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                                           講話 宗教と人間

         
1アダムとエバの人間論

                         2世阿弥の謡曲にみられる宗教思想

                                                                          3三つのL(光・命・愛)と人間論
 

1.アダムとエバの人間論
やすい ゆたか

 人間は神に象(かたど)り作られぬ見えざる神をいかに象る

 この講話は「1.アダムとエバの人間論」「2.世阿弥の謡曲から見られる仏教的人間観」ということで東西の宗教的な人間観の比較もできるようなお話にしたいと思います。

 『バイブル』はキリスト教の編集では『旧約聖書』と『新約聖書』から出来ています。『新約聖書』はイエスとその弟子たちの言行録でして、ユダヤ教ではイエスを預言者と認めていませんし、ユダヤ教の文献には一切イエスは出てきません。それでイエスの実在すら疑われる理由の一つになっています。

 今日のお話はユダヤ教とキリスト教が共に認めている『旧約聖書』の『創世記』の中の最初の部分です。天地創造から楽園追放までです。最初5頁余りです。この部分だけ私のホームページである「やすいゆたかの部屋」にありますので、読んでおいてください。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/yasuiyutaka/kyuyaku_souseiki.htm

 さて最初に天地創造ですが、今日は人間論に限定ですからはしょります。6日間で天地創造から最初の人であるアダムの創造までしています。そして7日目は休まれたので、神の天地創造を聖として人間も7日目は安息日にしたわけです。さてこの安息日は何曜日でしょう。日曜日と誤解している人が多いのですが、それはキリスト教がイエスが復活した日曜日を安息日に変更してしまったのです。本来は土曜日です。 ですからウィークエンドのホリディと言えば土曜日です。日曜日は週の初めなのです。

 アダムからのイエスまでの系図がありますので、何百歳生きたというのは眉唾で、大体一世代30年間隔として計算しますと、今から五千年ほど前に天地創造が始まったことになります。ですから『バイブル』の記述は神の啓示によると考え 、絶対に正しいという聖書原理主義に固執しますと、何億年前の貝の化石というのは、五千年前に神が創ったことになるわけです。

「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。」

 五日目で鳥まで作りましたが、六日目に家畜や蛇や哺乳類を作っているわけです。その上で人を創造されます。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 
ここで人は神の型取りして作られたものですから、姿は神そっくりだということですね。人間の本質規定を「神の似姿」だという議論があります。この文章通りだと矛盾が生じます。というのが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では神は唯一絶対の神です。そして超越神だということになっています。  

 神は天地万物を創造されたわけですが、その際、作ったものと作られたものは対極的に捉えられています。ですから作られた物は多であり、無数にありますが、作った側はその対極で唯一者です。そして作られた物とは原理的に異なるわけですから、作られた物が感性的に捉えられる物質的存在なのに対して、神は非物質的な存在であり、感性では捉えられない精神的実体だということになります。ですから「見えざる神」なのです。ということは神には姿形はないことになりますね。だから型取りとかできませんし、似姿というのもありえません。

 そこで人間は神と精神を共有しているから、その意味で似姿だという意味に解釈している人がいます。しかし素直に読めば、似姿とは見た目が似ているということですので、神も人間と同様の姿かたちをしているように信仰されていたわけです。ということは唯一絶対の超越神という形の信仰になる前には、神は人間と姿かたちがそっくりなものとして信仰されていたことになります。

 ただ精神的存在として捉えておくと、その点が動物と違うので、人間が精神的存在として、理性的に判断して自然を制御し、調和を図るべきだということになり、地上支配権が神から与えられたということです。ですからただ人が神のそっくりさんだから地上支配権が与えられたという ようには解釈すべきではないのです。地上を支配するということは、自らの欲望のために好き勝手に自然を破壊してもいいということではない筈です。神と同様の精神的存在で、神と理性を共有しているからこそ、 神は、人に理性を使って、調和をもたらし、地上の自然を保全するように任されたのだというように受け止めるべきです。

 この箇所の人間中心主義が自然破壊をもたらし、環境危機の元凶だという人がいます。だからキリスト教や一神教では駄目で多神教がいいのだという論理で、何か多神教にすれば環境問題まで解決するかのように思い込むのはいけません。そのように一神教だからいけないと言っても、多神教に変えるけではないですし、環境問題も解決するわけではありません。攻撃されたと思って身構えるだけですね。

 むしろここでは神は人間が理性を持っているので、その理性に信頼して神は人間に自然の管理を任されたのだから、神から与えられた大切な命の自然を、理性を使って守る責任があるんだというように言った方が、説得力があります。


 アダマから作られし ゆえアダムなり土より出でて土に還りぬ

 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」

  最初の人間アダムは土から作られたということです。もちろん『バイブル』は進化論をとっていませんから、猿から進化したという捉え方ではありません。でも土というのを自然というように解釈すれば、自然が素材になって、自然の一部として作られているということですね。地表の一部が砕けて塵になり、それが集まったのが土ですね。それが水分を含んで命の息を吹き込まれて人になったということです。それは他の動物でも同じですね。ただ違うのは神の似姿というところでしょうか。 ですから人間はあくまで自然の一部なのです。地殻の一部なのです。

 これはギリシア哲学の影響だとも考えられます。ギリシア哲学はアルケー(根源物質)への問いから始まります。最初の哲学者タレスは水がアルケーだと言いましたが。アナクシメネスは空気、ヘラクレイトスは火だとしました。四大元素として「土、水、空気、火」ですから、土がアルケーだという哲学があっても不思議はありません。むしろ全ては土から生まれ、土に戻るので、土をアルケーとする説が一般的だったので、特にだれが唱えたということが伝わっていないという解釈が妥当でしょう。東地中海の文化圏にカナンがあり、ユダヤ人が住んでいたので、ギリシアとの文化的交流は深かったと言えるでしょう。「創世記」のこの部分は紀元前四世紀までには出来上がっていたので、時代的には合いますね。

 「鼻に命の息を吹き入れた」とありますね。「命の息」とは何でしょう。 ギリシアではプシュケーは魂であり命なのです。二つの意味を持つのではなくて、魂と命は同じ意味なのです。つまり魂といいますと、物質一般と区別された精神的存在だと思われがちですが、元々は活動的な自然物はプシュケーを持つとされたわけです。磁石などもそうですね。土の塊では生きていないわけですから、そこに命の息を吹き入れて動くようにしたということです。

 アナクシメネスでは空気がそういう生きた活動的なアルケーだと考えられていましたから、空気を吸ったりはいたりすることつまり気息がプシュケーの語源だということです。この事情は古代インドでもそうでして魂にあたるアートマンの語源はやはり気息だったそうです。ですから「創世記」のこの文章も単に息を吹き入れて呼吸をさせたら、人間として活動を始めたと解釈できます。「命の息」を何か非物質的な魂と解釈する必要はありません。

 
 楽園の中央にある二つ木は神のしるしか命とロゴス

 「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 神は「エデンの園」というパラダイス(楽園)をアダムのために作ります。そこは豊かな森で果物や草花がたくさんありまして、食べるものには困りません。また人を害するような恐ろしい野獣もいませんでした。気候もよく何の苦労もありません。家を作ったり、衣服を作る必要もありません。ですから労働する必要もなかったということです。

 地上の大部分は荒れた土地で、大きな森はあまりなかったようです。中生代の恐竜は最後に隕石の落下で滅んだそうですが、その時に一発の隕石で地表全体が大変動を起こして、シダの大木などはみんななくなったようです。新生代は大きな森が出来るまでは相当時間がかかったようです。そういう記憶は残ってなかったでしょうが、ともかくアダムの頃は大地は痩せていたという前提で始まっています。

 エデンの園はいわば地上における神の領域のようなものです。神は自分の懐に入れてアダムを守っていたようなものです。森の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」に生やしわけです。これは、いわば神の実体のようなものでしょうね。ただし神の実体と捉えますと、神は御神木だということになり、自然神信仰になってしまいます。唯一絶対の超越神だという立場を貫徹させるとしますと、神の属性が命と論理だということを二つの木で象徴させたということでしょう。

 大乗仏教の真言密教では命としての胎蔵界と論理としての金剛界の両界曼荼羅を信仰しますが、ひょっとしたら密教は「創世記」の二つ木から影響を受けたかもしれませんね。 ともかくあるということは一面生きているということ、命であり、他面何らかのわけあって生かされていること論理であるということです。その二つがあらしめているものとして神ということかもしれません。ただそれだと自然神としては言えても超越神には成り得ないかもしれません。

 この二つ木が禁断の木なのです。そこに成る木の実を取って食べてはならないということです。それは神に触れることになるので、死んでしまうということですね。神というのは唯一絶対の超越神論からは、人間から断絶した近寄りがたい存在ですから、神の領域に入れば神に対する冒涜として罪をうけることになるのです。

 木が神だというのは自然神信仰ではよくある信仰です。日本では大木は神として崇められます。大木は命の象徴ですので、高御産巣日神の別名で自然の生む働きを神格化としたものです。 イザナギ・イザナミが国生みをする際も、ウッド・サークルの周りを回りまして、そこから生命エネルギーを充電し、その中でセックスをして国生みをしたわけです。ですから生命樹という発想はかなり普遍的ですね。

 ただこのバイブルの断片では「善悪の知識の木」だけが禁断になっていますが、もちろん命の木も禁断だったのです。

 
 鳥獣にキリン頸長猫はニャオ見事名づけてアダム語生まれる

 「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」

  神は獣や鳥の中からアダムと気の合う助手になる相棒を与えようとします。それでアダムがその生き物をどう呼ぶか見ていたわけですね。アダムはおそらく動物の特徴を捉えて呼びかけをしたのでしょう、キリンだったらクビナガとか、犬だったらワンワンだとか、姿や鳴き声で呼びかけたのです。それが繰り返されると名前になります。アダムには名づけの能力があるのです。この名づけからくる言語をアダム語と言います。人類最初の言語です。

 つまり言語能力を人間の本質的な特色とみなしています。特に名づけ能力は天使にもなかったのです。天使は神の御言葉を人に伝えますから会話はできるのですが、名づけは出来ません。その点を捉えて人間の方が天使より尊いという説話が、イスラム教の『クルアーン』にあります。
神は自分に似ているアダムがよほど可愛いと思ったのか、天使たちにアダムに跪いて拝むように命令しました。でもイブリースは天使は火から作られていて、土から作られている人よりも格が上だと拒否したのです。

 それで神は獣たちを連れてきて天使に名前を呼ばせますが、教えてもらってないので呼べません。アダムに名を呼ぶように命じますと、アダムはその場で獣たちの特徴を捉えて自分で名づけて名を呼んだのです。それで神は、イブリースを滅ぼそうとしますが、イブリースはこの世の終末までに人間共を悪に誘惑して、ゲヘナの煮えたぎる血の川を人間共で一杯にして見せるといって、それまで罰を猶予してくれるように神に願います。神はイブリースに誘惑されるような人間はパラダイスに入れたくないから、大いに頑張るようにイブリースを励ましたという話です。まさか神と堕天使が通じているなんてぞっとしますね。

 ともかく言語能力があることが、人間の大きな特色です。言語があって初めて物事を客観的に認識し、概念的に把握して、知識を無限に深めていくことが出来るのです。『ドリトル先生』シリーズのドリトル先生は動物も言語を使っているという立場ですが、動物は身振り信号でコミュニケーションをとっているのです。音声を信号にする動物がいます。イルカ、鯨、象などですね。音声を使ったコミュニケーションを言語と定義すれば動物も言語を使っているものが多いことになりますが、それでは言語で人間と動物を原理的に区別することが出来なくなってしまいます。

   動物は生理的に対象を区別し、表象します。その感じを音声に変換して伝えるわけです。つまり自分の生理的な刺激に対して、生理的に反応しているのが、仲間に伝わり、群れの反応を呼び起こすという関係です。ですから対象は事物として客観的に自立していないわけです。

 それに対して、物事に名前をあたえ、それを主語述語関係で概念把握するのが人間の認識ですから、人間だけが言語を使用しているのです。つまり人間は動物的な生理的知覚の段階から物事を客観的に認識し、事物で世界を構成する段階に到達しているわけです。

 吾れアダム汝はエバなり今宵こそ吾に来たれや吾が肉の肉

 「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

 人間と動物との間の断絶を踏まえて、神はアダムからあばら骨を一本抜き取り、そこから女をつくりました。これは男が先、女が後という説話になっています。ギリシア神話では、先に男が土から生え出てきました。そして最初の女パンドラが泥から作られてエピメテウスの許に贈られます。あまりに美しいのでエピメテウスは結婚しますが、彼女は絶対に開けてはならないと言われていた箱を開けさせます。そしたらそこからありとあらゆる災厄が出てきたということです。つまり結婚というものは大変な災厄の塊ということですね。それで慌ててふたをしますと中から弱弱しい「私も出して」という声がします。それが希望だったということですね。

 男尊女卑の時代ですから、女は後であり、あくまで男の慰め者であり、助手であり、厄介者であるという位置づけです。でも女と一緒に家庭を築くことによって希望や幸福を得ることができると言うことです。

 ギリシア神話と違って男の一部から女を作っているところが「創世記」の特色です。それで自分の分身のような感じて、元々ひとつのものが離れていて、元に戻るような感じて求め合い、一体になるということで、互いに相手がいないと、自分の身が欠けているような切実な欠乏感があるということで、なかなかうまい表現ですね。 性欲がどうして起こるのかということを理屈で説明するのは難しいので、こういうことにしておけば確かに納得されやすいですね。

 ただ私は一つ気になることに気付きました。それは男の一部が女になったということです。アバラ骨が生殖細胞の役目になって、それが女に成ったわけですね。とすると世代的には男が親で女は子だということになります。まだ最初の男女ですから、夫婦と親子というような関係がそもそもないわけですが、アダムからエバが生まれたのだから、アダムが父でエバは娘だということも言えないことはありません。そうします父と娘の間の性的関係だということもできますね。父は自らの分身として娘をいとおしいと思い、娘は父の元に戻ろうとします。母娘の一体感は母胎や授乳を通してあるわけですが、父と娘はそれがないだけに、観念的に膨らみます。そういうことで、アダム・エバコンプレックスという父娘の潜在的な性的衝動があるといえるかもしれません。

 娘の父親への潜在的な性的コンプレックスはエレクトラコンプレックスというのがありますが、父の娘に対する潜在的性的衝動には触れられていません。実は父の娘に対する潜在的性的衝動というのが、一番やっかいなもので、欧米などではよく事件があって、社会問題化しがちですね。アダム・エバコンプレックスという用語はそのうち使われるようになるかもしれませんね。

   エバコンプレックスという用語は既にありまして、それは母性への執着です。エバは命という意味ですから。エヴァンゲリオン・コンプレックスというのは、シンジという少年が乗り込むエヴァンゲリオンという戦闘用の巨大ロボットが母胎のイメージなのです。 それでエヴァンゲリオン・コンプレックスのことをエヴァコンプレックスと呼ぶこともあります。つまりエディプスコンプレックスの言い換えです。

 納得いかないのが「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という表現ですね。この場合の男をアダムと考えると、アダムには父母がいないので矛盾します。一般論として男は父母とはなれて女と一体になるのでしたら、その場合の男は相手の女と元々一つでなかったわけですから、理屈に合いません。ですからこれは初源に戻る初源コンプレックスですね。男は常にアダムであり、女は常にエバなのです。男と女の出会いは常にアダムとエバの出会いを繰り返すということですね。つまり生殖というのはコピーなのです。コピーのコピーは元のもののコピーでもあるということになるのでしょうか。

 宗教的にはこれはとても大切なさとりですよ。男がアダムに還れて、女がエバに還れるような関係ですね、初源のセックスに戻るということ、それが信じられたらきっと素敵な夫婦になれるでしょうね。こういうのが哲学的なのです。

 誘惑の蛇は二人の欲望が独り立ちしてとぐろを巻きしか

 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』 蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」

 いよいよ誘惑の蛇にそそのかされて禁断の「善悪を知る木の実」を食べて、罪に堕ちる話です。別に蛇がサタンだと書いているわけではありませんね。それは一つの解釈にすぎません。でもどうして蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言ったのでしょう。蛇は本当に二人を罪に堕そうとしていたのでしょうか。

 よく蛇に騙されたと言いますね。蛇は嘘を言っているでしょうか。木の実を食べれば死ぬと神は言いましたが、蛇はどういう意味で死なないと言ったのでしょう。木の実は食べて死ぬようなものではありません。罪に堕ちることによって死ぬことになったのは、神の言いつけに背いたからで、禁断の木の実に毒はないのです。賢くなると言うのも蛇の嘘ではありません。実際賢くなったのですから。

 でもどうして蛇はそのことを知っていたのでしょう。それに蛇はエバに話しかけていますね。言語能力があるのです。蛇なのにどうしてでしょう。これは私のうがった解釈ですが、参考程度に聞いてください。蛇は実は、(つくり話なのに実は変ですが)禁断になっていることを知らないで、木の実を食べてしまっていたのです。それで賢くなったのです。すぐに言語も飲み込んでしまいました。ですから蛇は騙したり、誘惑したりしていません。自分の体験を語っただけです。蛇は無実だと言いたいですね。蛇の弁護士になろうかな。

 蛇はエデンの園に迷い込んできたのかもしれません。それで禁断の木の実を食べてしまい。話を出来るようになったので二人の友達になりました。誘惑の蛇だからエバと性的関係にあったのではないかという解釈もあります。あの 霊感商法と統一結婚式で悪評の高い韓国の文鮮明の統一協会では、女は蛇と不倫しているから、結婚に際しては血を清めなければならないといろいろ問題になった教義があったらしいですね。お尻を棒で叩くのも清めの一種です。

 蛇とエバに性的関係があったとしても、それは決して不倫とはいえません。不倫というのは貞操観念があるからこそ言えるので、蛇とセックスすることがどうして道徳的にいけないかということは、全く考えることはできなかったわけです。それに蛇の方からエバを誘惑したともいえませんね。

 蛇は精神分析学では男根のシンボルだそうですから、蛇自身が人間の性的な欲望や欲望一般のシンボルだと言えます。エデンの園ではフラストレーションがたまっていたのです。何故なら楽園の果物はもう食べ飽きていました。ですから何か他の物が食べたい。それで禁断の木の実はいかにもおいしそうに見えます。好奇心が高まり、禁じられているからこそ、余計に食べたくなったのです。こうして人間たちの欲望はどんどん肥大化していきます。なぜなら言語が使えるということは、想像力が発達するということです。それで空想的に欲望が肥大していきます。

 でも空想だけで何も変えることができないので、欲望はついに蛇となってとぐろを巻くわけで、勝手に動き出したわけです。つまり蛇はアダムとエバの欲望の自己疎外の結果誕生したものだという疎外論的解釈もできますね。あるいは蛇という獣に自己の欲望を外化し、蛇の誘惑だということにしてしまったということになるかもしれません。そうなると蛇はアダムとエバの内的な衝動であり、動物の蛇は何も言っていないのにそう聴こえたということかもしれません。

 結局誘惑には勝てなくて食べてしまいます。女の方から食べたのです。女の方が理性によるコントロールが効かないので先に食べたということにしているのです。男の方が理性的だということで、男が女を支配すべきだという理由づけにしています。『バイブル』は男が書いたので、こういう設定にしておけば、男尊女卑の秩序を宗教的に合理化できるわけです。誘惑に弱いのは人それぞれで、男だって酒タバコの嗜好品で体を壊したり、博打ですってんてんになったり、女遊びに現を抜かして身を持ち崩したりする人も結構いるわけで、「創世記」にこう書いてあるからって、だから男が女を支配して当然というのはおかしいですよね。

 それで「善悪を知る知識の木」の実を食べて二人の目が開けたわけですが、これは目が見えなかったということではなくて、道徳的な善悪の判断力ができたということです。それで先ず最初に気付いたのは裸が恥ずかしいという性的羞恥心です。いかに人間にとって性的なことが関心の的かということが分かりますね。

 つまり人間は他の動物と比較しまして、かなり好色の部類に属するようです。ボノボという小型のチンパンジーはすぐにホカホカ行動をするので有名ですが、それほどではないにしてもね。といいますのが直立歩行するようになって、陰部がだいぶ前付きになり、視覚的な刺激だけでオスが発情するようになり、メスが発情してフェロモンを出して、はじめてオスの発情が起きるというのではなくなったといわれます。それで頻繁になってしまったということらしいですね。でも四六時中じゃあ、仕事がはかどりませんし、社会が安定しませんので、性欲を抑制する必要が生じたので、性器を隠して刺激を減らし、発情を抑制したり隠したりするようになったわけです。

 でも栗本慎一郎『パンツをはいた猿』によれば、何のためにパンツをはくのかというと、それは脱ぐためだということになっています。しかしそれは痴漢の論理のような気もしますね。もちろんいちがいに間違っているわけではありませんが、パンツは第一義的にはあくまで性欲の抑制のためであり、身を守るためですね。お忘れなく。

 とはいえ性的な欲望を抑制することによってそのリビドー(抑圧された性的エネルギー)を昇華して、文化を築くことができたわけです。ですから人間の好色性というのは文化的なパワーの源泉なのです。その面を強調したのがフロイトの文化理論です。「創世記」の記述はそういう考察に大きなヒントを与えてくれているわけでして、「創世記」の著者たちは相当鋭い人間に対する観察眼があったのですね。だから読み継がれて『バイブル』に収録されたということでしょう。

 何ゆえの羞恥心や身を隠す恥部を覆うに木の葉とて無き

 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』
 アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」

 
 まあ全知全能の神ということになっていますから、神は全てお見通しです。神は全知全能ならどうして、罪を犯すと分かっていて、禁断の木を植えたりしたのだという人がいます。あるいは全能だったら罪を犯さないように人間を作ることも出来たはずなのに、どうしてわざわざ罪を犯すように作ったのかと、神を責める人もいますね。それなのに神を愛の神みたいにいうのは矛盾しているではないかということです。

 確かに不条理といえば、不条理ですね。愛の神なら全ての人々を幸せにして、皆パラダイスに入れるようにしてくれればいいのに、実際は正しい信仰の人だけということで、大部分の人類はゲヘナ(地獄谷)行きだということです。

 それでそんな恐ろしい神など信じられないといって、『バイブル』を読むまでは神を信仰していた人が、キリスト教から離れるということもあります。これに対して仏教の浄土教などは阿弥陀仏の慈悲の力で全ての生きとし生けるものは極楽浄土に救い取られることになっています。

   だから浄土教を信じられるかというと、そうは簡単にいきません。そういう阿弥陀仏信仰というのは、 阿弥陀仏が実在したというよりも、そういう仏を作って信仰しているというところがありますから、結局自分で作り上げた阿弥陀仏に自分で救われると信じ込んでいるだけだというようにも言えます。

 それに対してキリスト教やイスラム教の神は、人間から超越した神とされています。むしろ人間は神によって作られた存在だということです。だからその神に信仰を誓って厳しい律法を守ることで、神の愛で救ってもらうと考えた方が信仰しやすいという面もあるのです。

 神は、裸であることに羞恥を覚えて隠れた二人を見て、二人が「善悪を知る智恵の木」を食べたことに気付きます。そして二人を追及しますと、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにします。責任転嫁の典型ですね。

 政治家が収賄で追及されますと、「妻が」と言い、あるいは「秘書が」と逃げます。自分が政治資金が欲しくて収賄しているくせに、手続き的に知らなかったことにして逃れようとするのです。まったく「そんな言い訳してもいいわけ」ですね。

 アダムもいい加減エデンの他の果物には飽き飽きしていて、禁断の木の実が食べたくてたまらなかったから食べたわけです。それをエバのせいにするなんて主体性がないですね。エバも蛇の誘惑のせいにしますが、蛇はただ自分の体験に基づいて自分の知っていることを教えただけで、食べるように誘惑したわけでも命令したわけでもありません。エバは自分の欲望で食べたいから食べただけです。

 ですから、正直に他の木の実は食べ飽きてとても禁断の木の実がおいしそうで、食べたくてたまらないのでつい食べてしまいました。神様から禁じられていたので、食べてはいけないとは分かっていましたが、なにしろ善悪という観念すらまだ持っていなかったので、自分を抑えることができませんでした。これからは神様の命令にはできるだけ従いますから許してください。と謝ればよかったと思いますね。

 ところでどうして善悪を知る智恵の木の実を食べてはいけないのかという問題があります。これは大問題ですね。一見、善悪についての判断力を持つことは大切ですね。善悪の区別がつかないようでは困りますから。ところがここでは神は、二人が自分で善悪を判断すること極めて危険なことだと見なしているのです。

 つまり二人が別々に善悪を判断しますと、それそれが自分の基準で善悪を判断してしまいますから、何が善で何が悪かについて意見が分かれ対立することになります。つまり争いの原因になるのです。それが人口が増えて利害対立が複雑になりますと、それぞれが自己や自己が属する集団の利害に合致するように善悪の基準を作ってしまい、それぞれが自己の正義の為に行動して、正義と正義がぶつかって戦争が起こったりするのです。

 そこで何が正義かは神が定めるから、その律法に従っていればよろしいということになります。つまり宗教によってイデオロギーを統一し、正義の基準を定めておけば世の中は神の正義が貫徹して平和が保てるということになります。この宗教イデオロギーによる統合と平和を「主の平和(シャローム)」と言います。これは一つの宗教で一元的に支配できている時は安定しますが、幾つかの宗教が競合しますと、それぞれの正義の強調は紛争の種になります。

 労働は神が与えし罰なるか己が命の輝きならずや

 「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。』
 神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め 彼はお前を支配する。』神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』」

 それで神の審判が下ります。これが最初の神の審判ですね。審判と言えば、ノアの大洪水やソドムとゴモラの炎上、イスラエルのカナン侵攻による大虐殺もカナン人に対する審判という解釈も可能です。ユダヤに対する審判としてバビロン大捕囚があげられますね。ローマ帝国に対するユダヤ解放戦争に敗れて、ディア・スポラ(離散)したのも審判の一種です。審判と言えば歴史の終末後の審判を指す場合が多いのですが、この蛇とエバとアダムに対する審判が原点にあるのです。

 始めに蛇が裁かれますが、これは私に言わせれば冤罪です。蛇は呪われて地をはいずる姿に変えられます。発声器官がなくなって言葉も話せなくなったのでしょうね。でも蛇の立場になって考えますと、地をはいずる姿になったお陰で地中にもぐりこんだりするのにとても便利になっています。罰でこんな姿にされたのじゃなくて、自分たちが自然環境に自分たちのやり方で適応してきた結果、こんな素晴らしい姿に進化できたのだと言いたいでしょう。蛇と女が仲が悪くなるというのも罰だと言うのですから、おもしろいですね。確かに女性には蛇に対する異常なまでの拒絶心があるようですね。ただフロイト学派によりますと蛇は男根の記号だそうです。

 次に女に対する審判です。先ず妊娠および出産の苦しみが罰だというのです。そういう元来がお目出度いことに伴う苦しみを罰だというのはどうでしょう。つまり神の罰だと思って耐えなければならないほど大変なことだということでしょうね。実際、お産で失敗して死ぬことが多かったわけですし、まさしく命がけで子を産んできたわけですからね。

 そして男が女を支配することも女が蛇に唆されて罪に堕ちた罰だということです。これが一番作者の狙いでしょう。この言葉で女が男に従うということが道理だとはっきり確定しているというわけです。ですから女性は、この言葉をもっと問題にし、神の罰ということで男支配を正当化してきたことに対して、抗議し、宗教権力に反省を求める必要がありますね。最初の女エバが犯した罪の責任を今の女性にも取らせるという発想はどうでしょう、厳しいものがありますね。「初源コンプレックス」です。この言葉使えるかも。まあ「原罪」というタームで包括できるでしょうが。

 そしていよいよアダムに対する審判です。女の声に従ったということが罪ですね。男にとって女の願いは聴いてやりたいものです。女にいいところを見せて、女の機嫌をとれば女は幸福そうにしてくれます。それが男にとっても幸福なわけです。まあ家庭が皆幸福で和やかなのが一番ですからね。でもそのために一番大切なことを忘れてはいけません。

 中国では「雌鳥が鳴いたら国が滅びる」と言います。女性は家庭を守っていればいいので、国の政治嘴を突っ込んだら、政治は情実に流され、公正に欠けてしまい、乱が起きる直接の原因になることが多かったのです。アダムは神の命令よりも女の言葉に従ってしまった。なんとふやけた野郎だということでしょうね。これでは駄目です。男には社会的な使命があり、家庭を犠牲にしてでも成し遂げなければならない仕事があるはずです。『バイブル』ではそれを神の命令に従うこととしているわけですね。情実に流されず天命に従って生きろということです。もちろん現代は男女平等ですから、何も男だけそうだというわけではないのですが。

 アダムが罪を犯したので土が呪われるというのは何故だか分かりますか。ちょっと難しいかな。そうアダムは土から出来ているのでしたね。だから人の罪を土も背負うわけです。これはすごいですね。現代的意義のある言葉です。人間が自分の欲望を膨らまして、勝手なことをしますと、その責任を自然が負わなければならないということです。現代の公害問題、環境問題はまさにこれですね。人間は自然の一部なのです。土が草や木になり、それを食べて草食動物になり、それを肉食動物が食べます。人間は雑食ですが、どっちにしても元々は土なのです。

 ただここでは神の命令に背くと自然災害が起きるぞという脅かしとも取れますね。宗教権力やそれを利用した政治権力がよく使う手です。権力に逆らったら、作物が枯れ、災害や疫病が起きるのだと言って、権力への隷従を説くのです。そういう過去の悪用された歴史があるにしても、人間は土の一部だから人間の罪によって自然が破壊されるという認識には、大いに学ぶべき点があると言えます。

  さて土はアザミと茨など雑草ばかり生えさせるので、小麦や稲を栽培して、パンやご飯を食べようとしたら大変苦労するわけです。額に汗して働きづめに働かなくては食べていけないということですね。昔は農業は大変でした。稲の栽培では、土を起こし、苗代に種をまき、田植えをし、夏には草刈、秋の収穫とあるわけです。今では随分機械化が進み、楽になったようですが、コストがかかって採算がとれないなど問題を抱えています。食糧自給率が日本は40%を切っていて、環境、エネルギー、人口問題などから食糧価格が高騰したら危機に陥るのではないかと心配されていますね。ともかく農業は基本なので最低限国民が食糧で困るようなことのないようにしないといけませんね。

 一般論として労働がアダムが神の命令に背いた罪に対する罰として述べられているわけです。そしてこの罰は死ぬまで続くのですから、まるで終身懲役刑の囚人のような状態ですね。実際「働けど働けど吾が暮らし楽にならざりじっと手を見る」みたいな状態の貧窮が多くの人の実感としてありますね。もう二十一世紀だというのにですよ。

 我々の子供の頃は、子供の学習雑誌に10年後や30年後の世界みたいな特集があって、超近代的な家屋に住んで、何もかも自動みたいな感じで、労働時間も半分ぐらいになり、道路が動いて、あるいは気軽に空を散歩できるみたい理想郷が実現するかもしれないみたいになっていました。

 確かに携帯電話やパソコンを使ったインターネットなどは驚くべき進歩ですが、相変わらず狭い古い家に住み、相変わらず長時間労働で、そんなに変わっていませんね。いつの間にか福祉国家の実現ですら、絵に書いた餅になってしまいました。でも愚痴ばかり言ってもしかたありませんね。

 欧米人の労働観はこの「創世記」の苦役としての労働観の影響を受けて、非常に暗くて自己犠牲的なものです。これをベースに自分は出来るだけ少ない時間働いて、他人が長時間働いて作った物を手に入れようとするということになっています。これが経済合理性を追求する経済人ホモ・エコノミクスの人間観の基礎にあるのです。経済学の法則もここから導き出されるわけですね。

 これに対して日本人の職人的な仕事観は、物をつくり上げることが自己実現で、生きがいや誇りになっています。できるだけ粋を凝らして誰にも負けないものを作って高い評価を得ようとします。もちろん市場経済の仕組みが有る限り、労働と仕事の両面があるわけでして、苦役的な面に目を瞑って、自己実現だと思って喜んで働けと言われても、汗水たらして人一倍働いても相変わらず貧乏じゃあ、たまったものではありません。

 終身懲役刑みたいな労働観を神は、わしの言うことを聴かなかった罰じゃ、ざまあみろということで突き放して説いているわけではありません。神は裁きの神であると同時に愛の神でもあるのです。働きづめに働くことによって、人間は土と格闘し、次第に狭い自我を忘却して、自然と融合するのです。そのことによって人間は自然自身の自己意識になって、土と共に生きることになります。ですから労働は宗教的な勤行という意味を持っているわけですね。

 つまり土から生まれた人間は土に還るわけです。それはある意味では死ぬまで働かされるという意味ですが、同時に自然と一つになって、自然との共生と循環に生きるということで、そこに生きる喜びも与えられるということですね。それが理解できるようになれば、神が愛の神でもあるということが実感できます。ただ農業など第一次産業や物づくりの仕事をしている人だけでなく、サービス産業でもその仕事に生きるということが、命の循環であるように感じられるかどうかですね。それはね、長いこと働いていれば分かるわけですが、やはり同じことなのですよ、どんな仕事でも。大切なことは互いに感謝し合うということでしょうね。人間同士でも、自然や道具や機械や品物に対してもです。そうして初めて命が繋がっていると感じることが出来るわけです。

 それから最後に死ぬことは土に還ることだということですね。その意味で「創世記」は唯物論的な死生観だと言えます。意外に感じられる方も多いかと思われますが、死後にパラダイス(天国、楽園)かゲヘナ(地獄)に行くのがキリスト教やユダヤ教と思っておられる方が多いでしょうね。それは大きな誤解です。教会の牧師さんも信徒が亡くなりますと、神に召されたと言います。だから死は決して悲しいことではなく、神の御許にいくのだから当人には幸せなことなのだ、笑って見送るのが本当だとまで言います。でも、それは素直に信じてはいけません。『旧約聖書』で天に昇ったのはエリヤだけです。『新約聖書』ではイエスだけなのです。そのほかの人は、みんな死んで土に還っているのです。

 じゃあ、来世や天国というのはどういう意味なのでしょう。それは歴史が終末を迎えてから、神が死んだ人々を甦らせて、審判を行うということです。それから楽園と地獄に分かれるのです。そして天国というのは、実は地上にできる楽園の意味なのです。現在神は、この宇宙の外の天に天国を作って住んでいて、天使たちもそこにいるのですが、歴史が終焉しますと、地上に降りてきて、地上が天国になるということです。地獄も、地上の一部がなるわけです。もともとそういう信仰だということをお忘れなく。もっともそのことがはっきり書かれているのは、『バイブル』よりイスラム教の『クルアーン』ですが。

 



 

 



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