第一節、モラトリアム人間の時代

                         一、モラトリアム延長心理

 エリクソンは、一九五〇年代に特定の職業に固定したがらない「アイデンティティ拡散症状群」を精神病理学的状態として記載しました。ところが一九六〇年代以降には、これはノーマルな現代青年に特有なモラトリアム延長心理と見なされるようになったのです。元来は「モラトリアム」とは金融用語で「支払猶予」を意味し、金融恐慌に際して預金者保護の為に銀行が債務の支配を猶予された事態を指します。それが青年が定職に着いてしまうのを猶予される期間の意味に転用したんです。

 職業の選択による社会的な自己の決定は、自分の可能性の限定です。それは現代社会においては巨大な会社、官僚組織に呑み込まれることを意味します。実存主義者のように呑み込まれることを拒否し、自由に生きようとすれば、かえって映画の中のチャップリンのように、浮浪者のような生活に甘んじなければならなかったのです。彼は山高帽子にだぶだふの燕尾服を着込み、杖を器用に操って登場します。この出で立ちは心はイギリス紳士の衿持を持ち、全能幻想を抱いていることを象徴しているのです。でも現実は常に惨めなチャップリン、彼は本心では体制に呑み込まれたくなかった庶民たちの共感を呼んだのです。しかしチャップリンの生き方は、所詮実存主義のパロディでしかありません。

 第二次世界大戦はアメリカ資本主義の世界制覇をもたらしました。アメリカ本国では巨大な資本蓄積を背景にして、モラトリアム期間の延長が可能になりました。それでチャップリンの生き方はパロディとばかりは言えなくなったのです。

                                二、あれかこれか

 「主体性が真理だ」としたキルケゴールは、主体的な決断を重視しました。世間体や流行に流されて、自分の頭で考え決断することを忘れた現代人を鋭く批判しています。彼は、愛するが故に断腸の想いでレギーネとの婚約を破棄した自分に対して、主体の苦悩を思いやることもなく、浅薄な非難を投げかけた世間に強く反撥していたのです。主体的に自己の良心において苦悩の内に「あれかこれか」を決断してこそ、はじめて誰のものでもない自分自身の人生を自分で選び択ることができるのです。

 ヤスパースは現代を「機械と大衆の時代」として捉えました。そこでは大量生産・大量消費の機械システムの下で、大衆は画一化して捉えられ個性を喪失させられています。主体的な決断によって選択するのではなく、流行に合わせて物事を判断し、行動します。その方がずっと楽だからです。しかしヤスパースに言わせれば、それは惰性で生きているに過ぎません。一度きりの自分だけの人生を真に生きているとは言えないのです。彼は、人間はだれしも「死・苦・罪・争い」といった乗り越えることも、避けることもできない壁である「限界状況」を生きていると捉えています。惰性的な生き方は、この人間の実存から目をそらせて逃避している生き方です。しかし真に生きるとは限界状況を見据えて生きることなのです。ハイデガーの場合は、「死への先駆的決意性」を強調します。自己の有限性を見据えて始めて、存在の意味を問うような納得できる生き方を選べるということでしょうか。 サルトルも情況によって存在被拘束的に自己が規定されてしまうことに、意識存在として自由の刑に処せられている自己は嘔吐してしまうと言います。自己を事物のように本質規定してしまう情況にノンの叫びと共に、自己を投げ出して情況変革に参画することつまり「アンガージュマン」によって本来の自由な自己を選択しようとするのです。

 実存的に「あれかこれか」主体的に選択して生き抜くことは、非主体的な大衆に人間を還元して包み込んでしまおうとする体制にとっては、排除すべき対象でしかありません。そこで会社や役所などの組織社会からは爪弾きされて、ボヘミヤンにならざるを得ないわけです。でも良く考えてみますと、皮肉ですね。主体的に決断している筈のチャップリン的生き方が、客観的に見れば、ボヘミヤンとして何者にも成れずに放浪しています。帰属して自分の「あれかこれか」のアイデンティティを決定することができません。あたかもモラトリアムのような状態にいるわけです。逆に非主体的な大衆として体制に包み込まれ、きっちり組み込まれることに成功した人間は、「あれかこれか」の自己決定をして、一定の職業や社会的地位を与えられ、自己のアイデンティティに安住しているわけです。

                             三、自己決定不能症

 それにしても最近の青年たちの多くは、自己決定を避けたがる傾向があるようです。やはり受験体制からくる偏差値偏重教育の悪弊でしょうか。理工系か文科系か、国公立か私立か、何大学かはすべて大手予備校の全国集計から打ち出されるデータ次第で決まってしまいます。自分で将来何に成りたいから、どういう学問に興味があるからという理由で受験校を決定するのではないのです。もちろん受験ですから客観的なデータを重視すべきです。しかしそれはあくまで自分の希望を実現するための手段として、最終的にどの大学を選択できるのかを知る為の資料に過ぎない筈です。情け無いことに自分の希望や選択がデータから生じるのです。

 子供の頃から膨らませてきた将来の夢、というものが無いのです。常に目標は目前の中学受験・高校受験・大学受験にあって、よりハイレベルな学校に進学することだけが目標なのです。勉強において心掛けるべき第一の事は、どれだけ無駄な労力を省いて、受験に高得点を稼げるかという事です。「ここはやらなくてよい」と確信を持って学習内容を絞り込ませる講師が、予備校では信頼を集めるのです。

 大学生も大して将来の夢を持っているわけではないようです。彼らは自分が所属している大学のランクから考えて、どこに就職できそうか、またどこに就職するのが有利かを判断します。在学中の成績が就職に有利なようなら優を欲しがります。クラブやサークルを除いて、大学生活や学問研究それ自体にはそれ程関心はないのです。定期試験や研究発表や卒業論文作成でも、研究内容、学問内容よりもいかに最小限の努力で効率よく得点を挙げるかが、関心の的なのです。

 偏差値偏重の学歴社会構造の中で、ベルトコンベアに乗せられて教育工場から生産され、振り分けられた労働力商品ですから、自分の職場に対してそれ程深い思い入れがあるわけではないんです。もちろんどんな職場や役割を望むかは、できるだけ効率的に、楽に、ダサクなく高収入を得れるかが基準になります。

                          四、あれもこれも

 小此木によりますと、モラトリアムを延長したがる青年たちは、いったん就職しても、そこにアイデンティティを固着してしまうのを避けようとするそうです。なかなか腰が据わらないというやつですね。心のどこかで、本当の自分は別にあって、この仕事は本来の自分の仕事ではないと考えているからです。会議での発言を控えたり、社内での付き合いを避けたりして、会社や会社内の組織に帰属意識が希薄なままでいようとするのです。そこで彼らは多様な自己の可能性を残しておこうと「あれもこれも」的に行動するのです。いつでも転身できるように別の自己を温存しておき、成長させておくのです。

 パソコン操作等新たな技術に挑戦したり、司法試験や実務英語検定その他の資格試験に挑戦したり、様々な免許を取得したり、何かの趣味を徹底して一流を目指したり、常に時代の流れや経済情勢や業界の動きに敏感になり、登用や引き抜きのチャンスを窺ったりするのも、転身願望の現れかもしれません。こうした「あれもこれも」型の生き方の方が、産業の栄枯盛衰や職種の寿命が短くなった現代の高度産業社会=情報化社会=ハイ・テク社会にはフィットしているのです。

                                五、急変する職業

 ハイテク化に伴って不要になった職業が次々生まれています。時計屋は時計の販売だけでなく、時計修理もできることで成り立っていましたが、最近のクオーツ化によって時計の修理はほとんど不要になり、修理代を払うよりは新製品を買った方が安いようになりましたので、旧来の時計屋は不要になったのです。修理の必要性が減少しますとアフターサービスが売り物だった家電業界に流通革命が起こっています。いわゆ系列専売店は、安売り店の進出に押されて急減しつつあります。また自動販売機の普及で煙草屋の存在は影が薄くなったようです。そしてスーパーコンピューターで効率的な品揃えができるようになったスーパーマーケットやコンビニエンスストアーの展開で、すっかり町の商店業界は様変わりしてしまいましたね。

 一九七〇年代はスタグフレーションに襲われ、企業は高度成長時代に身についた贅肉を落とす減量経営で、これを乗り切りました。この時期の試練で日本経済は足腰が鍛えられ、国際競争力が強化されたと言われています。減量経営の内容は、人減らし合理化で思い切って人員を削減して(女子パートタイマーで補充するなどアンフェアなやり方も目立ちました)、なおかつ生産性は維持することでした。その際、終身雇用制で解雇できない場合は、出向や地方への配転で対応したのです。出向させられた労働者は、せっかく一流大企業に就職できたと思っていたのに、下請けの関連企業に回されてしまったのですから、大変な精神的ダメージを受けたようです。

 人減らしと並んで、省エネ・省資源の技術革新が進みました。その際威力を発揮したのが半導体によるマイクロ・コンピューターを利用した工場や機械の管理システムです。自動車産業を中心に、大胆にロボットを導入したファクトリー・オートメーションが進展し工場の無人化が前進しました。工場で仕事がなくなった労働者が、営業に回されて苦労している姿がよく見掛けられたのです。日本的経営においては、職人的に一つの仕事しかできない単能工より、急に仕事内容が変わっても訓練次第で新しい仕事に順応できる多能工が養成され易かったのです。

 ファクトリー・オートメーションについでオフィス・オートメーションが進展しつつあります。工場で働く人が減少するだけでなく、事務所で働く人も減少することになります。それでもまだ、どちらかと言えば人手不足ですが、その理由は、経済規模は大きくなっていますし、教育費や住居費の高騰などで子供を生まないようにしているからです。

 ともかく工場でも、事務所でも、商店でも、学校でも仕事の種類や内容が目まぐるしく変化しているのです。常に変化の内容を正確に掴み、新たな環境や自分の立場の変化にフレキシブルに対応できなければなりません。でないといつのまにか体制から無用者として弾き出され、太田一男の指摘通り「棄民」の群れにいる自分を見出すことになりかねません。

                         六、モラトリアム人間の時代

 組織人間自身が現代社会の変動に対処するために、自分の今の職業に固着しようとする意識を捨て去って、多面的に自分の可能性を追求しようとしているのです。そうでなければ時代の変化に置いてけぼりにされる危険があるのです。今の仕事がいつ無くなっても、何か別の職業でも充分やっていけるだけの能力を、予め養成しておかなければならないのです。

 まだ社会に出て働くのはいやだから、別に学問したいわけじゃないけれど、大学に行きたいという大学生は、社会人に成ることをモラトリアム(猶予)されている状態だといえます。最近は大学院生にもそういう傾向が強くなりました。就職しても腰が据わらない連中は、実際にはモラトリアムされていないけれど、心理的にはモラトリアム状態に在ります。組織人間の場合は、もう一人の自分を作ることで心理的なモラトリアム状態を作り出しているといえるでしょう。

 これからは経済の国際化が進展しますから、日本だけ終身 雇用制、年功序列式賃金、企業内労働組合の日本式経営(日本式労務管理)を維持することは難しくなります。それに、これだけ転職者が増加すれば、職務給・能力給の比重が大きく成らざるを得ません。実力のある人材を競争相手から破格の条件で引き抜くことも、技術職や管理職では盛んになりつつあります。ただ年功を積むだけでは評価されない時代に成りつつあるのです。より有利に評価される職業に転進していくことを積極的に心掛けないと、現在の職業自体が時代遅れになる虞れが多分にあるのです。

 それに現在の職業に蛸壺式に徹し切るというのも限界があります。例えば、寿司職人は握り方が上手ならそれでよいというわけではありません。いかに新鮮な寿司ネタを仕入れるかが勝負の決め手です。鮮魚の流通や水槽での養魚法にも精通しておかなくてはなりません。つまり関連する業界に関しては相当突っ込んだ情報を入手し、人的なつながりを持っておく必要があるのです。現代では職業上の専門的能力は、幅広い教養と技能の上に氷山の一角として現れているものなのです。ですから専門的能力に優れた人が別の職業に変わっても、相当な活躍ができるのはそのせいなのです。

 アイデンティティ人間の破綻で自分の職業に徹するのがダサイように受け止められるかもしれません。それで大して興味や関心がないのに専門外のことに首を突っ込んで、自分の専門がおろそかになり、新しいことも半可通に終わってしまう人もいるようです。厳しい競争社会では、そんなことでは専門分野でも職業的に失敗した上に、転進も計れなくなり、取り返しのつかない破綻に行き着く危険が多いのです。その意味で「モラトリアム人間の時代」というのは怖い時代なんです。小此木には、その点をもっと警告してくれるようにお願いしたいですね。

 それでも小此木が流石なのは、人生全体を「死へのモラトリアム」と捉えていることです。人間は自然人としては現実原
則からは逃れられません。キルケゴールの言葉を借りますと「死に到る病」なのです。この自然人の自覚があるから、きっ
と「モラトリアム人間の時代」を冷静に客観化できたのしょう。

 『モラトリアム人間の時代』一九七八年、中央公論社〕

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