第七節、対象喪失
                   
                     一、悲哀の仕事                

 自我が対象関係の統合だとしますと、対象喪失は自我の成立根拠の喪失ですから、自我破綻に繋がりかねない深刻な危機で
す。自我の網の目が破れたようなものですから、喪失した対象関係が無くても生きていけるように立ち直らなくてはなりませ
ん。つまり、その対象との関係を断念する「悲哀の仕事」をやり遂げなければならないのです。
 儒家は両親の死に当たり「服喪三年」と規定しました。この間、ずっと家に閉じ籠もり、美食や音楽を断ち、子供を造って
はならないとされていました。その間にできた子供は「不義の子」と呼ばれ、相続権を奪われていたのです。これではあまり
に社会生活に支障をきたしましたので、墨家はこのしきたりを強く糾弾しました。そして対案として墨家は「服喪三月」を打
ち出したのです。今日からすればそれでも永すぎます。儒家にすれば、三年の喪を立派にやり遂げてこそ、先祖に繋がる自然
人としての自我を形成することができるいうことでしょう。

 フロイトは、父の死に対する悲哀の仕事を通して、自分自身の幼児体験を思い起こし、それと患者だったハンス坊やの父・
母・子の相剋を重ね合わせ、「エディプス・コンプレックス」を明らかにしたと言われています。フロイトのように悲哀の仕
事によって、悲しみを乗り越えてますます自我が強固になり、生産的になれれば良いのです。ところであまりに悲哀が強すぎ
ますと、生きる支えを失って、鬱病に陥ってしまいがちです。あるいは悲哀の余りに生じた心の空白によって、癌などの身体
の病気を患ってしまい、それが原因で死んでいる人も多いようです。
                    二、悲哀排除症状群
 ところで自己愛幻想が強すぎますと、対象喪失は自己喪失の一部を成しているものですので、自己喪失に繋がる対象喪失を
事実として承認することに、強い抵抗を示すことになりがちです。肉親や配偶者の死後、何年経ってもまだ死が信じきれず、
生きているように思われるものです。私も未だに、死んで二十年や三十年以上経っている祖母や祖父が、生きている夢を良く
見ます。目覚めているときは理性が優勢ですから、祖父母の死は動かしがたい事実なのですが、理性の働きが弱まっている夢
の中では、健在です。夢では死んだいうのは間違いで、息を吹き返したんだと無理に理由付けしているんです。

 肉親や大切な人の死を心の何処かで否定している以上、対象喪失を承認することに他ならない悲哀の仕事をやり遂げるのを
回避しようとするのは、当然です。多忙を理由に、悲哀に耽るのを避けたり、強がって陽気に振る舞ったりして、悲哀の感情
の昂まりを抑えてしまうのです。「涙枯れるまで泣く」のを拒んでいるのですね。

 心の中に感情を閉じ込めておくのは体に触るんですね。「泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠るまで泣いて」という歌の文句
がありますが、喜怒哀楽を体一杯に表現することで、体は納得するんでしょう。たとえどんなに深い悲しみであっても堪えら
れるようになっているものらしいのです。

 悲しいのに泣かない、楽しいのに喜ばない、腹が立つのに怒鳴らない、愛しいのに抱き締めない。体で心を表さないといけ
ないんです。無意識的な形で突然体に心身症が出てくるんです。特に対象喪失によって本当は極度に哀しみにうちひしがれて
いるのに、無理に抑えていると、年老いてから子育てが終わった頃になって突然原因不明の鬱病に陥ったりするものなのです。

 〔『対象喪失ー悲しむということー』一九七九年、中公新書〕 
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