第二節 アイデンティティ人間
  一、会社人間のアイデンティティ
 「アイデンティティ」というターム(用語)を精神分析に定着させたのはエリクソンです。単に「同一性」という意味に止ま
らず、「自我同一性」という意味で使います。自分を何かに帰属させることによって、自我の安定を計る働きを指しているので
す。例えば、家族の中にあっては「良きパパ」を演じることで家族からの父親としての精神的承認を獲得しますと、父親である
という自分に満足感を感じます。もし自分が自分自身や自分の家族が抱いている「期待される父親像」に余りにも掛け離れてい
て、父親としての役目を果たしていなければ、父親であるという自我はスポイルされてしまいます。その場合、父親としてのア
イデンティティは確立できないのです。
 父親としてのアイデンティティにとって一番大きいのは、何といっても一家の大黒柱としての収入の確保です。資本主義社会
では、大部分の人々は土地・機械・原材料等の生産手段を購入するだけの経済力を持っていませんので、自分の労働力を資本家
に売って、賃金を入手し、それで家計を賄わなければならないのです。この資本と賃労働の関係が不安定で賃金やその他の労働
条件が定まらなかったり、いつ解雇されるかもしれないようですと、収入が途切れてしまい、とても安心して生活を続けること
はできません。資本の側も良質の労働力を安定的に確保する必要がありますから、労使の間で次第に安定的な関係が結ばれるよ
うになっていきます。日本式経営の柱である日本式労務管理「終身雇用制・年功序列型賃金制・企業別労働組合」は、その典型
的な形を示しています。植木等の歌で「サラリーマンは、気楽な稼業ときたもんだ。タイムレコーダーがちゃんと押せば、ちょ
っくらちょっとぱーにはなりゃしない。」というのがありましたね。
 終身雇用制・年功序列型賃金には内部昇進の見込みや停年退職後の年金まで含まれていると考えられていました。会社に人生
を丸抱えにしてもらうことによって、「良きパパ」のアイデンティティの確保を計ったのです。会社に全面的に依存するだけに、
百%自分を会社人間にせざるを得なくなったです。
 もちろん昇進するにもポストに限りがあります。能力や業績の評価が高くないと、次第に閑職に追いやられるのです。それで
百%会社に依存している以上、自分も百%会社のために献身していることを示して、会社にとって自分自身が不可欠であること
を認知してもらわなければなりません。
 そこで、別段やり残している仕事がなくても、他人より早く出勤して、一番遅く退社します。退社後も付き合いと称して上司
や同僚とネオン街や麻雀を共にし、深夜まで帰宅しません。家庭人としての自分はミニマムに抑え、会社人としての自分を常に
押し出していなければ、安心できなくなっているのです。それは会社内での人間関係で孤立し、人脈や情報網から外されること
を極度に警戒するからなのです。
 小此木は、会社人間は疑似同性愛的人間関係にあるといいます。たまに早く帰宅したり、休日をゆっくり家庭で過ごしている
と、不安感や孤立感に苛まれるそうです。むしろ会社の人間と付き合っていた方が、安堵感があるくらいなのだそうです。元々
「良き夫」「良きパパ」になるために働いているのに、いざ働くとなると会社は全人格、全人生を捧げて働くように要求します。この要求にまともに応えていれば、家庭にとって一家の大黒柱は単なる稼ぎ手でしかなく、精神的にはよそ者になってしまうのです。
                    二、会社人間の上昇停止症状群
 一九六〇年代は高度経済成長が目覚ましかったので、企業の規模は拡大を続けていましたから、勤続年数が長くなると後から
入ってきた人数が溜まって、昇進し易かったのです。ところが一九七〇年代以降は低成長ですから、企業の規模は余り拡大でき
ません。それに「団塊の世代」の後は産児制限が進み、職場の人口の構成は一九七〇年代の後半から次第に若年労働力が減って
いきます。部下に成るべき人数が減りますと、当然昇進も難しくなる理窟です。
 二十歳代や三十歳代には会社のために身を粉にして働き、大いに貢献してきました。でも管理職のポストは非常に狭き門に成
ってしまっているのです。課長代理とか課長代理補佐だとか職務権限の曖昧な辞令ばかり貰うようになり、地位の向上が停止し
てしまいます。これまで第一線で活躍していたのに、いわゆる「窓際族」に追いやられていくのです。
 小此木は、その原因をポスト不足のせいだけではなく、従来の会社人間では、時代の変動に機敏についていけなくなったこと
も原因だと捉えています。「あれかこれか」の生き方で常にもう一つの自分を犠牲にして、仕事一筋に生き抜いて自分を狭くし
てきたので、仕事のやり方はこれまで通りいかなくなって根本的な発想の転換が必要になったのに、柔軟に対応できなくなって
いるのです。かくして四〇歳を過ぎてから、前途を悲観して深刻な鬱病に陥ることにもなるのです。
                    三、主婦の空き巣症状群
 夫は会社人間で深夜に帰宅し、早朝に出勤し、休日にも付き合いでゴルフに出掛けたりしています。これに対して主婦が、夫
が家庭サービスをしないといって怒ったり、離婚沙汰になったりするのは、欧米の話です。日本では「亭主元気で留守がいい。」
といいますから、逆に働き者の亭主の方が安心できるようです。
 夫が会社人間の主婦には、子育てに熱中し、母子関係の一体感の中に充足しようとする人が多いようです。受胎・妊娠・出産
・授乳・保育と続く過程は、男には体験できない母子一体感の世界です。心と体の両方でエロス的交流がなされていて、母子共
にそこから深い充足感を得ているのです。
 でも母子一体感の充足は、子供の成長とともに薄れてしまいます。所詮、母と子は別の人格として分離していく運命にありま
す。甘やかしすぎて、いつまでも母の膝から離れられないような子供に育てますと、かえって社会への適応能力の成長がスポイ
ルされてしまう危険が伴うのです。
 母は子供に対して強い一体感を持っていますから、子供はもう一人の自分でもあるのです。子供が育っていく姿に、自分自身
が生まれ変わって生き直しているという倒錯的な思いがするのです。そこで子供が中学・高校に通う頃までは、未だに自分が叶
えられなかった夢を投影したりします。しかし大概、その期待もやがて裏切られることになります。

 親ができなかったことをその子供に期待しても、子供が親以上に優秀であることは容易ではありません。それに子供は親によ
って自分の人生が左右される気がして、親の期待が鬱陶しいものなのです。親に対する反撥から勉学に取り組む意欲がスポイル
されるのです。ですから受験が機縁となって子供は決定的に親と溝を作るのです。そして交遊に時間を潰して外出がちになりま
す。これは親から分離して人格的に自立しようとする精神的な「親殺し」の過程でもあります。

 この場合、親とは母親のことです。父親は不在なのですから。母は母子一体感に夫不在の寂しさを紛らしてきました。ただ子
供とのつながりにしか自分のいきがいを見出すことができなかったのです。母である事、これが彼女のアイデンティティでした。
それが精神的な「母殺し」によって、精神的な生きる支えを失ってしまうのです。

 夫に包容力があって、妻の精神的危機を救ってくれれば、妻であることにアイデンティティを確認することもできるのですが、
夫は相変わらず会社人間で不在なのです。だれもいなくなった空き巣にあって、主婦は一人落ち込んでしまいます。昼間から台
所で料理酒に手をつけるキッチン・ドリンカーが増えているそうです。心の空き巣状態をアルコールに紛らわしているんですね。
中年主婦の鬱病が増えているのも事実のようです。身近な人々の中に心の病に苦しんでいる人がいると言う人が多い事から推測
できます。

 あるいは虚しさを癒すために機会があれば、不倫にはしったりする場合もあり得るのです。もちろん専業主婦の場合はそれ程、
不倫への誘惑もないでしょう。気持ちの上では専業主婦なのに、教育資金や住宅資金の足しにパートに出ている主婦などは心の
隙間を埋める何かを求める場合もあるかもしれません。会社人間の夫の方も、上昇停止状態で会社から認めてもらえない悔しさ、
全てを捧げて尽くしてきた会社に裏切られた気持ちにうちひしがれていますから、自分の魅力を認めてくれ、心を開いてくれる
女性が現れれば、砂漠にオアシスのような気持ちで溺れるかもしれませんね。
〔『視界ゼロに生きるーソフトな自我の効用ー』一九八二年 TBSブリタニカ出版〕
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