第五節、自己愛幻想
                           一、楊朱と墨
 諸子百家中、楊朱と墨翟は利己主義と利他主義の典型として厳しく対決しました。両者の論争を楊墨論争と言い、百家争鳴
の代表例とされています。己のため以外には髪の毛一本もうごかさないとした楊朱は、利他的な行為も動機はそれによって究
極的には自分を利するところにあると見抜いていたのです。彼は利己的な本音を見据えることで、イデオロギー的な建前に翻
弄されることなく、合理的に自然体で行動できる事を説いたのでした。
 墨翟は、自分の親と他人の親を分け隔てすることなく愛しなさいと、「兼愛」を説きました。彼は戦争の根本的な原因を、
自分の利益を他人の利益よりも優先することに由来すると捉えました。人はよく自分の為ではなく、家族の為、会社の為、集
団の為、地域の為、民族の為、国家の為等と自己正当化をします。いかにも自己犠牲的に普遍性の為に行動しているように弁
解して、利害争いや戦争をするのです。墨翟に言わせれば、「自分の為」も「自分の〜の為」も自分たちの利益の為に奪い合
ったり、殺し合ったりする点では同じことです。だから自分の為と同じように、他人の為につくすべきであり、自分の親と同
じように他人の親にもつくすべきなのです。ひいては自分の国と同じように他の国にもつくすべきなのです。そうしてはじめ
て争いが原理的に無くなります。
 ところで儒家は、血縁の濃淡で愛の濃淡を差別することに人倫の基本を置きました。墨家は儒家のこの態度を別愛と呼んで、
全ての争いの根本原因だと非難したのです。儒家すれば自分の親と他人の親を差別しないのは、親の恩を軽んじるとんでもな
い親不孝であり、畜生にも劣ると罵りました。
 中国では家父長的、宗族的な家族制度が強力でしたので、楊朱の徹底した個人主義や墨家の兼愛(博愛)は支配的な思想と
しては根づきませんでした。儒家は中国の家族制度にフィットしていましたから、以後二千年間の支配的思想になったのです。
                           二、同一視
 楊墨論争や儒墨論争は、自己を何と同一視するかの違いから来る論争なのです。人間は自己を何かと同一視して、自己を規
定し、自己のアイデンティティを確立しているのです。楊朱は自己を自己の身体と同一視していましたから、自分の為以外は、
髪の毛一本動かさない、ということになるのです。家系や門閥が重要な役割を果たした中国社会では、家あっての個人と捉え
ていましたから、まず家系の存続、家名の向上が優先しました。それで自己を家父長家族と同一視する思想が『孝経』として
まとめられ、儒教の中核に据えられているのです。これに対して、人類全体と自己を同一視して、一人の飢え死にする人も、
凍え死にする人も出さないようにしようとしたのが墨家なのです。
 
 このようにどんな正反対の思想でも、個別の身体に限定された自己であるか、あるいは身体の限界を越えて拡大された自己
の違いはあるにしても、自己に対する愛=自己愛の視点から理解可能なのです。
 身体の限界を越えて拡大された自己は人間関係、社会関係として意識されます。仲間や家族、会社、組合、コミュニティ、
民族、国家はそのような人間関係、社会関係です。そのような集団を自己と感じるアイデンティティの意識が帰属意識です。
この意識があってはじめて、同じ集団に属する人と愛憎の対象として関係し合うことができるのです。
 個人としての自己だけが自己ではないのです。集団として自己も自己には違いないのです。もちろん資本主義社会は個人の
私的利益の追求をできるだけ自由に任せています。個人の幸福追求権は基本的人権でも最も重要な権利です。しかし個人の幸
福も、全く個人的なものではありません。父親が高収入をもたらしてくれるから家族は幸福とは限りません。過酷な長時間労
働で父親が苦しんでいるのに、妻子が我関せずで幸福でいれるわけがないのです。子供が学校で苛められて苦しんでいるのに、
親は仕事が順調なので幸福というわけにもいかないでしょう。自分がアイデンティティを感じている集団の構成員の幸福は
、他の構成員にも幸福と感じられますし、不幸は自分にも不幸と感じられます。それは相互に同一視し合う感情が共有されて
いるからです。
                           三、同一視は倒錯か?
 人間は本当は非常に自尊心の強い存在です。自分自身を讃美し、自慢したいのですが現実には自分が思っている程自分のこ
とは世間では評価されません。自画自賛しても冷笑されるのがおちです。そこで自分がアイデンティティを見出し愛情を感じ
ている対象のことを、大変素晴らしい人物であるかのように褒めちぎります。親馬鹿、子馬鹿は当然ですが、余り関係のない
と思われる人のことまで褒めちぎる人もいます。また世間で有名になったり、偉大な業績を挙げた人がいると、その人物と自
分とのつながりを非常に浅いものであっても吹聴したくなるものです。それはその対象と自分を心のどこかで同一視してい
て、その対象が褒められることが自己愛を充足させているからなのです。
 アイドル歌手とミーハー、スポーツ選手とファン等の関係は、マス・メディアを介して形成されている大衆社会の構成員と
しての同一性に基づいています。スターは大衆の夢を代表していて、大衆に代わって舞台やグラウンドで輝いているもう一人
の自分なのです。特にブラウン管を通して家庭の中で日常的に接することのできるスターたちが繰り広げる世界は、もう一人
の自分の世界として非常に強い好奇心の対象となります。ある場合には、ファンにとっては自分自身の人生よりも、贔屓球団
の優勝のほうが重要な意義を持つ場合があります。阪神タイガースが優勝した時、親が死んでも、妻子に逃げられても涙一つ
流さなかった男が、一升瓶を抱きながら一晩中泣き明かした位ですから。また尾崎豊の死は熱狂的なファンにとっては自分自
身の死と変わらない意味を持ったのです。
 これらの同一視には、対象と自己の混同、対象への自己の感情移入が見られます。自分でない者を自分自身と思い込む倒錯
がなされています。この倒錯論を一面的に強調すれば、すべては幻想に過ぎないという岸田秀の唯幻論になります。
 対象は自己を自己の身体に限定して捉える限りで、自己ではありませんが、集団的な自己への帰属によって、より大きな自
己を認めますと、対象に対する共感に基づく同一視は必ずしも倒錯とは限りません。しかし集団や組織に対する被害者意識の
強い人は、あくまでも身体的な個体の原理に固執して、地域社会や会社、組合、政党、国家、人類等に埋没してはならないと
叫ぶでしょう。
 でも個体の原理もそれが帰属する集団の中で、集団の中での役割を果たすことによってのみ貫徹できる仕組みになってい
ます。やはり個体の原理を貫徹しながらも、その為にも、身体的な自己を脱皮して、より大きな集団的自己の立場に立つべき
なのです。
                             四、自己愛幻想
 対象に対する愛も自己との同一視によってのみ成立しているとしますと、どんな対象に対する愛もすべて自己愛に還元でき
ることになります。愛着した対象は誰しも失いたくありません。そしてそれは良いものであって欲しいと思います。そこで対
象喪失の可能性を否定したり、対象を事実以上に良いものと思い込む心理が働きます。
 自己愛幻想は元々赤ん坊の時に何でもできるという全能幻想を培われていたので、それが成長しても自己と同一視された対
象愛を含む自己愛幻想として現れるのです。自己愛幻想の中で最も強いのが、自分だけは死なないという不死幻想です。フロ
イトは誰でもこの幻想を隠し持っていると言っています。肉体的な死は免れがたいと観念しても、精神を実体化して、霊魂不
滅思想を持つのも、元を糾せば自己愛幻想の産物なのです。人は幽霊を怖がっているようですが、その実、大変好奇心を寄せ
ています。何故なら、幽霊は死んでいる筈なのに、怨み言を言うという生きた活動をして不死願望に応えてくれるからなので
す。
 フロイトは、無機物に還ろうとする死の本能「タナトス」を説き、自己の有限性を精一杯生きることで死を受容しようとし
ました。小此木は、自己を喪うことを含めた対象喪失を悲哀や恐怖として体験し、受容できる自然人としての自我を養うよう
諭します。要するに諦観の勧めです。唯物論としては当然ですが、やはり一番厳しいですね。
 小此木は諦観による自己愛幻想の克服を説く一方で、自己愛幻想の積極的意義を強調しています。人間は実存的にはいつも
死と表裏の関係にあります。つまり限界状況を生きているのです。ニィチェは人間を「断崖に懸けられた一条の綱」と呼び、
「進むに危うく、退くに危うく、佇立するにまた危うい。」と表現しています。このように実存主義は、死の自覚から生への
覚醒を説きます。でもそんな緊張を四六時中保つことはできません。日常的には自己愛幻想に基づく自己の不死信仰で死を意
識下に沈めているのです。でないと不安で日常生活を平穏に過ごすことは不可能です。とても心の健康は保てません。
 地球環境破壊の危険を知ってはいても、そのことでいつも悩んだり、恐怖したり、破壊防止や環境改善のためにずっと運動
しているわけにはいきません。普段はまさか今日明日に人間が住めなくなる事はなかろうし、多分自分の存命中には破滅的事
態には到らないだろうと高を括っているのです。こんなおめでたい楽観的な神経のほうが精神医学的には正常だということに
なります。たしかにこの種のノーマルな自己愛幻想が、エコロジー運動を推進する場合の最大の障害かもしれませんね。
 〔『自己愛人間・現代ナルシシズム論・』一九八一年、朝日出版社〕
 
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