第六節、意識の構造
                  一、岸田秀の唯幻論
 フロイト学派の精神分析学の問題点を考えるために、小此木から少し離れて、岸田秀の唯幻論について触れておきましょう。
彼が『ものぐさ精神分析』などで言っていることは、人生には予め、価値や意味など無いということです。その点は、本来、
猫と変わらないというのです。猫は別段、生きているということに価値や意味を求めません。その必要は全く無いからです。
それにひきかえ人間は、束の間の人生が何の意味や価値も持たないという事実に堪えられないのです。そこで個別にかあるい
は共同してか、価値や意味を捏造して、それを支えに生きているのだそうです。岸田にすればこれは恣意的な必要から生じた
ものだから、事実に基づかない幻想に過ぎないというのです。
 確かに、人も猫も自然存在としては同じです。価値や意味は、我々が勝手に作り上げたという意味では、幻想に過ぎないと
いうのも分かります。でも人生がそんなに悲惨だというのならもっと絶望的に、深刻に語るべきです。いかにも自分だけが悟
っていて、みんなは幻想に囚われていると主張するのは無神経です。もっとも岸田に言わせれば、そんな幻想を懐くから絶望
するのだ。もともと人生に価値や意味など無いのだと考えれば、少しも深刻になることはないと言うでしょうが。

 栗本慎一郎『パンツをはいた猿』もこの種の思い上がりに自己陶酔していて、反感を誘います。その上、人間自身や人間が
作り上げた文化は蕩尽のための余剰にすぎないから、人類の滅亡は避けられない。核戦争阻止の運動などナンセンスだなどと
主張するに到っては、背筋が寒くなります。
 たしかに個人の人生は束の間で、はかないものです。自然科学的には無意味で無価値でしょう。死後の世界を空想するのも、
実は全能幻想からきているのです。しかしその諸個人が生まれては死んで、それが積み重なって構成している人類社会には、
人々が共同で作り上げた価値や意味が作用しており、現実的な根拠を持っています。
 個人は自分を単なる身体的個人としてだけ捉えているわけではないのです。人類社会の一メンバーとして、その要素として
も自分を位置づけています。その観点からは、人生の価値や意味は単なる幻想ではありません。核戦争の阻止がいかに困難で
あっても(『パンツをはいた猿』が出版されたのは一九八一年で、ソ連のアフガニスタン侵攻後で東西緊張が高まり、核軍拡
競争が盛んな時期でした)、人類社会の一員として人類のサバイバル(存続)は至上価値ですから、あくまで追求せざるを得
ないのではないでしょうか。
                 二、意識の再生産の構造
 精神分析は心を対象にする科学です。ところで医学は人間を身体に限定して捉え、身体的活動を正常に保つことのみを目的
としてきました。フロイトの精神分析も、心の活動を身体の活動として位置づけようとしていました。だから脳の表層近くに
意識、その下層に無意識の存在を仮定したのです。 たしかに脳の中に意識の中枢があるにしても、意識自体があるわけでは
ありません。言語、意識は実は身体に限定されない社会的なつながり全体にも根拠を持つのです。社会的な諸連関が各身体や
諸事物を動かして、意識を再生産している面を忘れてはいけません。その面から見ますと、各個体的身体の思惟は社会的諸連
関によって産出された言語活動(口に出さない場合は純粋な思考です。)に他なりません。つまり身体は社会的な諸連関が意
識活動する際のメディア(媒体)なのです。

 それに無意識は、社会諸連関が言語的意識活動を産出する際に、その際にメディアとして使われる身体が示す抵抗や受容の
仕方の特徴を、無意識という何かであるかのように実体化したものに他ならないのです。身体がどんな抵抗や受容の特徴を示
すのかは、過去の意識体験の蓄積の内容によって決まります。古い記憶は古い皮膜に刷り込まれているでしょうから、新しい
皮膜の下層に無意識があるとされるのです。
 無意識は過去の記憶それ自体でもありません。過去の記憶が蘇れば、それは立派な意識です。無意識ではありません。むし
ろ過去の記憶が蘇るのを防ぐような、社会的に形成された身体的メカニズムです。それに無意識自体は、無意識的行動として
しか現れませんから、どの部位に有るというような性格の存在ではないのです。

 こうした社会が、社会的な諸事物や諸個人を媒体にして社会的意識を再生産するという面を見落としますと、個体的、個人
的な意識の心理学しか残りません。いかにフロイト派が家族関係や、社会関係の影響を重視する議論を展開しても、それはあ
くまで個体の意識形成の外的条件に過ぎません。そこで個体の存在から演繹できない普遍的な社会的意識である価値や意味は、
すべて自己愛幻想だということになってしまいます。この点は、フロイト派の人々に熟考願いたい問題点だと思います。
                   三、意識の私的所有
 「私」は「私」の大脳の作用としての意識を、主体的な「私」の活動としてのみ解釈しがちですが、それは後から意識内容
を反省して、「私」がそう意識したとするからです。意識内容自体には「私」は存在しないのです。意識現象を実体としての
「私」の活動や、脳生理作用として全て説明してしまうことはできないのです。

 ところが「私」は、「私」を「魂」や「心」として実体化して、意識内容を全て私的に所有してしまいます。こうして成立
したのが心身二元論です。心身二元論では意識は事物や身体の活動ではなく、ましてや社会的諸連関の活動でもありません。
心自体が、自己自身を材料にして意識を産出するとされます。これは、心を実体化して捉えるからこそ成り立つ議論なのです。

 とはいえ「私」が「心」や「魂」として実体化されるのは大変説得力があります。何故でしょう?それは自我が意識的諸連
関の統合であり、主体化であるという事実に根ざしているからです。特にユング派の心理学では、精神界と物質界の二元論と、
それに基づく精神の不滅を説く傾向が強いようです。
                    四、身体的自我の脱皮
 正常な自己愛幻想を持ち、自分に自信を持って生きることが誰しも必要でしょう。その為にも、幼い頃にたっぷりスキンシ
ップしてやって、幼児的な全能感を培っておく必要があるのです。またエロス的な相互愛で自己愛を対象愛に昇華させること
が大切なのです。自己愛から対象愛への転移をもっぱら倒錯的な同一視による自己愛の充足という面だけで捉えますと、対象
愛を対象愛として説明できません。対象と身体的自己を包括するより大なる自己の中で、共同の自己を共に構築する上での共
感として対象愛を捉え返すべきです。
 家族、組織、社会、人間的自然の各レベルで、我々はそれぞれの論理で思考し、行動し、感覚します。そこには身体的自己
からの脱皮があるのです。逆にみれば、家族、組織、社会、人間的自然が、身体の生理過程を媒介に意識しているとも言える
のです。このようなより大なる自己の意識は、様々な社会的レベルの意識として成立します。この意識は諸個人の個体の生理
をもメディアとして現れますが、様々な文化的諸事物をもメディアとするのです。また集団的意識でもありますので、各個人
の個体的な生理的意識過程には還元できません。

 ところで、身体的自己が社会的意識をわがものとして、社会的な自己にまで成長するためには、自己愛を対象愛への転移さ
せ、直接的な生理的欲求を社会的欲求への昇華させることが必要です。当然そこには相剋があり、克己が求められます。身体
的自己から社会的自己への脱皮的成長という視点が重要なのです。残念ながらフロイト派には、この脱皮的成長という観点が
明確じゃないのです。そこで社会的心理をも身体的自己の心理として説明しようとするのです。だからどうしても幼児体験へ
の還元による説明になってしまうのです。
 もちろん身体的自己を引き摺っている以上、幼児体験に正当な配慮がはらわれるべきですが、「身体的自己からの脱皮」と
いう視点を忘れて、「原体験主義」になってしまえば、かえって問題の核心からずれてしまって、治療の妨げになるのではと
心配されます。
 父として、夫として、教師として、労働者として、私人として、公人として、日本人として、人類等々としてそれぞれの自
己を私達は生きています。それぞれの自己の背後に控えている社会連関の様相は、当然異なっているのです。それぞれの社会
連関がそれぞれの「〜としての意識」を産出している面を見落としてはなりません。

 それぞれの社会連関はそれぞれに特有の対象との関係と して現れます。それぞれの対象との関係を生きる事が自己の内容
なのです。ですから自己を大切にする事は対象との関係を大切にする事に他ならないのです。言い換えれば、人間は自己と対
象を同一視し、自己愛を対象愛に転化して、対象愛を支えにして生活しているのです。これなしには自己もないのです。つま
り様々な対象的な人間関係(この中に社会的な諸事物との関係を含めるべきだというのが、私の主張です。)の網の目の統合
として自己が成立していると言えます。

 マルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「人間とは、本質的には、現実的な社会的諸関係のアンサンブル(総和=重ね
着)である。」としました。マルクスは「現実的諸個人」という立場に固執して、社会関係を主体として捉え返すことを倒錯
だとする限界を持っていましたが、「身体的自己」から「社会的自己」への脱皮という視点からは、このテーゼは再評価され
るべきだと思われます。

 「第六節、意識の構造」では小此木を離れて、私の問題意識を述べておきましたが、小此木およびフロイト派全体を客観的
に理解する役に立てば幸いです。

〔拙著『人間観の転換』一九八四年、青弓社〕
 
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