第三節、シゾイド人間
              一、分裂性格(schizoid personality )
 「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」を追求するモラトリアム人間は、心理的性格としてシゾイド(分裂症)的だと
言われます。ですからシゾイド的性格が現代社会に適応するために共有せざるを得ない性格だということになります。そこで現
代人である限り、シゾイド人間にならざるを得ないことになるわけです。たとえその人が気質的には躁と鬱を繰り返す循環気質
であったとしてもです。

 精神分裂病は重症の場合は、人格が崩壊して、思考のつながりががなくなっていき、感情や意志が弱くなって終日ぼんやりし
たり、同じ行為を繰り返し、妄想を抱きます。被害妄想がひどくなりますと、自己防衛の為に攻撃的になる場合があります。社
会的性格としてのシゾイド的性格は、精神病ではないのですが、人格の統一が希薄な面等で共通な性格を示しています。

 小此木はシゾイド的性格として次の三つの傾向を挙げています。
第一―人と人の関わりを避けて引き籠もる傾向。
第二―内向的、脱俗的であり、外界の出来事に対して存在感を持てない傾向。
第三―自我の統一が弱く、各場面で違った人格にカメレオンのように変化する傾向。すなわち、「いつも〜かのように演じては
いるが、本当の自我感情が貫かれていない「as if personality」傾向。
 第一の「引き籠もり」傾向はどうして形成されたのでしょうか。小此木の説明では、赤ん坊の頃、母親に構ってもらえない体
験がトラウマ(心の疵)となって残ることがあるのです。泣き叫んでも、お乳もくれない、おむつも換えてくれない、だっこも
してもらえない、酷い母親ですね。愛に飢え、渇望する激しい衝動が植えつけられてしまったのです。
成長してからも愛への飢え、渇望があり、しかも愛情を求める対象から見てられるのではないかという思い込みを持っていま
す。それで、どうしても攻撃的に相手を自分のものにしてしまおうとする衝動が抑えきれないのです。

 愛情を向ける対象に対して、攻撃的破壊的にしか関われないことを懼れて、対象との関わりを避けようとします。これが「引
き籠もり」の原因なのです。現実の人間関係を結ぶことができないので、自分が作り上げた妄想の世界で生きようとするのです。

 第二の脱俗的、内向的性格で外界の出来事に存在感を持てないというのも、自分の妄想に引き籠もろうとするところからくる
と考えれば、理解できます。
 第三のカメレオン的性格やas if personality も、その場その場に合わせて自分の役割を適当に果たすものの、それほど
強い帰属意識を感じていないわけでして、やはりほんものの人格的な交わりを避けようとするところからくるのです。

 分裂的性格の生成の原因を幼児体験に求めるのは、フロイト学派の精神分析学の特色ですが、残念ながら、その点が精神分析
学の説得力の無いところです。この問題は、フロイト学派の個体の生理に還元して精神の病理を捉えようとする生理学的唯物論
の限界を示しているのです。そして究極的にはフロイト学派も身体主義的人間観の枠内に止まっているので原体験で説明せざる
を得なかったのです。後に詳しく検討することにしましょう。
                 二、適応様式としてのシゾイド人間
 シゾイド的性格の人物は、一貫した自我が希薄で、人格的な深い交わりを避けて、引き籠もりがちです。だから、社会に適応
できずに、孤立したり、疎外されたりする傾向にありました。ところが目まぐるしく変動する現代社会に適応するには、このシ
ゾイド的性格を現代人は共有せざるを得ないと小此木は指摘したのです。そしてシゾイド人間の心理の特徴を次の六つに整理し
ています。

 第一は、人格的な深い関わりの回避です。シゾイド人間も内心は親密な人間関係を望んでいます。でも、その関係が破綻した
り、別れなければならなくなる時の「対象喪失」の苦悩や悲哀を考えてしまって、愛情関係を持つことを恐れるのです。シゾイ
ド人間は情感を激しく表すことを避けて、規格化された範囲に抑えます。武田鉄矢作詩『贈る言葉』にありましたね、「悲しみ
堪えてほほえむよりも、涙枯れるまで、泣く方がいい」と、でも、素直に喜怒哀楽を表現してしまうと、感情の激しさに心が深
く疵つく気がして怖いし、愛情関係も深くなってしまうからです。

 第二は同調的引き籠もりです。分裂的性格の場合はひねくれて自分に閉じ籠もっているように見えます。それではトラブルの
もとですし、人に心配をかけて余計に関わりを誘い、引き籠もることができません。適当に他人に同調し、自分の役割も一応果
たしておきます。でも積極的に会議をリードしたり、イニシアチブをとって事を行おうとはしないのです。そんなことをすれば、
集団に深く帰属し、その責任を引き受ける面倒な事態に追い込まれるのでしょう。それが嫌なんです。そういう人は家庭でも妻
子に同調して、自分をロボット化させています。シゾイド人間は自己主張がないから、トラブルになりません。人格同士が激し
く火花を散らして衝突する事が敬遠されているので、愛憎が希薄ままでいられます。

 第三は「のみこまれる不安」つまり自分を失う不安です。シゾイド人間は関わりに入る前に、関わりを持ってしまったら、自
分の自由を奪われたり、自分を失ったりするのが恐ろしいという感覚を持っているそうです。「のみこまれる不安」から恋愛に
尻込みしたり、上司との付き合いを避けたりする傾向などが見られます。

 第四は全能感と貪欲さです。対象から「のみこまれる不安」は、同時に自分が対象を「のみこんでしまう不安」でもあるので
す。自分に対象を完全に支配し、自分のものにしてしまわないと気が済まない自己中心的な全能感があるんです。そうしなけれ
ば、対象からやられてしまうんじゃないかと被害妄想的に恐れているんです。だからまともに関わり合ったり、付き合ったらヤ
バイので、適当に表面的に同調しておこうというわけです。

 第五は、一時的、部分的関わりしか持たないということです。人格的に付き合うのではなくて、ただ手段としてだけ、道具と
してだけ付き合うのです。対象は自分にとって手段でしかなく、主体はあくまで自分だと捉えていますから、全能感は失わずに
済むのです。それにスミスは、近代市民社会は市場経済ですから、互いに私利を追求し合えば、後は神の見えざる手が働いて調
和と繁栄がもたらされると説きました。しかしそれでは人間同士の人格的な交わりによる充実感や幸福は得られません。

 カントは「人格を単に手段としてだけでなく、同時に目的として取り扱え。」と互いの人格を尊重し合い、対象の人格の陶治
や幸福のために生きるよう諭しています。つまり「目的の王国」に生きるよう説いています。シゾイド人間はカントのような面
倒な課題は無視します。だけど互いに人格を認めあってこそ、自己を人格として確認できるのですから、シゾイド人間は人格と
しての存在感に乏しいのです。

 第六は「山アラシ・ジレンマ」です。ショーペンハウエルの寓話にこんなお話があります。「ある寒い冬の日、山アラシたち
が寄り添ってお互いを暖め合おうとしたが、お互いの棘で刺してしまうので、また離れ離れになった。この近づきと隔たりを繰
り返すうちに、やがて山アラシたちは、適度に暖め、適度に棘の痛みを我慢できる適当な距離を見つけ出した。」

 これはシゾイド人間は、自己中心的に貪欲に対象を愛そうとするあまり、相手をスポイルしてしまう。それで適当な距離をお
いて愛し合うという話なのです。家族関係でも恋愛関係でも友人関係でも「拒絶し、敵対する感情のしこりを含む」とフロイト
も説いているそうです。愛すればこそ、対象が自分の愛に応えてくれなければ、対象に執着する気持ちが憎しみに転化すると言
うことでしょう。

 好例として小此木は、映画『マンハッタン』を取り上げます。その主人公は四十代の作家で、離婚した妻に子供の養育を任せ、
時々買い物やボール投げで子供に関わるだけです。自分は女子高校生やキャリア・ウーマン等と恋愛をしながら自由に暮らして
います。映画の登場人物はみんな山アラシ・ジレンマに疵つき、疲れ果てた挙げ句、愛憎や嫉妬心が希薄になっていくのです。

 現代人は打算だけで関係し、人格的に深く関わることを避けようとします。しかも自己中心的でわがままに関わろうとします
から、近づいたり、離れたりしながら適当な距離をとろうとするのです。
〔『シゾイド人間ー内なる母子関係をさぐるー』一九八一年 朝日出版社〕 
 
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