死へのはなむけの話
するといきなり眩しい真っ白い光に包まれて、空中に浮き上がり、体全体が光の中で消えていくのを感じて、恐怖の余り、目を醒ました。目を醒ましたとたんに全ては忘却していて、普段の月曜日の朝を迎えていたのだ。
「あなたこわい夢でも見ていたの?うなされていたわよ。」
すごく疲れていたが、何も覚えいないので、
「ヘェー夢のなかでも悪戦苦闘してるんだな、きっと。せめて夢ぐらいは楽しい思いをしたいよ。ところで今日は何曜日だった?」
「昨日は月に一度の学習会で日曜日だったでしょ。だから月曜日。」
今日は緑地の大手予備校の講義だ。受講生が減っていなければよいが。午後三時半からの講義の直前までまったくいつもと変わりなかった。しかし教室のドアを開けたとたん、白い光が差して目が眩んだ気がしたが、それは一瞬で、教室には一杯の受講生で溢れていた。
十月のこの時期に四月と変わらない数である。一体どうしたんだ、教室を間違えたのかなと思ったが、みんな倫理のテキストを出していた。
「ええーと、ハイデガーからだったね。ハイデガーと言えば、筒井康隆を思い出す。ほら断筆宣言で話題になった、そうだ『時をかける少女』なら知ってるだろう。
彼は、ハイデガーが好きでね、ハイデガーについての講義をテープに吹き込んでるんだ。彼の作品にかなり評判がよかった『文学部唯野教授』ていうのがある。その主人公の唯野教授は作中で見事な文学理論の講義をするんだ、それも軽い東京の若者言葉の乗りでね。きっと予備校で唯野教授が講義をすれば、バカ受けするに決まっている、超人気講師で年収億を超えちゃうかもしれないなんて。それでね、その作者の筒井が講義すれば、さぞかしハイデガーもおもしろいだろうと思って、そのテープ買って聞いたんだ。
そしたらそれが別に大しておもしろくもないんだ、やっぱり唯野教授の講義もフィクションだからおもしろいんだなということ。それでぼくがね、筒井康隆の『虚航船団』という最高傑作を論じた論文の中にそのことを書いておいたんだ。それが掲載された雑誌を本人に送ったんだけど、反応無かったな。まあいいか。」
あれ、この話し、去年までは爆笑を取ったのに、今年は駄目だな。白けてるよ、みんな。
それで現存在はどういうあり方をするかっていうと『世界ー内ー存在』というあり方をするんだ。これは世界が容れものみたいに、先ずあって、その中に人間が入っていくというんじゃないんだ。世界がこの教室だとすると、外からこの世界に入ってくるというんじゃないんだ。常に世界と共に有るというあり方なんだ。
分かりにくい?じゃあ、やってみようか、こういうのじゃないということだよ、ハイデガーは。教室から出て、入ってくるよ。」
こんな授業の展開だとますますこんがらがらせるだけかな、と後悔しながら、教室からいったん出て、また入ってきた。すると、また真っ白い光で目が眩んで、今度は急に暗くなった。脳卒中かなにかの発作かなと思ったが、教室の中は薄暗くなり、だれもいない。確かにさっきまで満員でザワザワしていた受講生はどうなったんだ。ええー、自分の勘違いかな、白昼夢でも見ていたのか、だが全員欠席というのはおかしい、せめて十人はいる筈だ。ともかくもう少し待つしかないな。
何気なくテキストに目をやった瞬間、一人の女子受講生が座ったままこちらを見つめていた。一人でも授業を続けよう。
「君だけだから、君のリクエスト授業ということにしよう。」
「先生、約束よ。私だけの為の死へのはなむけのお話し、考えてきてくれたんでしょうね。」
その瞬間夢の記憶が生々しく蘇ってきた。あまりの事態の展開に気が動転して、榊周次はその場にへたり込んでしまった。だって夢の世界が現実の世界に闖入してきたからである。
今朝目覚めた時には忘れていたが、それ以前に見た夢で出会った女である。投身自殺の最中にワープしてきたなんて言っていた、気が触れた女だった。確かに目覚めた筈なのにまだ夢の中だったのか、あんなに現実と思っていた日常だって夢だっていうことになると、いったい何時から自分は夢を見つづけているんだろう。
「君は、後零点何秒で地面に激突して死ぬ筈だったのに、まだピンピンしてるじゃないか。」
「だから早くして、もう時間がないわ。」
「あれから夢から醒めて全部忘れていたから、何も考えてないよ。それにどうせこれは現実なんかじゃなくて夢なんだから、別にいいじゃないか。」
するとワープ女は絶叫した。「先生にとって夢かもしれないけれど、私にとっては紛れもない現実なのよ!」
高が夢のくせにそんなに真剣になるなよ、と言い返したかった。
「そんなにわめく位なら、男に捨てられたくらいでビルから飛び降りるなよ。今更、最後の言葉だなんて生にこだわることはないだろう。どうせ幻想の生なんだ、君の存在も、君の死へのダイビングもみんなぼくの夢の中の意識に過ぎない。そうだと分かったんだから、君の死へのはなむけの言葉なんかもう思いつけっこないよ。」
榊は、夢の中では道徳的義務感や他人への同情心で行動する必要はない、自分のきままで好きなように過ごせばいいのだと思っていた。夢の中まで誠実でいい人なんてやってられないのだ。
「あーら、げんきんなのね。先生が現実だと思っていた今日の出来事も、全部夢だと分かったのでしょう。だったら夢と思っていることが、現実だってこともある筈よ。」
「それがね、夢と現実ははっきり違うんだ。現実だと受講生がみんなパッと消えたり、ワープ女が突如登場したりするわけがない。それに夢は意識にすぎないけれど、現実は生の事物を基盤にしている。飯も食わなければならないし、経済的な稼ぎも必要だ。つまり肉体と生活を維持していく営みを果たさなければならない。夢だったらそういう因果関係にはお構いなしに事態が転変していくんだ。つまり現実だと客観的な事物の連関、社会関係、人間関係を対象化して、その法則性に基づいて行動しなければならないんだ。」
ワープ女はこの言葉を待ってましたとばかり、意気込んで語気を強め、たたみかけてきた。
「でも現実だって、見込み違いするじゃない。既成のやり方でこれでいけると思っていたことが、急に通用しなくなることだって、しょっちゅうあるでしょう。それにね、客観的な事物だって、意識として現れているわ。人間が意識しているものは、夢と同じで、人間の意識でしかないんじゃないの。」
なかなか現象学的にはまともな議論をする。
ワープ女は議論好きなのか生き生きしてきた。
「あーら、変な理屈ね。だって、夢の意識がぼんやりしたものだったら、そんなに夢の中で先生が理屈をこね回せるというのは、夢と矛盾しているじゃないの。それに夢の中だって、直面している現実が、本当に現実かどうか疑っていない場合も多いんじゃないかしら。たとえこの現実が夢だとしても、夢みている間は現実として引き受けないと、先生は現実でもいいかげんな上に、夢でもいいかげんだということになるんじゃない。」
なんと生意気な、ワープ女だ。「おいおい喧嘩を売るつもりか。俺だって精一杯頑張っているつもりなんだ。そりゃ情けない気持ちになることもあるさ。いつまでたっても定職には就けないし、予備校でだって、ベテランになるとリストラの対象にされちゃうのだからね。」ああ、夢の中でまで落ち込んでいるようじゃやりきれない。
「もしこれが先生のおっしゃるように先生の夢だったとしたら、私が先生の意識の中に現れたのは、先生自身のピンチに陥っている、先生の現実を救うためかもしれないじゃないの。今まさに後、零点何秒で死ぬかもしれない人を感動させ、納得させて死ねるような話ができなければ、先生自身のピンチは救われないのよ。」
さすがに榊自身の夢の中で登場人物だけに榊に対する説得力がある。
「ということは、投身して今まさに死につつあるというのは君という他人の事だけではなくて、己自身の状況でもあるということなんだ。だから夢は夢であって、同時に夢ではなく、生々しい現実の意識でもあるということか。なる程弁証法的だ。まさに夢みている意識も身体や生活する主体の意識であって、現実の意識の置き換えなんだ。」
それはそうだが、今まさに死につつある俺様が、今まさに死につつある人を感動させる話をどうして考えつくことができるんだろう。
「そのお話しちょっと身につまされるけれど、いかにも同情を誘って哀れみっぽくて、感動を呼ぶってとこまではいかないわ。」
「違うよ、これは別に感動させるための話じゃない。」