Tホッブズ『リヴァイアサン』の思想

一、ホッブズの人間観

ホッブズ(15881679)は、人間を欲望機械として捉えています。ホッブズの場合は人間が機械であるばかりでなく、コモン・ウェルス(国家)も機械です。しかもコモン・ウェルスは機械であるばかりでなく人工的な機械人間でもあるとしたのです。彼は『リヴァイアサン』(1651)を著わしましたが、この題名はバイブルのヨブ記に登場する怪獣の名前から採りました。これは神が創造された巨大な怪獣に倣って、人間がコモン・ウェルスという巨大な人工機械人間を造ったのだという譬えなのです。

 人間や国家が機械だというと奇異に感じられるかも知れません。今日の常識では、人間は生物であって機械ではありませんし、国家も社会組織であって機械ではないからです。ホッブズの時代ですと自動で動く複雑な仕組を持った装置としては「生命体」もオートマトン(自動機械〉に含まれていたのです。(『リヴァイアサン』序説、53頁上、頁数は中央公論社版『世界の名著28』による)

 ホッブズは、感覚的な刺激が体内に印象を残し、それがイマジネーション(メモリィ)となって互いに結び付くとします。イマジネーションの複雑で秩序だった連結に思考の原型を見出すのです。刺激情報は映像や信号の形をとって様々に連結して意識内容を構成します。また意識内容は脳裏に刻印されていて、その時々の意識内容に応じて連関の度合によっては、焼き直されて再生します。特に言語中枢では各々のイマジネーションが、組み合された特定の音声のイマジネーションと対応します。またイマジネーション間の連関に対応して音声のイマジネーション間の連関が起こりますと、言語表現がなされたことになります。ホッブズにすれば意識内容が存在するということは、デカルトのように意識内容から超越した意識主体の存在を明晰判明にするわけではないのです。(同上、第一部「人間について」、第二章「イマジネーションについて」)

ホッブズは、動物の運動をヴァイタル(生命的)な運動とアニマル(意志的)な運動に区別しています。ヴァイタルな運動の方は血行、脈博、呼吸、消化、栄養、排池等の過程です。これにはイマジネーションは不要です。これに対してアニマルな運動は意志による運動ですから、予めイマジネーションに基づいて行います。アニマルな運動の場合は、行為を開始する前に行為の端緒になる運動がイマジネーションの連結運動として人体内で行われると仮定しています。この運動を「努力(effort)」と呼びます。例えば、獲物を見つけた狼が脳裏で獲物に向かっていく動作を思い浮かべます。脳裏で対象獲得動作を一応予行演習しているわけです。つまり意志とは、動作に入る前にその動作をイマジネーションのレべルで行うことなのです。何故そんな事をホッブズは考えるのでしょうか。きっと意志の主体が先ずあって、それが様々な行為を命じるという捉え方を退けているのでしょう。

 この努力がそれを引き起こす対象に向かうときは、欲求(appetite)とか意欲(desire)とか呼ばれます。逆に努力が対象から離れるために為されるときには嫌悪と呼ばれます。愛は意欲が具体的な対象に向かっている場合で、憎しみは嫌悪が具体的に対象に向かっている場合にあたります。そこでプロタゴラスのような相対的な善悪説が帰結します。意欲や欲求の対象は、衆人にはどんなつまらないものであれ、当人にとっては善なのです。そして、憎悪や嫌悪の対象は、衆人にはどんな素晴らしいものであっても、当人にとっては悪なのです。善悪はあくまで当人との関係において相関的に成り立つのです。それ自体でよいものとか悪いものとかは一切認めないのです。欲求の対象に対しては期待をもって眺めます。この欲求している状態はだから対象に美を感じている状態なのだ、とホッブズは語ります。更に、対象の享受によって欲求を充足しつつある状態が歓喜なのです。これらの心の運動は、脳の中に一定の場所があって、そこで感覚によって造られたイマジネーションが運動していると考えられます。この運動が様々な心の動き並びに情念の実体なのです。ホッブズは、生理的感覚的な状態と心(あるいは魂)を区別するのは間違いだと考えました。

 それに善悪、美醜、快・不快のレベルは欲求レベルであって、動物でもこのレベルの情念を抱くのです。動物には物質的な身体機械以外の精神的実体としての霊魂をデカルトは認めませんでした。ですから欲求レベルの心の活動を展開することで、ホッブズは心を精神的実体として捉える議論に反駁したのです。希望、絶望、恐怖、勇気、怒り、信頼、不信、憤慨、仁慈、強欲、野心、小心、大度、勇敢、吝嗇、親切、自然の情欲、愛の情念、復讐心等の情念を動物ももっているのだそうです。

 思考に関しても、「熟慮」まで動物に認めます。脳裏で一つのイマジネーションが生じますと、それに引き続いて別のイマジネーションが生じます。これが連想です。(初めのイマジネーションが強い場合は、それに関連したイマジネーションが生じるわけです。そこに関連性が明らかな場合は「規制された思考」と呼びます。特に欲求や恐怖を伴うイマジネーションは強烈で永続性があります。かつての同様の状況が思い浮かんで、それに対処する為の様々 な手段が思い浮かぶのです。それでホッブズは、予見、慎慮、知恵、意見等を動物の能力として認めています。物事が行われるまでか、不可能と分かるまで継続する意欲、嫌悪、希望および恐怖の総計を「熟慮」と言い、獣もまた熟慮すると主張しているのです。

そして熟慮における最後の欲求が「意志」だとしたのです。こうして動物を意志的行為の主体として認めました。だから動物は意志的行為の主体としてアニマを持ちます。このアニマはしかし決して非物質的な実体なんかじゃなく、身体内で形成されるイマジネーンョンの運動として捉えられているのです。それで霊魂はあくまで身体の機能に過ぎないのです。(同上、第六章「一般に情念と呼ばれる、意志を持った運動の内的発端について、また、その表現としてのスピーチについて」)

ホッブズもデカルト同様、言語を人間と動物を分ける決定的な契機として捉えています。音声のイマジネーションを他のイマジネーションの記号として用い、イマジネーションの連結が音声のイマジネーションの連結を連想させるようになりますと、言語活動が発生します。生のイマジネーション間の連結をそのまま記憶したり、複雑な組み合わせに生理的に対応するのは大変ですから、簡潔な言語を用いた知識の形で表現できれば、複雑な状況を把握するにも、伝達するにも、記憶するにもとても便利になります。その場合でもホッブズは、この活動をイマジネーション自身の活動の発展として捉えています。このようなイマジネーションの活動がある一貫した個性的傾向を示す場合に、この傾向を実体化して自我が見出されるのです。こうして彼は人間精神の活動まで含め、一種の物質に他ならないイマジネーションの運動として、機械論的に説明してしまおうとしたのです。そこで霊魂を精神的実体として、物質一般と峻別する発想を迷信として退けているのです。(第四章「言語(スピーチ)について」)

 社会形成を行う場合に、諸個人の間での力関係が前提になります。ホッブズはパワー(力)を「近い将来に善となるものを獲得するために現在所有している手段」であると定義しています。オリジナルなパワーには、肉体的精神的能力の優秀さ、例えば、異常な強さ、優れた容姿、深慮、技芸、雄弁、気前の良さ、高貴等があげられます。そしてインストルメンタル(道具的)なパワーには、富、評判、友人、幸運等があげられます。パワーは更にパワーを手にいれる手段にもなります。たとえオリジナルなパワーは少なくても、インストルメンタルなパワーで多くの人々のパワーを結集させて、支配することも可能になります。

オリジナルなパワーでもインストルメンタルなパワーでもパワーに違いないのでから、内面的な能力や資質、気品等はそれがいかに主観的にはバリューがあると思っていても、プライスとして外面的に力を評価されない限り通用しません。ホッブズはプライスになっていないバリューは認めません。ホッブズではオリジナルなものはインストルメンタルなもので代替可能なのです。(同上、第十章「力、価値、位階、名誉、ふさわしさについて」)

人間にとって生きるとは意欲の対象であるものを獲得しようとすることだとホッブズは受け止めていますから、そのためには自分が支配できるパワーを拡大し続けることが必要です。決して自分の能力や地位に応じた分相応の社会的パワーに甘んじたり、出来るだけパワー獲得競争から身を引いて、魂のアタラクシア(平静)やアパティア(情念没却)を求めたりするべきではないのです。

 「至福とは一つの対象から、他の対象への意欲の継続的な進行であり、一つの対象の獲得は更にもう一つの対象の獲得への過程に過ぎないのである。」

ホッブズは、意欲は次から次に力を求め死ぬまで止むことがないとしています。その理由は、現在の保有している力を確保するためには、更にそれ以上の力を獲得しなければならないからなのです。それをホッブズは、競争の原理で説明しています。ライバルよりも強い社会的力を持つことによって、ライバルの力を排除したり、屈服させてその力をも統合したりして、より豊に対象を獲得しなければなりません。互いに凌駕しようとし合うので、滅ぼされないためにはどうしても自分の力を拡大することに血道をあげざるをえないのです。

 これは社会的な力関係からくるものでして、人間の強欲や性悪の所為ではないんです。ホッブズは、人間が本性的に欲求充足の拡大を求めて、脂ぎって活動することをむしろ生命力の発現として、社会の活力として大いに肯定しているのです。ところで皆が自己の社会的な力の拡大に血道をあげれば、どうしても「万人に対して万人が狼」の状態になってしまいます。しかし不安定な戦争状態にいつまでも堪えられるわけではありません。そこで、人類が一緒になって、平和な統一を持った生活をすることに関する諸々のマナーを必要とするのです。(第十一章「態度(マナーズ)の相違について」)

戦争をいつまでも継続すれば、人類は共倒れになるしかありません。特に戦争をするパワーが余り強くない人は、永く生きられません。そこで強力な権力者に服従を誓い、身の安全を保証してもらうことになります。この服従は命乞いによるのですから、権力者の命令には絶対服従ですが、そのかわり権力者は服従者に対して不当に命を奪ってはいけません。そうなれば約束違反ですから、元の戦争状態に逆戻りになってしまいます。服従者は、支配者の恩恵によって暮せるのです。安心して家業に精を出し、自分達の技芸を熟練させることができるのです。そこでこの支配者の恩義に感謝し、支配者に対する義務を忠実に果たすことがマナーなのです。(同上、第十一章「態度(マナーズ)の相違について」)

 ホッブスは、自然状態を分析して、戦争状態に陥らざるをえない原因を詳しく検討しています。先ず人間が本来平等であることを指摘します。肉体的能力では、個人的な差が認められますが、束になってかかったり、刃物をつかえば、必ずしも強い者が弱い者と戦って勝つとは限りません。精神的知的な能力も時間さえかければ誰でも学問や技芸が身につくとしています。ただ自惚れが人間の平等性を信じさせなくしているのだそうです。

「自分自身の知力は直ぐ手近く見ているのに、他人の知力は遠くに見ているから」

自分の知力が一番だと思ってしまうのです。しかし、皆がそう思っているのですから、皆大差ないのです。人間機械論から解釈しますと、人間は同じ機種の自動機械ですから、その性能に大差はないということでしょう。

 この能力の平等は、目標達成についての希望の平等を生みます。そこでみんなが同じ事を意欲するので、どうしても奪いあいになってしまいます。そうなりますと互いにライバルたちが何人か手を組んで自分をやっつけに来るのではないか、寝込みを襲われるのではないか、と相互不信に陥り、機先を制しようと戦争を始めるのです。

ホッブズは、人間本性の中の争いの三大要因を見出しました。@獲物を求める競争、A安全を求める余りの不信、B評判を求める誇りの三つです。この本性によって自然状態の間は、人間は「万人の万人に対する戦争状態」から脱け出せません。そのことはなにも四六時中戦っていたというわけではありません。というのは戦争とは戦闘や闘争行為だけではなく、闘争への明らかな志向の内にあるものだからです。戦争によって欲求が充足できるという可能性を断念させるだけの強力な共通の権力が成立するまでは、ですから戦争状態なのです。

自然状態である戦争状態では、おちおち働いていられません。とても田畑を耕したり、建物を立てたり、便利な乗り物を造る事などできません。様々な知識や技術を学んだり、発展させることもできません。

「技術も文字も社会もない。… 継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で貧しく、険悪で残忍でしかも短いことである。」

このような戦争状態を終わらせ、平和に暮すために「自然法」があるのです。(同上、第十三章「人間の自然状態、その至福と悲惨について」)

                  二、自然法について

ホッブズは、自然権をこう定義しています。

「自然権とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用い得るように各人がもっている自由である。従ってそれは自分自身の判断と理性とにおいて、そのために最も適当な手段であると考えられるあらゆる事を行う自由である。」

簡単に言えば、誰でも生きているのだから生きようとする権利がある。生きるためのあらゆる行為は生まれてきた以上当然の権利だ、ということでしょう。このようにホッブズは自然権を生存権あるいは自己保存権として捉えています。

さてホッブズは自己保存権を自然権の定義だとして、その実現のためにはどんな事をしてもよいとしましたが、皆が自分勝手に自己保存のために活動しますと、限られた富の奪い合いになり、戦争状態に陥ります。この戦争状態にあってはまさしく自己保存が不可能になりますから、反って自然権が否定されてしまいます。そこで「理性の戒律あるいは一般法則」として次の「基本的自然法」が確認されるのです。

「各人は平和を獲得する望みが彼にとって存在する限り、それに向かって努力するべきであり、そして彼がそれを獲得できないときには、戦争のあらゆる援助と利益を求めかつ用いてもよい。」

平和への努力が実らなければ戦争してもよいというのでは、互いに相手の意図を警戒して戦争の準備を怠るわけにはいかず、それが余計に不信を募らせてうまくいきません。そこで第二の自然法はこうです。

「平和のために、また自己防衛のために必要と考えられる限りにおいて、人は他の人々も同意するならば、万物に対するこの権利を進んで放棄すべきである。そして自分が他の人々に対して持つ自由は、他の人々が自分に対して持つことを自分が進んで認めることができる範囲で満足すべきである。」

これはお互いに敵意のないことを確認しあい、自分がされたくないことを人にしないと約束しあう事です。これがいわゆる「万人の法」です。(同上、第十四章「第一、第二の自然法と契約について」)しかし互いに不可侵というのでは、孤立して暮すことになります。困ったとき、飢えているとき、危険に遭遇したときなど、見殺しにするようでは、自己保存のために他者のものを奪うことも仕方ありません。困ったときには助けあうところまで含めて、約束が必要です。ですから第二の自然法に基づいて社会契約が為され平和がもたらされるとは、ホッブズも考えてはいなかったのです。ホッブズが実際に平和をもたらすと考えていた契約は、強制的な契約にあたる支配・服従の契約です。

支配・服従の契約でも、力による襲撃に対して抵抗する権利は放棄できません。支配・服従契約もあくまで自己保存の為に契約したのですから、この目的が反故にされれば戦争状態に逆戻りです。自発的にせよ、力関係から強制されたにせよいったん結ばれた契約が履行されることが平和の維持を保証します。ですから第三の自然法は「結ばれた契約は履行すべし。」ということです。ホッブズは、第三の自然法によってはじめて「正義」が成り立つとしています。契約がなければあらゆる権利は譲渡されていないので何をしても不正ではないからというのです。そこで不正とは契約の不履行であるとされます。ところでこの「契約の履行」は何によって保証されるでしょうか。

 ただの口約束や契約書ではいつ破棄されないとも限りません。契約の履行を強制するような共通の権力、つまりコモン・ウェルス(国家権力)が存在してはじめて、信頼に基づく契約が有効になるのです。正・不正や所有権が成立するのもそれからです。支配・服従契約のように不平等な契約でも、履行しないのは不正なのです。もし服従を誓わなければ、強者は弱者を敵として抹殺するか鎖に繋げておくしかありません。服従契約によって安全に生活をすることができているのですから、これはひとえに支配者の恩恵なのです。

そこでホッブズは、第四の自然法を「報恩」とします。これに対して忘恩は自然法の侵害です。被支配者が支配者の隙を窺ってやっつけることも可能です。そんなことになればまた戦争状態に逆戻りですから、忘恩は最も不正な事に当たるのです。

 第五の自然怯は、「相互順応、従順」です。契約を守り、平和な社会を維持するためには互いに協調し合い、掟や支配者の命令に対して従順でなければならないのです。

第六は「許容」です。過去の罪を悔い改めた者に対しては、平和を堅固にするためにはいたずらに敵視することを止め、許容してやるべきです。

第七は「報復においては将来の善だけを尊重すること。」

第八「傲慢であるな」、第九「自惚れるな」、第十「尊大であるな」、第十一「公平」、第十二「公共の物を平等に用いること」等が続きます。

 一つ一つの自然怯を暗記していなくてもいいのです。ある行いが自然法に叶っているかどうかは、

「自分自身にして欲しくないことを、他人にもしてはいけない。」

という「万人の法」によって判定されます。彼は、人格的対等の原理を基づく倫理を強調します。

「他の人々の行為と自分自身の行為とを比較考量し、もしも前者が余りに重いように思えたならば、前者を秤の反対側に掛け直し、自分自身の行為を前者の代わりに掛ける。そして自分自身の情念や自己愛が、全く秤に掛からないようにする。こうしてみれば、これまで述べた自然法のうち、一つとして極めて当然でないものはないことが明らかになる。」

互いに相手を尊重し合い、融和し合う事がなければ争いが絶えず、戦争状態に戻ってしまいます。ですからこれらの自然法は永遠なのです。しっかりしたコモンウェルスの下では、平和を求める気持ちさえあれば、その遵守は易しい筈だというのです。ホッブズが道徳哲学だとするのはこのような自然法についての学問なのです。(同上、第十六章「他の自然法について」)

三、コモンウェルス(国家)について

コモンウェルスの目的は、ホッブズによれば戦争状態を脱して人間生活の安全を保障することにあります。人間は互いに自然法を尊重して助け合い、「己れの欲するところを人にも為せ」というバイブルの黄金律を実践していれば、平和に幸福に暮せるのです。実際には、他の人々が自分と同様に自然法を守るという保障があるときだけしか拘束力を持ちません。というのは他の人々が自分に敵意を持ち、攻撃しようと待ち構えているところに丸腰で出て行けば、自己破壊であって、自然法の目的に背きます。また反対に他の人々が自然法を遵守する十分な保障があるのに法を守らないのなら、その人は平和でなく戦争を求めていることになります。

では少数者が結合することで安全が保障されるでしょうか。元々戦争状態にあるのですから、相対的に優位な集団ができれば侵略に乗り出す事になってしまいます。また多数の人々が結合する場合でも、同一判断によって、つまり一つの意思によって統御されていない限り、安全保障は得られません。同じ集団でもばらばらの判断や欲求によって動かされるならば、互いに内部対立を深刻化させることになり、全く無力になります。コモンウェルスの生成は、すべての人の意思を一個人あるいは合議体に結集することによって可能になります。

 その為にはすべての人はあらゆる力と強さを譲り渡してしまうことが必要です。多数の人々が一個の人格に結合し、統合されるのです。コモンウェルスにおいては、彼らは自分達が、自発的かどうかにはかかわらず、承認した主権者の行為・判断の総べてを承認し、自己の行為・判断と見なさなければならないのです。つまり主権者に対して絶対服従の義務があるのです。

彼は、人格は代理され得ると考えています。主権者は人民の意思の代理人ですから、主権者の行為や意思の本人は人民自身です。(同上、第十六章「人格、本人および人格化されたもの」)ということは人民自身の意思に反した行為や意思決定を、主権者が行ってはならない事ではないのです。その反対に、一度主権者を自分達の代理人として承認した以上、主権者の行為・判断を作り出した本人としての義務や責任を、人民自身が負わなければならないということなのです。(同上、第二部「コモンウェルスについて。」、第十七章「コモン・ウェルスの目的、生成、定義について」)

 ホッブズは国民が主権者に、生命に関わること以外、一切反抗してはならないことを熱弁しています。たとえ主権者が異教徒であっても、カエサルに従えとバイブルにもあるのですから。ましてキリスト教国ならば、神は神の代理人契約を国民の代理人である主権者をさしおいて、主権者以外と結ぶわけがないのです。ですから主権者が、教義解釈権を持っており、教会に対する支配権も持つべきだというのです。(同上、第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」、第四十二章「教会の権力について」)

いったん譲り渡した自然権は戦争状態に戻る以外に取り戻すことは出来ません。ですから主権者がどんなに横暴な政治をしたり、犯罪的な行為をしても国民はそれを処罰することも、非難することすら正当ではないのです。だってその行為や判断の本人は自分達自身なのですから、あたかも他人に対するような態度は取れないのです。ではコモンウェルスの設立に同意していなかった人は、コモンウェルスの主権者に反抗してもよいのでしょうか。ホッブズによれば戦争状態が最悪なのですから、コモンウェルスの設立に反対することは不正です。ある人を主権者として認めないという態度もやはり不正です。誰かが主権者にならなければコモンウェルスを設立できないのですから、いったん主権者になった人を認めないのなら、また戦争状態に逆戻りだからです。

 また彼は、主権がばらばらに分解して統一性を失い弱くなることを警戒していますから、主権は分割できないというボーダンの主権論に立っています。主権者は軍事統帥権、イデオロギー統合・支配権、市民法制定権、裁判権、報償・処罰権を一手に握るべきだというのです。市民法とは主権者に第一次所有権があることを前提に、所有権および善・悪、合法・非合法に関する諸規則のことです。

 では無制限に近い主権者の強大な権力を認めることは、コモンウェルスの目的である平和の維持と国民の安寧を危うくするのではないでしょうか。古来様々な暴君の存在がそのことを示唆しているように思われます。ところがホッブズは如何なる暴君といえども、戦争状態よりはましだと考えています。といいますのは、専制君主の強大な権力は国民が悲惨で貧しい生活をすることによって維持されるのではないからです。国民が産業を発達させ、豊かな暮らしをしていればこそ、コモンウェルス全体の健康が保たれ、その上に強大な権力を築くことができるのです。苛政誅求によって国民を疲弊させますとコモンウェルスの体力が弱ってしまうので、専制君主にとっても都合が悪いのです。

むしろ君主が強大な権力をもっていることは、国力の充実を示しており、国民の活力なのです。国民の福利と君主の強権を矛盾対立させて捉え、国民の間に不満や反抗が起こりますが、それは国民が自分自身を護るために力を貸そうとしない御し難さを示しています。国民は情念と利己心という二つの拡大鏡を持っていて、ほんの少しの支出でも大きな不満の種になり、将来の悲惨を見通すことができないのです。(同上、第二部、「設立された主権者の権利について」)ホッブズは主権の絶対性に関する議論や国民の権利に関する否定的態度から、一般に専制君主政治の代表的なイデオローグと見なされています。しかし彼は決して専制君主制が最良だと言ったわけではないのです。彼によるとコモンウェルスには三つの政体があります。代表者が一人の場合は君主政(モナキィ)、代表者が一部の者の合議体の場合は貴族政(アリストクラシィ)、代表者が総べての者の合議体の場合は民主政(デモクラシィ)です。(同上、第十九章「設立に
よるコモン・ウニルスの種類と主権の継承」)

 政体はホッブズに言わせれば、いまさら選び直せるものではないのでどれでもよいのです、主権が絶対性を持ち、国民を護るために充分な力を備えているのなら。ただよその国民や古代ギリシアの政体等に憧れて、政治体制を変更しようとすることが最もいけないことなのです。コモンウェルスの頭脳にあたり、唯一の意志決定機関である主権者は取り換え不能なのです。個体の場合頭脳の取り換えは確かに個体の死をもたらしますが、コモンウェルスの場合も同様だとホッブズは言いたいのでしょう。古来政治体制の変更は数多く為されてきましたか、その為にコモンウェルス全体が崩壊するとは限りません。主権者が打倒され、新しい体制に生まれ変わってかえってコモンウェルス全体が活性化することも大いに考えられます。コモンウェルスを人体に誓えるのは、発想は斬新ですが、ここまでやればこじつけです。(同上、第二十章「父権的および専制的支配について」)

四、国民の自由について

ホッブズの「自由人」の定義はこうです。

「自らの強さと知力において、自分でやろうとすることを妨げられていない人間」

です。ですから恐怖から行う行為も自由だと言います。コモンウェルスにおいて法に対する恐怖から為される行為も、すべてそれをしないで刑罰に服する自由をも含んだ行為ですから、自由なのです。必然性と自由も両立します。人間の行為はそれをしなければならない諸事情によって行われる必然的な行為ですが、そのような事情を理解した人間の自発的な自由な行為なのです。

 人間は契約によって自分達の行為を制約しますが、そのことによって平和に生きる事ができるのです。だから契約は理性的な自由な行為なのです。社会契約に基づいて作られる市民法は人工の鎖であり、これによって不問に付されたことについて自分の判断で行う自由を持っています。例示されているのは、売買、契約を結ぶ自由、住居・食事・生業の選択、子どもの教育などです。もちろん市民法の内容は主権者が制定しますので、いくらでも市民の自由を制約できます。その上、主権者は自分の制定した市民法によって拘束される義務はないのです。とはいえ余りに厳しく経済面での市民的自由を制約しすぎますと、萎縮して産業が発達しませんから、自ずから限界があります。

 思想信条の自由についても何を考えても、考えること自体は禁じようがありません。その意味では内心の自由は不可侵なのです。しかし宗教的な教義や守るべき道徳や賞揚すべき正義の内容は、主権者が決定することができるのです。ですからそれに反する意見の表明や行動を取り締まることができるのです。これは自然法思想の精神とは逆行しています。(同上、第二十一章「国民の自由について」)

 国民が団体を形成して行動することには、ホッブズはかなり神経質です。国民の団体には主権者の権力によって作られるポリティカルな団体と、民間で作られるプライべイトな団体があります。その内コモンウェルスの承認がある合法団体と、承認のない非合法団体に分かれます。もちろんホッブズは非合法団体は、悪い体液が不自然に合流した結果生じたのう膿瘍(のうよう)だとして認めません。政治団体の代表者の権力は、主権者の許可する範囲内に制限されています。秘密結社は主権のある合議体でイニシアチブを取るために仲間で協議する団体ですから、非合法な分派であり、陰謀の徒です。統治の為の諸党派をホッブズは不正だとします。

「それらは人民の平和と安全に反し、主権者の手から剣を奪うものである。」

というのです。これらに対して合法的な諸団体、諸集会はコモンウェルスの筋肉だとして重要視しているのです。(同上、第二十二章「公的および私的、従属団体について」)

 

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