第三節、価値意識の転倒

〔保井〕商品性が人間性にとって本質的なことかそれとも枝葉的なことか、これに答えないと議論が進まないね。共同性は本質的なことだっていう共通認識はあるんだ。個人

の力は非力で協力によって初めて自然に適合できることは、商品経済であろうが無かろうが一応納得できるのだから。人間の本質は一つしかないから共同性と商品性の両方が本質というのは間違いじゃないかと言われたことがあるが、人間の本質はお望みなら思考力、想像力、言語能力、シンボル能力、労働能力、社会性、遊戯能力、宗教性、主情性、無限の好色性、人格性その他パンツをはく事まで含めていくらでも挙げることができる。いわゆる人間本質論はそうした諸本質の中から特にこれが一番の特色だと思われるものを取り出して論じているんだ。その場合何らかの視角から見てこれが最重要だと論じているんだ。また別の視角からは当然別の本質がスポットライトを浴びることになる。商品性にしたって主要な本質に見える場合とそうでない場合があるのは当然なんだ。

A雄〕人間の徳について考えますよ。人間にとって一番大切なことは何かで人間というものを反省すれば人格とか、愛とか、善とかになるわけでしょう。ソクラテスだと徳に対する正しい知かな。徳や生き方の問題を扱う際でも人間商品論は有効なんですか。

〔保井〕少し問題をずらすが、価値意識と商品性の関連を取り上げてみよう。真善美やかけがえのなさ、愛等も価値に入るし、品物の効用も価値に入る。商品の交換価値も当然価値に入るね。では一体どうしてそれらが価値一般に包括されるんだろう。

B子〕それは当然それらがみんなよいもので、みんなが欲しがっているからでしよう。

A雄〕先生の質問で言いたいことは、「よいもの」や「欲しいもの」をどうして「価値」という言葉で括るのか、「価値」と言わず「よさ」や「望ましさ」とすればいいのにということですね。それからそうしないで、物の値段を表す「価値」という言葉で括るのはおかしいではないかということでしょう。つまりそういうものをみんな「価値」という言葉で括ってしまう程、商品性は強いんだということですね。しかし価値という言葉は日本語でしょう。西洋でもそういう関係にあるんですか。

〔保井〕このことは価値論のプロパーたちが一向に気付かない問題なんだ。「価値」が「よさ」や「望ましさ」でしかないなら「価値」という言葉は不要だ。そして商品の値段を表す言葉である「価値」で価値一般は括れない。例えば「神」や「真善美」は交換価値で計るのは冒漬にあたる。交換価値があるから価値に属すわけじゃないんだ。価値一般の定義を「欲求充足手段」つまり「効用」とする説も有力だが、満足を与える大きさや効用によってそれらの価値づけができるだろうか。それに定義が「効用」だとすると何故それを「価値」と呼ぶのかは説明できない。「よさ」や「望ましさ」や「尊さ」や「効用」は交換価値によって纏められる内的な必然性は全く無い。それはだから社会的に説明するしかない。商品の値段が高いように沢山の「よさ・望ましさ・尊さ・効用」を持っているところから、これらが価値に含まれることになったわけだ。ということはあらゆる生産物や人間の活動が商品経済に巻き込まれて、商品価値と他のよさや望ましさ効用などが、あるいは真善美

までも商品価値が高いかどうかで評価されがちになったことを意味している。

A雄〕絵画取引で一億円で買って、十億円で売ると、その絵画の芸術的価値が十億円のように思われる。学術書でも著者のネイムバリューが高くて、良く売れると、その学術的価値も高く評価される。お布施をたくさん集めて立派な聖堂を建てると神仏や教祖の尊さが実感される。たしかにこうゆう混同やいかさまが多いですね。

B子〕商品価値だけで判断するのは間違いだけれど、商品経済が支配的な社会では、商品価値の大きさで人々の評価を計ることが有効な場合もあるでしょう。それだけ多くの人々の支持を集めている一つの証拠ですから。売れなくて悔しければ、もっといいものを作れば売れる筈でしょう。もちろん商品価値では決して計れないものもあるわ。家族とか友達とかのようにかけがえのないものの価値は商品価値では計れないもの。むしろこう考えたらどうかしら、商品価値で計れるものは手段的な取り替えられる価値で、商品価値で計れないものこそ目的的な取り替えられない真の価値だと。

〔保井〕だから商品価値で計れない以上価値ではない筈なのに、これこそが真の価値だというのだから、意味の転倒が一般に起こっているんだ。これを心理的に分析すれば、次のような心の内容が推測される〔商品価値に基本的に支配されているけれど、思うように商品価値は手に入らない、悔しいけれど分相応に貧しくても商品価値では計れない精神的に大切なものをしっかり守って生きていく方が、商品価値を無際限に追いかける生き方よりも○○が大きい。〕この○○に価値を入れてしまったところにコンプレックスによる意味転倒が現れているんだ。だって価値の量は語源的な意味では少ないに決まっている。

ギリシアでもストア派は物の持つ「望ましさ」「よさ」に交換力を意味していたと思われるaxia充てたんだ。価値論は現在英語でもaxioと呼ばれている。価値は英語でvalueだがこれは物の大切さや力が語源だから、マルクスは語源的には使用価値であり、交換価値ではないとしたんだ。しかし交換価値を物の属性とすればvalueも交換価値と考えていいんだ。ドイツ語のWertは語源的には尊さを意味するけれど、商品経済の浸透で、尊さと交換力が混同された結果、それまではっきりしていなかった交換力を意味する言葉を代理するようになったと、私は勝手に推測してるんだ。

A雄〕価値の意味の転倒で真の価値がかえって商品価値を否定するようになったのは、人間が商品性を持っているからということですが、むしろ商品性に反発して商品性を乗り越えているということでしょう。ですから商品性の意義は減ってるんじゃないですか。

〔保井〕この反発や乗り越えは精神生活の表面的な信条としてだろう。経済的には家族の生活を支えるだけの商品価値は何としても手に入れなければならないんだ。そして大部分の生活はそれだけで追われている。であるからこそ、この現実の価値意識を転倒して聖化する必要があるんだ。

精神分折的に解釈すれば、キリスト教の父と子と聖霊の三位一体説や、カトリックの父ヤハウェと母マリアと子キリトスの図式に家族の聖化の典型がある。父は社会的には何億分の一の価値としてしか評価されていない。まさに神が全てなら人問は塵のような存在だ。ところがその乏しい収入でも、家族にとっては衣食住に必要な全てを、貨幣を媒介にしてもたらしてくれる全能の神なのだ。

塵から神に飛躍するトポス(聖なる場所)こそ家庭なんだ。同じ価値が悪無限的な商品価値から真無限的な精神的価値に転化する場所だ。この救いの場における救い主キリストは子(妻)なんだ。妻子は父に全面的に依存することによって父をかけがえのない存在、絶対者に高めてくれるのだから。        

ところが家族は聖なるトポスであると同時に最も濱神的な場所でもある。父は子が育ち一人前になることによって自分の存在意義の証明を得ると同時に、子によって取って代わられ、乗り越えられてしまい、再び塵に帰らなければならない運命にある。精神的な父殺し、神の死が演じられるわけだ。そしてそれは子として生まれついたことによって予め予定されていた原罪だ。かくして子は父によって裁かれ父への罪を同じ運命を辿ることによって償う羽目に陥る。聖なる母マリアは父なる神との交わり=一体化で聖霊なる神を受け取り、子なる神キリストを生む。父と子は本未合一していたことをマリアは示している。

母は父と子を繋ぎ連綿と生を継承させる媒介だ。男は女の胎から生まれ、そこに戻って死を演じ、子に成って再生する。マリアは大地母神の役割を受け継いでいるといわれる。大地から生まれ、大地の生命力によって生き、大地の生命と合一して子を生み、最後に大地に融け込んでいく。父と子の対立は母によって和解し、罪は母によって許されている。母は、対立を抱擁する愛なる神であり、人間と神、自然と超越者の断絶が解かれている神秘なんだ。

B子〕チルチルとミチルの「青い鳥」の話じゃないけれど幸せは家庭にこそあるということですか。家族をかけがえのないものとして大切にする事で、自分なりの本未の幸福を見出せるというのでしょう。家族に宗教的な幻想を与えて女性を家庭に縛りつけ、人間としての社会的能力を奪っていく論理ですね。こういうのに騙されると、後になって夫の稼ぎだけじゃ子供に教育だってまともにつけさせられないっていうんで、パートタイマーなんかで一時間六百円かそこらの低賃金で酷使されるのが落ちでしよう。私はあくまで自分の可能性を追求するキャリアウーマンを目指すわ。

A雄〕キリスト教が普遍性を持ちえた理由の一つに、神の構造を家族関係に擬して捉え易かったことが挙げられるかもしれませんね。この家族の神聖化は商品的価値観から脱却する論理なのに、かえって商品人問の存在構造を特徴的に表現しているのは皮肉ですね。

B子〕商品人間て言葉を簡単に使われますね。でも人間が商品を作るけれど、人間自身は商品じゃないでしょう。奴隷は商品奴隷として売買された場合もありましたよ、資本主義的社会でも労働力が商品として売買されています。ですが、それ以外の場合は人間自身は商品だとは言えない筈ですね。

〔保井〕経済関係には共同体的な関係と、市民社会的な市場経済の関係がある。共同体的な分業では一人は皆のために自分の持ち場での責任を果たす。そして皆は一人のために必要な物資を共同で作り出し、提供する。そこには商品的関係は無い。市場で結ばれると、一人は自分の生活物資を貨幣で手に入れる為に、自分の生産物を商品として売って、貨幣に換えなければならない。商品経済が支配的だと彼の生産物は専ら商品として社会的に通用するわけだから、彼の労働は商品として客観化され評価されると言える。彼の人柄や性格、秘められた才能などは商品に現れていなければ、商品価値には全く影響しない。だから彼は商品に自己を代理させて、市場関係を結んでいると言えるんだ。つまり市場では商品相互の関係として人間関係が現れるんだ。

B子〕市場では商品間の関係を商品は口が効けないから商品の所持者同士が代理するんじゃないんですか。

A雄〕それ以前にさ、商品間の関係に成るのは、それぞれの商品が効用や価値を持っているからだろう。それは人間たちの欲望や労働の関係を表しているわけだ。直接人間に欲望の内容を尋ねてもハッキリしないものだし、労働をどれだけしたかって事だって、時計で計れるものでもないだろう。結局客観的な生産物が市場で価格機構を通して示す以外にないわけだ。それで具体的な取引は商品所持者が商品を代表して行うわけだけど、個々の取引では所持者の個人的な事情に左右される事はあっても、全体としては大数の法則に従って、結局価値法則に則らざるを得ないんだ。先生が商品人間というのは、商品に自己の価値存在を対象化させて生きていかざるを得ない人間のあり方を意味しているんだ。

B子〕だったら却って、商品の方で価値関係を取り結ぶんだし、人間の方はその方面は商品に任せて人格的な価値に戻るのですから、人間は商品ではないことになりませんか。にも関わらず商品関係の束縛から抜けられないことを理由に人間が商品だとするのなら、人間の労働関係を表現するのが商品の価値だということですから、商品が人間だという結論になってしまうでしよう。ああそうか、それで社会的な事物も人間に含めようなんて、奇抜な提案を思いつかれたのですね。

 ●第四節に進む   ●第二節に戻る    ●目次に戻る