茉奈・佳奈の『だんだん』にはまっている。なぜか癒されるのである。
この一卵性双生児の両親は離婚して、父は宍道湖のしじみ漁師に、母は祇園の芸者になっている。姉めぐみは路上ライブを楽しむ高校生で、妹は祇園の舞妓だ。それが出雲大社のオオクニヌシの神の縁結びか、出雲大社で奇跡の再会を果たし、奇跡のハーモニーを奏でる歌手としてデビューする。
なぜ双子の再会がこんなに癒し効果があるのか、不思議な気がするが、よく考えると、一卵性双生児というのは元々一つなのである。それが二つに岐れてしまった。だから失った半身を求めるように惹かれ合うのである。この現象は実は命が根源的に一つであること、生きるということは、一つの命から岐れて個体になり、失った命を取り戻そうとすること、なのである。
アダムのあばら骨からエバが作られた。アダムは「わが骨の骨、わが肉の肉」と呼んでエバを求める。エバも命の根源であるアダムに還ろうとするのだ。実はアダムの一部がエバになったということは、アダムとエバは父と娘でもあるということである。父が娘に対する、娘が父に対する気持ちを他の異性に転移するところに性衝動が起こるのである。これを私は「アダム・エバコンプレックス」と名づけている。
大いなる生命という観点に立てば、元々一つの命である。だから生きるということは、個体や類が自己を維持するために、他の個体や類を自らの身体に取り込んで、生命エネルギーにするということである。そしてそのエネルギーで環境を再生して、自らの命の証を他の個体や類、そして諸事物として作り出すことである。
だから双子の再会が奇跡のハーモニーを生んで、人々の心を癒すというのは生命の根源的な営みを象徴した営みなのである。そこで最初のオジリナルが「いのちの歌」になるのも必然性があり納得だ。
またまことに残念なことに最初の全国ツアーの冒頭で解散宣言をしてしまうが、双子は一つなのだが、あくまで二つであり、別れることは避けられない。また美意識としても離れてこそ、一つのときのハーモニーが永遠の美しさを奏で続けるのである。
茉奈・佳奈は、命が根源的に一つであることを象徴する存在として、聖性をもった芸能タレントである。ふたりが命のハーモニーを奏で、愛すること生きることの尊さを演じ続けることの意味は大きい。そのことを二人も芸能界もファンも自覚して、いい作品を選び、またクリエイティブに活動できるようにして欲しいものである。