第四節、償い型の罪の意識
                   一、両親に対する愛憎のアンビバレンツ
 フロイトは、親子間の愛憎関係をエイディプス・コンプレックスとして展開しました。一体的な母子関係に対して、超越的
な第三者として現れる父親は、母子関係の一体性を破壊し、家父長的な家族秩序に子を編入する権力的存在です。この父親と
の関係で発生するのがエイディプス・コンプレックスでした。父親を排除して、母親を独占しようとする衝動です。でも父親
には逆らえないことを納得して、母親からも一定の距離を保てるようになり、子供社会に入っていけるようになるわけです。
また父親の権威を受け入れる過程で、母親のように父親に愛されたいという思いが生じて、これが潜在意識に残っていると、
成長してからホモ・セクシュアルに成り易いと言われます。

 フロイトは、父親との関係では愛と憎しみが交錯しているアンビバレント(両義的な)関係を見出しましたが、母親との関
係では母子一体性ばかり強調されていました。フロイト学派の中には、アンビバレントな相剋を父親に対してだけではなく、
母親に対しても懐くものだという説がメラニー・クラインや古沢平作などから提起されています。小此木はこの動きに重要な
意義を認めているのです。
                 二、グッド・マザーとバッド・マザー
 メラニー・クラインは、赤ん坊は「分裂ポジション」にあるといいます。同じ母親をある時はグッド・マザー、またある時
はバッド・マザーというように全くの別人だと思い込んでいるのです。おむつを取り替えてくれたり、お乳を飲ませてくれた
り、だっこしてくれる時には、とっても素敵なグッド・マザーなんですが、またある時は、なかなか思い通りにしてくれない
で自分に地獄のような責め苦を与えるバッド・マザーなのです。赤ん坊にとっては、とても両者は同一人物だとは思えません。
 赤ん坊はにこにこしたり、泣き叫んだりしているだけで、何もできないか弱い存在に見えますね。それは大人の目から見る
からそう見えるのです。赤ん坊にすれば泣いたり、笑ったり、叫んだりすることによって、自分の現実に働き掛け、現実を変
革して、欲望を充足しているつもりなのです。赤ん坊は何もできないのではなく、自分自身の欲望を何でも叶えることができ
ているのです。つまり「全能幻想」を持っているんです。
 地獄の責め苦を与える鬼のようなバッド・マザーに対しては、赤ん坊は泣き叫んだり、手足をばたばたさせたりしてあらゆ
る攻撃を試みています。その戦果でバッド・マザーは滅ぼされ、グッド・マザーが出現するのです。
 ところがグッド・マザーとバッド・マザーが同一人格であることが分かってきますと、バッド・マザーを攻撃して破壊してし
まったら、グッド・マザーも失ってしまったと思い込みます。それで後悔から憂鬱になってしまいます。これが「抑鬱ポジシ
ョン」です。そこで何とか償ってグッド・マザーを修復しようとします。ここから償い型の罪の意識が発生するというわけで
す。
 ところで分裂ポジション・抑鬱ポジションといっても、赤ん坊の場合は主観・客観が未分化な生理状態に過ぎない筈です。
それをすぐさま罪の意識にまで結び付けるのは飛躍があります。母親といっても生理的感覚に過ぎないのです。独立した人格
的存在として自他の分離が自覚できなければ、他者に対する罪の意識も生じないと考えられます。同じ論法でいけば、授乳・
保育期の長い他の高等動物でも償い型の罪の意識がみられることになってしまうからです。
 この点に関してはむしろ超越的な第三者としての父親との三角関係を介して原罪の成立を説いた、エディプス・コンプレッ
クスの方が説得力があるようです。実際、甘えん坊は全能感が強いせいか、罪の意識がなかなか育ちません。「ゴメンナサイ」
の六音を言わせるのには、ほとほと手を焼く始末です。赤ん坊の時期に罪の意識の原型ができるとは思われません。
 ところでバッド・マザー体験が強すぎるのは、やはり分裂症の原因になるでしょうが、グッド・マザー体験が強すぎるのも
考えものです。だってグッド・マザーがバッド・マザーと同一だということが分かって始めて、マザーとの分離の端緒が掴め
るのに、バッド・マザー体験がなければ、いつまでたっても人格の形成が進まない恐れがあります。ウニコットはバッドとグ
ッドを兼ね備えた普通の母親を「グッドイナフ・マザー」と呼んでいます。これが一番かもしれませんね。
                   三、阿闍世コンプレックス
 
 古沢平作は、フロイトのエディプス・コンプレックスに倣って「阿闍世コンプレックス」を考えつきました。フロイトは父
親に対する愛憎のアンビバレントな関係を捉えたのですが、古沢は対象を母親に移して愛憎のアンビバレントな関係を捉えた
のです。
 仏典の「阿闍世王物語」も父親に対する愛憎劇が中心ですが、改作によって古沢版「阿闍世王物語」創作し、それに基づい
て「阿闍世コンプレックス」理論を組み立てました。その点がエディプス・コンプレックスに比べて説得力の欠けるところで
す。ギリシア悲劇ソフォクレス作『オイディプス王』は、世界の悲劇の中で最も有名な、最大の文学作品として定評がありま
す。その悲劇の象徴的意義を見事に解読したので、フロイトの精神分析は強い説得力を持ったのです。
 古沢の「阿闍世王物語」の粗筋は次の通りです。韋堤希夫人は、容姿が衰え、夫、頻婆娑羅王の愛が薄らいでゆく不安に苛
まれます。夫の寵愛を確保するための手段として子を欲しがったのです。(仏典では女子しか生まれなかったので、マカダ国
の為に太子を欲しがった。)占い師の予言によりますと、森に住む仙人が三年後に亡くなり、生まれ変わって夫人の胎内に宿
ると言います。三年が待てない夫人は浅はかにもその仙人を殺してしまったのです。仙人は殺される際に、「王子に生まれた
その時は、父王を殺し、母を害しましょうぞ」と予言したのです。こうして自分の胎内に、自分が殺した男を宿してしまうこ
とになったのです。
 夫人はその未生怨(生まれる前からの怨み)が恐ろしくなって、堕そうとしますが、失敗して産んでしまいます。(仏典で
は堕胎は父王から禁じられ、生まれてから塔から投げ捨てて殺そうとするが、奇跡的に指が折れただけで助かる。それで「折
指太子」とも呼ばれた。)その子の名が、阿闍世です。大きくなった阿闍世はこの経緯を世尊に対抗したダイバダッタから知
らされます。

 母が母である前に女であり、女としての欲望のために前世の自分を殺し、自分を産んだことを激しく怒ります。それで母を
殺そうとしますが、「権力争いで父王を害したという伝えはあるが、母親を害した伝えは聞いたことがない。」と臣下に諭さ
れ、罪の意識から流注(体中に腫れ物ができ膿み爛れる病気)に罹って倒れてしまいました。(仏典では大臣に諭されて獄中
の父王を助けていた母親を害さず、幽閉する。後になって自分の罪に目覚めてから流注に罹る。)
 母親は阿闍世を許して献身的に看病して、彼の命を救います。こうしてお互いの許し合いによって、母子関係が回復すると
いうお話です。(仏典では世尊の前で懺悔して流注が治癒される。)この話で、古沢は罰せられることの恐怖心から発する罪
の意識に対して、許されることによって生じる罪の意識=懺悔心を対置したのです。
                         四、母性原理
 子にとって母は、元々一体的な存在であり、母でしかありません。ですから母が母である前に女であり、女としての欲望に
生きる存在でもあったことは認め難いのです。あまつさえ、母であることが女であるための手段であったとすれば、子として
の自分もそのための道具であったことになります。これを知って、母子一体感に基づく全能感が崩れ、自尊心がいたく疵つく
事になるというわけです。そしてこのような母の欺瞞性に対する怒りが母子分離を決定的にするということです。
 女であり母であることは、どちらも自然的なことであり、エロス的なことです。たとえ母であることを女であることが裏切
っていたとしても、母は母としての本能で子に接するかぎり、子は母の愛によって充たされ、アンビバレントな存在としての
母=女をも受容することになると言います。こうして母=女を一個の自分から独立した人格として承認することによって、息
子は愛の対象を母から別の女に転移させることができますし、娘は自分自身の中の女としてのエロスに目覚めることができる
ようになるのです。
 罰に対する恐れから来る罪の意識は父性原理によります。律法の蹂躪に対する裁きの神は父なる神です。これに対してこの
許され型の罪の意識=懺悔心は母性原理に基づくのです。道徳的な罪の意識としては、罰に対する恐怖心から来るのは、あく
までも自己中心的な功利的な意識ですから、本当の罪の意識とはいえません。相手に悪いことをして、相手を苦しめて、損害
を与えたのに、相手がその罪を問わず、許してくれたとします。そうしますと自分は相手に悪いことをしたのに許してくれた。
何と優しい人だろう。それに比べて自分は何と罪深い人間なのかという反省の気持ちが起こります。これが本当の罪の意識で
す。
 日本人の社会心理を考えますと、どうもこの母性原理の比重が大きいようだと言われています。母への全面的な依存はかえ
って思っただけでなんでもできるという全能感を育てますから、これが「甘え」となります。(土居健郎『甘えの構造』参照)
この問題は、現代社会においてナルシズムがどうして蔓延したのかを考える際、重要です。
 メラニー・クラインは罪の意識を乳児期にまで遡及させる点で問題が残ります。これと比較して、「阿闍世コンプレックス」
の場合は、「未生怨」に根を持つとは言いましても、それより青年期の自立を中心に展開されている点で、より説得力が感じ
られます。
〔『日本人の阿闍世コンプレックス』一九八二年、中公文庫〕
 
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