人間論の新地平

身体論とフェティシズム論を超えて

                                            やすい ゆたか

 

 この対談形式の未発表論稿はおそらく『月刊状況と主体』に「新しい人間観の構想」連載した頃の1993年のものと思われる。2001年6月に発行される『季報唯物論研究』の特集「西田哲学と左派の人たち」(編集担当やすいゆたか)の拙稿「三木清と西田幾多郎における人間観の転換」掲載にあたり、読者の参考に供するために公表することにした。

 

一、『歴史の危機』の人間論

河口ー今日は『歴史の危機ー歴史終焉論を超えてー』(三一書房)の著者やすいゆたかさんに、読者として人間論についての見解を質そうと考えまして、お伺いしたのですが。

やすい-それはわざわざ有り難うございます。全く著者冥利につきますね。

河口-やすいさんは『人間観の転換・マルクス物神性論批判・』を青弓社から出されており、『月刊状況と主体』に『人間観の新構想』を連載されたそうですが、どうも手に入らないので『歴史の危機』を読んでの疑問をぶつけてみたいのですが。

やすい-『人間観の転換』はとっくに絶版になっていますので、入手は困難でしょう。『月刊状況と主体』(谷沢書房)も定期講読販売が主でして、首都圏以外の書店ではなかなか見掛けませんでしょう。その意味で市井の哲学者ならぬ日陰の自称哲学者をやっているわけです。

河口-それにしては『歴史の危機』ではフクヤマやヤスパースを相手に、大上段の大きな議論を展開されていますね。

やすい-この年齢になれば細かい論証をしても、注目されませんし、かといって自分の歴史理論だけを展開しても大家でないので、素人の大風呂敷と冷笑されてしまいます。実際『歴史の危機』の書評で鈴木正さんに「著者の意図は大きい。これを『気宇壮大』とみるか、『大風呂敷』とみるか、これを目ききする読み方もあっていい。」と書かれていますからね。フクヤマやヤスパースを批判的に検証しつつ、持論を展開する形にしたのは「大風呂敷」と言われない為だったのですが。

河口-今日は書評会ではありませんので、そのことは横において、早速、人間論の問題に入ります。「プロローグ」で、人間は機械や道具をあくまで人間の手段としてしか捉えていないけれど、実際は人間は労働力としては機械や組織の忠実な僕としてしか評価されないというような主旨のことを述べられていますね。

やすい-確かに、そうです。労働者は機械の一部として、機械の感覚機能や意識機能を補完して、機械の活動を補助している。だから人間の意識は機械の意識として生産機構の中で再生産されているんだと書きました。

河口-そこがどうも引っ掛かります。労働者は機械の意識を補完するわけでしょう。つまり機械には意識する能力がないわけだ。だから労働者は意識機能を補完する。ところがこの人間の意識を機械の意識だと言い直される。矛盾していませんか。

やすい-その場合、河口さんは労働者という身体的存在は人間で、機械は人間ではないという前提に立っておられますね。それは既成の人間観では当然なのですが、私は機械というのも人間というカテゴリーで包摂すべきだと考えているんです。

河口-機械が人間的世界の中で大きな役割を果たしていることは、もちろん認めるのですが、だからといって機械が人間だというのは概念の濫用ではないですか。それにたとえ機械を人間カテゴリーに含めていいとしても、やはり意識するのは人間身体であって、機械が意識するわけではないことに変わりはないでしょう。

やすい-人間カテゴリーには身体的な諸個人しか含めないのは世間の通念というか、言語的な約束ごとに成っています。それを破る議論は、いわば約束を破っているわけで、言語秩序を乱しているとして排斥されます。例えば身体と衣服だと身体を人間、衣服を非人間と見なすわけで、身体も衣服も人間だと言えば、人間観念が成り立たないと思われるわけです。ところがホッブズは国家を人工機械人間だと言っていますし、パースは、人間は記号であり、記号は事物の知的性質だと規定しています。

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