ワープ女との出会い

 榊周次は今夜も安眠できない。「うーーーん」彼は激しく圧迫されて目覚めた。

  部屋の空気が寒天状になって全身に覆いかぶさってくる。満身の力を込めて跳ね返さないと心臓がつぶれてしまいそうだ。

 もう何十年も週に一度はこんな体験を襲われる習慣になっているのだ。でも今夜ばかりは跳ね返せないかもしれない。寝返りを打とうにも全身が痺れて動けないのだ。ぐいぐい締めつけられる。

 彼はワイフの名を呼んでいるつもりだが声になっていないらしい。「た・す・け・て・く・れ」と叫んだまま奈落に落ち込んでいるのを感じていた。それがどの位の時間だったか定かではないが、深い井戸の底にある水の中に叩きつけられて沈んでいく感覚で目が醒めた。

  しかしそこは彼が寝ていた部屋ではない。 

 昼間の榊が週一回勤めている大手予備校の二百人用の教室に立っていた。受講生はだれも居ない。ベルはとっくに鳴った筈だった。これはまずい。こんなことでは来年はお払い箱である。それでなくても浪人全体が激減しているのだから。

  ああ予備校からの収入がなくなれば自称哲学者にして、大学非常勤講師の身では、生計はまるで立たない。もう少し待てば一人くらいは来るかもしれない。事務室で聞かれているかもしれないから授業は始めておこう。

  「倫理」の講義である。彼はおもむろにテキストを開いた。そして目を上げたら、いつのまにか一人の女子受講生がいるではないか。

 「君がそこに存在するのは、私にとっては感覚的現実だ。」彼女は頷いた。いいぞ、そういえば二三度五月の前半に見かけたことがあった気がしてきた。

  「私がここにいると君には見えているだろうが、それも感覚的現実だろう。本当に感覚しなくても存在すると言

えるかどうかは断定できない。ひょっとしたら君は君の夢の中で私の授業を受けているかもしれないじゃないか。」これがミュージカルなら井上陽水の「夢の中へ」を歌いだすところだ。

  「いいえ、夢じゃないんです。でも現実とも言えないわ。だって私は今まさに死につつある、死に向けてまっさかさまに落下しつつある存在なんですもの。」

  咄嗟にこいつは気が触れているなと覚った。

  倫理の授業を担当していると何年かに一人はノイローゼか分裂気味の受講生が居て、講師室に来てなかなか帰してくれないことがある。こいつは本格的な症状だ。

  でも貴重なお客様である。こちらから逃げだすわけには行かない。

  「そうだ、その通り。素晴らしい比喩だね。人間は『死に至る病』だとキルケゴールは絶望の意義を説き、ハイデガーは『死への先駆的決意性』として人間の実存を説明している。これらは頻出だ。」内心は圧倒されて舌がもつれてきたが、平静を装っていた。

 「話をフッサールに戻そう。フッサールの現象学は直接は出題されていないけど、現代思想の背景として重要だし、現代文の解釈にも必要な場合があるんだ。ハイデガーの『存在と時間』の前提には、ユキスキュルの環境世界論とフッサールの現象学があるんだ。」

   いけない!こんな説明ではきっとチンプンカンプンだ、ここは大学ではない、予備校なんだ。今時大学でもこんな説明の仕方をしては、学生に逃げられてしまう。

 「ああ、君は久しぶりに来たんだし、今日はお客様は君一人だけだから、特別に今日は君の聞きたい範囲をやろう。」

  彼女は榊の目をじっと見つめて、小声で囁いた。「私はもう受験生じゃないの。だってビルから飛び降りてしまったんだもの。だから後、数秒で死んじゃうのよ。そんな私にはなむけになるような講義を聞かせてください。」

  こいつは完全に自分の世界に閉じこもっているな、榊は二の句が継げなかった。

  「彼に騙されていたの。私には彼が全てだったから、こうするしかなかったのよ。でもね、落下しはじめて二・三秒経ったかしら、目の前で塵が極彩色に輝いたのよ。そしたら先生の『華厳経』のお話を思い出したの。

『法身仏である毘盧遮那仏は、一にして全であり、宇宙の全ては毘盧遮那仏の現れなのだから、そう捉えれば塵だって御仏なんだから極彩色に輝くんだ』ておっしゃったでしょう。

  まさか本当にそんな体験をするなんて思ってもみなかったけど、死の間際の刹那になって極彩色に輝く塵を見たのよ、ああこれで納得して死ねると思ったわ、でもその瞬間、先生に会ってもう一度講義を聞いてみたいと切実に思ったのよ。そしたらほら、その瞬間ここにワープしていたの。」

「そりゃ教師冥利に尽きるよ、ありがとう。でもまるで、『ドラエモン』の『どこでもドア』みたいじゃないか。」

「信じてくれないのね。そんなこと言ってるうちに、私は地面に叩きつけられて死んでしまうのよ。」

 割に無表情に感情を交えないでよくこんな事が言えたもんだ、もうからかうのもいい加減にしてくれ、榊は少々苛立っていた。

 「何を言ってるんだ。もうだいぶ経ってるじゃないか、君が現れてから。本当に飛び降りたのならとっくにお陀仏しちゃってるよ。」

 「信じてもらえなら仕方ないけど、彼は医学生でね、私は国文科の学生だったの。だけど、彼は医者同志でないと結婚したくないって言うのよ。私も医者に成れたら結婚してもいいって言ったから、私は退学して医学部に入り直す為に予備校に入ったのよ。

  でもね、彼がそういったのは私と別れるためだったの。彼は以前から二股をかけていたのよ。それで私を棄てて、他の女についていったのよ。きっとあの女は体で誘惑したんだわ。私はせめて二十歳になるまでは純潔でいたかったの。そんなことにこだわったのが間違いだったのね。」

 結局彼女は恋愛相談に来たんだな、榊は少し落ちついた口調で語りだした。

「君は素晴らしいよ。純潔にこだわるのは流行らないみたいに言う人がいるけれど、そういう問題じゃないんだ。安易に肉体で結びついちゃうと、本当の心の深いところでの結びつくことはできない。結婚まではハートのつながりを深める事に集中するのが大切だな。それで敢えて、肉体関係を持たないようにしようとする君の愛は、純粋で美しいよ。しかも命懸けの愛なんて、アンビリーバブルなぐらい凄いよ。今時、女子中学生でも援助交際とか言って、簡単に体を売ってしまうのもいるっていうじゃないか。」

 「やっと信じてくれたのね。だからお願い。私の死を飾るのに相応しい感動的なお話を聞かせて。」

 榊はそんなことを信じる筈もなかったが、これは話を合わせておくしかないと観念した。だって相手は気が触れているんだから。

 「君の話が本当なら、君のその体は生の肉体じゃなくって、心霊学によると、幽体だってことになるね。いわゆる死の直後によく起こるって言われている幽体離脱だ。  幽体離脱は『源氏物語』に出てくる六条の御息所の生霊の例もあるように死の以前にも起こりうると言われている。

  それからほんの数秒の刹那が、幽体の体験では数分にも数時間にも成りうるというのは、なかなか興味深い現象だ。私は元来科学的な人間だから、心霊現象もオカルトも一切信じないが、そのことは棚上げにして、思考方法のチャンネルを現に起こっている事態に順応させることにしよう。その方がずっと面白いからね。

  ほらいつか何か信じられないような不思議な体験がわが身に起こらないかと誰だって期待しているじゃないか。UFOがいつか現れるのをみんな密かに期待しているようにね。遂に今、こうして君というお化けみたいな存在が現れた!実に記念すべき瞬間だ!時間の相対性理論をこうやって体験できるなんて、やはり私は選ばれた存在だったのかもしれない。」

 「それが私の死へのはなむけの講義なの、あまりピンとこないわ。もっと胸が熱くなるような話が聞きたいのよ。」

   そりゃあそうだが、何の準備もなしに、今死につつあるうら若き女性にはなむけの講話を突然思いつくわけがないじゃないか。そんなの文学部唯野教授でも無理だ。何か言い訳を考えなくちゃ。

「大丈夫だよ、大丈夫。」

「あと数秒しかないのに大丈夫はないでしょう。」

「君は私の素晴らしいはなむけの講話を聞きたいという一心でワープしてきたんだから、それをさせたのは君自身の能力じゃないだろう。君は元々そういう超能力者だったのか。」

「いいえ、普通の女の子よ、みんなはわたしのこと神秘的で美しいって言うけど。」

「最近視力が衰えているから、ここからだと君の美しさがよくわからなくて残念だな。ともかく君をワープさせた力の存在は認めなくちゃいけないよ。すると、君の願いが叶えられないのに、君が死んでしまうというのはその力ある存在にとっては、自己の無力を示すことになってしまう。」

「そんな言い訳、してもいいわけ?」

「おいその駄洒落はこっちの十八番だよ。」

「ともかく回りくどいけれど、神さまが先生の素晴らしいお話が終わるまで私を死なせないってことね。」これが今死につつある者との対話だとはとても思えない和やかなムードになってきた。

 「死に際というのが、人間にとって一番肝心な時なんだが、既に何もできないし、辞世の句が作れたら、それがベストとしなくちゃいけない。浄土教で時宗の一遍上人は、常に今を『臨終の時』と心得ていたんだ。すると『南無阿弥陀仏』を唱えるしかないじゃないか。だから一遍上人にすれば人生は『南無阿弥陀仏』の五文字に尽きるわけで、それ以外に真実の言葉なんてないからといって、自分の著作を全部燃やしてしまったんだよ。

 阿弥陀仏は無量の慈悲の光という意味でもあるんだ、だから君が極彩色に輝く塵を見たのも阿弥陀仏に包まれて浄土に行こうとしていたのかもしれないね。」

 突然、彼女は眉間に皺を寄せて、語気を強めた。

   「無責任な慰めは要らないの。人生は一回限りだから、実存が成り立つのでしょう。死んでも浄土や楽園で生きていたり、地獄でもがいていたり、生まれ変わったりできたら、本当に死んだことにならないじゃなかった?

 自分は浄土なんて信じてもいないくせに、今死んでいく者に浄土を説くなんて、罪深いことだわ。」

 こりゃやられたな。じゃあたった一回の人生簡単に投げ出して死んでしまうのはどうなんだ、罪深くないのか?
とはいえ、飛び降り自殺やワープなんてどうせ嘘に決まってるし、もし飛び降りたのなら、それなりの深刻なわけがあるんだから、今更説教するわけにもいかない。

  「そうだな、確かに。だから親鸞は、法然上人の話は、みんな絵空事で阿弥陀仏も浄土も幻想かもしれないが、自分は法然上人に騙されてもいいから専修念仏に従うと言ったんだ。それは弥陀をひたすら信仰して念仏三昧をしていると、生死から離れられずに煩悩に苦しむ生き地獄の只中で阿弥陀様に包み込まれ,抱擁される自然法爾の境地が味わえるんからなんだよ。その境涯では、おそらく時間も空間も溶けてしまって、過去や未来なんてどうでもよくなる。時というものが消えてしまうんだな。」

 幽体かもしれない女は今度は神妙に頷いた。

  「塵が極彩色に輝いた刹那は、ひょっとしたらそれに近かったのかな、私も。それで時間がほとんど止まってしまっている状態なのかもしれない。」

 榊は不安をかき消すように念を押した。

「この空間ではちゃんと現実の時空はあって、時間も普通に経っているんだ。でも君が落下している生身の空間ではその間に何万分の一秒しか時間が流れていないということだな。」

「それじゃあ、人生は一睡の夢というのも単なる例えじゃないのね。」

 話を女の妄想に合わせているうちに、榊周次は自己の存在に不安を覚えはじめていた。もしこの女の投身話しが本当なら、幽体が飛び込んできたこの次元は、落下しつつある身体の現実の次元の数万分の一秒が何時間にも当たるような次元だということになる。

 そんな世界が同じ地球上に同時に存在し得るだろうか。ひょっとして彼女の幽体が飛び込んできた瞬間にこの時空は、それまでの時空間から極端にずれてしまったのかもしれない。おいおい、これが小説なら筒井康隆の多次元宇宙論の二番煎じになっちゃうじゃないか。

 「もし君の話が本当なら」

 「あらまだ疑ってるんだ。」

 「だって幽体にお目に掛かったのはなにしろはじめてだからね。簡単に信じたら馬鹿だと思われるよ。」

 「じゃあどうしたら信じてくれる。」

  「もしいやじゃなかったら、握手させてくれる?幽体の感触というものは独特だろうと思うんだ。」

 「そんなこといって私の体に触れたいのじゃないの?」

 「おいおい、そういう言い方はよしてくれ、嫌な思い出があるんだ。去年の事だけど、質問に来た女性のシャーペンを借りたときにどうも指に誤って触れてしまったらしいんだ。そしたらその数週間後になって、突然セクハラだったってその女性が言い張って、それから半年以上も悪戯電話攻撃をかけられた苦い思い出があるんだ。それですごく疵ついたんだから。」

 精神を病んでいるのは、この幽体を気取る女性も、セクハラ被害妄想女も同じだ。榊はぞっとして表情を強張らせた。

 「あら女性恐怖症になったの。可哀相だから握手させてあげるわ。」

 「あくまで幽体感触検査だから変にとらないでくれ。ーーーなんだやっぱり普通の感触じゃないか、柔らかい女性の少し冷えた感触だけど。」

 「それで幽体でないことは断定できるの?」

 ここで怒らせてはまずい、また尾を引きそうだ。あくまで相手は精神異常なんだから、うまくかわさないと。

  「もちろん断定は禁物だ。足が有れば幽霊じゃないという証拠とは言えないのと同じだ。幽体も目に見えたり、触れたら感触がある場合もあり得るんだ。それなりにパワーを持っているからね。」

 自分で何を言ってるのか、分からなくなりながら、榊はどうやってこの気の毒な恋で気の触れた女をおとなしく帰らせるか思案していた。

 「来週まで待ってくれないか、それまでにきっと、君が納得して死ねる話をまとめておくから。」

 「そんなーー、もう後零点数秒しかないのよ、私の命は。それまでに死んだらどうしてくれるのよ。」

 なんて事を言うんだ、勝手に飛び降りておいて、本当に知ったことじゃないよと榊はいらいらしていたが、そんな気持ちを気取られないようにしながら、

「じゃあ明日は大学の授業に穴を開けて、午後三時半に出てくるよ、君のためだけにとっておきの話をかんがえておこう。」

 そういうなり、さっとドアの所へ行き、「じゃあね。」と言って、ドアを開けた。

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