宗教のときめき

24天台本覚思想とネオ・ヒューマニズム
やすい ゆたか
 ひむがしに明けの明星きらめきて草木山川皆目覚めたり

明けの明星

 動物だけではなく植物にもあるいは山や川、空や海にまで仏性があり成仏するのだという考え方を「草木国土悉皆成仏」というフレーズで表現します。これが天台本覚論(天台本覚思想)の中核的な思想なのです。

 草や木や土までも成仏するというのは、輪廻思想で捉えますとどうなるでしょう。生まれ変わり死に変わっているうちに次は獣になったり、鳥なったりして、また幸か不幸か人間に成ったりします。そしていつかは釈迦に出会って成仏できることだと考えられます。

 つまり草木は草木のままでは感覚や思考力がないので、覚ることはできないという解釈です。草木が仏性を持つのは輪廻の主体であるこそですね。だから成仏は人間に成ってからするということになってしまいます。この議論でいけば、人間以外は成仏しないという一見正反対の議論を含んでしまうことになってしまいます。

 ですからいったん輪廻思想を棚上げにして、悉皆成仏を考えることにしましょう。そうしますと、草は草、木は木のままで成仏するといえなくてはならなくなります。

 鎌倉時代の禅僧瑩山紹瑾(1268-1325)の『伝光録』首章に「釈迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す」とあります。釈尊は明けの明星を見て、成仏されたのですが、その時に、大地や鳥獣も同時に成仏したという解釈なのです。それで釈尊は「草木国土悉皆成仏」と叫ばれたというのが、曹洞宗の解釈らしいのです。

 言い換えれば、覚りに達した釈尊と釈尊に存在の法を示した対象的な事物は、大本において別ではないのです。大いなる生命として一つだということです。だから森羅万象を離れて釈尊はなく、釈尊を離れて森羅万象はないのです。つまり森羅万象を自らの命として、自らとひとつのものとして感じ取れる意識が覚りなのだという道理です。つまり釈尊の成道と草木国土の成道は別々ではないのです。釈尊が覚った、その御姿が草木国土なのです。草木国土の他に釈尊が存在されているわけではないのです。

 この場合の「本覚」というのは元々覚っているということでしょう。つまり覚りというのは、存在の本来のあり方を知ることです。それは森羅万象として存在する世界のもろもろの存在の現われを通して示されるものです。だからもろもろの存在は本来のあり方を示すことができるゆえに、元々存在の本来のあり方を無自覚であれ、知っている筈である。この大本の覚りに覚醒するのが、瞑想による覚りなのです。

 瞑想において、認識する主観と認識される客体との区別は没却されている。薔薇を無心に見ている意識は薔薇という意識でしかありませんね。見ているところの我は存在しないのです。また客体も主観の意識を離れた不滅の実体などではありません。それは無常の生成し消滅する現象でしかないのです。それでいて見る側の我にも、見られる側の実体にも捉われずに、生命のドラマを生き生きと展開しているのです。

 イエスも「野の花を見よ」と言われました。、いかにやせた地に咲く花といえども、それなりに美しく咲いていて不足はないとされたのです。存在それ自体は何も欠けていないのです。空海は室戸の空と海を見て、自分を空海と名づけました。そこに自分の思いやこみ上げる感情、生きようとする意欲を見出したのです。空と海が空海の体になったのである。

 覚ろうとする釈尊もあくまでも明けの明星や山川草木とは切り離された「我」であるのなら、覚りはしないのです。明けの明星や山川草木を我と見た時に覚るのです。また明けの明星や山川草木も釈尊とは無縁な物体である限りでは覚りはしません。釈尊の命として輝いた時に覚っているのです。

 マルクスは「貫徹されたナチュラリズム」が「貫徹されたヒューマニズム」だと言ったのです。大いなる生命の現われとして釈尊も山川草木もあるのだとすれば、山川草木にも仏性を見る意識は、身勝手な人間中心主義を克服していると同時に、いい意味でのヒューマニズムの貫徹でもあると言えるのではないでしょうか。