第五節、社会的事物の主体性

B子〕私にも分かる議論に戻しましょう。先生のお話だと商品も機械も人間だということですね。でも考えることも出来ない、意志も感情もない、およそ人間の定義に当てはまらないのに、どうして人間に含める事が出未るのですか。全く荒唐無稽じゃないですか。

〔保井〕いや御尤もな疑問だ。ではまず社会的事物の主体性について見直してみよう。例えば乗用車があればそれが走る為に道が出来、油田が採掘され、自動車工場が林立し、排気ガスが大気を汚染する。乗用車を買う為に長時間労働をし、救急病院が建てられ、国鉄が潰れてJRになり、貿易摩擦が深刻になり、挙げれば切りが無いけれど、ともかくわれわれはモータリーゼーションによって根本的に縛られていることは間違いない。乗用車は大変な厄介な問題を人間社会に持ち込んだので、乗用車を無くそうと思っても、それに直接・問接に係わって生計を立てている人は一割はいるらしいから、簡単にはいかない。

A雄〕乗用車の与える社会的影響をいくら挙げても、乗用車が無生物であり、自らの意志で社会的な働きかけを行っている主体ではないという事情は変わりません。乗用車を利用し、乗用車に直接間接に係わっているのはあくまで社会的な諸個人の意志や感情によるのですから、主体はやっぱり諸個人でしかないんです。

〔保井〕主体はあくまで諸個人だということにして、諸個人の認識の甘さや主体性のなさを追求し、主体的な決断を迫っていく「主体主義」的発想だけでは解決しないんだ。主体主義で追い込まれてやってしまうと、諸個人はそれぞれ狭い視野や僅かな情報しか持っていないから、行き当たりばったり意地を張って過激にやってしまう。でも自分の主体的決断からしたことだから悔いはないなんて開き直ってしまって、自分が引き起こした結果について責任がとれなくなってしまうのだ。

主体的な意志や感情が一体どうして、何処から生じたか、意識を形成する構造を明らかにすべきだ。諸個人の意識内容を形成する働きは、諸個人の身体の内部だけではなく、身体に刺激をもたらす外部の社会的事物の働きかけに大いに依存しているだろう。

B子〕人間の意識を社会的事物が形成しているから、意識の主体は人間だけではなくて社会的事物の方でもあるということですか。例えば乗用車を運転している人の意識は同時に乗用車自身の意識でもあるということですか。詭弁の典型じゃないですか。だって乗用車には意識する機能はないんだし、意識はあくまで運転者が抱いている意識なんですから。

〔保井〕ロボットタクシーを想像してみよう。京都駅でロボットタクシーを拾って「堀川丸太町の駿台予備学校まで行ってくれ。」と頼むと「へい毎度」なんて返事があって。自動的に発車して走行する。運転のマニュアルは細かく電子頭脳にインプットされている。それに京都市内の地図だとか、その日の混み具合だとか天候等に注意を払っていて、安全運転でしかもスピーディに送り届けてくれるんだ。そうするとこのロボットタクシーが自分で意識活動をしていることに異議はないだろう。これに比べると運転手が運転しなければ動かないタクシーはまだ自動マシーンとしては不完全だということになる。

運転者は乗用車が持つべき意識活動を補完しているんだ。だから運転者は自分が走るように意識してはいけない、あくまで乗用車のボディを自分のボディのように考えて運転すべきだ。つまり乗用車の意識に成りきっていなければ、安全運転は期待できない。このように人と機械がセットで一つの主体を形成しているシステムをマン・マシーンシステムと呼んでいるんだ。

A雄〕マン・マシーンシステムでも人間の意識は人間身体の意識であるという限界がありますから、マシーンシステムに無理やり人間の意識を適合させるやり方はまずいでしょう。人間の意識の限界を踏まえて、マシーンの改良を計るべきだというのが人間工学の基本的な立場じゃないんですか。

〔保井〕では意識と言えば身体の意識のように言われるが、いつも全身で意識しているんじゃないだろう。感覚中枢は頭に集中していて、外界の情報は主に首から上でキャッチしている。だから首から下よりも外界の方が、意識形成にはむしろ親密に係わっているとも考えられるだろう。

それに意識の主体が身体だといっても、身体の範囲というのも自明なようで自明じゃない。爪なんかは身体の一部といってもよいと思うけれど、細胞の集まりじゃないだろう。貝殻は貝にとって身体の大部分なんだけれど、あれは分泌物が凝固したものらしいね。蜘蛛の糸も蜘蛛にとっては体の一部のようだけれど厳密には、体から分泌されたものだ。蓑虫の蓑は体から出たものじゃないけれど、蓑がない蓑虫なんてピンと未ないだろう。ビーバーの歯が鋭いのを見て、見事なビーバーダムや二階建ての水中住居が直ちに連想できるかな。逆にダムや住居の事を知っているから、歯の鋭さをそれに結び付けるのだろう。

身体は生理的な統一体であって、同じ遺伝子を持つ核のある細胞から構成され、体液が循環している部分と一応考えられるね。そして身体は自己保存衝動で行動する全体であるわけだ。そしてこの自己保存を損なわない限り、身体の範囲を少々誤認したり、広げてもいいんだ。むしろ身体的自己保存にとっては身近な環境の恒常性が大切だから、貝殻や蓑や糸を体にくっつけて自分の体のように行動している。若きマルクスの言葉に「非有機的身体」という言葉があるんだ。つまり器官としては繋がっていないけれど、自分の体の一部と見なせる部分がこれに当たる。人間の場合はビーバーのように生態系全体が非有機的身体だ。しかも人間の生態系は宇宙船「地球号」の全体だよね。

B子〕ちょっと待ってください。エコロジーを持ち出せば若者はなんでも納得すると思っていませんか。それじゃあ、先生は「地球が人間だ。」と言われるわけですね。これじゃ任意の物を挙げて全て人間だと言える事になってしまいますよ。

A雄〕こんがらがったので整理しますよ。「意識の形成主体は何かということで、社会的事物の働きかけで意識が形成されているから、意識は身体の意識であると同時に事物の意識でもある。」これが主要な命題ですね。これを説明しようとして、意識の形成に身体全部が係わっているわけではないこと、また身体の範囲も明確では無いことを指摘されていたわけです。そして提え方によっては地球全体が人間の身体だというわけでしょう。ということはやはり結論は「意識は身体の意識である。」ということになりますね。

〔保井〕でも結論の部分の「身体」は社会的事物から構成されているので「主要な命題」の説明には辛うじて成っている筈だ。

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