講話 宗教と人間

         
1アダムとエバの人間論

                         2謡曲に見られる人間観

                  3.三つのL(光・命・愛)と人間
      


     
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3.三つのL(光・命・愛)と人間
やすい ゆたか

 

はじめにー「三つのL」の提唱

 

 光・命・愛、教えの枝葉の違えども祈り求むる思い通へり

   「『三つのL、すなわち光(Light)=命(Life)=愛(Love慈悲)』を根底において捉えれば、一神教と多神教と仏教は十分相互理解が可能なはずです。すくなくとも激しく憎しみ合うことはなくなるはずです。

  今から三年ほど前ですが、新宗連(新宗教団体連合会)の55周年記念シンポジウムにコメンテーターとして招かれまして、お話をさせていただいたのですが、この団体は元々戦後創価学会が激しい折伏(しゃくふく)によって教勢を拡大していたのに対抗しまして、他の新宗教の諸団体が新宗教のあり方を語り合い、連携を深めるために出来た団体です。

 ですから創価学会のような日蓮宗系の立正佼成会もあれば教派神道系PL教団もあり、弁財天を祀る弁財宗もあるというような種種雑多な教義の団体のあつまりです。そこでみんなに通じるような話をしなければならないので、宗教に共通の原理とは何かを考えたわけです。

 その時に「光、命、愛」がどの宗教にも共通した原理ではないか、それをテーマに語り合えば、どの宗教も心が通じるのではないかと訴えたのです。その時にはまだ英語で光(Light)=命(Life)=愛(Love慈悲)で「三つのL」というネーミングは考えていませんでしたが、「光、命、愛」をどの宗教も信仰しているのではないかと考えていたのです。

 この考えをmixiの宗教関係のコミュニティで提起して反応を見たのですが、反発する人が多かったですね。中には現世利益を求めて、呪いや祈祷の宗教もありますね。教祖を神格化して崇拝したり、「闇、死、憎しみ」を原理にしている宗教もあるのではないかというのです。勝手に私が気に入っている原理を普遍化しているのではないかと反発されたのです。

 この批判は確かにもっともな批判です。「光、命、愛」をそれぞれ狭い文字通りの意味でだけ解釈し、個々の宗教に適応すれば、まるで当て嵌まっていないということはできるかもしれません。

一、「三つのL」が原理の宗教

 

 仏教も基督教も異ならず命照せり愛の光で

 では明らかに三つのLが原理になっている宗教から検討し、それ以外の宗教でも「光、命、愛」が原理であると言えないかどうか検討することにしましょう。光信仰というのは、キリスト教の場合救世主イエスは「世の光」と呼ばれています。イエスの誕生日は不明ですが、12月25日になっているのは、太陽の光が最も弱くなる のが冬至だからなのです。後はだんだん強くなるので、冬至に太陽神の誕生を祝っていたのです。そこで太陽神は「世の光」であるイエスに置き換えられて、クリスマスは12月25日になったのです。

 またイエスは永遠の生命を意味します。復活して死に打ち勝ったイエスは、永遠の命とされ、イエスとの合一を聖餐によって行なえば、イエスの肉体である永遠の命の一部になることが出来るということになっています。そして勿論イエスは、人類の罪を一身に背負って贖罪の十字架についたのですから、アガペー(神の愛)に生きたわけです。

   仏教の浄土教の阿弥陀仏信仰がありますね。阿弥陀如来こそ名前からしてそうです。梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量寿仏・無量光仏ともいう のです。つまり永遠の命と無量の光が阿弥陀仏なのです。もちろん阿弥陀仏は慈悲の権化といわれています。「三つのL」の信仰だということです。これは光を感じるということが生きているということであり、光を感情として捉えれば愛であるということになるでしょう。

 華厳経の毘廬遮那仏は、サンスクリット語のヴァイローチャナ、つまり「光照者」から由来します。それに「マハー(偉大な)」がつきますとマハーヴァイローチャナで「大日如来」です。つまり光信仰なのです。そしてその光がアルケーのように捉えられていて、つまり宇宙全体がこの光である法身仏の現れであるというように説かれています。宇宙全体が一つの仏として生きた全体であるということですから、その意味で法身仏は「大いなる生命」なのです。この大いなる生命から生まれ、大いなる生命によって育てられ、大いなる生命に戻される大いなる営みこそ愛であるということになるとすれば、光・命・愛の「三つのL」の信仰にきれいに嵌ります。

 もちろん『法華経』の久遠の本仏は宇宙を遍く照らすわけで、その面を密教では大日如来と呼んでいるのです。『法華経』で未来仏とされている弥勒菩薩も太陽神ミトラが菩薩として信仰されたものだという解釈もあります。そして生きとし生ける者を命の輪として捉えて、不殺生と共生を説いています。そして動植物も含めて苦しみからの解放を目指しているのです。

  神道で光といえばやはり天照大神です。これは太陽という自然物を神として崇拝しています 。天岩戸に神隠れして世界が暗闇になったという説話でも明らかですが、光をもたらし、物が区別されて成り立つということもあり、また熱を与えてエネルギーや命の源を作り出してくれるので、命信仰にも繋がります。スサノオとの誓約(うけひ)によってアマテラスの物実から生まれた忍穂耳命は、稲穂の神です。稲は命の源ですから、太陽から稲つながりで命の信仰といえるでしょう。

 アマテラスが恵をもたらす愛の神でもあるということは、農耕を営んでいる人々は痛感しています。光と熱で生き物を育て、命を与え続けてくれているからです。スサノオの子孫ではなく、アマテラスの子孫が地上を支配すべきだというのも、武力で押さえつけて覇権を打ち立てるのではなく、徳で恩恵を与えて、従わせる方がよいという儒教の考えに基づきます。

 それで元々は地上支配はスサノオの役目だったのに、アマテラスの子孫が地上を支配すべきだということに高天原の神々の会議で決まったことになっています。イソップで言いますと、北風と太陽が旅人の福を脱がせるのを競う話ですね。神道の主神、アマテラス信仰が「三つのL」ということは納得されましたでしょうか。

二、光を求める信仰

 

 光り出すものにはあらね樫の葉もうずに挿しなば光かがやく

 それではアマテラスに対してスサノオ信仰の場合はどうでしょう。「光・命・愛」の「三つのL」が原理にあるでしょうか。太陽は光だというのは納得してもらえても、嵐が光だというのはどう考えてもおかしいですね。そんなことを言えば神道では白蛇も火打石も剣も鏡を神として信仰されています。鏡は光を反射するのでいいとしても、他の物は光信仰とは言えないでしょう、とてもじゃないけれど。

 確かに光というのは視神経を刺激して明度を与え、物を照らし出す働きです。あまり強すぎると視神経が破壊されますし、弱すぎると何も見えません。しかし光といいましても紫外線や赤外線など人の視神経では感じることが出来ない光もあります。それらを感じる神経があれば見えるわけです。そして光でなくて音波でも像を結ばせる装置がありますね。内臓の検診で使用されています。逆に光を当てても装置に光の性質におうじて空気振動を起すように工夫をすれば音として感じられることもあるでしょう。 

 真光の手かざしをする新々宗教がありますね。手をかざして光を送っているつもりになっています。確かに手で光はわずかに反射されているでしょうし、手からも何らかの微粒子が放射されているでしょうね。でもそれで病気が治るというのは心理的な効果としか思えません。病気を治せるような真光が人の目には見えないけれど出ているというのでしょうか。それが本当だとしたら、その場合の光は普通の光線ではないでしょう。この場合でも光の定義が拡張されているわけです。

 チベット密教では人が死ぬば、分解されて光になると信仰されているそうです。この場合の光は物質の最小単位でしょうね、質量のほとんどないところまで分解された状態かもしれません。つまりすべての物質は光がアルケーだということです。中国では「気」と呼んで、手から光でなくて気を送ります。気功術は武術としてもありますし、医療にも使われています。つまり物質をいったん最小単位にまで分解して、すべてその合成として捉え返し、そういう光や気の塊に対して刺激を与えていくというやり方です。そうなれば「光」とか「気」とは名づけの問題に過ぎません。

 つまりすべては物質として存在し、反応し、感覚しているわけです。物質から光や熱や力を与えられ、物質に伝えることで、運動し、変化しているわけです。そして一定期間個体や類として自己保存しますが、やがては物質のアルケーに戻るということですね。このアルケーが光と名づけられるとするとすべての物質は光の塊であり、光の働きであることになります。実際、光の粒子が最も小さいわけで、すべての微粒子の元のものは定義的に光と区別することはできないのじゃないでしょうか。

 それでたとえ嵐といえども空気が激しく動いているにすぎないわけですから、物質の運動であり、究極的には光の働きということです。空気と光を同一視して何の意味があるのかと怪訝に思われるでしょうが、それはコスモス全体が生きた一つの原理によって統合されているという信仰なのです。それは言い換えれば、「大いなる命」ですね。考えようによったら近代科学だって、数学や力学や物理学という同じ原理ですべての物質を統一的に捉えているわけですから、「大いなる命」としてコスモスを捉えている と言えるかもしれません。

 ただ生物学的な生命観でいくと、無機物は命がないわけで、宇宙のほとんどすべては無生物であり、命ではありません。ですから生物学的な生命観と哲学的、宗教的生命観は次元が違うので一緒くたにしないように願いたいですね。

 無機物といえども質量があったり、体積があったりするわけですし、色や臭いで区別されたりします。つまり感覚を離れて事物は認識できません。その感覚は生きているから感じられるわけです。つまり生命の活動なのです。

 それは感覚が対象を感じる働きであると同時に対象が感覚に自己を映し出す働きでもあるのです。清末の万物一体論者譚嗣同も『仁学』で「天地だ、万物だという、それはじつは内の心のことで外界のものではないのである。しかし逆に、心は外界のことで内のことではないともいえる」と述べています。天地万物を感じるという生命活動は主観の活動であると共に、客体の活動でもあるということでなのです。

  ですから偉大な働きをする対象はすべて光として捉えられるといえるかもしれません。聖人伝説では聖人は誕生にあたって光る雲に包まれるという伝承があります。そういう意味ではスサノオ信仰だって光信仰と矛盾しないわけです。石ころや鰯の頭を祀る場合でも、そこに大いなる命の働きが期待されているわけで、光を見ているわけです。それをオーラと言いますね。

 それではスサノオは「愛」とは関わっているでしょうか。スサノオは元祖マザコンです。彼は父親であるイザナキの鼻から「はくしょん!」で生まれたのですが、それは黄泉の穢れを漱いだ時にまれたのですから、イザナミが母親なのです。それで生まれた時から母がいないことを哀しみ、泣き喚き、暴れ狂います。そのために大洋の水が枯れたり、暴風で大木が根こそぎになったりしています。ですから家族愛を大切にし、愛情豊かな人間関係を作り上げることが、大切だと訴えているわけですね。

 「鰯の頭も信心から」といいますが、小動物や石ころも神として崇拝されます。それらも「光・命・愛」なのでしょうか。コスモス全体が光だとしたら、小動物だろうが、石ころだろうが光の塊でないものはないわけです。ですから人は、任意の物を神に指定してそれにお供えをして、願い事を頼むのですが、神であることに目覚めない物神が多くて、願い事はなかなか叶えてくれません。ド・ブロスのフェティシズム論ですと、物神崇拝者たちは期待が裏切られたことに怒りを感じて物神を攻撃して、破壊したり、池に投げ込んだりします。衝撃を与えて、神性に目覚めさせようとしているのかもしれませんね。

 自然神信仰ではどの自然も「大いなる命」の現われでないものもないわけで、命と命はつながっているわけですね。そして食べたり食べられたりするフードチェーンを形成して循環しているのです。この循環と共生を大切にして生きることで、どんな小さな石ころや虫けらでさえ、尊い存在であり、大いなる命と愛情で結ばれているわけです。

 南方熊楠は粘菌を愛情をもって研究していましたね。彼が愛情をもって粘菌というワンダーランドを開いてくれたのですが、それは同時に粘菌が熊楠を愛して生命の不思議と偉大さを開示してくれたことでもあります。

三、大いなる命への信仰

 

 生れ落ち瑣末なことに気を取られ年老いたりき花咲かぬ間に

 何か輝くもの、光を求める信仰は、自分自身が本当は輝きたいのかもしれませんね。なかなか自分が思うようにいかない、輝けないので、自分の外に輝くものを求め、それに頼って、それと自己を信仰という糸でつないで、救われたいと思うのかもしれません。

 自分が輝くという場合、物理的な光ではありませんね。物理的になら私もかなり光っているかもしれませんが。 これは親父様の遺伝だから仕方ありません。

 ここからも光への信仰が、物理的な光を求める信仰に限定されていないことがわかります。明代の王陽明は臨終にあたって「何か言残すことはないか?」とたずねられ、「私の心は光明なので何も付け加えることはない」と言ったそうです。それは彼の生きた道が人々に人間として生きていくための道を照らしているという意味ではないでしょうか。いよいよ臨終という時に当たって、自分の生きてきた道を振り返って、自分なりに納得できる生き方ができたという充実感が伝わってきます。私なんか悔いることが山ほどあるので、光明だとはとても言えませんね。

 ところでどうして心に光明を、人生に光明を求めるのでしょう。暦には晴の日とケ(褻)の日があります。これは季節の暦の上での節目を晴の日とし、それ以外の日常の日をケ(褻)の日とするものです。気象的には晴れの日は太陽が照り輝いている日のことですが、暦の上の晴れの日は祝祭日であって、晴れているかどうかではないわけです。祝祭日には晴着を着て輝くわけですね。祭祀を伴うので、聖なるものの光に輝くということかもしれません。あるいは晴れの日に輝いているのは、神々だけではなく、祀っている人が神と合一して光っているということかもしれません。それで晴着を着るのでしょう。

 晴れの日には神酒をいただき、白米を食べたりします。これも神との合一です。神酒や白米は神として信仰されているのです。その神というのは「大いなる生命」のこと、つまり「命」のことなのです。別に季節の暦の上での変わり目や人生の通過儀礼の日にだけ命をいただくのではありません。ケの日にも水を飲み、粟や稗をいただいています。ですから水も雑穀も、そこから命をいただく大切な対象ですね。それが元々は神なのです。本当は、水や雑穀にこそ祈りを捧げ、感謝の心を持って厳かに接するべきですね。

 もちろんケの日にも祈りを捧げ、水や雑穀も神として大切にしているともいえますが、毎日の日常においてはなかなか改まった気持ちになれないものです。それでつい太陽や水や空気に感謝する気持、粗食にも手を合わせるということを忘れがちになります。ですからせめて晴れの日には、改まった気持になって、晴着を着て、ご馳走を食べて神と合一するわけです。

 もっとも望ましいのは、職場でも家庭でもどこにいても日常から生きることに喜びを感じ、仕事や家事に自己実現を感じていることですが、厳しい疎外状況のなかで、仕事や家事に追われてしまって、命の交わりを感じて心が満ち足りるということが少ないわけです。惰性的に日常をこなすので、どうしてもどんよりした曇った気分で仕事や家事や消費を機械的に暮らしています。

 しかし、ずっとそういうくすんだ生活では人生に喜びや幸福を感じることは出来ません。ですからせめて晴れの日には、沐浴して、晴着を着込み、ご馳走を食べ踊りを奉納して晴れやかな気分になるわけです。その時に輝くので、ハレの日のためにケで働き続けてきたということになります。これは晴れの日に光になるということが目的で、そのハレの日に輝けるということのためにケの苦しみを耐えるわけです。これも光信仰なのです。またそれは命の思想でもあります。

 祭りの日が輝いて、それで生まれてきてよかったとか、また1年どんなに苦しくても頑張れるというのは、ケの日とのコントラストで言えることですから、日常に積み重ねてきた哀しみがハレの日に燃え尽きて昇華されるからです。

  ハレの日が輝いて見えるのは、「馬子にも衣裳」といって晴着のせいにする人もいますが、それはケの日が長く哀しいからですね。ハレの日ははかなくすぐに終わってしまいます。「喜びは短く哀しみは果てしない」(映画『黒いオルフェ』より)それでリオのカーニバルは盛り上がるのです。

 PLの花火はすごいですね。12万発の花火が次々と夜空を飾ります。「ドゥーン、ドゥーン」という音が胸の置くまで届きます。でも花火が美しいのはすぐに消えてしまうからなのです。あれがなかなか消えなかったら美しく感じないものなのです。

 それはやはり人生のはかなさとオーバーラップするからではないでしょうか。人生は長いようで年老いてしまえば、あっという間だったことがわかります。若い人でも、過去を振り返れば高校生活の三年間は短く感じたでしょうし、大学生活の四年間はもっと短い、瞬く間だったと感じるようです。すべては終わりがあり、人生には死があります。それですべては空しくはかないものに感じるわけです。

 はかなく感じるからこそ美しいということですね。命は死があるからこそ、生きていると感じるわけで、死があるからこそ生きていることが素晴らしいことだと感じるわけです。滅びの美学で無常観によって、生きとし生けるものに慈しみの心、哀れみの心を持ち、散りゆく姿を身につまされて、いとおしく感じるものなのです。

  ですから光を求めていたというのも実は光は生を象徴するからです。闇が死を象徴するように、光は生命の象徴なのだということです。ですから光を求めていたのは生を求めていたことの証です。生命の視覚化が光であったと言えるでしょう。ところが個体的には死は避けられません。そこで人々は、個体的な死を受容するために、己のアイデンティティを個体的身体を超えて類的生命や「大いなる生命」に見出そうとするわけですね。

 輪廻転生というのはいったん「大いなる生命」に戻って、その生む働きによって新たな個体的生命が生み出されるということです。過去の個体と未来の個体が特に生まれ変わりとと言えるほどの同一性を持つとは考えられませんが、個体的生命の生死の繰り返しによって類的生命が継続されることを、死んでまた生まれるということで輪廻転生と捉えているわけです。

四、命のパンの信仰

 

 パンなればイエスの肉に成り難し、聖霊宿すはイエスの肉なり

 キリスト教会の礼拝をミサと言いますが、これは聖餐を意味しています。カトリックではミサと呼びますがプロテスタントでは聖餐式と呼んでいます。パンを与えて、イエスの肉だといって食べ、ワインを注いでイエスの血だといって飲ませるのです。ですから正式には「主の聖餐」ですね。イエスの肉と血を食べさせるのですから。

 イエスは永遠の命だとされており、イエスの肉、イエスの血は永遠の命となって信徒の中で働きます。信徒は主の聖餐を繰り返すことによって、次第にイエスの体の一部になっていくのです。ですからイエスは「永遠の命」の言い換えですね。信徒たちはイエスの肉と血で「大いなる命」に戻るわけです。

 ところが実際に食べているのはパンであり、飲んでいるのはワインなのです。とすれば永遠の命に帰るというのも信用できませんね。プロテスタントではパンやワインはシンボルだと説明していますが、シンボルでも永遠の命に帰れるというのでは信仰されないと思っているのか、カトリックでは教会では奇跡が起こってパンはパンのままでイエスの肉となり、ワインはワインのままでイエスの血になると言い張っています。

 しかし実際のパンが神であるイエスの身体になるとすればそれは物神信仰に当たるのではないでしょうか。超越神説の破綻ですね。パンがイエスの肉である筈がありません。ワインがイエスの血である筈がないのです。そこでバイブルの福音書を根拠に、イエスが「最後の晩餐」でそう言ったから、イエスを信じている以上それでいいのだというわけです。

 確かに「最後の晩餐」でイエスはパンを配ってこれは私の肉であるといい、ワインを配ってこれは私の血であると言ったのですが、どういうつもりで言ったのでしょう。イエスは本当にパンをイエスの肉と考え、ワインをイエスの血と考えていたのでしょうか。イエスはこの時に未開信仰に逆戻りしてしまったのでしょうか。

 おそらくそうではなく、イエスは翌日の晩餐のリハーサルのつもりでそういったのです。つまりパンをイエスの肉に見立てて、今日はパンを食べなさい。明日は私の肉を食べなさいという意味なのです。ワインも今日はイエスの血に見立ててワインを飲み、明日は私の血を飲みなさいという意味です。

 イエスは最後の晩餐の後に捕えられ、最高法院の裁判にかけられ、朝には十字架につけられ、午後三時には絶命したとされています。そうなることはイエスには十分予測がついていたのです。三度も予告しています。その覚悟でエルサレムに乗り込みました。でも彼には起死回生の目論見があったのです。それは「命のパン」として自分の肉を食べさせて、聖霊を弟子に引継ぎ、弟子たちの精神として復活するということです。予告の中で復活も言っていますね。

 イエスが「命のパン」であるということは、ガリラヤにいたときに説教で言っています。「私の肉を食べ、血を飲んだものを私は終わりの日に復活させる」と宣言していたのです。これはイエスの言葉を血肉化しなさいという意味で受け止められていますが、それはイエスが生きているときですね。イエスが死ぬときにはどうでしょう。イエスはそのときにはイエスの聖霊を弟子たちに引き継ごうと考えていたわけです。その引き継ぎ方が聖餐なのです。

 こういう話をすると荒唐無稽だという人がいます。それはイエスの聖霊信仰を理解していないからです。聖霊も悪霊もつきものとして捉えられていました。そして聖霊の力で悪霊を追い払うことができるという実演をしていたことが「福音書」の随所に出てきます。ではどうすれば聖霊を引き継げるのか、それが肉を食べ、血を飲むという方法です。肉や血は食べた者から排泄されますが、聖霊は残って移転するのです。

 もちろんそれでは聖霊が引き継がれてもイエス自身の肉体が復活することは有り得ない筈だと思われるでしょう。たしかにそうです。イエスが予定していた復活も弟子の精神になるという意味だったと思われます。ところが事態はイエスの予想を超え、イエス自身の復活を弟子たちは体験したのです。

 イエスの聖霊を取り込んだと思っているので、弟子たちは全能幻想が満開になります。ですからイエスに似たところがあるとその人物がイエスに見えたのです。また全能幻想によってイエスの聖霊に精神的にジャックされ、イエスの人格が優勢に成って二重人格症状に陥ります。イエスに成っていたことは元の自分に戻ると忘れてしまうのです。これらの現象が重なってイエスの復活が共同幻想として体験されたのです。ですから福音書のイエス復活の場面を注意深く読みますと、弟子たちはイエス自身が肉体的に復活したと思い込んでいますが、別人をイエスと思い込んでいることが読み取れます。

 だいたいイエスという大工の息子を神の子だとどうして考えたのかですね。命がけで人々のために犠牲になった人はたくさんいます。でもだからと言って神と認められることは、有り得ませんでした。自分の肉を食べさせ、血を飲ませてまで、人々を救おうとしたので、そこまでできたのは神の子に違いないということになったのです。ユダヤ教の伝統では神は超越神であり、人間が神になることは有り得ないわけですが、イエスのしたことは想像を超えていたので神としか思えなかったということですね。この聖餐による復活説は、三一書房『キリスト教とカニバニズム』と社会評論社『イエスは食べられて復活した』に詳しく書きました。

 念のために付け加えておきますが、この聖餐による復活仮説をキリスト教会として教義に採用している宗派はまだありませんから、キリスト教会ではそのように説明していると誤解しないでくださいね。私の福音書の精神分析による仮説です。

 

五、自らの命を与える信仰

 

 大いなる命の輪にぞ帰りたし命捧げて永遠よ輝け

 イエスは自ら「命のパン」と宣言し、自らの命を過ぎ越しの食事に犠牲の仔羊になって与えたわけです。「ヨハネ黙示録」では「犠牲の仔羊」としてイエスとおぼしき人物が登場するのです。聖餐には古来二つのタイプがあります。一つは神が人間に食べられるタイプであり、もう一つは人間が神に生贄として捧げられるタイプです。

 神が人間に食べられるという場合、もともと貴重な食糧やトーテム動物が神として崇められていて、祝祭の日に神と合一するために食べるというものです。その意味ではお神酒などは典型ですね。穀物はそれ自体神である場合が多いのです。それを醸造して酒にしておいて、祝祭で飲んで、神と合一します。ひとしきり飲んで酔いが回ると神と人が合一して踊り狂うのです。

 イオマンテは熊の魂送りです。アイヌにとって熊はカムイつまり神とされています。トーテム動物なのです。この世で人はあの世で熊になり、あの世で熊はこの世で人になるというのがトーテム信仰としては原型だったと思われます。現在のユーカラでは、梅原先生の話だと、熊を食べて魂をあの世に送りますと、熊の霊たちが人の姿をして暮らしているという形になっているそうですが、霊が人の姿であるというのは未開信仰としては不自然です。むしろあの世では熊は人になって生まれると考えた方が分かりやすいですね。

 人はこの世で亡くなるとあの世では熊になって生まれるのです。こうして熊と人の命の循環が成り立ちます。これはですから神を食べる聖餐ですが、熊は実は人間の生まれ変わりだから、人間を食べるカニバリズムの変形です。人が人を食べるカニバリズムはタブーとして厳しく禁じられているのですが、生き残るためには敢えてこのタブーを犯さなければならないときがあります。それに備えて、人の生まれ変わりの熊でリハーサルしているのではないでしょうか。

 人が神に食べられる人身御供は、人が食べられて神に力を与えるわけですね。インドのカーリー女神は大地女神です。祭壇では大きな刀で人の内臓を切り出して、カーリー像に投げつけていたといわれます。大地女神は人間の命を貰って活性化するのです。

 祭壇で神に捧げた後で、人々が食べる場合があります。中南米はその典型だったといわれています。実はこれも神を食べる聖餐なのです。祭壇に捧げられることによって、聖化され神になっているわけです。神となった人を食べることで神と人の合一を果たしているわけですね。

 では何故普段はタブーのカニバリズムが宗教的儀式では行なわれたのでしょう。それは飢饉などに備えてリハーサルの意味もあったでしょうが、人がフードチェーンの頂点に立ってしまって食べられなくなったということにも関わっていると思われます。

 食べたり、食べられたりして生命循環が成り立っていて、それで「大いなる生命」が永遠のものと実感できるわけですが、人間は獣に食べられなくなってしまったので、食べられて命の輪に戻るという実感がなくなったのです。もちろん土に 還ったり、火葬で空気に還ったりしても「大いなる生命」への還帰なのですが、やはり土や空気を命と実感するのは難しいのではないでしょうか。そこで宗教儀式限ってカニバリズムタブーを破ったのです。その代わり神との神聖な合一の儀式としたわけですね。

 仏教でも捨身飼虎といって飢えた虎に我が身を与える沙門の話があり、ゴータマが覚りを開く機縁になったようです。そしてこの自己犠牲の精神を実践したのが、山背大兄皇子で蘇我入鹿に我が身を与え、慈悲に基づく和の精神で国造りをせよと諭されたわけです。それで入鹿は孤立しまして大化の改新のクーデターを招きました。さらにこれを見習ったのが蘇我石川麻呂で、中大兄皇子のために我が身を与え、自分たちの改新政治が義に基づくものであって、決して権力闘争のためのものでないことを示したわけです。大いなる生命の循環と共生というのは、当然、人と人のつながり、国造りの原理にも応用されます。
 

六、命を与える信仰

 

 祈りこめ命を捌きてふるまへよ饗宴の場に神はいませり

 もちろん現在においてはカニバリズムは宗教儀式においても許されません。ミサとして象徴的に行なわれているだけです。自分の肉を食べさせる代わりに料理を作って命を与えるということも、宗教的な意義は大いにあります。

 食べるということは、快感を伴いますから、食欲を満たし、美食願望を充足させるために料理を作るように思われがちですが、食事の基本はあくまで命をいただくことです。食べるとはすなわち食べられることです。同じ事態を食べる立場と食べられる立場で区別しているに過ぎませんね。食べることによって、他の生き物の命をいただき、自己の命を更新し、維持しているわけです。その意味で生きることは、殺すことに他なりません。

 「いただきます」とは「命をいただきます」という意味なのです。そのことの重大性を良くかみ締めて、ありがたく命をいただかなくてはいけません。食べられるものに感謝し、食べられるものの命の分まで有意義に生きる責任があるということですね。これを家庭でも学校でも社会でも徹底して教え込む必要があります。特に宗教は命を大切にするわけですから、命のやりとりである食べるということにこだわる必要があります。

 宗教儀式も従って食べることに重点を置くべきです。形式的にはキリスト教は聖餐を礼拝の中心において、神との合一儀礼にしています。しかしこれはあまりに形骸化していて、感動を与えるものになっていません。どうせなら、パンもワインも教会が丹精こめて自慢のものを作って出すべきでしょう。味に感動して改めて教会に親しみを感じ、癒しを感じられ、命を与えられる喜びが湧くのではないでしょうか。

 お寺や神社でも昔から、料理を出したり、菓子を作ったりして食べさせていました。日本料理は臨済宗の精進料理から生まれましたし、和菓子は神社が神に奉納したものを食べていたわけです。

 宗教団体の講話会や勉強会などでも共に料理を作って一緒に食べる中で、命を与え合う喜びが生まれ、活気がでてくるのです。宗教や哲学の話はありがたいかもしれませんが、頭を使いますし、神経が疲れます。せめてお茶菓子でも出せば、くつろいで気持にゆとりが生まれ、難しい話もすんなり理解できるようになるかもしれません。

 ただしお茶菓子にしても、宗教団体が出す場合は、やはり命を与えるということにこだわりをもって出すべきですから、駄菓子を買ってきてだすようでは芸がなさ過ぎます。ドラ焼きでも煎餅でもいいですが、そこに宗教性を持たせて、命を与えるという形式を踏むべきです。そのためには出来合いのものを買わないで、創意工夫してつくらないとね、そして誰にも負けないオンリーワンを作って出すのです。そうして初めて煎餅であっても、命の信仰だということになります。

 ということは命の信仰にこだわるのなら、逆に料理屋とか和菓子屋、極端にいうならラーメン屋などが、食べることの宗教的な意義に目覚めて宗教団体化するようなことも有り得るということですね。そうすることで味にオーラーがつき、評判を呼ぶことも考えられます。勿論それだけの味が出せたらですが。

 なんだか宗教の話が食べ物屋の話になってずれているように感じている方はおられませんか。しかも食欲に媚を売って、欲望を満足させるのが宗教みたいに言っている、それは宗教の堕落じゃないか、もっと聖なるもの精神的なものを追求すべきだとという批判を受けるかもしれませんね。

 ええ、宗教は光を求めるという話から、光を求めるということは命への信仰だという話になり、なぜ光を求め、命を信仰するのかというと、それは命がはかない有限なものだからということになって、命を保つ為には殺して食べなければならないという話になり、命を与える信仰の重要性が 説かれ、自分の命を与えることはできないから、他の命を調理して与えることを宗教儀式に取り入れるべきだという話になったわけです。

 様々な宗教は命を与えるということでも共通性が見出せますね。天国や神の国というのは永遠の命、大いなる命の循環を観念的に捉え返したものでしょうし、涅槃というのもそれにアイデンティティを感じた境地でしょう。多神教の神々は様々な命の様相を捉え返し、それらが我々の命を守ったり、脅かしたりしていることを表しているのです。八百万の神々というのは、一木一草にも神が宿るということですが、元々は人間の命に関わっている大切なもの、あるいは命を脅かしている恐ろしいものを神として祀ったところから由来しています。そして大いなる命の循環と共生の現われとして神々は捉えられるわけですね。

 このように命を正面に据えて捉え返したときに、命を殺して食べるという食の問題、調理の問題が宗教儀式の中核にくるべきだという話になったわけです。もちろん宗教団体にはそれぞれ個性があるので、そういうスタイルを押し付ける気はありませんが。

 

七、疎外と戦う宗教

 

 家庭でも学校職場にいるときも我虚ろなり取り戻すは何処

  料理を作って出すというような、いわば最も生活の基本的なことが宗教儀式の中核に据えられるべきだという議論は、突拍子ないように思われるかもしれませんが、これは実は何も目新しい宗教思想ではないのです。

 「衣服を着、飯を食うこと、これが人倫であり物理である」と明末文化人李卓吾が言ったそうですが、大乗仏教でいう「煩悩即菩提(さとりの境地)」も天台本覚思想も、煩悩に満ちた日常生活にこそ本来の覚りがあるということなのです。

 長い修行の末やっと覚りにたどりついて、それから人々を導こうとしても、そんな大変な修行をする人はなかなかいませんから、誰も救うことが出来なくなってしまいます。煩悩で苦しんでいる衆生つまり生きとし生けるものを救うのが仏教なら、その煩悩の生活の中にこそ覚りがあるものでなければならないわけですね。光や命を求めるのが宗教なら、日日の暮らしの中にこそ光や命があるはずです。

 大いなる生命の循環と共生が本来の命のあり方なら、日々の食べたり飲んだり、着たり、住んだり、物を作ったり、作物を育てたりする中で共生と循環が計られなければならないわけですね。何か将来の理想の境地というのではなくて、当たり前の普通の生業が覚りの姿なのだということです。

 金春禅竹作の謡曲『芭蕉』に「されば柳は緑。花は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし」とありますが、涅槃においても柳は緑のまま、花は紅のままでよく、芭蕉は芭蕉のままでよいわけです。あるがままにあるのが覚りの姿だということですね。そういう意味で、人間ばかりか草木や国土が成仏できるという「草木国土悉皆成仏」という言葉が遣われています。

 「しかし、災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 是(これ)はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」と良寛は語っていますが、大いなる生命の循環と共生で廻り合わせて、生まれ来て、死にゆくものならば、たとえ災難であろうともそれが世界のありようだと受け止めるしかないわけですね。

 とはいえなんでも受身に宿命だと諦めてしまえばいいということではありません。災難に遭って死ぬのも人生なら、災難を逃れたり、災難に立ち向かって、大きく成長するのも人生です。災難に取り組んで精一杯戦ってそれでも死んでしまったとすれば、それなりに雄雄しいわけですが、避けようとすれば避けられるのに避けなかったり、ましてや燃え盛る炎の中に飛び込んでいったりするのは狂気ですね。ようするに悔いのないように精一杯命の限りを生きるのがいいわけです。

 じゃあ一体どうすればいいんだ、普通に精一杯生きるのが宗教的だというのなら、別に宗教なんて要らないし、ましてや宗教団体なんて無意味ではないのかということにならないかという反発も起こりそうです。たしかに法然は「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでいいと言いました。万巻の経も、教団も、寺院や塔も修行も要らないのです。「衣服を着、飯を食うこと」につきると李卓吾は言うわけです。

 それなら「衣服を着、飯を食うこと」を手始めに、調理から部屋や庭の掃除そして洗濯、まき割りをしてはどうでしょう。いっそのこと教団に住み込んで、周りに田畑を拓いて、自給自足に近い生活をするのです。そうなると逆に厳しい修行のように思えますね。ということは、我々は普段の生活においてそういうことをしているのです。

 分業で手分けしているので、会社の仕事しかしていないとか、家事しかしていない人もいるでしょうが、生活を営んでいる以上、生命を維持していくためにはみんながニートというわけにはいきません。それで満ち足りていれば、何も宗教とか要りませんね。実際にはストレスがたまって精神が不安点になっている人が多いのです。各家庭に心を病んでいる人が 一人はいると言えば言い過ぎかもしれませんが、かなり多いですね。

 調理をほとんどしない専業主婦も増えましたね。まあ惣菜だとか出来合いのものがたくさん売られているので、それで済ませてしまう。それも面倒で外食やホカ弁ですましたりとかします。主婦であっても掃除を全くしないとか、皿洗いをなかなかしないので、台所には汚れがこびりついた食器だらけとかの家もあります。もちろんこれからは女性が主婦でなくてもいいわけで、夫が主夫をしたり、夫婦で家事を分担し、共働きでいいわけですが、ともかく調理を面倒がる傾向があります。

 職場でも事細かく指示しないと動かないとか、自分で創意工夫が全く出来ない人とかが多いですね。官僚主義のひどかったソ連ではブレジネフ時代は「停滞の時代」と呼ばれ、完全に技術の進歩がストップしてしまったといわれます。

 大人がそうだと子供も同じで、学校に通えば通うほど学力が低下することすら起こっています。小学校の時に解けていた分数や小数の計算が、中学校では出来なくなったり、中学校で覚えていた漢字や英単語を高校ではすっかり忘れていたりするわけです。それで大学の経済学部の学生に方程式のABCから教え直したり、場合によっては四則計算からやり直させる有様です。

 命の信仰というのは、そういう日常的な生産や消費や家事などの過程でさまざまな自然の恩恵を受けるわけで、私たちの暮らしを支え、命を与えてくれる大切なものや、逆に私たちの暮らしを脅かし、命を奪おうとする恐ろしいものに対して、感謝を捧げたり願い事をして命を守ってもらおうとする信仰です。ですからそういう生活活動に対してやる気を喪失してしまっていたら、命の信仰も形骸化してしまって当然です。

 芭蕉は芭蕉のままでいいように人は人のままでいいのですが、料理ができない、掃除が出来ない、挨拶ができない、物を作れない、創意工夫ができない、それでも人は人だからいいでしようか。ソクラテスも言っているように「大切なのはただ生きることではなく、善く生きること」ではないでしょうか。

 でもそれは家庭や職場や学校の問題であり、宗教や教団の問題ではない、家庭や職場や学校で解決しろというのは正論ですが、家庭や職場や学校は疎外されていてなかなか取り組みが進んでいないのが現状です。これを放置しておくと宗教の基盤が崩れていくのではないでしょうか。

 でも宗教こそ最も疎外されているという人もいます。そもそもフォイエルバッハに言わせれば神自体が疎外の産物ではないのかということになります。だからこそ命の営みの基本を見つめ直し、そこに立脚した宗教をつくり上げることが求められているのではないでしょうか。

 家庭や職場や学校で疎外されてまともにできなくなった料理や掃除や仕事での創意工夫や学習が、どうして教団ならできるのか、みんな嫌がってしないのではないかという懸念があるでしょうね。家庭には夫婦間、親子間、兄弟間、世代間の断絶があってなかなか会話が成り立たない。職場では一方的に管理されるだけで、創意工夫が生かされない。下手に工夫すると労働強化に使われてしまうとか、陰湿な人間関係でまともに口を利けないということもあるでしょう。学校は学校で受験体制で、一方的に教師が話しているだけで、知的好奇心をそそったり、関心を引き出してくれるようなものではないわけです。

 先ず宗教の場合は、食事を作って出すと言うのは、命を与えることだという聖餐の意義があります。だから極めて宗教的な儀礼なのです。それに食事以外の例えば趣味の工芸や手芸品とか、教団の刊行物を作るとかの取り組みをするとしますね、それらは、趣味を兼ねたボランティアですから、強制的なノルマ作業ではないわけで、あまり疎外されることはありません。

 それでもそれなりの品質に達した物は、教団のブランドとして流通させれば、物づくりに張り合いや誇りも生まれるでしょう。働くことの喜びが実感できれば、職場に戻った時に、本来の労働を取り戻そうとするエネルギーになるのではないでしょうか。 マルクスがいうまでもなく、人間は労働を通して自己の能力を発現し、夢を実現するわけですから、労働こそ第一の目的であり、欲求であるはずです。

 教団は付属施設として病院や学校や保育所、養護施設などを経営すべきで、 出来れば教団の考えを広められるようなメディアや劇団、芸術家集団なども抱えておくべきでしょう。また農場や牧場、花畑や緑化運動のための苗床を作るなどする必要があります。そのように教団に行けば何かやりたい仕事がいつでも出来るような場所であるべきです。とれも命を育てたり、表現したり、輝かせることですから、どんな宗派の宗教でも宗教活動として捉え返せるのです。 
 

八、愛を感じる宗教

 

 吹きずさぶ嵐 に遭ひて自然にもはげしき思ひありやとぞ思ふ

  三つ目のLはLoveです。光を感情として捉えますと愛です。アガペー(神の愛)が人々の行く手を照らし導くと言います。キリスト教では「神は愛なり」と言って、神の規定にしています。ですからたとえ人間を終わりの日に審くとしても、悪いようにはしないはずだということです。

 それで終わりの日に復活させてくれて、神の国に入れてくれるはずだとという思い込みをしています。でもそれはそう信じている人の立場から言えることでして、神は終わりの日の復活を明言しているわけではありません。人間は個人としては有限な一回きりの命でして、一度きりだからこそ、命がいとおしく尊いものになり、自らの可能性の限界に挑戦して、夢を叶えようとするのです。ですから個人を有限な一回きりの命として創造したのが神だとしたら、それは人間を愛するあまりそうされたわけですね。

 「神は愛である」という表現は、超越神説と矛盾した神解釈を生みます。というのは人間の感情として愛はあるわけですから、神は我々の感情として存在することになります。実際福音書には 次のような表現があります。

“「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などともいえない。神の国は、実にあなたがたの中にあるのだ」”ルカ17:20,21

 つまり人間同士が愛情で結ばれる時にそこに愛である神が存在し、支配しているのだから、そこは神の国だということです。

 両親は一生懸命働いて家族を養います。この愛の営みが、日々、命を更新しているといえますね。超越的な神が宇宙の外にいてこのコスモスを遠い過去に創造したとしなくても、我々の愛の営みが我々の生活を再生産、再創造していると捉えることもできるわけです。

 それは何も人間に限定しなくても大いなる生命の循環と共生というものの愛だと感じることが出来ます。フードチェーンは弱肉強食の恐ろしい修羅だともいえますが、元々は一つの生命が環境に適応するために様々な種に枝分かれし、全体として多様な種を保って調和ある発展をするためにフードチェーンを形成して生態系をつくり上げてきたわけですから、そこに命を与え合い,支え合う即自的な愛が貫かれているという受け止め方も可能ではないでしょうか。

 キリスト教が大航海時代に全世界に布教されますが、その時に征服された人々は実に様々なものを神として信仰していました。いわゆる妖怪変化や魑魅魍魎みたいなものまで祠を作って、供え物を捧げていたわけです。その中には明らかに神というより悪魔といった方がいい ものまであるわけですね。

 日本の神道でも荒ぶる神つまり嵐という自然現象を神格化したようなスサノオの神がいます。そして恨みを呑んで死んだために放って置くと、災害や疫病をもたらすような怨霊神がいます。菅原道真の天神信仰などは重要な神ですね。そして単純に死神とか疫病神まで神として祀られています。霊を聖霊と悪霊に二分し、唯一神以外はみな悪魔みたいに割り切ってしまうキリスト教からみたら無茶苦茶な信仰だということになるでしょう。

 愛の神だけでなく災難をもたらすものまで神として祀るのだったら、すべての宗教は「三つのL」に含まれるという捉え方は見当違いだということになるでしょうか。スサノオについてはマザコンで母の愛情に飢えて暴れまわっていたので、泣きたいだけ泣かしてやれ、海の水が枯れるぐらい泣かせてやれということですね、暴れたいだけ暴れさせてやれ、家屋も森も畑もみんな吹き飛ばされるぐらい暴れさせてやれということです。もちろんそんなことをしたら人類の方が絶滅してしまいますが、スサノオが暴れるのも、つまり自然の災害も愛なら、それを受け止め、そこに適応していくのも自然への愛なのです。

 日本では霊を神と悪魔に二分しないように、人間も善玉悪玉に二分しません。権力闘争で敗れて恨みを呑んで死んでいった人々の怨霊を祀って慰霊するということは、相手の身になって考えれば、夢が叶わず死んでいってさぞかし悔しかっただろうと思い、何か災難などがありますと、敗者の怨霊が祟ったのではないかと考えるのです。

 何も勝者の方が正しいから正義だから勝ったわけではなくて、いろいろ謀略がうまくいって勝っていることが多いわけですね。ですから勝者が敗者の気持を思いやって宗教的に慰霊して怒りを鎮めることで、平穏無事を願うわけです。

 これも相手を思いやる愛の宗教ですね。敵味方に分かれたのは宿命であって、どちらが正義とは言い切れないという思いがあるわけです。源平でも南北朝でもそうでしょう。ですから怨霊神もきちんと慰霊され、祀られると、逆に敵の筈の祀った人の守り神にすらなるわけです。怨みが愛に変わるということですね。

 ただね、愛というのは観念で止まってはいけません。戦って、相手を滅ぼしておいてから、祟るのが恐ろしいから祀って、相手の思いを叶えるというのでは遅すぎますね、梅原猛先生によれば、聖徳太子が死後怨霊として祟ってから、 朝廷は仏国土の建設に邁進したわけです。また柿本人麿の死後百年にして『万葉集』を完成し和歌を文化の華にしたのです。

 聖徳太子は『憲法十七条』を制定して、「和を以て貴しと為せ」と日本の国の在り方の根本を「和」と定められたわけです。そしてそれは互いに憎しみ合っていては、和は単なる駆け引きに過ぎず、腹の探りあい、戦争の先延ばしにすぎないわけです。それでは駄目だから、仏教的な慈悲の精神で互いに思いやり、みんなが幸せになれる国造りを話し合いを原理にしてやっていこうと宣言したわけです。

 それを奈良時代になって偽作されたものだと決め付ける学者がいますが、困ったものですね。何しろうんと古い話ですから、厩戸皇子の実在だって疑おうとすれば疑えます。厩戸皇子自筆の草稿はないわけですから、後世の加筆訂正の可能性もありますし、偽作の可能性もゼロではありません。しかし逆に言えば実在しなかった証拠もないわけで、偽作の証拠も決定的にはありません。

 ですからこういうように言うべきです。「古い話だからひょっとしたら偽作かもしれないけれど、『日本書紀』の伝承によると聖徳太子を中心に、慈悲の精神による平和国家日本建設の宣言が作られたとなっていて、これは素晴らしい伝統です」と言えばいいわけです。

 オバマ大統領も一つの地球とか、一つのアメリカとか言って和の精神を強調しているわけでしょう。世界が核廃絶と環境問題の解決に手を取り合って、仲良く和の精神でやっていかなくてはならないのです。今こそ聖徳太子の出番でしょう。それを水をぶっかけるような言い方はやめてくださいと言いたいですね。

  それから聖徳太子の和というのは本当は甘い話ではなく、懐に小刀を忍ばせておいて、相手が理不尽なことを言えば、脅かすぐらいの気迫がなければ、まとまる話もまとまらないという人もいます。もちろんこっちが仲良くしましょうなんて言ったら、弱腰だと思って付け込んでくる連中もいるので、嘗められたらだめだという気持はわかりますね。でもそれじゃあはじめからこっちも喧嘩腰じゃないですか、それでは端から険悪な空気でとてもうまくいくはずはありません。やはり仏教を強調するのは、慈悲の心をまず共有しようということではないでしょうか。

 ですから先ほども申しましたように、聖徳太子の話には続きがあって、山背大兄皇子の捨身飼虎による一族殉死や蘇我石川麻呂の諌死の悲劇があるのです。戦いによるのではなく和の精神で、慈悲でまとまろうということですね、そういう伝統が大切です。
 

九、救世主ムツゴロウ

 

 人間の未来示して贖罪のクロスにつけり聖ムツゴロウ

  やはり宗教という自覚で何かやるのだったら、人と人が愛し合えるのだという実感を伴う形が必要でしょうね。フリーハグズの運動なんか、あれこそそういう意味では宗教です。身も知らない同志が街角で抱き合うのですからね。あれを「フリー」は「無料」という意味だから「無料抱擁」と訳してはだめですよね。

 人と人とが愛し合えるのだということをだれしも確認したいわけで、それで抱き合うのですから、愛を信じようという宗教活動なのです。でもあれをしているのは宗教団体ではないようです。宗教団体がやるとわざとらしい、勧誘でやられていると思いますから逃げちゃいますよね。宗教団体がするのなら、礼拝儀礼かなにかで集まったときに挨拶としてするようにすればいいと思います。街角でやると評判を落すでしょう。

 愛の実践は大切です。ただし宗教カルトの愛の実践というと、どうしても統一神霊協会の文鮮明の血分け儀礼を連想する人がいると思います。つまり罪のないイエス・キリストの生まれ変わりである文鮮明と性交をしてその穢れない血で清めるという儀礼です。だいたいだれか特定の罪のない人物がいるというのは幻想ですから信じてはいけません。それに宗教の中に性愛を入れてしまいますと、どうしても閉鎖的なカルト集団になってしまいます。

 イエスだって福音書の記事を読みますと、弟子を町に布教にいかせて、だれも相手にされなかったら、靴底の土を払うときにその町にソドムよりもひどい目に遭うという呪いをかけさせたというじゃないですか、それが事実とすれば随分ひねくれ者ですよね。みんな大なり小なり罪びとなのであって、その自覚が大切なのです。

 それに血が清いとか穢いとか、そういう発想はだめです。血に道徳性などないですし、血を清い、穢いというとそれは遺伝するということになり、血統で人を差別するいわれなき差別に繋がりますから、宗教がそういうものを取り入れてはいけません。

 社会的な活動で愛の実践はいくらでもあります。環境問題に取り組むということが既に地球への愛であり、大いなる生命への愛ですね。ムツゴロウが諫早湾で一億匹以上殺されたということですが、その時に「ムツゴロウ」の愛称で有名な動物愛護家の人はムツゴロウを守る為に何かしたでしょうか。

 ムツゴロウは干潟がなくなれば生きていけません。干潟も大切な人間環境なのです。ムツゴロウが死ぬということは、干潟をはじめとする人間環境が破壊されればやがて人間もムツゴロウのように死滅するしかないわけで、ムツゴロウは人間たちの未来を示すために犠牲になっているわけです。だからムツゴロウは人間への愛 のために死んでいる現代のイエス・キリストですね。その姿をみて我々人間がどう行動するかは、大変宗教的なことなのです。

 ムツゴロウを愛し、救おうとすることは実は人間への愛なのです。私はネオヒューマニズムという言葉を普及しようとしていますが、それはこれまで人間とは考えられなかったものにまで、人間の範囲を広げ、それも含めて人間として捉え返し、人間愛を拡大しようというものです。実は、インドのサルカールという人がネオヒューマニズムという言葉を既に遣っていまして、人間以外のものにまで人間愛を拡げようという運動をしているようです。

 ただ違っているのはサルカールたちは人間以外のものにを愛するのをネオヒューマニズムというわけですが、私の場合はこれまでの人間観を改めて、人間の範囲を拡大しようということなのです。つまり人間の環境である干潟にあって、人間の未来を表現しているムツゴロウも人間自身の現われだということですね。

 人間は自己の身体だけで自分を限定できないで、自分を環境に広げ、環境を自己として表現します。環境全体が人間の不可欠な要素になっていて、身体はその核であるにすぎないわけです。身体だけ見ても人間存在は分かりません。むしろ人間が生み出している機械などの個々の社会的諸事物や建物や都市や道路や交通機関や国家機構や国際社会やそういうものこそ人間の定在であるわけです。そして人間が生きるために依存している水や空気や太陽や動植物も人間にとって他者とばかりいえません。朝日や夕陽を拝みますと涙が出るほど感動することがありますが、その経験としての太陽は自分の生を構成しているわけですね。

 

十、アブラハムの家族問題

 

 腹痛め生みしこの子のためならと砂漠に追いたり兄イシマエル

 宗教家はよく自分たちは常に平和を祈り、愛を唱えているから、平和に貢献しているし、愛の実践をしていると言われます。しかしそれは心の中で呪文として繰言しているだけではないか、時々点検が必要ではないでしょうか。たとえば世界平和で最大の焦点はパレスチナ問題です。その根底にあるのがユダヤ教とイスラム教の聖地管理権の問題です。これは宗教間の和解がなければ解決しません。

 なにしろユダヤ教にとって最も中心の聖地であるエルサレム神殿跡のど真ん中に「岩のドーム」というイスラム神殿があって、そのためにエルサレム神殿が再建できないということがあります。これが両者の憎しみの根源ですから、宗教的にこの問題で和解するように、世界中の宗教者ははたらきかけるべきです。

 よく石油利権や民族対立の問題にすり変える議論がありますが、それは枝葉の問題で、神殿問題で和解できれば、根本的に仲良くなれますから、自ずから解決するのです。これは『バイブル』のアブラハムの家族問題にまで遡って和解しなければならないということです。伝説上の人物であるアブラハムの家族問題な ど解決しようがないと思われるでしょうが、実はそうではないのです。一応アブラハムが実在したことを前提にユダヤ教やイスラム教が成り立っていますので、そこでの家族内の揉め事は今からでも解決しておく必要があるわけです。

 ヘブライ族の族長アブラハムの正妻はサラです。でも子供が出来なかったので、サラは自分の奴隷女であったハガルをアブラハムに捧げまして、イシマエルという子供を生ませたのです。ところがすっかり子供は産めないものと思っていたのに、サラが九十歳でイサクを生んだのです。そこでサラにとってはハガルとイシマエルが邪魔になって、アブラハムに追放させるように頼んだのです。

 砂漠に棄てたのですが、なんとか生き残ってイシマエルの子孫がアラビア人になりました。それでイサクは独り子になったのですが、神は天使にイサクを焼き尽くす生贄として捧げるように命令を伝えさせたのです。百歳になってから授かった子なのでアブラハムはすごく可愛がっていたのですが、神の命令ならそれはイサクにとってもいいことに違いないと信じて、生贄にしようとしたところ、天使が止めました。「これはあなたの信仰を神が試されたのです」と言って。それでアブラハムの子孫に全地の支配権を与えると約束されたのです。ヘブライ人が選ばれた民と呼ばれるのはこのためです。 

 ところがイスラム教徒によれば、イサクの子孫は神が与えた律法をきちんと守れないので、いつまでたっても栄光はこないのです。とっくに神に見放されてしまっ ているということです。そこで神はイシマエルの子孫のムハンマドに天使を遣わして新しい預言をさずけたのです、それでムハンマドは神への絶対帰依を誓って六信五行を実行すれば、この世に終末がきたときに、審判によってパラダイスに入れるというイスラム教をはじめました。

 ですからアブラハムの家族問題というのは、ハガルとイシマエルを追放したということがあります。やはり家族を捨てるということは捨てられた方にしてはたいへん深い怨みが残ったでしょう。今からでも遅くないので、ユダヤ人はアラビア人にこの無慈悲な措置にについては謝罪すべきでしょう。これは両者が平和に暮らすためには必要なことです。 それに愛に生きるということがこれまでの罪を許される前提でしょうから、家族を棄てた罪に対する反省がなければ、ユダヤ人は神からも、アラビア人からも、人類からも認められないということです。

 次に最大の障害がエルサレム神殿の再建問題です。ユダヤ教の神殿であるエルサレム神殿は、紀元後70年のローマ帝国の支配から脱却しようとしたユダヤ解放戦争で破壊されてから、未だに再建されていないのです。それはディア・スポラ(離散)によってユダヤ人はパレスチナを離れていたからです。それが第二次世界大戦後ユダヤ人はイスラエルを建国して、エルサレムを取り戻したにも関わらず、いまだに神殿を再建できません。それがユダヤ教徒のイスラム教徒に対する憎しみの根源になっているのです。

 何故神殿が建てられないのか、それはエルサレム神殿跡のど真ん中にイスラム神殿である「岩のドーム」が居座っているからなのです。ユダヤ教は神殿信仰と云われるぐらい神殿は命なので、どうしても再建したい悲願なのです。でも「岩のドーム」もイスラム教にとっては信仰の原点になっているのです。

 「イスラム」という言葉は「絶対帰依」という意味でして、アブラハムが独り子イサクを生贄にしようとまでした信仰からくるのです。ですからその モリヤの岡に岩のドームを建てたということなのです。 その上ムハンマドの霊が昇天したのがその岩からだったというのも、岩のドームの謂れになっています。ですからイスラム教徒のアイデンティティが「岩のドーム」なので、エルサレム神殿再建の為だといわれても立ち退けないわけです。もし強引に「岩のドーム」を潰そうとすれば世界中のムスリムに宣戦布告と受取られます。

 ではどうすれば和解できますか。この解決策は、宗教的には岩のドームの周囲にエルサレム神殿を再建することですね。そしてイサクを生贄にしようとした場所は共同で祭壇に使用すべきでしょう。互いに同じ神を信仰しているのですから、聖地によって祭壇が重なるのは仕方ないことです。 それにイサクを生贄にしようとした「絶対帰依」のアブラハムの信仰は、ユダヤ教とイスラム教に共通しているのですから、イスラム神殿があってもエルサレム神殿は建てられるはずですね 。

 イスラム教も自分たちの謂れが、アブラハムの家族問題からきていて、それでエルサレム神殿跡に岩のドームを建てた以上、再建されるエルサレム神殿の中に「岩のドーム」があっても差し支えないはずです。それは ユダヤ教とイスラム教の和解の象徴になるので、愛である神に喜ばれるに違いありません。

 当人同士の宗教間対話だとなかなか和解できないものでしょうから、世界中の仏教や多神教などの人々が仲介に入って、ユダヤ教やイスラム教の相互理解を手助けする必要があるでしょうね。宗教者の平和運動は、やはり宗教間対立を対話によって和らげることをメインにすべきでしょう。そういう宗教対話抜きで、領土や利権調整をいくらしても憎しみが解けないだけに、紛争は必ず再燃してくるのです。

 

十一、愛の実践を活動の軸に

 

 命への愛に生きなむ一筋に希望の光高く掲げつ

 親が子供を育てるということは、一生懸命働いて、それで得たお金で、食事を元気に良い子に育って欲しいという願いをこめて作って食べさせるということですね。その愛情で育つわけですから、家庭における食事というのが宗教的な愛の実践なのです。

 家庭こそもっとも聖なる場所でして、大黒柱になっている人は、家計をすべて稼いでいるとすれば、家族にとって生活の糧を頼っているのですから、当然神に等しいということになります。儒教の『孝経』ではだから「父を天に配する」と宣言しています。同時に逆にみれば、自分を天に配して大切に思ってくれている家族は、大黒柱になっている人にかけがえのない価値を与え、生き甲斐を与えてくれている「救世主」なのです。父なる神ヤハウェ、子なる神イエスとか聖母マリアという家族関係を信仰に取り込んでいます。家族の宗教性をうまくつかっているのです。

 もちろん、それは家族関係に収斂させてしまっていいわけではありません。社会があって、そこで職場があるから働けるわけですね。食べるものも着る物も、その他諸々の生活用品も社会の中で生み出されて、支えてくれています。特に生き物を食べて生きているのですから、動植物の命に支えられていること、空気や水や光の恵も忘れてはいけません。それらに感謝の気持をもって、生きることが愛に生きることです。

 宗教団体は、オーム真理教事件以降かなり社会から批判的な目で見られてきましたが、こんなときこそ宗教というものが、本来光・命・愛の信仰に生きるものであり、宗教が愛の実践に他ならないことを社会に示していければ、信頼回復につながるはずなのです。例えば食の安全が危ぶまれている状況がありますね。農業が継承者がなくて、農地が荒地になってきている。そしたら命の宗教、愛の宗教というのなら、有機農業に取り組んで、日本農業の危機を救うぐらいの意気込みをみせるべきです。中国や東南アジアにも布教して、日本の国内でも研修してもらい、海外にも安全な食糧づくりに取り組むとかすべきですね。

 少子高齢化が進んでいますので、介護や福祉や老人医療の充実が叫ばれていますが、なかなかたいへんな仕事ですから、愛の精神をもって強い信仰がないと続かなかったりします。もちろん宗教に頼っていては駄目で、国家が福祉に責任を持たなければいけないのですが、同時に大変尊い仕事ですから、宗教団体が本腰を入れて取り組むべき愛の実践でもあるはずです。

 また教育の再生ですね。いまや日本の学力低下は深刻で、大学生が小数、分数、方程式の基礎から学び直している有様です。「学校に通えば通うほど馬鹿になる」というイリイチの言葉が皮肉ではなくなってきているわけで、日本や人類の未来が危ぶまれます。知育・体育・徳育のバランスの取れた教育、健全な次世代を育てる教育こそ愛の実践そのものなのですから、当然宗教団体は、もっと競って教育事業と教育改革に乗り出すべきでしょう。

 もちろん青少年の育成と共に、地球環境を守る運動にも宗教団体はもっと本腰を入れるべきですね。環境保護団体を各地に作って、家庭や職場、地域での環境運動を推し進め、緑化運動では中国にも送り込むぐらいの勢いが要りますね。また環境保護に役立つベンチャー企業の立ち上げを支援するなど積極的な姿勢が欲しいです。

 ところが宗教団体の事業活動は、いろいろ規制が厳しくて、PL教団もいろんな事業から撤退を余儀なくされたようですね。税制面などの保護もあり、純粋な宗教活動に限定しようという行政の指導があるようです。ですから組織的には別の企業が行なうとしても、宗教団体は信徒への働きかけを通して、影響力を行使する形で取り組むということですね。ともかく現代の課題に積極的に取り組んで、愛の実践をして存在感を示して欲しいです。

 三つのL、Light光,Life命,Love愛に宗教をまとめるのは、そのことによって宗教が命を守り、愛で平和と協同の社会や世界を作り、希望の光を掲げて欲しいと願うからです。そのことによって互いの相違や対立を乗り越えて共通の課題で力を合わせ取り組んで欲しいと願うからです。またそれは宗教団体の課題であるだけでなく、私たち一人一人にとっても大切な生き方の問題だということであります。