋使を派遣し、隋の律令制や仏教文化を導入しようとしていたのである。

聖徳太子は「和の精神」を説いたというけれど、厩戸皇子は戦争を一切しない絶対平和主義者だっただろうか。五八七年、十三歳の時に蘇我・物部戦争に参戦している。馬子の妹堅塩媛が父用明帝の母にあたり、蘇我氏の一員だった。それで蘇我一族と仏教の命運がかかっていたこの戦争に動員されたのだ。

『日本書紀』によれば、十四歳の厩戸皇子は味方の形成が芳しくないのを心配した。それで、白膠木(ぬりで)を切り取って四天王の像を作って頂髪(たきふさ)においてこう大声で誓った。「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王の奉為(みため)に寺塔を起立(た)てむ」。それで味方の士気が高まり味方を勝利に導いたというのである。

思想形成過程にこの戦争体験があった。彼は多くの戦死者を目の当たりにした。慈悲を重んじ、「不殺生戒」を第一の戒律とする厩戸皇子にとってかなりショックを受けたのだろう。その結果、悟ったのが、互いに独善的になり、排斥しあうのは良くないことだということである。

ところが成人してからも絶対平和主義と矛盾した行動をとっているのだ。新羅に占領されていた任那からの御調(みつぎ)を要求して、高句麗や百済と同盟し、新羅出兵を図っている。六〇二年には弟の来目皇子を撃新羅将軍にして筑紫にまで二万五千人を派遣した。ところが弟が病死して、兵を引いたのだ。これなどは推古天皇が父欽明天皇、夫敏達天皇の遺勅により任那回復を熱望したので、それを抑えきれず、筑紫までは言い訳のために、兵を出したということかもしれない。

ともかく七世紀初頭には任那は新羅の版図に入っていた。倭の政権にとってはこれを何とか回復したかった。他方、高句麗は隋に侵略されそうなので、新羅からも攻められたら大変だというので、倭に接近してきた。そして、倭の出兵を求めたわけである。

四世紀末ごろの高句麗好太王碑文によると、倭が半島深く攻め込んでいたことが分かる。『古事記』にはオキナガタラシヒメ(息長足媛)つまり神功皇后の新羅征伐などが記載されている。任那を拠点に繰り返し侵攻したようである。それで百済や新羅は倭に朝貢するようになったらしい。でも七世紀の初頭は任那という拠点を失っていたので、侵攻は難しく、その上物部氏が衰亡したので強力な兵力を派遣するのは難しかったようだ。

それに来目皇子は熱心な仏教徒だった。そのために将軍に任命されたものの、殺生を命じることになる戦争はいやだと思っていたかもしれない。梅原は半島まで戦争しにいくのがいやで病気になったと推察している。仏教というのは信仰で国をまとめるという観点からは良い宗教だっただろうが、戦争には向いていないということであろう。

梅原によると、梁が滅亡したのも、菩薩天子の武帝が仁慈にあふれて寛容だったので、そこに付け込まれたためだという。(九三頁)その直前に百済の聖明王が新羅との戦いで敗れて首を斬られている。このとき百済が敗れた原因を、蘇我稲目は、建国の神を祀らなくなったからと指摘しているが、梅原も仏教信仰が百済を文弱にしたのではないかと受け止めている。(一二三頁〜一三八頁)

それでも蘇我稲目は倭に仏教を導入しようとした。蘇我氏は信仰の統一によって国をまとめるのに有効だと考えて、仏教を導入しようとしたのだが、決して国神を排斥しようとしたのではないのだ。だから蘇我・物部戦争も決して神祇を廃して、仏教に代えるためではなかった。仏教導入を排斥する国粋主義との対決だったのである。それでも聖徳太子や来目皇子、さらには山背皇子などには仏教の不殺生戒が影響して,厭戦的で文弱な気風が生まれてしまった。

このように菩薩天子・菩薩太子を中心に仏教で国をまとめるということは、当時の東アジアのスタンダードだった。それは戦の絶えない当時としては、国を文弱にするというリスクを背負いながらも、国家権力の求心的な統合力を強め、豪族間の争いを緩和し、国内の平和と安定をもたらす効果が大いにあったからこそおこなわれたのであろう。

 

           4.天皇と日本国の謂れ

 

     日の御子のしろしめす国ならば日の本の国と人の言ふめり

 

聖徳太子自身も仏教だけで国づくりができると考えていたわけではないのだ。『憲法十七條』も仏教だけでなく、儒教や法家の思想もとりまぜて見事な思想の五重塔の構造になっているという。『聖徳太子上』(七四三頁)の表を紹介しよう。数字は条を表している。

あまりにも見事な文章なので当時の文化水準では到底無理だという分析もあるが、梅原は逆に『憲法十七條』の偽物を作るとしたら、これほどすごい偽ものを作ることができるだろうかと問うのである。つまり偽物だと解釈している連中は、そのすごさというのが分かっていないと梅原は言いたいのだ。実際、この憲法で説かれていることは、すばらしい。現代でも人類が常に戻るべき原点なのだ。しかしそういうすごいものだから本物だということも言い切れないかもしれない。

「一に曰く、和を以って貴しと爲し、忤ふること無きを宗とせよ。」から始まっている。「倭」は音的には「和」に通じる。倭と呼ばれていたのを逆手にとって、『憲法十七條』で和合や平和を尊ぶ「和」の国ということにしたのである。だから後に「日本」に国名を変更したのはまずかったかもしれない。「和」を正式国名にすればよかったともいえる。

聖徳太子の時代から日本という国名にしたというように梅原は言っている。隋への国書に「日出ずる処の天子」という表現があるからだ。また倭の国が蝦夷の国を平定して統合する際に、蝦夷の国名であった「日の本」を取ったという高橋富雄の説を採用しているようである。(『シンポジウム東北文化と日本-もう一つの日本-』梅原猛・高橋富雄編、小学館、昭五九年)

        

征服された国の名を征服した国が使用するのはおかしい気もする。梅原は小碓命が熊襲タケルからタケルの名をもらう例をあげている。人名と国名を同次元で語れるかは問題だが、「倭」という呼び方は「チビ」みたいな蔑称だったので、変更したいと思っていたわけだ。それで蝦夷の「日の本」という国名を気に入ったということである。

梅原は「日本」という国号と「天皇」という称号をセットで捉えている。つまり日というのは太陽で天照大神だが、その権威の下で日の御子として天皇が支配している国だということなのである。主神である天照大神は地上だけでなく、天界である高天原をも支配している。天皇も地上だけではなく、高天原でも神々を支配しているわけである。

梅原は「日出る国の天子」という言葉に既に「日の本」の国という意識があったと見ている。それで聖徳太子の時代に「日本」と「天皇」の成立を説いているのだ。すると天照大神の信仰はそれ以前からあったことになる。『水底の歌』ではアマテラスが女神となり主神となったのは持統天皇の時代になってからだと言っていたことと大きく矛盾するのだ。

全国にたくさんある天照神社はほとんど天照大神ではなく、物部氏の祖先であるニギハヤヒを祭っている。ということは「天皇」が推古天皇の時期に成立したとすると、天皇は天照大神の子孫というつながりで支配権を主張していたかどうか疑問になる。

他方で梅原は、福永光司の道教の天皇大帝に由来するという説にも賛意を示している。これなら、日本には既に三世紀の段階から道教が入っていたと思われので納得がいく。ただし日本と天皇の関係はぼやけてしまわざるを得ない。

近畿の神武天皇以前のニギハヤヒの尊が統治していた原大和国家が「日本」だった可能性はないだろうか。ニギハヤヒは太陽神なので、彼の支配する国は当然「日の本」だったことになる。谷川健一の『白鳥伝説』に書いてあるのだが、「日下」と書いて「くさか」と読む。それは「飛鳥」と書いて「あすか」と読むのと同じなのである。「飛鳥の明日香」と言い習わしていたので、「飛鳥」で「あすか」になったのだ。同様に「日下の草香」だったのが「日下」で「くさか」になったということである。「日下」というのは「ひのもと」と読んだと谷川は推理する。生駒山の河内側の麓が「ひのもとの草香」であり、ここが原日本だということである。やがて大和に勢力を拡大してニギハヤヒは太陽が昇る三輪山を祀り、河内・大和にまたがる大和国家が「日のもとの国」となったわけである。このニギハヤヒは神武東征で大和朝廷に従い、物部氏になるわけだが、一部は大和朝廷にまつろわないで、蝦夷の国を作っていたので、「日立」とか「日の上(かみ)」に由来する「日高見」そして津軽には「日の本」と名乗る国もあったのだろう。こう考えた方がダイナミックである。(『谷川健一全集T古代一白鳥伝説』冨山房インターナショナル刊参照)

ただし聖徳太子の時代には「日出ずる国」とは表現しても、「日本国」という言い方はしていなかったのではないかと思われる。「日本国」というのは日の御子である天皇の支配する国という意味を当初はもっていたはずだからである。やはり、太陽神がニギハヤヒ信仰から天照大神信仰に変化してからと考えるべきである。それは持統天皇以降と捉えた方が自然である。梅原は『神々の流竄』で天照大神を主神とする宗教改革にともなって、神々の多くを大和から出雲に流竄したとし、天照大神が女神でしかも主神になったのは持統天皇以降という説を打ち出していた。その説を撤回して、推古天皇の時代にまで遡れるという根拠を提示できれば話はちがってくるが。

「日本」の国名の文字で残っているのは最古のものでも奈良時代より遡れない。長安だった西安から出土した「井真成墓誌銘」である。だから国名まで日本に変更したとするのはどうだろう。私は今のところ聖徳太子の段階では「倭国」を「和国」というようにし、大和で「やまと」を表現したということでいいのじゃないかと考えている。


          5.『憲法十七条』和の国づくり

 

      大きなる事を決すにあたりては衆と論ぜよ和の心にて

 

『憲法十七條』は「和を以て貴しとなせ」といいながら、「三に曰く」で「詔を承りては必ず謹め」となっている。それなら結局天皇の支配のための憲法ではないかという見方もある。もちろん天皇中心の律令国家を形成するために作ったのだから、天皇の支配権を確認したのは当然である。人民に主権がある民主主義国家にしようとしたのではない。それでも詔が作られるまでには、衆智を集め議論を尽くして、みんなが納得できるものをつくろうとするところにこの憲法の特色があるのだ。それは民主主義の精神の基本になるものである。人民を尊重し、衆智を集め議論を尽くすのでないと和ができるわけがないのだ。参考までに関連箇所を引用しておこう。

 

一に曰く、和を以って貴しと爲し、忤ふること無きを宗とせよ。人皆黨有り、亦達れる者少し。是を以て或いは君父に順はず、乍た隣里に違ふ。然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなひぬるときには、則ち事理自づから通ふ。何事か成らざらむ。
十に曰はく、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人皆心有り。心各執れること有り。彼是すれば我は非す。我是すればかれは非す。我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是凡夫ならくのみ。是く非き理、たれか能く定むべけむ。相共に賢く愚なること、鐶の端无きが如し。是を以て、彼人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ。我獨り得たりと雖も、衆に從ひて同じく擧へ。
十七に曰はく、夫れ事獨り斷むべからず。必ず衆と論ふべし。少き事は是輕し。必ずしも衆とすべからず。唯大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故、衆と相辨ふるときは、辭則ち理を得。

 

分かりやすく解釈しておこう。
「人はとかく仲間や連れを作り、その中で申し合わせてから議論に参加するので、君主や父親の意向に逆らったり、公共の利益と矛盾することが起きてしまう。だから統治者は人民全体の幸福を考え、人民もみんなの幸福のために胸を開いて話し合うなら、事の道理は自然に通じて、何事もうまくゆくものだ。」
ということである、だからルソーの『社会契約論』の一般意志の立場に近いと言える。
 ルソーは全員参加の人民集会で法律を定めるべきだとした。その際参加者は私的利害を棚上げにして、あくまでも人民全体が幸福になるための議論をしなければならないというものであった。そこでみんなが衆智を集めて話し合えば、きっと公共の福祉にとって最善の法律が多数決でできるはずだという立場なのである。

しかし問題は、議論に参加している人々は、自分は私的利害は棚上げにして、みんなの幸福のために議論しているつもりなのに、論敵は、みんなの幸福など無視して各人の私的利害のための発言に終始しているようにみえるものだということである。

「上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなひぬるときには、則ち事理自づから通ふ。何事か成らざらむ。」とある。一番大切なのはこれだ。つまり豪族間の争いや、集落間の水争いやさまざまな揉め事があれば、互いに自分たちの集団的利益や私的利益を優先してしまう。そうすれば何もまとまらず、何も出来なくなってしまうのだ。平和で豊かな和の国をみんなで協力し合って作り上げていこうと心を一つにすれば、自然にうまくゆくということである。それは確かにそうでも、なかなか実現となると困難ではあるが。

ルソーの「一般意志」の形成もみんなの幸福に合致した意見だけを述べるという大前提があったので、当然和の論理が内在しているわけである。みんなの幸福を考える愛情に基づいていたのである。ところがそれが実際の歴史過程ではどうだろう。自由・平等・博愛の社会を形成しようとすると、ギロチンでの公開処刑による恐怖独裁や内戦となり、対外侵略、ナポレオン帝政、アンシャン・レジームとなって挫折したのである。つまり実際の歴史過程ではそれぞれの階級や党派が自己の利害や正義に固執して、無理やりでも通そうとしてまうのだ。それで破綻したわけである。

いかに「和の論理」を強調しても、それを実践する主体が利己を優先するようではうまくいかないものだ。それだけに議論する主体は、深く仏教に帰依して、慈悲の精神にあふれた人でないといけないと厩戸皇子は考えていたわけである。仏教の導入の意義はここにもあるのだ。

もちろん聖徳太子を取り上げて、「平和と民主主義」の戦後価値を日本に根付かせようとする梅原にも、その想いが強い。平和といっても単なる政策だけではなく、民主主義といっても単なる政治システムではないのだ。平和の心、民主主義の心がなければならないということである。そこで梅原は仏教の心を強調するのである。殺生をしてはいけない、命を大切にしよう。思いやりや慈悲の心をもって、相手の立場にたって考えようということである。

その場合、宗教といっても宗派的なものではない。普遍的なものだ。だれもが納得できるようなものである。人間性の原点にたって自らの心を浄化しようということに他ならない。聖徳太子の仏教もそのようなものだったと梅原は捉えているのである。つまり仏教が正しいから、これまでの神々への信仰は止めようというようなものではなかったのだ。


            6.凡夫の自覚

 

   お互いに聖でもなければ愚でもない凡夫ならくに違えど怒らめ

 

なかなかルソーのいうように特殊利害は棚上げにして、みんなの幸福を実現する立場に立って話し合うというのは難しいことである。自分はそうしているつもりだけれど政敵の言動は特殊利害の権化のように見えるものだ。それで議会では乱闘まで起きることがある。互いに自分たちの独善性に気づいていないということだ。それを戒めるために「その十に曰く」がある。うんとくだいて解釈してみよう。
 「頭にきてキレちゃったら駄目だ。人が自分と意見が違うからといって怒らないようにしなさい。人は皆なそれぞれ心をもっている。心はおのおの自分で判断するのものだ。彼が正しいとしても私には正しいと思えないものである。私が正しいとしても、彼にとっては正しくないのだ。私が必ず聖人というわけじゃない。また彼が必ず愚か者でもないのだ。共にただの人にすぎない。だからどちらが正しくて、どちらが間違っているという基準を、誰がきちんと定めることができるだろうか。お互いに賢くて愚者なのだ。金輪の端が無いようなものである。そういうことなので、相手が怒っていても、こちらは怒らないで、かえって自分に欠陥やまずい点がないか恐れて見直しなさい。自分が独り正しいと確信できても、それは保留して、総意を尊重して、総意に従って行動しなさい。」
 
なるほど日本的集団主義である。自分の信念と自分が属する集団の総意が異なる場合、自分の信念をあくまで貫くのか、それとも総意に従うことを優先するのか、さあどちらが正しい態度だろう?時と場合によっては信念を貫く方が正しいこともあるが、状況によっては全体に合わせないといけないこともある。日本人の場合は何事も協調して、自分の信念は表面に出さない傾向が顕著である。

『憲法十七條』があるから、日本人の多くが日本的集団主義になったということはないにしても、『憲法十七條』には日本的集団主義の原理が明文化されているのである。もちろんこのために個性を喪失したりすることがあっては困りものだ。ただ独善を戒め、衆智を集めて、みんなの幸せのためにどうすればよいか和やかに話し合って、共通の理解や認識を生み出そうとするのは大切なことである。そして総意を尊重し、信念を留保して総意に従うという組織原則を守ることが組織や社会を守り発展させることになるわけである。これを守らないと、分裂抗争を繰り返し、社会の混乱や衰亡を招くことが懸念される。

面白いのは、独善を戒めるのに、みんな必ずしも聖人というわけでもないし、必ずしも愚人というわけでもない、みんな「凡夫」なんだと「凡夫の自覚」を説いているところである。なにかソクラテスの「無知の知」に通じるものを感じるではないか。

ソクラテスは自分の無知を自覚するだけでは足りなくて、賢人たちの無知も自覚させようとした。大阪弁で言うなら「私もパーやけど、あんたもパーやろ」である。どちらかが絶対に正しいということになれば、謙虚に相手の言うことを聞く気になれない。それでは弁論によって議論を発展させ、真理に近づくという対話法が成り立たないわけである。互いの無知を知ることによってのみ知に近づくことができるというのが愛知としての哲学(フィロソフィー)の立場なのである。 

しかしよく考えてみると、本来日本人なら、ソクラテスを学ぶときに、「ソクラテスの無知の知は『憲法十七條』の「凡夫の自覚」に通じるものを感じる」というべきであろう。日本人の教養が西洋中心に偏っていて、ソクラテスの方にスタンダードがあるのは問題なのだ。

仏教的にいうならば、無我の真理を覚ることができない我々は、みんな煩悩に惑わされ、なかなか正しい判断ができない凡夫なのである。だから自分の考えが正しいとは限らないことをよく自覚したうえで、相手の意見を謙虚に聞き、そこから学ぶべきものをできるだけ学ぶべきなのである。

梅原哲学は常に出来上がった知に対して疑問を投げかける。一から考え直すのだ。そのことによって、これまで思いもよらなかった歴史の形相(ぎょうそう)を露呈させたのである。何と日本史上最大の聖人である聖徳太子が怨霊だ、歌聖と呼ばれた柿本人麿まで怨霊だというのである。はじめは私もオドロオドロしく情念に訴えて世間を騒がせる気持ち悪い奴だと思っていたのだ。しかしよく読んでみると、歴史を生身の感情を備えた人間の歴史として生々しく捉えているではないか。梅原は自分自身も含めて、聖徳太子や柿本人麿のことを本当は肝心なことは何も知らなかったのではないかという「無知の知」に立って、既成の歴史学や国文学の無知を暴いたのである。

ソクラテスは、賢人たちの無知を暴いたため、ポリスの市民たちの反発にあい、毒胚を仰がなければならなかった。梅原に対して歴史学者や国文学者の中には反発したり、シカトを決め込んでいる学者も多いが、果たしてどちらがより説得力があるかということである。

 

          7.『憲法十七條』と国家理念

 

      環境と平和を守るそのために信念超えて手を携えよ

 

とはいうものの、利害が対立しており、理念が異なっていると意見の一致を目指すのはやはり難しいものだ。だから国家の統一的な理想像、つまり国家理念が必要になってくる。そこで『憲法十七條』では平和を尊び、三宝を敬い、礼に則り、天皇を中心にまとまろう、その上で、衆智を寄せ合ってみんなが幸福になれる国を作ろうという理念を打ち出したのである。これなら誰もが納得できるだろうと考えた国家像であり、役人の心得なのである。

目標や理念がいっしょなら、その実現のために智恵と力を出し合える。共通の問題を解決するために協力しあうことによって、互いの利害調整もスムーズにいくようになるのである。当時なら天皇中心の律令国家の建設である。この理念は東アジアの諸国家の動向からみて後戻りできない歴史の発展方向だと思われていたようだ。

今日なら地球環境問題や安全保障の問題でのグローバルな協力体制の構築である。あるいは長い目で見れば、近代国家の時代からグローバル統合の時代への転換だ。え?それはやすいゆたかの議論であって、梅原猛は反グローバリズムだろうという非難が起りそうだ。たしかに梅原猛はアメリカ主導のグローバリズムには大反対である。スーパー狂言の『王様と恐竜』は強烈な反グローバリズムのメッセージだ。

しかし梅原はEUの向こうを張ってAUを結成するように主張している。経済が地域的、グローバル的に統合しつつあり、環境問題でもグローバルな調整や協力体制の構築が必要だと考えているのである。ただ現在のアメリカ主導のグローバリズムは世界に経済格差を広げ、戦争の種を撒き散らすものでしかない。それで反グローバリズムを表明しているのである。

各国、各民族の文化的な個性と自立性を尊重しあったうえで、武力で押さえ込むのではない、和の精神に基づいて世界中の人々が知恵と力を出し合って、幸福に暮らせるような方向でのグローバル化に反対しているわけではないのである。

むしろ聖徳太子が隋の煬帝に堂々と対等外交を挑んだように、和の精神に基づく新国際秩序を提唱できる強力なリーダーシップをもった日本の政治指導者の登場を彼は熱望しているのである。

実は七世紀の天皇中心の国という場合でも立場によって、天皇像に開きがある。まとまりの中心という意味では同じでも、皇族と貴族と人民ではその意味が違っていた。皇族は天皇が権力の中枢をしっかり掌握して、自分の理想を実現するというイメージを抱いていただろう。天武天皇や八世紀の聖武天皇などはその典型だ。それに対して、貴族は天皇を中央集権権力を作るための求心力と捉え、あくまでも官僚体制の機関として捉えていた。天皇は血筋で決まるので、天皇に実権を握らせてしまう皇親政治だと暗愚や横暴な天皇が出た場合、国家は破滅的なことになり、役人や人民は甚大な被害を被ることになりかねない。だから実際に政治を動かすのは、太政官でなければならないという立場である。

藤原不比等は藤原氏中心の官僚貴族独裁を築こうとして、皇親勢力と対決した。藤原氏の立場では、天皇は象徴的なものでよく、藤原氏を中心とする貴族がしっかりした官僚体制を築き上げて支配してこそ、理想の国づくりが可能だということになるのだ。

それに対して一般の人民はどうだろう、どこまで大王や天皇を制度的に理解していたかは分からないが、天照大神の子孫として現人神として信仰させられていた人民の中には、天皇を神としての大御心で統治し、人民を救ってくれるというイメージで捉えた者もいただろう。官僚による人の支配ではなくて、人間を超えた理想的統治者としての天皇像である。

実は柿本人麿の悲劇はそこに原因があったのだ。彼はこう考えた。不比等が台頭して、皇親勢力に勢いがなくなってきた。大津皇子は刑死し、高市皇子も死んでしまった。皇位は持統天皇から孫の腺病質な十五歳の少年軽皇子に継承される。これでは人間を超えた神としての天皇の大御心での政治は期待できない、皇国から官僚独裁の律令国家へと変質していくと。

人麿は自分がイデオローグとして作り上げた天皇の神格化に、自ら酔ってしまって、藤原氏による権力の簒奪を危惧したのだ。藤原氏による官僚独裁もたしかに耐え難いだろうが、人麿のように天皇親政に幻想を抱くのも甘かったと評するべきだろう。

 

              8.仏国土の建設

 

     すめろぎは菩薩ならまし仏への帰依の心を収め取るには

 

天皇中心の国づくりということではあっても、聖徳太子の『憲法十七條』は内容が充実していて偉大である。役人の心得程度に思われがちだが、和の国を作り、三宝を敬い、独善を避け、衆智を集めて話し合いにもとづき互いに補い合ってやっていこうということなので、天皇親政や官僚独裁に偏らないように工夫されている。
 ただ仏教を国教化したのはどうだろう。これには大いに問題があった。後々いろいろ問題がおこっている。ただ一神教を導入したのとは違う。一神教ならこれまでの信仰を一掃しなければならなかったところである。それぞれの部族の神々が否定されることになり、抵抗ももっと大きかったと思われる。多神教の上に新しい外国で信仰されている仏も信仰しなさいということなのだから、既存の神々が嫉妬するようなことがあるにしても、今までも多くの神を祀っていたので抵抗は少ないわけでである。

それでも仏教は国家の特別な保護を受けることになり、寺院の建造が重税や苦役となって人民に重くのしかかることになった。その点に権力者は鈍感なものである。厩戸皇子を筆頭に、権力者はそれを御仏の力で人民を救済するための事業と捉える勘違いに陥ったのである。もちろん神祇も国家の保護を受けるし、大王も神の子孫としての権威で統治をするわけである。そのうえで部族や氏を超えた、民族も超えた普遍的な仏をもってきて、皆で仏を信仰することで信仰の統一を図り、国家統合を図っていこうとしたのである。

また仏教を信仰しないと東アジア世界で取り残される、世界に伍して発展していくことができないと蘇我氏などは考えた。たしかに仏教は深い哲学的思索に裏打ちされた高度な理論的構築物でもある。その点、既成の神々は驚きや恐れの対象、恵みをもたらす対象などを神として崇拝しただけで、きちんとした宗教的な教理というものはない。だから大陸文明に憧れていた豪族たちにはさぞかし有りがたい教えのように思われたのだろう。

それに、大乗仏教は自らの煩悩を克服した仏陀が衆生を救うという信仰である。統治する支配者が率先して仏陀に帰依し、自ら菩薩となることで、統治される人民が仏陀に帰依する心を支配者への服従する心に収め取ろうとしたわけである。

これは神話による支配より、余程高度なイデオロギー支配である。神話では、神武東征説話というものがある。筑紫の勢力が東征して大和政権を簒奪したのだが、それを、高天原の神々の会議で、天照大神の子孫が地の国を支配することに決まっていたということで正当化したのである。これはいかにも後からこしらえた理屈である。結局勝てば官軍という論理でしかない。

それでも荒ぶる神である須佐之男の神の子孫ではなく、恵みの神である太陽神天照大神の子孫が支配すべきだという論理も伺える。これには武力で覇権を握って統治するのではなく、徳で支配すべきだという儒教思想の影響が伺えるのだ。ところが実際は、筑紫の勢力は武力で侵攻し、平和で豊かな国づくりをしていた大国主命に国譲りを強制させたのである。大国主命は徳で支配していたのに武力で制圧されたのだ。

まったく先祖神を理由に権力の簒奪を正当化するのはあきれたものである。梅原はスーパー歌舞伎の戯曲『オオクニヌシ』で平和国家を建設した英雄オオクニヌシを賛美し、それを侵略した筑紫のニニギノミコトの勢力を侵略者として糾弾している。

仏教だと今現在の支配者が仏に帰依し、自ら菩薩として衆生済度のために献身することで、人民の帰依を得、徳で治める政治を実現できるのだから、説得力がある。なるほど、それは素晴らしいことである。でも逆に言えば、大王が煩悩に負けて私利私欲で国を支配すれば、人民の帰依を得ることができなくなり、国が滅びてしまうことにならないだろうか。つまり相当大王がしっかりしていなければ、仏教はかえって国を滅ぼす元になりかねない心配があるのだ。

そこで、どれほど深く仏陀に帰依しているかを見せびらかすことで、自分が菩薩であることを証明することになってしまいがちである。その極端な例が聖武天皇である。聖武天皇はすっかり行基に嵌ってしまった。その結果、大仏造立、国分寺・国分尼寺の建立などでおびただしい国費の無駄遣いと、人民への負担を強いたということである。それが聖徳太子の理想とした仏国土の実現だと思い違いをしてしまったのだ。聖徳太子だってたくさん寺院を建立しているから、それを見習ったということである。

聖武天皇は平城京を捨てて、遷都を繰り返すなど異常な行動が目立つ。国家の財政ということには全く配慮がなくて、思いつくまま行動してしまう。でも本人は菩薩天子として大胆に行動したつもりだったのであろう。その意味では孝謙上皇(称徳天皇)も、最も徳のある僧侶が国を統治してこそ仏国土になると確信して道鏡への譲位に固執したので、菩薩天子にふさわしいとも言える面ももっていたのだ。

梅原は『海人と天皇』で、宮子媛という海女出身の卑母をもったことが聖武天皇やその娘孝謙天皇のコンプレックスの原因と睨んでいる。それが極端な行動に駆り立てたという推理である。たしかに仏教に基づく国づくりを徹底すれば、最も徳の高い僧侶に皇位を譲るという結論も分からないではない。

 

       9.『法華義疏』は聖徳太子の真筆か?

 

     天台の教え知らずに経を説く使いは空し長安の空

      

このように、仏教と政治の結合というのはろくな結果を生まないことが多いと思われるが、では聖徳太子の仏教というものはどういうものだったのか、検討しよう。

先述したように、五九五年に高句麗僧慧慈が来日し、太子の師になってから十一年目の六〇六年に『勝鬘経』と『法華経』について太子自ら講経を行った。そのご褒美に、田地の寄進を受けて、斑鳩寺などの建立に役立てている。また六〇九年から六一五年にかけて『三経(勝鬘経・勝鬘・法華経)義疏』を作成していることになっている。仏教を教養の一環として学んだのでなく、菩薩天子を目指して専門的に学んだのだから、講経まで十一年、『三経義疏』完成まで二十年というのは決して短すぎて不可能と言われることはないのである。

現存する『三経義疏』については聖徳太子の著作かどうか議論がある。特に聖徳太子の直筆とされる『法華義疏』については疑問が多いようだ。当時隋では天台智が煬帝の帰依をうけて権威があったのだが、六一四〜六一五年に著述した『法華義疏』の内容は、光宅寺法雲の『法華義記』の説にとどまっている。つまり五時八教・一念三千・三諦円融の教説がないのだ。古田武彦によれば、それでは六〇〇年と六〇七年に遣隋使まで派遣しているのに天台智の教説を入手していないことになり、おかしいじゃないかというのである。

梅原は『法華義疏』には、「小乗仏教」を「少乗仏教」と記すなど仏教についての初歩的な誤解があると思うと天才的な鋭い解釈があったりするので、聖徳太子の著作だと確信しているようだ。しかし、そういう傾向は若き留学僧でも見られるので、だから聖徳太子だとは言い切れない気もする。

ただ現存する『法華義疏』が聖徳太子の直筆でなかったとしも、聖徳太子が『法華義疏』を書かなかったことにはならない。天台智の教説も含んだ聖徳太子の『法華義疏』は別にあったかもしれないのだから。それに聖徳太子が天台智の教説を理解していたと思われる文献というのも実は存在していないのだ。さらに天台智の教説は、天台三大部といわれる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』に展開されているのだが、これらは、天台智の没後三十年後に完成している。天台智の高名は轟いていたとしても、適当なテキストは入手できなかったかもしれない可能性が大なのである。

 

        10『勝鬘義疏』と菩薩太子

 

    人も花もその哀しみも収めとり救いの露を与えまほしや

 

ところで『勝鬘義疏』は聖徳太子の著作であるというのは確かなのだろうか。 『勝鬘経』は、女性である勝鬘夫人の著作である。それを『勝鬘義疏』は、女帝である推古天皇のために推古天皇になりかわって、研究し、紹介しているのである。だったら摂政の厩戸皇子の業績にふさわしいといえる。

本来なら推古天皇が講経できれば菩薩天子としてはベストである。しかしそう経典を解説できるほどの学問修行をできる人はめったにいるものではないのだ。高句麗の学僧慧慈について仏教修行を積んでいた厩戸皇子が女帝に成り代わってするというのは納得してよい。ではそれだけでなく、もっと内容的にも聖徳太子ならではということはあるのだろうか。

最終的な仏の境地は十地と呼ばれる。勝鬘夫人は七地の位にいて、八地の位を目指して修行していたそうである。七地までの人は八地以上の菩薩の徳によって存在できるということなのある。梅原猛は次のように解説している。(四〇八頁)

「真の悟りにはいった八地以上の真身の仏は、その身自らすべての存在や人間を生み出し、その身に、すべての存在や人間をのせているというのである。仏法がすべての存在やすべての人間を出生させるというのは分かるが、そのような仏法は人間を離れてはなく、そのような仏法は、すなわちそのような仏法を摂受している人間そのものであり、法と人とは不離不即であるというのは、少し極端な考え方であると思われる。
 このように考えると、八地以上の悟りの徳にはいった人間は、すべての法と存在と人間を自己のうちにおさめとるような人間とならねばならぬ。これはまさにたいへんなことであるが、太子は真剣にこのようなことを考えているのである。もしもこのような人間があれば、彼はいっさいの存在や人間の源であるという自己を自覚し、そしていっさいの存在と人間の救済者とならねばならない。そういう人間がほんとうに実在するのか。
 私は、この摂受正法章には、やはり摂政としての太子の立場がはっきりあらわれていると思う。この世界に、高い真の悟りにはいった八地以上の人間がいる。その一念の中にすべての存在と人間を摂受し、その正法をあまねくすべての存在と人間に与え、彼らを救わねばならない。これは帝王の理想であるとしても、あまりにもきびしすぎはしないか。このような八地の位にいたった人間は、いつたい何をすべきであろうか。」

「ここで、すべての法と人とを出生させる八地以上の人間の行が三つの捨であると、太子が説明していることに注目したい。命を捨て、身を捨て、財を捨て、人間を救済するための八地以上の菩薩は、こういう行をしなければならないと太子は本気で考えているのである。この正法を摂受する人間のおどろくべき力を明らかにした上で、太子はこのような人間の心もまた、それを生み出した存在や人間とともに一乗の仏教の中におさめとられるというのである。」(四〇九頁)

 

ということは、厩戸皇子は、すでに自分は八地以上の菩薩に成っていると思っていたのだろうか。そこまでは思っていなかったにしても、本来、菩薩天子や菩薩太子はそこまで自分を高めなければならないと思っていたことは間違いの無い事実である。つまり為政者の施策しだいで、人民が塗炭の苦しみをなめることもあれば、ひもじい思いをすることなく、幸せな暮らしをすることもあるわけだ。為政者は自分の行動が人民の存在そのものを生み出しているぐらいの自覚がなければならない。

しかしその自覚が昂じて、思い上りになると王土王民だから、どんな専制政治も許されるという考え方になりがちである。煬帝などは、自分を菩薩天子と思い込み、自分次第で世界を救うことができるから、身を捨て、命を捨てて、あらゆる財や力を用いて素晴らしい世界を実現しようと考えたのだろう。素晴らしい志だったのだ。それがすべては自分にかかっているのだから、何をしても許されるべきだということで、戦争と苦役に人民を駆り立てて、結局自らの墓穴を掘ってしまったということである。

梅原猛本人だって、聖徳太子に思い入れが激しいので、聖徳太子と自分自身を同一視し、自分次第で世界を救えると思い上がっているのではないかという批判もある。しかしそういう全能意識というのは、政治家はもちろん哲学者や宗教家にも必要である。人間だれでも世界に対峙し、世界を憂えて生きている。世界自身の意識として存在していると言えるのである。

だから我々一人ひとりが世界に働きかけ、世界を動かせると考えて行動しているわけで、多少なりとも、世界は自分にかかっていて、自分が生み出しているという八地以上の心を持っているはずなのである。それを聖徳太子は為政者ならばより強く自覚する責任があるといいたかったのだろう。もちろんそれが昂じて暴君になってしまっては困るのだが。

『勝鬘義疏』にみられる高い志は、聖徳太子が倭国に仏教を導入するということを、大王が仏陀になって、衆生を救済するというイメージで捉えていたということを示している。だから王が聖人・君子であるべきだという儒教の考えと近かったと言えるだろう。もちろん梅原自身も世界人類の救済を願う菩薩の心をもっている。環境や平和や教育再生に命を削って取り組んでいるのである。

              
11.さす竹の君

 

    さす竹の君はいずこぞ火炎瓶投げつけられてホームレス哀れ

 

そういえば本来仏教というのは、出家して世俗から離れて修行するというものなのに、聖徳太子の時代の仏教は、為政者が菩薩ということなので、為政者が政治で人民を救う儒教の王道政治と近い発想だといえる。

『憲法十七條』では仏教、儒教、法家思想が巧みに組み合わされている。全く異質で正反対の思想と思われていた思想が、非常に近かったり、補完しあえるものだったりするのだ。それが三国・南北朝の時代の文化の特色なのである。この時期には儒教、仏教、道教その他の諸子百家の古典から名言を引用して巧みに組み合わせて文章化する四六駢儷体の文章がもてはやされた。ようするにバランスがとれた考え方が尊重されたのである。だから仏教は他の思潮を収めとるような豊かな内容に発展しようとしていたのである。

それに聖徳太子は『勝鬘義疏』では一乗仏教という言い方をしている。これは小乗仏教や既成の大乗仏教とはどう違うのか。まず小乗仏教という呼び方は、声聞や縁覚などの上座部仏教に対して、彼らの姿勢は「自己一身の悟り」を追求するだけなので、小乗だという大乗仏教からの批判的な呼び方である。

これに対して、大乗仏教は煩悩に苦しむすべての生きとし生けるものの救済つまり衆生済度を目指す教えである。その際に、大乗仏教は、初期においては、「自己一身の悟り」を目指していた声聞や縁覚などの小乗の連中は決して救われないとしていた。ちなみに声聞とは釈尊の教えを聴いて悟りに達した弟子たちのことで、縁覚とはそれ以外の人でその人なりのきっかけがあって悟りに達した修行者たちのことである。

それに対して、『勝鬘経』や『法華経』の段階では、声聞や縁覚はたしかに低い段階の悟りなのだが、そういう連中は救われないとする既成の大乗の立場も七地以下の低い大乗仏教だというのである。八地以上の高い悟りによって、声聞や縁覚も狭い了見を反省して救いに導かれるというのである。このように声聞や縁覚も、低い大乗仏教も包み込む高い悟りを一乗仏教と呼んでいるのである。

それでは聖徳太子は自ら八地以上の境地まで達して、すべての衆生を済度しようという意気込みだったのだろうか。というよりそのような貴い教えを説くことによって、菩薩天子や菩薩太子と共に清浄な国をつくろうという気持ちに人々をさせよういうことであろう。

八地以上の境地に達したかどうかは、そこに達していない我々が判断できることではない。しかし、梅原猛が『仏教の思想』で分かりやすく紹介した、天台智の「十界互具」や「一念三千」の思想によれば、仏の境涯の中に地獄があり、地獄の境涯の中にも仏があるのだ。八地以上の境地も八地以上を目指す心の中にあるのだ。

しかし、聖徳太子が高い志を説けば説くほど現実とのギャップが大きくなり、政治への挫折感に襲われることになる。そのうえ、隋の煬帝が高句麗に敗れて国を滅ぼすことになってしまった。これは聖徳太子にとって想定外のことでさぞかしショックだっただろう。(三二四頁〜三二六頁)また彼の遣隋使外交にとって大きな挫折につながった。国内政治の改革も人民が救われるところまではなかなかいかないものである。
 『日本書紀』には、六一三年に片岡山で飢えたる者に衣服と食物を与えたというエピソードがある。その際に「しなてる 片岡山に 飯()に飢()て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)()りけめや さす竹の君はや無きに 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ」(
片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れた、そこの旅人よ、可哀相に。親もなくて育ったのか。ご主人様はいないのか。食い物もなく、餓えて斃れた、そこの旅人よ、可哀相に)と歌っている。(三一三頁〜三二一頁)

つまり一乗仏教の立場からみると、飢え死にするような人民を出す君主というのは本来の君主とはいえないということなのである。自らの為政者としての責任を痛感しているのである。二十一世紀になっても、たくさんのホームレスを出しているのに平気な為政者もいる。聖徳太子のつめの垢でも煎じて飲ませたいものである。

このようについ我々は為政者の怠慢や責任を云々してしまうが、そういう前に己自身の怠慢を反省すべきである。為政者を選んでいるのは我々なのだから、安易に責任転嫁してしまってはならないのだ。

ところで梅原はこの片岡山事件に為政者としての太子の葛藤と矛盾を見出している。為政者は一人の飢え死にする者も出さないように政治をする責任がある。だがかといって、いちいち行き倒れになっている人を個人的に救済していれば切がない。それは行政の処置にまかすしかないのだ。
 「当時、飢えたる人はけっしてこの人一人ではなかったろう。国内にたくさんの飢えたる人がある。もし太子が一人の人に食や衣を与えたら、すべての飢えた人に食や衣を与えねばならない。すべての飢えたる人が、この人のように食と衣を要求して、社会に飢えをもたらした政治家の責任を追及したらどうなるか。それは明らかに律令国家の基礎を崩壊させることになる。律令国家の頂点にいる太子自らが律令国家を崩すようなことをしていてよいのであろうか。」(三二〇頁)
 梅原は『憲法十七条』には天皇中心の縦の身分秩序を作ろうとする秩序の思想と、仏教的な平等思想が共存していると見ている。身分秩序を守ろうとすれば、最底辺の人々が餓えることに対して政治の悪を責め、為政者の資格を問うことは革命思想につながるとして否定されるのだ。それは最高権力者である摂政太子の自己否定なのである。

それで梅原は、聖徳太子が政治家から仏教思想家に傾斜しすぎたために蘇我馬子にすれば、疎んじざるを得なくなったのではないかと分析している。梅原はおそらくそういう人間的な苦悩を抱えて、尊い志を持ちながら政治の舞台から退かざるを得なかった太子の人間性に惹かれているのであろう。

 

             12.煩悩即菩提

 

     煩悩に染められてこそ煩悩を超えし涅槃が微笑みしかは

 

ところで仏教では、心静かな涅槃(ニルバーナ)の境地は、欲望を吹き消した境地だと説いている。つまり欲望を克服するには、無我の真理を覚らなければならないということなのである。しかし現世に生きていくということは、欲望を充足して生きていくということである、だから煩悩から離れることはできない。そこで大乗仏教は、この欲望に囚われた煩悩の世界にこそ覚りがあるとした。つまり煩悩即菩提だと説いたのだ。『勝鬘義疏』でもこの煩悩即菩提という覚りが究極の真理だというのである。ちなみに菩提とは辞書によると、梵語bodhiの音写で、智・道・覚と訳す。「煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること。また、悟りの智恵」である。

これがいわゆる「如来蔵思想」である。如来とは仏陀のことである。如来蔵とはだから仏陀であるという本性つまり仏性が備わっているということなのだ。一切衆生つまり生きとし生ける者には仏性が備わっているのだ。これを「一切衆生悉有仏性」という。だから煩悩に苦しんでいる衆生の暮らしの中にこそ、煩悩を克服した涅槃の境地があるということなのである。

ただ「蔵」ということは表面に現れていないで、隠し持っているという意味である。煩悩によって生きているとなかなか仏性は見えてこない。仏性というのは無我の真理を覚った心であり、あらゆる煩悩を離れた自性清浄心である。それをみんなが持っていて、それで個々の衆生が煩悩を超えて、大いなる生命の現われとして生きているのだというのである。

しかし勝鬘夫人は、煩悩の中にあって煩悩に染められているのに、それでも汚れていないというのはパラドックスではないかという。それで勝鬘夫人は釈迦に説明を求めたが、釈迦もそれはむつかしいというだけなのだ。結局そのパラドックスを生きるしか、心を清浄にすることはできないということだろう。

最も卑近な例で食べるということを考えよう、我々は食欲の世界で生きていて、食べることの煩悩に苦しんでいる。食べることに思い悩んでいては、もちろん心静かな悟りの境地(菩提)に入ることなどできるはずは無い。しかしだからと言って、何も食べなくても生きていけるような世界に住んでいても菩提に入ることはできない。つまり菩提は煩悩があって、食べるために働き、食欲を充足させる生活にこそあるのである。食べる生活の中にこそ、食べることを超越した境地があるのである。

日本人哲学者の代名詞になっている西田幾多郎は饅頭が大好物だった。西田の孫上田久の『祖父西田幾多郎』には、饅頭と座禅の関連についてのユーモラスなエピソードが紹介されている。西田は客に出した饅頭まで無意識のうちに食べてしまう煩悩に苦しんだのである。そのせいで彼は自己嫌悪に陥ったぐらいである。これではいけないということで、座禅によって克服しようとしたのだ。
 饅頭食べたいという煩悩を克服するというのは、饅頭を食べたいという欲望をゼロにすることだろうか。そうではない。饅頭をうまいうまいと言って食べてもいいのだ。しかし饅頭に心を囚われて、心が乱れ、大切なことを忘れてはならないということである。

寺や山中で修行して無我の真理を覚り、欲望を克服するという小乗仏教のやり方を、為政者がまねるわけにもいかない。それでは毎日煩悩に苦しんでいる衆生を救うこともできないのだ。共に煩悩に苦しみ、煩悩に生きてこそ、煩悩を克服することもできるわけである。

だがそのためには自らの中にある煩悩に染まらない心、仏性を先ず信じていなければならないのである。その確信があるからこそ捨身、捨命、捨財ということがいつでもできるのだ。聖徳太子は自らの中にある仏を、修行の末にやっと確信するというのではなく、わりと若い時から信じ込んでいたのかもしれない。彼は生まれついての仏教徒なのだから。この指摘は重要である。「三つ子の魂百まで」というが、幼いときから利発だったので、菩薩太子に育てようとして、周囲が釈迦の生まれ変わりに違いないとかいって育てたのではなかったのかと想像できる。それで彼は自分の中の仏性の存在には少しも懐疑がなかったと思われるのだ。

 

            13.輪廻する精神

 

    世の中やそろそろどうも煩わし仏に戻りて次生に備ふや

 

厩戸皇子が『維摩経』の講経をしたという記録はない。だがその注釈書である『維摩義疏』は存在する。これも聖徳太子の著作だという根拠はあるのだろうか。維摩居士は在家の修行者だった。「自己一身の覚り」を求める小乗仏教を徹底的に批判したのである。聖徳太子も在家の修行者として維摩居士に自分の思いを託したことは十分考えられるのだ。

聖徳太子は『維摩経』を最高段階に達した釈迦の教えだと受け止めていたようだ。しかし天台智の五時八教説によれば釈迦の説いた教説としては五時のうちの第二期方等時の教説で、不完全なのである。維摩詰はすでに八地以上で真如とひとつになっていると聖徳太子は解釈していたのである。その維摩詰が、世俗の人の姿で現れているのである。それで、維摩詰は煩悩に惑わされる国や家の事業を煩わしいと感じていたのだが、偉大な憐れみの心つまり「大悲」がやむことが無いので衆生を救おうとこの世にいるわけである。

ということは聖徳太子も彼に思いを仮託しているのだとしたら、国家の事業にかかわっているのが、煩わしくなってきたということになる。だとすれば、聖徳太子は自分を八位以上においていたことになる。

梅原もそのことに着目している。聖徳太子は冠位十二階の制を定めて実力主義の登用を図ったり、『憲法十七條』で国家や人倫の原理を打ち立てたりするのには素晴らしい才能を発揮した。難解な経典の解読や講義もできる。その意味で哲人や学者としては超一流であったが、蘇我馬子のような政治的手腕は持ち合わせていなかったのである。

現実の改革が思うように進まず、片岡山の旅人の哀れな姿を見て、挫折を感じ、政治を煩わしく感じるようになったのではないだろうか。そして自分が菩薩太子としてできることの限界を覚って、ますます仏教の世界に入り込んでいったと考えられるのだ。『聖徳太子伝暦』では、晩年には次生は皇子ではなく、庶民となって生まれて、下から仏教を広めようと考えていたというような説話もあるという。

維摩もそろそろ煩わしくなってきたので、入滅して仏の世界に戻り、次の生まれ変わることを考えているようなことをいう。彼は教えを説くために仮病をつかった。いかにも重い病気にかかったようにみせて、仏弟子たちに見舞いにこさせ、彼らの了見の狭い小乗の教えを論駁したのである。たとえ本当に病気になっていたとして、その結果死んだとしても、それは仏の世界に戻り、次の世に生まれる準備をしていると解釈されたのだろう。

「太子の語るところによれば、彼は『法華経』行者の七世の生まれ変わりで、この極東の皇太子に生まれて多少、仏法を広めたが、やはり今の身分では限界があるので、もう一度死んで、次は民衆の一人に生まれ変わって仏法を広めたいというのである。この聖徳太子の生まれ変わりが行基となってあらわれることになるが、もしほんとうに太子がそう考えていたのならば、彼は病むことなくして死ななくてはならない。」(七〇六頁)

おそらく生まれ変わりが行基だというのは梅原の独自の解釈だろう。当時は太子本人も含めて、そういう仏が何度も生まれ変わって衆生を済度されるということがまことしやかに信仰されていたのである。聖武天皇は行基に帰依して、暴走したが、行基が自らを聖徳太子の生まれ変わりだと言った証拠はないようだ。しかし聖武天皇の常軌を逸した行動から鑑みると、聖徳太子信仰や生まれ変わり信仰があって、聖武天皇は行基を聖徳太子の生まれ変わりと思い込んだ可能性はある。あるいは民衆の一人になって生まれ変わるという伝承は平安時代以降だったとも考えられるので、自分自身を聖徳太子の生まれ変わりと思っていた可能性もあるのだ。

同一人物が何度も生まれ変わるという発想は、荒唐無稽なように思われるが、同じ想い、同じ精神が何度も受肉して活躍することを表現したものと解釈すれば、我々も自らを仏陀や聖徳太子の生まれ変わりと自覚することは大いに意義のあることである。その意味でなら、現代に太子の怨念と「和の精神」を伝え、見事に蘇生させた梅原猛は、聖徳太子の生まれ変わりであると言っても過言ではないかもしれない。

 

          14.山背大兄皇子と「捨身飼虎」

 

        和の国を築く太子の志継ぎて山背皇位望めり

 

では改めて「聖徳太子の夢」とは何で、それを梅原はどう継承しようというのだろう。太子の夢は、梅原が継承する前に、山背大兄皇子が先ず継承したのである。彼は自ら菩薩天子になって聖徳太子の構想していた『憲法十七條』にもとづく和の国造りをしようと、皇位継承を求めたのだ。

ところが蘇我氏にすれば、山背大兄皇子は舂米女王(つきしねのおうじょ)としか結婚していない。皇女たちや蘇我氏の娘たちと婚姻してきちんと親戚づきあいしていないものだから、相手にできないわけなのだ。それでも聖徳太子の後継者ということで血筋と理念で皇位継承を迫ったものだから、邪魔者扱いされて、六四三年に入鹿や他の皇子たちに襲われたのである。

襲われた時の山背大兄皇子の態度が聖徳太子の思想を継承していたのだ。山背大兄皇子は決して争って皇位を取ろうとしたのではなかったのだ。あくまでも『憲法十七條』の和の国を造るために、その為には山背大兄皇子が最もふさわしいということなのである。それを暴力で排除しようというのだから、蘇我入鹿や他の皇子たちには、和の国を作るという気持ちが全くないわけである。

それならということで、山背大兄皇子が東国に逃げて、地方豪族を糾合して内戦に持ち込めばあるいは天下を取れるかもしれない。しかしそんなやり方では和の国はできない。それより山背大兄皇子が邪魔だから国がまとまらないというのなら、いつでも国のために身を捨て、命を捨ててもかまわないのだ。法隆寺の玉虫厨子には「捨身飼虎」の絵があるが、この自己犠牲の教えを山背大兄皇子は父から教わっていたのである。

山背大兄皇子は自分の一族を犠牲にすることによって、力づくで国を牛耳るというやり方が間違っているということを示したのだ。それで蘇我入鹿は孤立してしまい六四五年のクーデターを招いたと考えられる。山背大兄皇子が捨身飼虎の実践をして一族諸共入滅したわけだが、こんなレベルの低い連中の相手になってられないから、みんなで聖徳太子の待つ天寿国へ行こうというような気持ちだったかもしれない。つまり不殺生戒を実践した始めての本格的な殉教なのである。その衝撃は想像を絶するものであっただろう。つまり仏教を本気で信仰して、そのために一族で殉教してしまったのだから。

これを梅原猛は『隠された十字架―法隆寺論』で扱った。聖徳太子は入鹿とぐるになって山背大兄皇子一族を死に追いやった中大兄皇子や中臣鎌足つまり藤原氏一族に祟ったというのだ。というより、皇子たちや藤原氏に何かあったときに聖徳太子の祟りではないかと恐れられて、それで法隆寺が再建され、聖徳太子の怨霊を封じ込めたという解釈である。

皇子たちや藤原氏は聖徳太子を恐れるあまり、仏教に熱心に帰依して仏教に基づく国づくりをしようとした。その集大成が聖武天皇である。彼は行基に帰依して、国分寺・国分尼寺の建立、大仏造立を行い、「篤く三宝を敬へ」を実践したのだ。そして称徳天皇は血筋ではなく、徳の高い僧侶に皇位を譲ろうとする究極の仏国土造りを試みたのである。それらは無茶苦茶と言えば無茶苦茶なのだが、彼らなりに受け止めた「聖徳太子の夢」を追い続けたということであろう。

 

           15.武器なき世界へ

 

    国ごとに武力で対峙続けなばカルトですらもハルマゲドンか

 

それでは我々は現代において、「聖徳太子の夢」をどのように引き継げばよいのだろうか。これが梅原猛の問題意識のはずである。「和の理念」は遣隋使外交でも大いに発揮された。対等で友好な東アジアの共同体を作り上げること、これが今日でも大切である。梅原猛はEUの向こうを張ったAUアジア連合の結成を呼びかけているのだ。

その障害になっているのが、戦犯を合祀している靖国神社に小泉前首相が参拝を繰り返した問題である。梅原は、怨霊を鎮魂する神道の立場では征服されたり、侵略されたりした人々の怨霊を鎮魂することを優先すべきだと言っている。つまり、日本の侵略戦争のために戦って死んだ人々を祀る前に、侵略されて日本軍に殺された人々を祀るのが道理だというのである。小泉前首相は特攻隊員にいたく感動していたが、日本軍の侵略で無念の思いで殺された人々のことで胸は痛まないのだろうか。

和の論理に立てばどちらの鎮魂を優先すべきか自ずと明らかである。でもこんな当たり前のことを言っても、なかなか通じない。欧米のアジア侵略に対抗するために、近代日本の大陸進出は必要だったとか、日本軍よりも中国共産党の方がよほど残虐だったとかいって、一向に反省しようとしない人々が増えている。

欧米帝国主義や中国共産党を事実に即して批判することは、大いに結構なのだが、それを理由に日本の侵略や植民地支配、戦争犯罪などを正当化するようでは、東アジア共同体はおろか、東アジアの平和を保つこともできない。

自衛隊はシルクロードを超えてイラクにまで派遣された。憲法が自衛軍を認め、安全保障上の国際的貢献を承認すれば、いよいよ戦争に参加することになる番である。それを懸念して梅原は「九条の会」で活躍しているのである。

それにしても中東紛争などを国際的に解決するきちんとした体制はつくれないものなのか。もちろんグローバルな規模での平和維持体制が構築される必要があるのだ。もう国家単位で武装して対峙しあうことをいつまでも続けているわけにはいかない時代なのだ。武器は不断に進歩してきた。そして人類を絶滅させるような最終破壊兵器になっている。しかも小型化、低廉化しているのである。

それらをカルトや国際テロ組織が保有すれば人類は滅亡の危機に向かうだろう。そのことを一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件と二〇〇一年の九・一一のアルカイダによる同時多発テロが如実にしめしているのだ。

これからは国連などの集団安全保障機構が警察軍を組織して、そこに最終兵器を集中管理し、全面的に廃止していくべきである。そして各国単位の軍備はなくすべきである。憲法第九条はその意味でさきがけとしての重要な意義をもっているのだ。

梅原は憲法第九条を守るために奮戦しているが、世界有数の戦力を保有しながら、憲法第九条で戦力不保持をいうのは詐欺的である。憲法第九条を盾に自衛隊の海外派兵に歯止めをかけるのは身勝手過ぎるのではないかという批判がある。

たしかに「九条の会」のメンバーには自衛隊は合憲で、日米安全保障条約も堅持すべきだけれど、自衛隊の参戦を防ぐために改憲反対を唱えている人もいる。梅原猛はその点どう考えているのだろう。戯曲『オオクニヌシ』から私なりに推察するなら、梅原は、憲法第九条を掲げている以上、それを字句通り守るべきだと考えていると思われる。いわば「九条原理主義」である。国際社会もそういう非武装国家の安全を保障するような国際条約を締結すべきだと考えているだろう。こういう問題は日本だけで解決できるわけではないので、最終破壊兵器をなくし、軍事同盟をなくし、完全軍縮に向けて動き出すようにそれぞれの持ち場からはたらきかけていくしかないのである。

非武装国家というのは非現実的だという議論があるが、コスタリカは日本国憲法を見習って一九四九年憲法により常備軍を禁止した。治安維持のための国家警備隊及び地方警備隊があるだけである。(約八四〇〇人)その他にも軍隊のない国というのは二十カ国近く存在する。それに第二次世界大戦後は戦争した国家はそれほど多くなく、国家間の戦争は極めて難しくなっている。現実に国家が武装して国の安全を守るより、国際混成の国連軍が紛争地域を管理するようにした方が、公正であり、経済的である。

 

          16.宗教的和解

 

     同じ神信仰したる同士ならなどて争う共倒れるまで

 

聖徳太子の和の論理は、妥協の論理ではない。独善を戒め、互いに学び合い、批判し合って、共通の課題を解決するために、智恵を出し合っていくというやり方である。仏教・儒教・法家の思想が「思想の五重塔」になってコラボレーション(組み合わされて共同作業)しているのである。思想的な対立や立場の違いはあっても、信念対立による衝突を回避して、共通の課題では協力を組織できるのである。

また和の論理による共同作業を通じて、互いに異なる問題意識やアプローチを突き合わせることで、自分たちの発想の通じる領域の限界が見えてくることもある。つまり自己の意見を相対化し合うこともできるわけである。そしてこれまで抱えてきた難問も、相手の世界では別の思想構造によるアプローチで難なく解決できていることを学ぶこともできる。かくして協力を通じて新しい社会関係が形成され、文化の融合・発展がみられるようになるのだ。

梅原は、『評伝 梅原猛』のティーチ・インの講演の中で、九・一一の同時多発テロにショックを受けて、一神教の独善性に危機感を表明している。一神教はとことん共倒れするまで戦うしかなく、その廃墟の上に多神教の原理で人類が融和できる文明を構築するしかないような捉え方をしていたのだ。私はそれでは困るから、一神教同士も和解できるような和の論理を構築しなければと注文をつけている。はたして一神教どうし、あるいは一神教と多神教の和解の論理というのも、和の論理の射程に入るのだろうか。

和の論理は、縄文の森の文化と大陸伝来の弥生の農耕文化が激しい征服と抵抗、衝突と融合を繰り返す中で、形成されたと、梅原は受け止めている。それはスーパー歌舞伎を生み出した『ヤマトタケル』の悲劇に結晶しているのである。

森を切り開いて農耕が行われるのだから、縄文と弥生の両者は非和解的な関係なのだが、幸い、水稲耕作は大量の水を必要としている。これが膨大な山林を必要としたことで、両文化の棲み分けや融合を可能にしたのである。

古代オリエントやヨーロッパの小麦栽培は、大量の森林を伐採して行われた。そのためにメソポタミア文明は砂漠化して滅亡してしまった。古代ギリシアやヨーロッパの森林は今では見る影もない。

 宗教的和解をするにも、文明の前提である自然がなくなっては、宗教だって育たない。だからどんなに非和解的にみえても、歴史的教訓に学びや共通の課題に取り組む中で、共存共栄していく道は必ず拓ける筈なのである。

たしかに一神教は教義的には唯一絶対の神を信仰し、異端信仰を排除する好戦的な宗教である。私はヤハウェ一神教の成立自体、フェティシズムや偶像崇拝による神への冒涜をあげつらい、それを理由に他民族をホロコーストすることを正当化するために造られたのではないかと思っている。もちろんそれは意識的にではない。無意識のうちにではあっても異民族抹殺を正当化したいという心理が働いたということではあるのじゃないかということである。

もちろん現代では神に対する冒涜だからという理由で、フェティシズムや偶像崇拝をしているものは抹殺すべきだとは考えていない。近代に入って人権意識がずいぶん発達し、価値相対主義的に見方が広がり、フェティシズムや偶像崇拝も、それなりの合理的な宗教意識によって生じていることが認められるようになり、抹殺しなければならないとまでは考えなくなったからである。
 一神教同士の争いも、実際には教義の違いをめぐって紛争が起きているのではない。それぞれの宗教の勢力範囲や、その中での経済的利権とか、聖地管理権とかの具体的な利権に係わる紛争なのである。イスラエルの建国が問題なのも、アラブ人の居住していた地域に建国したことによる紛争である。だからユダヤ教を信仰したら殺すというのではないのだ。教義が違うと戦争するというのならずっと戦争していなければならないことになる。

だから共存共栄できる条件さえ整えば、平和は来るのだ。これ以上戦いを続けることはお互いに衰退の道しかないと覚れば、平和を構築するための協同は可能なのである。それに一神教の場合は、呼び名はヤハウェとアッラーと違っていても、同一の神を信仰しているのだから、宗教的対話を通して、宗教的な和解や融合も可能な筈である。

これに対して聖典が固定している限り和解は無理ではないかという批判もある。これまでも十字軍やユダヤ人迫害に対してローマ・カトリックは正式に誤りを認めている。ユダヤ教徒にしても、たとえ『バイブル』に神の意志に従ってと書いてあることでも、自分たちが行った過去の歴史上のホロコーストに関して、今でも正当だったとは言えないだろう。そういうことに関しては反省を明らかにすることは可能な筈である。

イスラムの行った過去の侵略や虐殺についても反省は可能で、その上で互いの独善を反省して、平和な愛の宗教に純化していけば、一神教の間の教義的な溝も随分埋まるはずである。また溝があってもそのことで憎しみ合うこともなくなるだろう。

現在の宗教間の紛争は教義とは関係なく、政治的権限や経済的利権をめぐって争われているが、一時的に政治的経済的な妥協が行われても、過去のホロコーストなどへの歴史的総括が行われていないと、感情的なしこりはいつまでも解決しない。紛争の再燃は避けがたいのである。

梅原にすれば、二千年間、一神教間のにらみ合いは一向にらちがあかなかった。そろそろここらで一神教には見切りをつけて、多神教の原理で人類の未来を構想すべきだということだろう。その気持ちは良く分かるが、かといって一神教間の対立を放置するわけにはいかない。一神教間の戦争や対立によって人類が直接滅亡したり、環境問題に対処できなくなったりする可能性も大きいからある。

 

           17.コラボレーション

 

   異質なる思想、文化を組み合わせ大樹つくりて花咲かせみむ

 

和の論理を二十一世紀のエートスまで高めるためには、何かまだインパクトが足りない気がする。それは多様なものを共通の目標に向かって、コラボレーションさせる企画力である。構想力が必要なのである。元々異質なもの同士なので、どうもしっくり行かないものである。気に食わないものがあるのだ。それを共通の課題があり、平和や環境やさまざまな事業のために手を組ませる、一緒にやれというと、なんだかうさんくさいとか、あいつら我々を馬鹿にしてるとか、下に見ているとか思うものである。それでうまくいかないのだ。かえって新たなトラブルを生んでしまうものなのである。

これを解決するためには双方がそれは面白そうだ、ぜひ参加させてほしいと思わせるような企画がなければならない。そして双方の間に溝が生まれ、軋轢が起こったときにトラブルを解決するさまざまなアイデアとノウハウを蓄積しておかなければならないのだ。

その意味からも梅原猛は注目に値する。彼は、コラボレーションの天才である。梅原と市川猿之助劇団とのコラボレーションがスーパー歌舞伎を生み、茂山千之丞や横尾忠則と組んでスーパー狂言が生まれた。京都芸術大学の移転問題で組織力を発揮してから、新京都学派の軸になって国際日本研究センターを立ち上げるなど梅原にはコラボレーションして大きな力を結集する求心力があるのだ。

梅原は、学者や文学者だけでなく、政治家、実業家、芸術家、芸能人、環境問題や様々な実践運動に取り組んでいる人々などいろんな分野の人々とつながりを持ち、対談もしている。聖徳太子は豊耳と言われ多くの人の訴えを同時に聞いたといわれているが、それは異質な文化や思想を巧みにコラボレーションしようとしたということでもあるのだ。それは再三指摘しているように『憲法十七條』が見事に思想の五重の塔になっているということからも分かる。和の論理は、グローバル化が進行する二十一世紀に、多様な民族の多様な文化、多様な発想をぶつけ合わせ、コラボレーションをけしかける論理なのである。国際日本研究センターは、国際的なコラボレーションの重要な拠点になっているのだ。

その意味では『ギルガメシュ』の中国公演の意義は大きい。中国の歴史の中で環境問題に目覚めさせた梅原の功績は大きいのだ。それにしても恥ずかしいのは、『ギルガメシュ』が日本で公演されていないということある。環境省と文部科学省が後援して全国各地で公演し、中学生・高校生に必ず鑑賞させて、感想文を書かせるぐらいの環境教育は最低限行うべきである。

我々は梅原の行動力にただ賛嘆するだけでは駄目だ。自らの場所で可能な限り、構想力を働かせて、和の論理を実践し、コラボレーションを実現していかなければならないのだ。その意味では私は、梅原猛を取り上げることで、和の論理を実践しているのである。またそれだけでなく、「哲学の大樹」や「人間論の大樹」という異質な哲学や人間論をそれぞれ有効範囲を画定して、大きな大樹の中に位置づけ、哲学や人間論の総合を目指している。これも和の論理の実践といえるだろう。しかし目指しているということは確かだが、今はその方法論を試行錯誤している段階でしかない。それで西條剛央の構造構成主義にも注目している。彼も梅原猛ファンの一人である。

 

         18.戦後の総決算と聖徳太子


     戦後との決別叫ぶ安倍首相和の国つくる原点忘るな

 

安倍首相は、戦後政治の総決算を掲げ、憲法改正を柱とする「美しい国づくり」路線を打ち出した。その安倍首相は在任一年で憲法改定の宿願を果たせず、精神的ストレスが極限に達したのか、辞任に追い込まれてしまった。彼が否定したい戦後とは一体何だろう。それは平和と民主主義の戦後価値であり、経済的には良くも悪くも日本的集団主義ではないだろうか。梅原はそれらを代表する象徴的な人物として「聖徳太子」を意識しているのではないかと思う。

平和と民主主義については既に語ったので、日本的集団主義について触れておこう。日本的経営理念として労務管理の「三種の神器」のようにいわれたのが「終身雇用制・年功序列型賃金制度・企業別労働組合」である。これらは高度経済成長下で長期安定雇用確保が求められて確立したものである。そのお陰で経営主導ではありながらも良好な労使体制が築かれたのだ。その基礎の上で、品質を改善し、不良品を減らし、労働災害をなくすなどの職場のQCサークル運動が生まれ、生産性の向上にも大いに貢献したのである。

高度な科学技術を生み出し、生産性を向上するには優秀な研究者・技術者を養成して、立派な研究所で新製品を発明すればよいと思われがちだが、それを使って生産している現場での労働者の生産実践から生まれる創意工夫を結集することによって、実際に役に立つ技術が生まれ、新製品も発明できるということがあるわけである。

しかし資本主義体制では、経営者からあてがわれた職務を果たせば、契約された賃金がもらえる。生産性を向上させてもそれが職場の人減らし合理化を結果して、労働者の頸を絞めるような結果にならないとも限らないわけである。長期安定雇用を保証された労使関係を前提としないとなかなか職場から実効性のある技術革新の成果を積み上げるのは難しいのだ。

QCサークル運動が生まれた一九七〇年代から、日本的経営は曲がり角を迎えていた。長年企業のために全人格的に献身してきた中堅の労働者が人員整理のターゲットにされるようになり、若年労働者の不足から年功序列型賃金制度も維持できなくなってきたのだ。そして正規従業員の比重を減らし、臨時雇用形態の労働者を増やして賃金コストを引き下げようとするようになったのである。当然労働者の企業への忠誠心は衰え、現場から衆智を集めて、生産性を上げていくということも難しくなっていったのだ。

企業は生産性を上げるためには、生産性の高い部門だけ残して、残りは切り捨てたり、外注したりするようになったのである。不可欠な部門でも企業の中に別の会社の労働者を入れて安いコストで業務を請け負わせるというやり方を取り入れている。しかしそういう別会社、別組織とのコラボレーションでは人間関係がスムーズにはいかなくなるので、トラブルや事故の元になり、生産性にも悪影響を及ぼすこととなった。結局アメリカ式の経営を取り込んで集団主義的な日本的経営を崩してきた結果、かえって日本企業の生産性や競争力が低下することになったのである。

やはり現場における労働者の労働意欲を高め、衆知を汲み上げることができる「和の精神」に基づく集団主義的な経営理念を再構築することが必要なのである。それは正規雇用と臨時雇用に労働者を分断して人間関係を阻害するような格差拡大の方向ではなく、課題に対してチームを組んだり、ネットワーキングができるような方向が望ましい。それに相応しい雇用形態、経営形態が模索されるところである。その際に、それぞれの個性を活かしながら、衆智を寄せ合い、コラボレーションによる効果を最大限にするためにも、聖徳太子の「和の精神」に常に戻ることが必要なのだ。