第二部、『社会契約論』の読み方

一、あるべき国家および法律

『人間不平等起原論』では社会契約による国家形成は私有財産の発展により生じた不平等が、戦争状態に陥った事態を収拾するための妥協として捉えられていました。公的権力は各人の財産を保全するとともに、人民全体が安寧に生活できるように社会の矛盾を調整する役割を担っていたのです。それは私有財産制を温存し、国家的規模で発展させ、更には世界中に国家形成を促して、世界的規模で文明の矛盾を展開するという意味では、否定的な性格をもっていましたが、同時に人民自身が理性的な合意によって公共の福祉をもたらすための権力機構を造りあげたという意味では、大いに祝賀すべき画期的な出来事だったのです。

ルソーは、国家を公的権力として本来公共の福祉を実現すべきものとして前提しています。そして法律は公共の福祉を計るための公の意思として捉えられているのです。この公共の福祉とは、国家を形成している人民全体の福祉に他なりませんから、法律はだれの意思かと言えば当然人民全体の意思だということになります。もし公共の福祉が人民全体の福祉ではなく、一部の特権階級やひとりの君主あるいは人民とは無縁の国家自体の福祉だとしますと、そのような福祉は普遍性をもつことができません。そのようなものを公共的とは言えないでしょう。それに法は元々正しさや権利という意味も含んでいます。正しさは普遍性と切り離せないでしょうし、権利は人民の立場と結び付きます。ですからたとえ国家が歴史的事実として特権階級の支配の道具として生まれ、法律も元来専制権力の意思であったとしましても、ルソーの立場からはそれは間違った国家あるいは法律の姿だということになります。

 ルソーは次のような書き出しで始めています。

「人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則があり得るかどうか、調べてみたい。」(『社会契約論』、岩波文庫、14頁)

自由な市民のための人民の総意としての法律を前提として国家理論を構築しようとしたのだと言えるでしょう。ですからそれはあるべき国家および法律の姿を論じているで、現実の国家や法律とは乖離します。そのために、ルソーの議論は観念的で、現実の国家や法律を理解するのには役に立たないという批判もあります。しかし普遍的な意味での国家ならびに法律を識ることが、現実の国家ならびに法律を理解し、評価するために正しい基準を与えることになるのです。その意味ではルソーの方法はプラトン的なのです。(原田鋼『西洋政治思想史』、有斐閣、参照)

二、人民と国家の直接的一致

『人間不平等起原論』では、完全な孤立状態から出発し、狩猟など労働において力を合わせる状態、住居を造って家族を形成する状態を経て、地縁的な未開社会を形成し、更に冶金と農業によって私有財産を発展させ、更には戦争状態に陥ることになり、その結果、社会契約によって公的権力を造り国家を形成しました。国家社会の以前に未開社会があったので、社会契約によって自然状態から社会状態に移行したという論理にはなっていません。しかし国家形成以前は自然的要素が強かったし、漸次的に移行していましたから、自然状態が次第に気の遠くなるような時間をへて解体していった過程だと見なせるでしょう。そこで社会契約の意義を論じる『社会契約論』では、社会契約を自然状態から社会状態への画期として捉え返したのです。

 社会契約による国家形成は歴史的事実ですが、すべての古代国家が社会契約によって人民の総意に基づいて形成されたという事実を主張しているのではないのです。地域的な覇権の確立や侵略による帝国の形成等、ホッブズの指摘した「獲得されたコモンウェルス」の形成を歴史的事実として否定しているわけではありません。それは人民の総意に基づく法律による支配が国家の普遍的な在り方であると規定したからといって、現実の歴史的な諸国家が専制的であり得ないことにはならないのと同様です。

 自然状態の破綻に直面して、人々は皆の力を結合して皆の身体と財産を護り保護しようとしました。しかも

「それによって各人が、すべての人々と結び付きながらしかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」(同上、29頁)

が条件です。そのためにはルソーによれば

「各構成員を戸の総べての権利とともに、共同体の全体に対して全面的に譲渡す」

べきだということになるのです。ルソーは社会契約の本質を次の言葉に帰着させました。

「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」(同上、31頁)

それまでの孤立したばらばらの個人から、社会契約によって新しい全体としての国家の不可分の一部としての社会的人間に生まれ変わるのです。この発想はホッブズの『リヴァイアサン』近いのです。『リヴァイアサン』では、戦争状態でばらばらだった孤立した個人が、コモンウェルスを設立することによって、生きた人工機械人間であるコモンウェルスつまり「リヴァイアサン」の生きた一小部品になってしまうのです。ただしリヴァイアサンの意志は絶対的な主権者の意志だったのですが、ルソーのいう生命体としての国家の意志は人民全体の総意としての一般意志なのです。

「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代わって、一つの精神的で集合的な団体を作り出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それはこの同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命および意志を受け取る。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつてはシテ(都市国家)という名前をもっていたが、今では共和国または政治体という名前をもっている。それは受動的には、構成員から国家とよばれ、能動的には主権者、同種のものと比べるときは国とよばれる。構成員についていえば、集合的には人民という名をもつが、個々には、主権に参加する者としては〈市民〉、国家の法律に服従するものとしては〈臣民〉とよばれる。」(同上、31頁)

 人民は政治体の有機的な一部なのですから、全体のために貢献してこそ自分の利益に叶うことになります。政治体全体つまり主権者は、各構成員を自己の内部に含んでおり、その意味では自己の利益を計ることが各構成員の利益にもなるのです。ですから主権者は人民の利益に反するように行動することは出来ないことになります。

ルソーの立場は人民主権だからそんな事は当然だ、で済まさないで下さい。ルソーの議論は、国家には主権があって、その主権を握っている者がだれかで国家形態が決まると説いているのではないのです。ホッブズは国家には三形態しかないといいました。主権がただ一人に握られていれば君主制、少数者の掌中にあれば貴族制、多数者が押さえていれば民主制です。ロックは立法権の所在で国家の諸形態を分類したのです。ルソーでは、主権者は国家自体の能動的な性格なのです。ですから国家を構成している人民の総体が主権者だというわけです。主権があって、それが人民に帰属するから人民主権なのではないのです。国家と主権者と主権は切り離せません。直接的に国家と人民の総体と主権者は一致しているのです。そこから国家の意思である法律は人民の総体の普遍的な意思、つまり一般意志であることになるのです。

三、特殊意志と一般意志

主権者の意志は人民全体の利益になるしかない一般意志ですが、

「各個人は、人間としては、一つの特殊意志を持ち、それは彼が市民としてもっている一般意志に反する。あるいは、それと異なるものである。彼の特殊な利益は、公共の利益とは全く違ったふうに彼に話しかけることもある。」(同上、35頁)

元々、社会契約自体が人間相互の厳しい利害対立、戦争状態を収拾したものでした。出来上がった国家は公共の利益を計るためのものですが、国家の内部には私有財産制に基づいて、様々な階級的あるいは私的な利害対立が繰り広げられています。各個人は、市民として公共の福祉の立場に立とうと努力しますが、私人としては自己の特殊な利害の貫徹を計ろうとします。それが同時に公共の福祉に叶うのなら何等問題ではありませんが、往々にして公共の福祉を損なうことになりがちです。そうであるからこそ一般意志への服従が社会契約を結ぶに際しての約束として重要なのです。

 個人の特殊意志からは一般意志に服従することは、大変な損失であるように思えるかも知れません。しかし既に政治体なしでは生きていけない立場であることは市民である以上確かなのです。国家の法律に服従する臣民としての義務を果たしてこそ、主権者として合法的に正しく生きることができるのです。ルソーは一般意志への服従こそが市民としての自由であると捉えています。市民は、ですから自由であるべく強制されているのです。

ルソーの言葉として「自然に帰れ」がいわれ、ルソーは社会契約による社会状態よりも自然状態の方が人間本来の姿としてよいものだと考えているかのような解釈も見受けられます。カッシーラーの『人間―シンボルを操る動物―』でもそのような誤解が認められます。たしかにルソーは自然状態に対するロマンティークな憧景を抱いています。文明によって人間性がいかに堕落したかについて常に情熱的に語っています。しかし『社会契約論』は社会契約によって、人間が孤立した欲望の衝動に従うだけの奴隷的状態から抜け出して、理性に従って正義と道徳的自由に生きる事ができるようになったこと、自然的自由とそれに基づく自己保存のための無制限の自然権は失ったけれど、市民的自由と合法的な所有権を得たことで、馬鹿で劣等な動物から、自己を知性あるものつまり人間たらしめたことを強調しているのです。

 ルソーは、主権は譲り渡せないことを強調しています。というのは、社会を形成するきずなは様々な利害のなかにある共通な一致する利害です。皆の利益が一致する共通の利害つまり公共の福祉を目指す一般意志に基づいて、社会は治められなければなりません。ですから常に人民全体の集合的な意志が主権を担います。特殊意志によっては主権は担われ得ないのです。ある個人が支配者となって彼の意志によって支配すれば、個人の意志は一般意志ではないのですから、もはや主権者は存在せず、国家は破壊されていることになります。このルソーの論理を素直に展開すると、専制国家はもはや国家ではないということです。人民はその場合、国家を回復するためにみずから総体として結合して、主権者にならなければなりません。専制権力に対する革命は国家を再構築する法律的行為なのです。

四、一般意志のアポリア

次にルソーは、一般意志は誤ることは出来ないと結論します。皆の利益になることが一般意志の正しさですから、人民全体が皆の利益になるのは何かについて入手可能なあらゆる情報を寄せ合い、皆の利益を目指す立場で検討し合えば、正しい方向でまとまらないわけはないということです。ですから会議では特殊意志に基づく特殊利益になることを尋ねられているのではなく、一般意志に基づく公共の福祉になることを尋ねられているのです。そこでルソーは会議の秩序を守るための法として次のことを要求します。

「その会議において、一般意志を維持するためのものであるよりは、むしろ一般意志が常に意見を求められ、常に答えるようにすべきものである。」(同上、146頁)

 
ところがこの法には大変重大な欠陥があります。だれしも会議において市民の自覚があれば、自分は公共の福祉のためにのみ発言しているつもりになっています。ところが他人の意見を聞いていると、何か大変本人の私的利益には叶っているけれど、どうも公共の福祉とはかけ離れているように思われるものです。お互いにそう思っていますから、相手は会議のルールにはずれた不法な発言を行っていると非難し合い、発言を互いに禁止しようとしあって混乱に陥ったり、多数が少数の発言を止めさせる結果になりかねません。これではかえって一般意志を形成できないことになります。

この会議のルールが、フランス大革命を恐怖政治に変質させていく役割を果たしたように思われます。ルソー自身は、会議で主観的には一般意志に基づいて発言しているつもりでも、実際は特殊意志の主張でしかないことを見抜いています。そして特殊意志の主張であるからこそ、共通の意見以外は相殺されて、一般意志のみが残る事が可能だと考えたのです。

「全体意志と一般意志の間には、時にはかなり相違があるものである。後者は、共通の利益だけを心がける。前者は、私の利益を心がける。それは、特殊意志の総和であるにすぎない。しかし、これらの特殊意志から、相殺しあう過不足を除くと、相違の総和として、一般意志が残ることになる。」(同上、47頁)

議論から特殊意志の総和により一般意志が残るためには、議論にすべての特殊意志が参加しなければ相殺が不完全になり、一般意志が残らないことになりますので、立法権は譲渡され得ないということになります。政治体の意志を決定する権利は立法権とよばれ、実行する権利は執行権と呼ばれます。立法権は人民に属しますが、執行権は一般的な法律を特殊な事例に適応する特殊的な行為ですから、事例の特殊性を相殺して一般原則を見出す立法行為とは正反対です。ですからこれは主権者である人民に属すべきではないのです。両方担当しますと、立法に際しても特殊的な利害にこだわりをもってしまうからでしょう。そこで一般意志の指導によって公的な力を動かす、主権者の代理人、公僕である政府が必要になります。

「代理人」という言葉はホッブズでは人民全体の意志を主権者が白紙委任される形を取りました。それで主権者の意志の本人は人民であるが、人民は主権者の意志決定には一切干渉する権利がないことになっていたのです。ルソーでは個人や少数者の意志は個別性、特殊性を持たざるをえないから特殊意志にならざるを得ないとし、一般意志を決定することはできないと考えたのです。そのかわり、個人や少数者が主権者の意志の実行を請負うことはできるのです。

五、政体の分類

ルソーは、執行権をだれが担当するかによって、政体を分類します。一人に任されれば王制、少数者に任されれば貴族制、多数の人民が執行権も保持すれば民主制です。ルソーは直接民主主義者だとよく言われていますが、それは立法権は譲渡できないという意味においてです。決して王制や貴族制より民主制の方がよいことを主張したわけではないのです。

 彼は行政官の数は人民の数に逆比例するのがよいとしました。なぜなら国土が広く、人口が大きければ主権者の意志が政府を通じて行き渡るためには行政権はそれだけ強大でなければなりません。そのためには一人に行政権が集中し、強力に実行される必要があるのです。法律を具体的な事例にいかに適用すべきか議論していたり、複数の異なった適用が行われたりして、政府の団体意志が分散していますと行政が行き届かなくなってしまうということです。

もちろん一人に権力が集中しますと、杓子定規に官僚的に行政が行われるため、事例の特殊性を充分配慮した心配りに欠けますから、小さな少人数の都市国家では民主制が適していることになります。民主制が適しているのは次の条件を満たしていなければなりません。

「第一に非常に小さい国家で、そこでは人民をたやすく集めることができ、また各市民は容易に他のすべての市民を知ることができるということ。第二に、習俗が極めて単純で、多くの事務や面倒な議論をはぶきうること。次に、人民の地位と財産が大体平等であること。」

 
実は、ルソーはこの行政の民主制には余り賛成ではないのです。統治者と主権者が同一だということは、いわば政府のない政府を作っているようなものだとします。立法者は本来一般的なことがらに注意すべきなのに、特殊なことがらに注意が向き、公務に私的利害が悪影響を及ぼす危険を指摘しています。また多数者が統治して少数者が統治されるのは自然の秩序に反するとも言います。公務を処理するために人民が常に集まるのも非現実的です。公務処理の委員会を設けるとしますと、それは少数者による行政ですから貴族制になるというのです。ですから現在の民主制はルソーの分類では貴族制だということになります。

そして民主制もしくは人民政治ほど、内乱・内紛の起こりやすい政治はないのです。ルソー日く

「もし神々からなる人民があれば、その人民は民主制をとるであろう。これ程に完全な政府は人間には適しない。」(同上、9798頁)

 
貴族制には、三つの種類があります。自然的な貴族制は長老たちが行政を担当します。選挙による貴族制は最もよい本来の貴族制だとされています。

「誠実、知識、経験、またその他、その人を選び、その人に公の尊敬を捧げる様々の理由が、この選挙という方法によって、将来の善政の新たな保障となるのである。」(同上、99頁)

「なお、この政体がある程度の財産の不平等を許すとしても、それはまさに、一般に公共の仕事の処理が自分の時間の総べてをもっともよくそれに捧げることのできる人々に委ねられるためであって、アリストテレスがいうように、金持ちが常に選ばれることのためではない。逆に貧しい人々が選ばれることによって人間の値打には、選ばれる理由として富よりもっと重要なものがあることを、人民はしばしば教えられる、ということが大切だ。」(同上、101頁)

 
君主制は、「人民の意志と統治者の意志、国家の公共の力と政府の特殊な力とが、すべて同一の原動力に動かされ、国家機関のあらゆるバネが同一人の手に握られ、すべてが同じ目的に向かって動いてゆくのである。そこには、お互いに傷つけあうような相反する運動は全くない。そこで、われわれは、君主制ほど少ない努力を以て大きな働きを起こさせる、いかなる種類の制度も想像し得ないのだ。」(同上、101102頁)

もちろんよき君主が公共の福祉のためにのみ、統治すればこれにこしたことはないのですが、実際には君主の個別意志が他の意志に対して支配的になり、一般意志を踏み躙ることが多いのです。ホッブズは君主がいかに悪人でも、彼が強大な権力を望めば望ほど、国の富が豊でなければならない。国民が貧しければ国も貧しく弱小だから、君主は国民の福祉を目的にした政治を行わざるをえないと楽観的に捉えました。ルソーはそれはウソだと言います。君主は人民が貧しいほど抑えつけ易いと考えているのです。人民が豊になりますと国の富も豊になりますが、その場合は人民が強力になって君権が脅かされます。

 君主制の下で立身出世するのは、君主の個別意志に取り入る「小乱暴者、小悪党、小陰謀家」だけです。そこが共和政治では偉大な政治家が輩出したのと比べ見劣りするということです。また君主制も君主を選挙で選んでいるうちはまだいいのですが、世襲制になってしまえば、支配された経験のない者が、支配者になるための教育のみを受けるのですから、人民の立場、公共の福祉にはますます関心がなくなり腐敗します。

どの政府がよいかはそれぞれ一長一短がありますので、その国の人口、産業、文化等の状態によって決まるのです。ルソーは次のような判断基準を提出しています。

「政治的結合の目的は何か?それは、その構成員の保護と繁栄である。では、彼らが保護され繁栄していることを示す、最も確実な特長は何か?それは、彼らの数であり、人口である。だから、論争の的になっているこの特長を、よそへ探しに行く必要はない。他のすべての条件が等しいとすれば、外からの方策、帰化、植民などによらずに、市民が一段と繁殖し増加してゆくような政府こそ、紛れもなく、もっともよい政府である。人民が減少し、衰微してゆくような政府は、もっとも悪い政府である。統計家諸君、これからは諸君の仕事だ。計算し、測定し、比較されよ。」(同上、118頁)

善政を行えば、人民に活力がついて繁殖するだけでなく、燐国の人民も慕って、人口が増大するという考えは『孟子』などにもよく見られます。当時は生活水準を測定する経済統計が整備されていなかったので、人口しか判断材料がなかったのかも知れません。それにしても一般に通用しているルソーのイメージなら、人権がどれだけ保障されているかなどをもっと重視する筈なのですが。

六、立法権は代理できない

ルソーは、立法権は国家の心臓であり、執行権は国家の脳髄であるとしています。脳髄が麻痺してしまっても、個人はなお生き得る。馬鹿になっても生命は続くが、心臓が停まればすぐに死んでしまうといいます。立法権は、絶対に譲渡できない人民の権利ですから、立法権を行使するために、人民は集会を開かなくてはなりません。立法権は代理できませんから、議会制民主主義のように選挙で代議士を選んで、立法権を任すわけにもいかないのです。

「主権は譲り渡され得ない。これと同じ理由によって主権は代表されない。主権は本質上、一般意志の中に存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たり得ない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取り決めを為し得ない。人民みずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。」(同上、133頁)

公共の福祉のためにあらゆる情報を寄せあい、すべての特殊意志が表明されて始めて、しかも建設的な徹底討論を通して、人民全体の一般意志が明らかになるというルソーの立場から、代表者への委任は立法権の否定であり、議会で作られる法律は真の法律ではないということになります。直接人民全体が集会に集まらなくては主権者の集会とは言えず、一般意志は形成されないのです。

 それでは真の国家は、古代ギリシアやローマのアゴラで集会が開かれていた頃しかなかったことになります。人民が直接集会を開いて、徹底的に話し合うとしても、本当に一般意志は明らかになるでしょうか?まず人民は全員極めて政治的自覚が強く、しかも長時間討論に堪える精神力と体力を持たなければなりません。階級対立や部族対立、宗教対立などを内部に抱えていますと、冷静な討議が可能かどうか危ぶまれます。特に党派対立が生じますと、特殊意志同志のぶつかり合いになってしまい、いつまでも結論が出ないか、妥協によって一般意志が歪められることになるでしょう。大衆が集まれば集まるほど扇動政治家が幅をきかし、背後で特権階級が民衆を操作する結果になりがちです。このような問題のある人民集会で立法を行わなければ真の国家ではないと考えたルソーの発想は、かなり短絡的です。しかし人民の総意に基づく政治を基本に据えたという点においては不滅の意義を認めなければなりません。

七、人民集会

ルソーも、国中の人民全員の集会を想定したわけではありません。ルソーの一番のモデルはローマの民会です。各地区毎に集会を開き法律を制定し、首長たちを選出していたのです。現在の日本に置き換えてみますと、町内会で法律を制定し、総理大臣を指名するようなものです。そのようなシステムは不可能とは言えないでしょう。しかし果たして町内の議論で出された結論が一般意志と言えるでしょうか?

 それぞれの町内会の決議を全国的に加算して、法律案の採択の可否を決定することになります。その場合、余り細かい内容にわたる議論は、各町内会ではとても無理です。憲法・軍事条約・兵制・税制・教育ならびに社会保障制度の骨子程度に限定されるでしょう。問題は全国的に同じ議案が提出されなければならないことです。ルソーは、客観的にその国家の課題を捉えることができるように、立法者は主権者すなわち立法権者とは別の方がよいとしています。一般意志の草案を作成する以上、特殊な事例への適用に取り組む行政官に作成させるわけにもいかないのです。立法者は主権者がだれかに委任すべき筋合のものです。当然立法委員の選挙が必要でしょう。
 
 ローマの民会では各地区の民会の期日をずらして、先に開かれた民会の結論を参考にしたとされています。一般意志はルソーの考えでは、元々存在していて、それが討議の末に明らかになるとされています。しかし、他の地区の討議や結論を参考にして審議をやり直そうとする地区が出てくると収拾がつきません。しかしそれを認めないと一般意志との一致は望めないでしょう。現実には全国一斉にして集計するほかありません。町内での討議など各地区の有力者や能弁家に丸め込まれたりして、建設的で積極的な討論が期待できるかどうか疑問の地区も多いでしょう。

それでは、今日ではマス・メディアが発達しているので、新聞やテレビで放映される討論を参考にして、可否を問う国民投票をおこなった方が、よほど有益だということになりかねません。もちろんその場合には、マス・メディアを通した世論操作をどう防ぐのかという厄介な問題を抱え込むことになります。ルソーの人民集会による立法の理念は一般意志の形成がいかにすれば可能かという問題提起として受け止めるべきでしょう。その一つの試みが、ロシア革命で実践されたソビエト制度です。直接民主主義の精神を活かすために地域的な人民会議を基礎にした、ピラミッド的会議システムを造ったのです。つまり各地域に人民会議(ソビエト)を形成し、全員参加の討論で国の政策や法律が審議され、その結論を地方の上級ソビエトに、代議員が持ち寄って討議し、全国の最高ソビエトが最終決定を下すというものです。

この方法も代議員に立法権を代理させますから、ルソーの考えた人民集会での立法とは違います。それに立法権と執行権の分離がなされていない点も異なります。それに現実のソビエトは、地域や職場のソビエトは消滅しました。各共和国のソビエトも共産党の独裁を認めてしまったので、人民の権力機関ではなくなっていたのです。ソビエトが人民の権力であるためには、共産党を含め政党一般を廃止する必要があります。とはいえ、考えを同じくする者たちが会議をリードするために協力しあうことを規制するのは困難です。やがて密かに党派が形成されることになります。それを弾圧することは、様々な政治的活動の自由を否定することに繋がるでしょう。次善の策として自由で対等な複数政党制の導入が必要です。ですからわれわれは、現実的には、ルソーの国家理念を民主政治の一つの評価軸として受け止める以外にありません。

 ルソーの精神に則って、現実政治を評価する場合、人民集会のない代議政治、人民集会のない君主政治などいずれもそこで通用している法律は、主権者の意志としての一般意志とは言えません。真の立法権に基づいていない以上、真の法律ではないのです。そんな自分たちが決定したものではない法律に従っているのは、ルソーの表現では奴隷状態なのです。

 ですから人民は人民集会を開いて、まず自分たちが社会契約を結び国家を形成した主権者であることを再確認し、現行の憲法や法律を承認するかどうか検討すべきだということになります。人民集会を定期的に開催し、その際、常に次の二議案を優先的に討議すべきだとだとルソーは強調しています。

「第1議案―主権者は、政府の現在の形態を保持したいと思うか、
 第2議案―人民は、現に行政を任されている人々に、今後もそれを任せたいと思うか」

 
たとえ人民集会で決定されなくても、現行の法律には強制力がともないます。その法律は成立過程からみればルソー流には無効ですが、必ずしも公共の福祉から掛け離れた悪法ばかりとは限りません。なかには公共の福祉を推進する内容のものもあります。それはまだ表明されていない一般意志と同じ内容をもっているのです。ですから現行法に対する人民の受け止め方により、現行法を通して一般意志の内容を探ることも可能なのです。その意味ではロックの論理は、現実的で鋭いものがあります。ロックは、立法権を全国民から正当に選挙された代表者の議会にのみ認めるべきだとは言いませんでした。君主や少数者の代表から成る議会に立法権が属していてもいいのです。もし最大多数の国民の福祉を無視した立法を行い、その結果国民から猛烈な反発をくらい、それでも世論を無視すれば、多数決原理は天に訴える形で貫かれるとしたのです。

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