第四節 労働価値説の脱構築

〔保井〕商品人間というのは商品社会の中で価値支配力を持ち、他の商品を獲得して消費し、自分自身を再生産している存在だと考えてくれたまえ。商品経済の中で人間を規定する限りでは、この規定は奇抜でも何でもないだろう。ところで価値と価値支配力はよく考えてみると同じ意味なんだ。ある商品の価値は他の商品と取り替えられる他の商品への支配力を意味しているのだから。

A雄〕その価値説は労働価値説とは違いますね。労働価値説だと商品に投下凝結している労働時間が価値だということですから。

〔保井〕労働価値説でもいろいろあるんだ。商品が他の商品を支配する力を支配される商品の生産に要した労働時間と考えるのが支配労働価値説で、その商品の価値はその商品に投下されている労働時間にあたるというのが投下労働価値説だ。スミスは両方使ったけれどリカードは投下労働価値説だけに純化したんだ。

マルクスは価値関係を本当は商品間の物と物の関係ではなくて、商品に投下されている労働時間それ自体の関係だと考えた。だが労働時間それ自体なんて何処にもないだろう。でもそれが一応生産物を規制しているのだから、生産物にくっついて生産物を商品にしているんだと考えついたんだ。

私の考え方では価値を生産物の属性と考えても別段構わないんだ。価値は労働時間の固まりだから物ではないと考える人もいるだろうが、時間も物の属性なんだ。そして時間を物の属性と考えて初めて公正に価値が評価できるんだ。だって実際十時問働いても、十時間分の労働と言えるかどうか分からない。五時間分の労働の場合もあるし十五時間分の労働をしたかもしれない。それは生産物の出来を比較して初めて物の属性として評価されるんだ。それで、抽象的人間労働も生産物に凝固して、生産物を商品にし、その本質である価値になるというわけなんだ。

そうすると価値は社会的支配力なんだから、商品自体が社会的支配力である価値を本質とすることになる。それで先程の商品人間の本質である価値が生産物に労働によって対象化されたということになるだろう。

B子〕商品人間が自己の本質である社会的な支配力としての価値を労働によって生産物に対象化して生産物を商品にし、人間と同じ本質を与えるというわけですか。それでも商品が社会的支配力を持つとしても、人間が社会的支配力を持つのと意味が違うでしょう。だって人間は意志や感情を持っていますが、商品は持っていません。

〔保井〕ただしこの場面では経済的な価値関係だけを取り上げていて、それも抽象的に法則的に問題にしているだけだから、個人の意志や感情は相殺されて価値法則が貫かれるという意味では、人と物の区別が棚上げにされているんだ。法則的には、所持者は所持している商品に内在する価値関係に忠実にしか動けないから、所持者の行為は商品を人格的に代表しているにすぎない。

人はここでは物に呑み込まれている。また商品は自己に内在している人間労働の大きさによって規制されて交換関係を取り結ばざるを得ないから、商品関係は人間関係に止揚されている。人が物に成り、物が人に成るという関係が経済的な人間関係であり、生産物の関係なんだよ。ところがマルクスは、人と物の区別が棚上げにされている事態を倒錯だと考えたんだ。

A雄〕現代ヒューマニズムは人間が物として捉えられ扱われることへの反発から出発したわけですね。機械のネジ・釘として、巨大な機構の歯車として物化して扱われることを人間性の喪失として嘆く声を良く耳にします。逆に生産現場では機械が生産力の主力で人間はその補助役を果たすに過ぎません。人間は自らが生み出した物質文明によって逆に自由を奪われ、支配されているのです。今こそ人間の主体性を回復し、人間らしい生活のための手段として機械や文明をコントロールしなければならないのです。

そこで実存主義者は主体性の回復を叫びますが、どうしたら人間性を取り戻せるような関係に社会を変革できるのかは実存主義では解明できません。それに対してマルクス主義者は物件として扱われる社会関係も結局は人間の階級的な支配関係に過ぎないから、社会関係の編制の仕方を変革し、労働者が自分たちの権隈で生産手段を自由に使えるようになれば、物件による支配という幻想も消えるんだと考えたのでしよう。

〔保井〕マルクスにすれば機械や生産物が価値のような社会的な支配力を持つ筈がないんだ。それは物を人間のように思い込む擬人化的な倒錯なんだ。マルクスはこれを物神崇拝(フェティシズム)とか物神性的倒錯と呼んでいる。

物の力と思われている価値はマルクスによれば、実際には人間の労働に対する支配関係なんだ。しかし私には事態はそう単純じゃないと思われるんだ。労働者の労働時間の関係だけで価値関係を演繹するのは、実は、先程の「価値は抽象的人間労働のガレルテ(膠物質)である」という定義からの同義反復なんだ。しかしこれは価値の定義ではなくて、価値が抽象的人間労働それ自身が膠(にかわ)のように凝固した状態だという実体の説明なんだ。

抽象的人間労働を行っているのは、労働者の労働力の発揮でしかなく、他の生産手段の活動はこれに入らないとするのも、同義反復だ。確かに生産物の価値は他の条件が一定で完全競争の下では労働時間に比例すると考えるのは不当ではない。その限りで労働価値説に説得力はある。しかし他の条件を入れないと生産は行われないだろう。労働力の労働時間はどれも一定として生産手段の価値生産性が異なる場合はどうか。生み出される価値は生産手段の価値生産性に左右されることになるだろう。だから生産手段が価値生産に係わっていないとは言えないんだ。

A雄〕やはり先生の場合は労働価値説の否定ですね、労働者の労働だけでなく、生産手段も価値生産をするというのですから。しかし生産手段の価値生産量はどのようにして計測するのですか。また資本家は労働者の労働からだけでなく、生産手段の価値生産からも剰余価値を獲得できるのですか。

〔保井〕私の場合は身体的な労働力の使用だけが、人間労働ではなくて、生産手段の生産活動も人間労働に含めるべきだと考えている。その意味では労働価値説はずらして再構築される、こういうのも広義の脱構築と呼んでもいいんじゃないかな。例えば小型の自動機械があるとしよう。それは仕様を変更すれば多能的に使用できる工作機械だ。この工作機械は具体的に有用的に原材料を加工制作して製品を作る具体的有用労働をしている。と同時に減価償却される分だけの価値を製品に対象化しているわけだ。つまり抽象的人間労働をしているとも言えるはずだ。この工作機械を導入して人件費を節約するか、導入を見合わせるかはどちらがコストが安くつくかで決まるだろう。

一般に生産手段は不変資本、労働力は可変資本だと言われている。もし一億円で購入した機械が一億二千万円分の価値を生み出して償却されたとすると、資本家の為に二千万円の剰余価値を生み出した生言える。ところがそんな性能がいい機械だと分かっていれば、一億二千万円で買っても損はない。完全競争下では一億二千万円に市場均衡価格は落ち着くことになる。だから生産手段が剰余価値を生むことは法則的にはないんだ。でも、このことは資本家が節約や幸運によって生産手段から剰余価値を生み出していることを否定する材料にはならない、というのが私の考えだ。

特に生産手段が剰余価値を生む典型が、技術革新による生産力の飛躍がもたらす特別剰余価値だ。労働力の水準が同等の場合、機械や設備の改良によって、それに要する費用を差し引いてもなお飛び抜けて高い生産力を示すことができれば、その差額だけの特別剰余価値を手に入れることができる。これは明らかに労働者の労働を搾取して得たものではない。機械が示した高い生産性から得たものに違いないんだ。

ところがマルクスは機械が価値を生産しないことは価値の定義によって自明なので、これは機械の改良によって強められた労働者の労働からの搾取であると捉えているんだ。つまりマルクスは労働力の水準、労働の複雑度が同等なら生産手段の生産性によって価値生産量に差が付くことを認めているが、それでもその差額分もそれが価値である以上、労働者の抽象的人間労働のガレルテでしか有り得ないという立場に固執しているんだ。

B子〕専門的な議論をされても面喰らってわかりませんが、一つだけ気付いたことがあります。機械は減価償却費の分だけ価値を生産物に対象化する筈でしょう。ところが特別剰余価値では減価償却費以上に価値生産していることになっています。矛盾しませんか。

A雄〕それは矛盾とは言えないな。減価償却費の分だけというのは機械が不変資本として法則的に価値を対象化する場合だから、平均を意味している。ところが特別剰余価値では可変資本として機能する特別の機械だから、その分だけ減価償却費より多くなるのは当然だ。でもやはり機械が人間だというのは納得できません。機械は人間じゃないもの。人刊が人間だもの。

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