小此木啓吾の精神分析

―現代人の諸類型―

はじめに

一、「〜人間」

 「モラトリアム人間」「シゾイド人間」「自己愛人間」「操作人間」等々、下に「人間」が付く「〜人間」という表現がありますね。これを使って現代人の代表的性格を浮き彫りにしているのです。「〜人間」を発明する天才が小此木啓吾です。小此木は精神科医としても精神分析学者としても著名ですが、彼の「〜人間」を使った啓蒙的な著作は、一九七〇年刊行の『エロス的人間論』(講談社現代新書)以来根強い人気を得ています。特に『モラトリアム人間の時代』は大変なブームを呼びました。

「五時まで男」もいれば「五時から男」もいます。元々「真面目人間」だとか「遊び人間」だとかいう表現は、人間の数ある類型の中で特殊な一つの型を示していました。典型的で代表的な人間類型を示す用法ではなかったのです。小此木は、「モラトリアム人間の時代」という表現で、これまで特殊類型だった一つのタイプを、現代人の普遍的性として印象づけることに成功したのです。「現代人はモラトリアム的性格をもつ。」と言われても、現代人にはその他にもいろんな性格がある、と思われてしまいます。ところが「モラトリアム人間の時代」と表現しますと、現代人はモラトリアム的にしか生きられないんだと納得させられてしまうのです。

 それに「〜人間」という言葉は、独特の実在感を誘います。「あ、自分もシゾイド人間だ。」とか「横山やすしは完全に自己愛人間だ。」と思わされてしまいます。説得力が治療に決定的な役割を果たすのが精神科医ですから、小此木がいかに名医か、これだけからでも納得できますね。

                                二、適応              

 小此木は精神科医です。精神分析を手段に心の病を直すのが仕事です。心の病は現代社会に適応できないことが原因で起こります。ですから精神科医としましては、心を病んだ人を、現代社会に適応できるようにする治療を行っているのです。現代社会に適応するには現代社会にフィットした社会的性格を身につけておかなくてはなりません。「モラトリアム人間」「シゾイド人間」「自己愛人間」「操作人間」等は、現代社会に適応するためには誰もがそのような人間として生きなければならない社会的性格なのです。そのような人間になるのが良いか悪いかの問題ではありません。我々は現代社会にどうにか適応して生きているのですから、既に大なり小なりそういう性格にそうなっているのです。そういう性格になれなければ現代社会に不適応を起こして、心の病に罹り易くなったのです。

 小此木が「モラトリアム人間へのすすめ」を説くので、彼の主張は時代の流れに迎合する体制順応主義だ、と決めつける論者もいるようです。しかし鬱病や分裂病、ノイローゼに苦しむ人々を治療するためには、時代に合った生き方を選択するように働き掛ける他ありません。それができなければ、精神科医の看板を降ろさなければならないでしょう。

 確かに安易に時代に順応して自分の性格を改造するというのは、考えものです。阿久悠作詩『時代遅れ』ではないけれど、時代を越えて滅びない真実を守り通すために、頑固に自分を変えないことも大切でしょう。とはいえ、だれしも時代の波を乗り切らなければなりません。現代がどういう人間を求め、どのような生き方をしなければ取り残されてしまい、自分の本領が発揮できなくなる時代なのか、良く分かっていなければなりません。小此木に精神分析界の新保守主義の親玉というレッテルを貼りつける前に、彼からしっかり学んでおかなければ、取り返しが付かない結果が我が身に降りかかるかもしれないのです。

 それに彼は無批判に現代人の性格を讃美しているのではありません。現代人の社会的性格が、決して避けることができない万古不易の自然人としての現実原則を隠蔽し、素直な人間相互間のエロス的交流を歪めていると批判しています。そしてそれがまた心の病の原因とも成ることをはっきり指摘しています。つまり現代人としての社会的性格を生きながら、常に自然人であることを忘れないで、身も心も包括したエロス的な相互交流に基づいて生きるように薦めているのです。その意味では現代批判の視点を、彼の確固とした自然観・人間観の中に持っていると言えるでしょう。でも「自然人」といい、「エロス的人間」といい、各時代によりその在り方や捉え方は随分違って当然です。不変の超歴史的原理として、それらを基準に各時代人を相対化し、批判するのは容易なことではありません。それで小此木の展開もその点は歯切れが良くないようです。

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