第六節、カテゴリーとしての人間

〔保井〕どうも議論が噛み合わないのは、人間とは何かについての既成の知識を君達が予め持っているからだよ。たとえば服を着ている人がいると服は人間でなくて、身体の方が人間だ。機械とそれを動かしている労働者がいれば、機械は人間ではなくて労働者が人間だろう。この確信は揺るぎないものだ。だから私が人間概念を変更して服も機械も含めた人間というのを提唱しても、勝手に言葉の意味を変えてけしからんと思っているわけだ。

B子〕確かにそうです。私は哲学的な人間概念は知らないけれど、人間を他の動物や事物と区別できるのですから、人間についての確実な知識を持っていると思います。先生も万人の確実な知識を深める方向を取れば、きっと私にも共感できる人間論を築けますわ。

A雄〕それじゃあ食い足りないと思われて、世間の常識に挑戦されているわけですね。その心意気だけは買いますよ。じゃあ世間を代表してぶっ潰すとするか。(笑い)

〔保井〕最も素朴に人間を見分ける方法は、他の動物と比較して体の特徴から見分ける仕方だ。人間は哺乳類サルの一種だ。しかも二足歩行し、手と知能が特別に発達している。

B子〕見分けることが出来るだけでは、詰まりませんね。どうして人間だけが文明を構築する理性を発達させることが出来たのか解明しないと。その為にはコミュニケーション手段としての言語使用能力をどうして獲得できたのか明らかにすべきです。

A雄〕地球ではサルの一種が文明を築いたわけですが、他の星では手塚治虫の『鳥人大系』のように鳥類が文明を築いているかもしれない。筒井康隆『虚航船団』のように鼬文明の星があることだって想像できる。とすると文明を築くものが人間ということになり、サルの一種という生物学的人問論は破綻しますね。

〔保井〕もっと一言えば、理性的存在者であれば生物じゃなくてもいいわけだ。このまま機械文明が発達し、鉄腕アトムのような自己意識のあるロボットが出現すれば、人類が滅んだ後、ロボット文明が栄えることだって有り得ないことじゃない。

B子〕一言語を使うということで人間と他の動物とを区別するとします。そうしますとやはり社会的事物が人間だということにはなりっこないでしょう。

〔保井〕言語というのはそれに対応する事象とか事物があって初めて成立するだろう。自然的・社会的な様々な事象の意識への反映を基礎にしている。人間身体の頭脳が勝手に概念の大系を作って、それを事象判断に使って成立したわけじゃないんだ。言語体系は生産様式を土台にして展開している様々な政治的・社会的・文化的機構やそれを構成している諸個人や社会的諸事物を基礎にしている。

狼少年の話で分かるように、それぞれの人間身体の中に言語能力が先天的にセッティングされているわけじゃないんだ。だから一言語を使用しているのは身体的な諸個人であるだけではなくて、人間社会の総体でもあるんだ。諸個人の意識は、個人差はあるにしても、その時代、その社会の文化の影響下で集団的意識を分かち持つという形でしか生み出せない。

言語活動を実際の口からの発話にだけ気を取られて理解すると本質が見えない。だって私はただ口で君達に語るだけじゃない。『駿台フォーラム』という媒体から全国の数千人の人に私の人間論を語っているんだ。それは私の口という身体だけが語るのではなく、紙で出来た雑誌だって発話できることを示しているじゃないか。

A雄〕そういう捉え方をしますと、町の看板や標識、ありとあらゆる建造物や生産物がそれぞれ自分の感性や思想を主張しているようにも思えてきますね。しかし、それぞれにそれを作った作者がいて、作者が事物を使って主張しているじゃないんですか。事物それ自体の感性や思想ではないでしよう。

〔保井〕「芸術は爆発だ!」と叫んだ岡本太郎の思想は彼の肉体の中にもあるかもしれないが、だれもそれを見ることはできないだろう。彼の作品群がなによりも雄弁に彼の思想を語っているじゃないか。思想というものを頭の中だけで作られると考えるから哲学者はインバクトが弱いんだ。街が騒ぎ、山が捻り、海が吠えている。大自然や事物の怒り悲しみ歓喜を感じ取れないと、人類に未未はないと言いたいね。

B子〕予備校の講師だからと言ってパフォーマンスに逃げるのは狡いわ。思想が苦悩を介して頭の中で作られる、孤独な営みであるからこそ、冷静で客観的な認識が成立するんじゃありませんか。歌曲の世界ならいざ知らず「山には山の憂いあり、海には海の悲しみが」なんてありませんよ。

A雄〕山が削られて悲鳴をあげ、海が汚されて断末魔の苦しみにもがいていると受け止めるのは、気持ちとしてはよく分かるんです。それは感情移入であって、あくまでも人間の感情でしょう。自然自身の感情じゃありません。

〔保井〕本居宣長は「物の哀れを知る心」「物の心を知る心」を大切にした。彼は物に触れて起こる心の高まりを「もののあはれ」と呼んだ。すべて「あはれ」は、何事かについての「あはれ」なんだから、「もののあはれ」でない「あはれ」は存在しないんだ。ではそれが単なる感情移入じゃなくてどうして「物の哀れ」や「物の心」と言えるのかだな。

B子〕ああ、それは覚えています。物事に対する人間の情感は、その物事を感じた人の情感での物事の述語付けに当たるからでしよう。例えば薔薇の花を見て、美しいと感

じるとします。この「美しい」は主観の情感だけど「この薔薇は美しい」という薔薇の述語でもあるわけです。だからそれは薔薇自身の心でもあるという説明でしたね、授業では。

〔保井〕薔薇は刺があっても美しさで人を魅了する。美しさは薔薇にとって本質的な事なんだ。美しくなければ人に注目されず存在にも気付かれず、栽培もされない。だから薔薇は人間の情感を生産して自己を再生産する主体でもある。すべて事物は対立物の統一として存在している。という意味は事物の本質は対立物にいかなる反応を引き起こすかによって決まるということだ。薔薇の美しさと言っても薔薇自身が自分を鏡に写して見惚れるわけじゃない。人の心を述語として支配することによって本質付けられ、定在できるんだ。社会的事物は、諸個人の欲望や利害に働きかけて、社会的に定在していると言える。

B子〕今の説明で薔薇に心があることになりましたか。やはり心や情感は人間だけのものじゃあないですか。

A雄〕薔薇と人間身体を対面させましょう。美しいという情感が起こるメカニズムが問題ですね。情感の場所は人間身体の方です。しかし人間身体に美的情感を与えたのは薔薇です。対立物の統一の観点を適用しますよ。薔薇の本質は薔薇自身の内部にそれ自体であるのではなく、人間身体に引き起こす反応にあるわけでしょう。それでその反応が「美しい」という美的情感だから、美しさは薔薇の本質だというわけです。でもこれは美的情感を引き起こす原因が薔薇に有ることを意味しているだけで、決して美が薔薇自身の情感であるわけではないですね。

〔保井〕薔薇を見ているのと、美的情感は同時に起こっているだろう。薔薇が与えている身体へのインパクトが、身体の側からは美的情感として感じられているんだ。この関係を反省してインパクトを与えた物としての薔薇と、インパクトを受けた情感としての心に二分してしまう。しかし、薔薇は美的情感なしでは存在しないし、美的情感も薔薇なしでは存在しない。情感を離れて薔薇を論じても無意味なんだ。

B子〕薔薇を見ても美を感じない人にすれば美的情感なしに薔薇が存在するでしょう。

A雄〕そういう人には薔薇が存在しないのと同じだろう。薔薇が薔薇として存在するためには人間の美的情感を必要とする。特に栽培される薔薇はそうだろう。野薔薇の場合は人間の代わりに昆虫の感覚を刺激しないと駄目なんだ。先生の言いたいことを補足すれば、薔薇が人間の情感を存在の条件にしているのだから、人間の情感も薔薇の中に含めてしまおうということだろう、恐らく。

〔保井〕「薔薇は美しい。」は人間の情感でしかなく、「薔薇」ではない。このことに固執して、いつまでも薔薇と人間を対立させたままではいけない。薔薇のある生活は人生に官能的な幸福と、様々な苦悩をもたらすけれど、薔薇なしでは充実した生活もないなら、薔薇は人間的世界の重要な構成要素に成っている。『星の王子さま』の薔薇のようにね。

人間的世界を構成するのは、現実的な諸個人とその織りなす社会関係だけれど、その中に社会的諸事物も含めなければならないということだ。身体的な諸個人相互の関係も実際は、社会的諸事物を共同で生み出したり、分配したりする関係だし、生産・流通・消費に当たっても社会的な諸事物の役割が大変大きいわけだ。また社会的諸事物は意識が無いから非主体的だとされるけど、意識は社会的諸事物の働きかけによって産出されるという面もあるのだから、必ずしも身体的存在の方が社会的諸事物より常に主体的だとも言えない。生産現場を見ても機械の方が労働者より主体的でないとは言いきれない。また欲望を生み出し、選択を決定するのも必ずしも身体的な諸個人の力だけではなく、諸事物の持つ魅力的な内容も説得力を持っていると言えるだろう。

そこでだ、人間の存在の豊かな内容を完全に包み込んで、しかもグローバルな危機をも含めて人間というものを認識するには、身体的存在に人間を限定するのは良くない。ビーバーの小さな体からビーバーを把握するのではなく、ビーバーの生態系であるビーバーダムの全体をビーバーとして把握するように、地球環境全体、人間が生み出している人間的自然全体を人間の総体として把握すべきじゃないかと考えたんだ。その為には乱暴なようだけど「人間」についての既成観念を打破するしかない。

A雄〕動機はよく分かりますが、だれか一人が人間の概念を変更するから今日から、猫も杓子も犬も便器もパソコンもTシャツもみんな人間だと思え、と言っても通じません。

〔保井〕ユクスキュルという生物学者がウニにはウニの世界があるって言ったんだ。つまり、それぞれの動物には生体が反応する刺激が何種類かに決まっていて、それぞれに

異なった反応を示すわけだ。例えばウニが仮に十種類の刺激に十種類の反応をするとすれば、ウニ的事物は10種類しかない。それぞれにアルファベットで記号を付ければ、A,

B,C,D,E,F,G,H,I,Jのウニ的事物がウニの身体とともにウニ的世界の総体を構成する。ウニを知るには、ウニを解剖してその生体の組織を解明するだけでは全く不十分だ。むしろAJまでのウニ的事物とそれに対する反応によって、ウニ的世界がどう再生産されているか

を解明した方が、ウニを理解したことになる。その場合、ウニ的事物はウニの身体以上に重要なウニの構成要素だと言えるだろう。ウニはウニの身体と十種類のウニ的事物を一つに結び付けるカテゴリー(範疇)なんだ。同様に人間身体と社会的諸事物を一つに結び付けるカテゴリーとして人間を捉えるべきなんだ。

B子〕つまり人間というカテゴリーは人間的な自然の構成要素ということですね。それに属するなら人間の身体だけでなく、それこそ便器やヘドロも含めてみんな人間だということですか。それじゃあ理性的動物とか言語を使う動物とか、社会的動物とかの人間概念はどうなるんですか。

〔保井〕人間の定在という意味で人間体と呼んでいるんだ。これまでの人間の本質規定も人間総体には当てはまるよ。それから人間の本質規定で「〜的動物」というのがあるが、人間は生物学的な概念ではないから適当な言い方ではない。

B子〕先程もロボットだって人間だという事でしたが、人間も所詮は動物にすぎないって事を確認しておく事は重要だと思いませんか。動物という限界を置かないと人間環境の限界が見えないでしょう。それってとっても危険だと思うんです。それから動物的な衝動に支配されているという意味で人間は弱さや恐ろしさを持っています。「〜的動物」の「動物」は残しておきたいんですが。

〔保井〕もちろん身体としての人間は動物である人似サルの一種ですから、動物であることの限界を弁えることは大切です。しかし問題は人間は他の動物一般と断絶してしまったということです。ですから動物の一種であるかの捉え方はカテゴリーとしての人間には相応しくないのです。

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