第七節、人間起源論の試み

B子〕ではどうして人間は動物一般と断絶してしまったのですか。二本足で歩いたり、棒切れを利用して木の実を取ったからって動物でなくなるわけじゃないでしょう。やはり言語を使うようになったからですか。

〔保井〕無生物から生物の発生、動物から人間の進化は巨大な謎として未だに解明できていない課題なんだ。それから言語起源論、これは立場次第ではそのまま人間発生論だが、これも巨大な謎なんだ。

A雄〕先生は商品性は人間の生成以来本質的なものだと言われましたから、きっと商品交換の発生によって人間が発生したという説なんでしょう。

B子〕まさか商品交換なんて近代になってからやっと支配的に成った原理でしょう。日本なんか第二次世界大戦以前は小作は現物で年貢を収めていたんですよ。農村では基

本的に自給自足経済がずーと続いていましたからね。

〔保井〕未開時代の中頃から商品交換が始まったと推測できる。

B子〕じゃあ今からいくら遡っても一万年がせいぜいでしょう。ところが人類の歴史は数百万年だから全然話しになりませんわ。

A雄〕言語を使用し始めたのはネアンデルタール人からだという説があるんだ。二十万年程しか遡れない。言語使用によって人間になったとすると人類史の大部分は、人間は人間ではなかったことになる。先生の場合はもっと極端だけど。動物の進化の中でヒトが出現したことと、動物一般から断絶した人間の出現は次元が異なるから多少ずれるんだ。

〔保井〕エンゲルスはそのことが分かっていないんだ。ネアンデルタール人の言語使用説だが、顎の発達から見て、音節を伴う発音が可能だったという推測なんだ。音声を使う信号でコミュニケーションを取っている動物は他にもいるが、音節を使うと無数の信号が送れるので高等な会話ができたんじゃないかという推測だ。たしかに音声信号としてはかなり発達していただろうが、それが言語段階に達していたかどうか私は否定的なんだ。

B子〕「言語」の意味を狭く取っているんですね。未開部族などは身振り言語が発達しているんでしょう。高等動物も身振り言語なら使っているというじゃないですか。言語を人間と動物を分ける画期にできるのですか。

〔保井〕そりゃあ言語をどう定義するかにかかっているね。コミュニケーション活動一般を言語というなら画期にはならない。音声信号もサルが使っているから画期にならない。そこで音節の使用だが、これが画期になるかどうかは、それを使って主語・述語構造が言語に出来上がっていたかどうかにかかっている。

A雄〕主語・述語構造がなければ言語じゃないというのは狭い定義ですね。未開部族では主語・述語構造はかなり未発達じゃないんですか。それに日本語なんかも主語抜きがバンバン出てきますよ。

〔保井〕実際の発話の全てに主語・述語構造がなければ言語じゃないなんて言えないよ。実は主語述語構造は、主観・客観図式に基づく事物認識の成立を示しているんだ。人間を動物一般と画期するなら、世界に対する了解の仕方の違いに注目すべきだろう。生体の状態や表象の変化にどう対応すべきかは、個体と類の体験によって決定される。これにしくじると適応できないからその種は滅亡していく。つまり、動物は自分の外部の事物を生理的表象にして、その生理に反応しているんだから、純粋に外部的客観や自己から独立した客観的事物の観念を持たないわけだ。ところが人間は生理的表象を自己の外部の客観的事物の運動として認識しようとする。人間だって純粋な外部を認識できるわけはないだろう。だって世界は五感に現れる限りで知ることができるのだし、五感に現れている以上それは自己の生理的表象にすぎないんだから。だから客観的な真理の認識に懐疑的な哲学者や宗教家は、現れるままの世界をそのまま受け止めようとし、主観・客観の認識図式を超克しようとするんだ。ところが人間は生理的な表象が外部の客観的な事物の述語である、ということを知っているんだ。世界は自己の身体も含めて無数の事物から構成されており、それぞれの事物はたくさんの種類に分かれていて、それぞれ固有の特色を持った運動をするということを認識している。そしてこの客観的知識は事物との関わりを積み重ねることによって、より豊富に積み上げられたんだ。そのことによって世界への対応が豊かさを増し、文明が開けることになる。

B子〕一体どうして客観的な事物の認識が急に可能になったんでしょう。きっとそれは自己を世界と切り離して主観を確立することが出来たからですね。いわゆる自我の自覚でしょう。よく近代的な自我の自覚ということが言われますね。共同体に埋没して共同体的な既成観念や慣習から抜けきれなかったのが、近代社会になって、商品経済が浸透すると私的利害が自覚されるようになり、自我を強く意識するようになったと言いますね。それから類推すると未開社会で共同体的な共同観念に囚われていたのが、商品経済の成立によって自我が成立したということですか。

A雄〕普通は自我の自覚は、自然対象に対する対象変革活動である労働の成立で認められるんじゃないですか。あるいは分業による個性的な役割分担とかで。

〔保井〕生理的な表象界は実はあるがままの世界であり、自分自身の生命の状態とも映像とも言えるだろう。ところが人間はそれをそっくりそのまま自分以外の事物から構成されている外部世界の映像として受け止めているんだ。

じゃあどうして外部に成ってしまったかというと、生理的に対応できない他者が出現したからなんだ。それまで未開共同体には他者はいなかったんだ。自然物にしても人にしても融即の関係にあったんだ。共同体の成員同士は身内として共同の観念と共同の行動様式で一体的に結合していたし、土地とか道具や生産物も自分たちの身体の延長のように扱われていたんだ。別の共同体とは基本的には交流はなかった。だって互いに臭いも慣習も違うし、コミュニケーションの仕方が違うから疎遠な表象として遠ざけておくしかなかったんだ。

でも未開時代になると氏族は豊かな地方では人口が増えて、幾つかの子氏族に分かれて地縁的な繋がりで親縁の共同体問の交わりが盛んになる。この交わりの形式がプナルア婚と呼ばれているんだ。親縁の共同体の家族同士が一体性を回復して互いに助け合う。その為には共同体内部の性交はタブーにして、性の交わりと物資の交わりを回復したわけだ。

ところがこの時期でも何年か経つと物資が不足するようになり、移動していく氏族が増加する。そうすると物資の交わりも途断えるので、後から入ってきた全く異縁の共同体とも交わりが必要になる。ところが臭いも共同観念も異なる異縁の部族とは簡単には交流できない。それでまず物資を境界に捨て合う形で無人の物々交換が始まったんだ。

B子〕見てきたようなお話し振りですね。ルソーも『人間不平等起源論』は完全な空想で書いたということですが、一つの説話として伺っておきます。互いに自分の部族には余分だけれど相手の部族には不足していそうなものを捨て合ったんでしょう。生産物は身体の延長のようなものだから一物々交換を続けると親しみが拡大して、対面して交換するようになるんでしょう。そして両者でプナルア婚が成立したらもう交換ではなくなりますね。

〔保井〕でも元々打算的に接近したんだ。プナルア婚も打算が入っている。だからこちらから送っただけの物が向こうから送られなかったら、両者の関係は冷却してしまう。

共同体的な送り合いと市場的な交換を両極にした中問的な交わりが長く続くわけだ。そして次第に市場的な交換の原理が明確になり、それに相応しい意識形態が支配するようになる。

A雄〕交換発生前の未開人の意識は主観.客観が未分化な融即状態だったわけですね。反対に市場的な交換の原理は一主観・客観図式が成立して客観的な事物認識に基づいているのでしよう。ところが発生時点では融即状態だったのだから、交換できない筈ですね。

〔保井〕学問は端緒が最も困離なんだ。これでこけると後はみなこけちゃうからね。交換というのは独立した主体間で成立する関係だ。相手は自分にとって他者でなければならない。でもすべて生理的表象しか知らないでは、他者は存立しない。だから疎遠な表象であればこれに襲いかかって無くしてしまうか。遠のいて表象を意識下に沈めてしまうかしかない。親縁問では親しい表象だから物資や性の交わりができるんだが。ところが疎遠だが交わりたいというジレンマに陥ったんだ。そこで身体の延長である親しい物資を捨てて疎遠な表象にし、疎遠な表象である異縁共同体の物資を拾って親しい表象にする。これが物々交換だ。既に疎遠な表象を取り込んだり、退けたりするだけでない、疎遠な表象をそのまま認めて一定の距離をおいて対応する契機が含まれていると言える。これが最初の他者だ。そして他者の為に捨てた物資も、他者として意識される。それに対して自分たちの共同体が自已として意識されるんだ。

交換される物資は他の物資とは区別される特別の事物になる。送る物は他者性を含んだ白己の一部だし、送られた物は舞い戻った自已を含む他者の一部だ。やがて交換の発達

によって物資の種類が多くなると、交換を通して生活が便利な物資に溢れたり、比較的に見てそうじゃなかったりするのに気付くわけだ。こうして取引が重要なものとして意識されると、交換される物資に共通した価値が発見され、独立した原理で動く価値物として意識される。こうして共同体と物資は次第に切断される。またプナルア家族が交換の実際の担い手に成っていくので、同じ部族の家族間にも他者意識が生じ、共同体内の送り合いも実質的には交換原理が貫徹するようになる。一」こうして主体は次第に個人に分解していくんだ。個別的な利害が意識されることによって融即が破られ、他者や物資を自己から独立した表象として意識しようとすることになる。

B子〕プロタゴラスのように長広舌で展開されるとソクラテスでも勝てません。疎遠なのに交わりたい特別な表象、これが他者の表象でしょう。でも他者の表象というのは融即からは論理矛盾です。あり得ませんね。それに他者に対して自已を意識するといわれても融即からは白已の成立する余地が無いわけでしょう。、

〔保井〕捨てられた物資に対して単なる採集ではない対応をするわけだ。この表象の背後に別の表象を感じながら、そしてその背後の表象に一定の距離を保つような交わりをするんだ。それは同時に背後の表象が同様な交わり方をしてくることを意識しているという意味だろう。つまり物資の背後に両者の表象が向かい合っているような表象が泛んでいるんだ。今見えている表象は背後の表象の現れだとすると、それに立ち向かっている表象が逆の方向に有ることを意識せざるを得ない、これが自己意識なんだ。そうするとこの自己意識の方へ意識の軸がずれて、そこから表象を外部として意識するようになる。生理的表象としてはあくまで自分の五感の状態に過ぎない筈が表象の世界が他者としての事物の世界として了解される事になる。

A雄〕動物でも自分の体と外部の区別は知ってますよ。自分の体の統一性も多少の誤認はしてても、五感を通して知っている筈です。そうでないと自己保存の為の的確な対応が出未ません。それに人間だって自己意識を表象としては自分の体や身内の人々の身体的な表象に結びつけて理解してます。人間と動物で自他の区別に違いがあるとは思えません。

〔保井〕動物も生理的に特別に保護しなければならない身体やその部位についての表象を持っていて、その他の表象と対応の仕方を区別しているという意味では、自他の区別が出来ているだろう。人間も自己意識を身体の表象と結び付けているだろう。ここで問題なのは人格的に対時する自己と他者だ。つまり身体とは完全には重ならない主体の観念なんだ。

 それは表象を他者の現れとして、そこから引き下がったところに自己を意識し、表象の世界を他者や自己と切断した事物によって構成されている事物的世界として了解するんだ。だからもはや生理的表象に対して生理的に種と個体の体験から対応していたような、条件反射的対応では済まない現実に囲まれていることを知っているんだ。目に見えている表象がいかなる事物のどんな表象かを確認し、その事物についての情報に付け加え、それに対する対応を考えなければならないわけだ。

B子〕そこで初めて主語・述語的な認識パターンが確立したというわけですね。でも蜜蜂は、ダンスで花の種類とその方向と距離を順番に知らせることが出来るようですね。これを文章化すると「菜の花が北西三百メートルのところに咲いている。」となります。主語・述語構造になっているじゃありませんか。

〔保井〕それは三つの表象を継起的に伝達したにすぎない。蜜蜂が菜の花を事物として認識しているのなら、「菜の花は〜」で〜に方向や距離以外の新しい情報を付け加えることができる筈だ。多面的な新情報を主語に述語として与え続ける事が出未るのが、主語・述語構造の特色なんだ。だからこそ事物の法則性の認識が深まり、文明に繋がったんだ。

A雄〕それまでは世界は生理的表象の連続でしかなく、生理的に対応していて、客観的な事物認識はなかった。商品交換の発生と普及に伴う市場経済の浸透によって、人格的な自他の区別、主観・客観図式による事物的な世界認識が成立し、それに対応する主語・述語的表現の言語が発生した。これが動物としてのヒトから文明を担う運命を背負った人間への断絶と飛曜である。こういう展開ですね。しかしこれを証明しようと思ったら未開前期には主語・述語構造を持つ言語はなかったことを突き止めないといけませんね。野蛮・未開言語を蒐集されてはどうですか。

〔保井〕現存する野蛮・未開の部族は文明からの逃避によって野蛮・未開を選択しているとも考えられるから、かえって言語的には複雑で、歴史的に原始時代の言語を保存しているとは考えられないから、参考程度にしかならないんだ。それに実際にはネアンデルタール人でも音節を使っていたんだから、商品交換発生以前に相当音声信号は発達していて、さっきの蜜峰ダンスみたいな主語・述語構造と粉らわしい継起的表現も進んでいただろうから、例え原データが与えられても判断に苦しむと思うよ。

B子〕今日はほんとに刺激的な、きっとかなり異端的な、人間論を聞かせてもらえて、納得はしてませんが、それで却って楽しかったです。かなり時間オーバーでまだまだ話し足りないでしょうが。またこの次ということにしましょう。

A雄〕先生の問題意識は良く理解できました。結論となるとまた別の展開が可能じゃないかって気もしますが。今度来る時迄にはテープを起こして再吟味してから、僕なりの展開も考えておきたいと思います。

〔保井〕本当は古今東西の人間論を吟味しながら、新たな人間論の展開を打ち出したいんだが、これは膨大な仕事になりそうなんだ。それは現在『月刊状況と主体』(谷沢書房)に連載中なんだ。残念ながら首都圏以外は店頭では入手が難しいけどね。もっと分かり易く楽しく話せるつもりだったが、君達の突っ込みが鋭い事もあってつい理屈っぽい説明になってしまって申し訳ない。まだまだ未熟で未完成でお恥ずかしい次第だが、これを叩き台に人間論に挑戦して欲しいね。二千年代を迎えるに当たって人類史を総括し、次の千年間の課題を考える為にも、歴史観と人間論の再構築が焦眉の課題だ。きっと歴史観と人間論のブームになるから今から取り組んでおくことだね

 

〔参考文献〕自著のみ示す。

「商品としての人間論の可能性」(共著『人間論の可能性』所収、北樹出版)

『人間観の転換』(青弓社)「続二千年代に向けてー新しい人間観の構想―」(『月刊状況と主体』連載中、谷沢書房)

「シェーラーによる人間観の五類型」(『駿台フォーラム第7号』所収)

「痴愚人間論-エラスムス『痴愚神礼讃』について-(『駿台フォーラム第9号』所収)

●第六節に戻る    ●目次に戻る