第二節、                  人間の本質としての商品性

B子〕マルクスは人間の歴史の中での市場経済、商品経済の役割を時期的にも地域的にも限定して把握し、克服しようとしたんでしょう。先生の理論だとやはり市場経済、商品経済は普遍的だということですからマルクスとは正反対ですね。

A雄〕マルクスが市場経済を克服して私有財産のない共産主義を目指していたのかどうか、実は決着していないみたいだよ。マルクスこそ、市場経済に基づく社会主義を目指していたんだという解釈もあるんだ。それによると、マルクスが私有財産を揚棄すると言う意味は、資本主義的な生産手段の私有を揚棄すると言う意味らしい。マルクスは自由人の連合としての新たな共同体を目指していたし、それは個人的所有の再建によって成し遂げられるというのだから、市場経済を揚棄するのではなく、むしろ生産手段を独り占めにする者がいない本来の自由な市場経済を目指していたんだというわけだ。

〔保井〕十九世紀コミュニズムは二つの課題を一緒に解決しようとしていた。一つは近代社会がもたらした商品経済に基づく貧富の差の解決だ。貧富の差の根源は私有財産制度だから、根源的な意味での私有財産を無くすべきだという主張になる。十六世紀のトマス・モア『ユートピア』以来のユートピアリズムだ。もう一つは資本主義的な搾取関係を揚棄する課題だ、剰余価値説によって解明され、生産者自身の共同所有によって克服されると説かれた。私のマルクス解釈では、彼自身は根源的な意味での私有財産を無くさないと、資本家階級を無くし、労働貨幣を発行しても、皆が資本家になってしまうだけで資本主義は揚棄できないと捉えていたんだ。彼は単に階級支配だけではなくて、排他的、利己的な社会関係、商品関係自体を揚棄する立場だったんだ。市場関係、商品関係の下では疎外はなくならない。「個人的所有の再建」という解釈は実は間違いなんだ。「個人的」はドイツ語で「インディビジュエーレ」だが、ある場合は語源的に「分けられない」という意味で使っているんだ。つまり生産者と生産手段の「不可分離的な」結びつきを再建する意味なんだ。

A雄〕すると先生の立場は商品性を人間の本質と見なすのだけれど、それの超克を倫理的格率にするわけですから、人間である眼り、商品経済や商品的価値観に基づいて生きるべきだが、同時にそれを否定する倫理的格率も大切にすべきだと言うことになりますね。

〔保井〕私は資本主義が未来永劫に続くというのは、それが本格的に確立してからまだ二百年しかたっていないという事実に照らしても、説得力はないと思う。商品経済や私有財産制度はかなり長い。未開時代の中頃から広がったと考えている。商品経済と私有財産はコインの両面みたいなもので、最も単純な商品経済である物々交換によって私有財産は発生したんだ。この私有財産制の普及並びに富の蓄積が貧富の差によるあらゆる杜会矛盾の根源であり、国家権力の発生する前提になっている。文明を発生させる原理を商品経済と私有財産制度は内包しているんだ。文明によって人間は根本的に他の動物をはじめ全白然から自分を切断させた。その意味では人間は商品性を獲得することによって、初めて真に人間の段階に達したんだ。だから商品性の超克はその意味での人間の眼界の突破だ。それで人間である限り、商品性は完全には克服できない。これは真理だと認めざるを得ない。

B子〕では将来の共同体というマルクスの理想は未未永劫に実現できない。それでも倫理的な理念としては人間の連帯と共同、自己実現を目指す共同主義的な思想として持ち続けるべきだという立場ですね。それなら理解できますが、そのような理念を持ち続ける人間にとっては、商品性はもはや枝葉のことで人間の本質とは言えないんじゃないですか。

A雄〕先生が言いたいのは、連帯や共同、自己実現といっても、単純に純粋に自分の主義として目指せというのではイデオロギー的な専制に陥りがちだ。そういうやり方が「プロレタリア独裁」の名の下に罷り通り、人権が踏みにじられてきた。もっと商品経済に生きる生活者としての利害追求にあくせくしている当たり前の市民の、現実反省から生じてくる理念として打ち出さないと駄目だということだろう。そうするとまずその理念の生じる商品的な人間関係から人間の本質規定をしなければならない。だからおそらく商品性と同時に共同性も人間の本質として認めた上での事だろう。

〔保井〕対立や矛盾があればそれは歴史の中で闘争を通して解決され、より高度な段階が開かれる。こういう弁証法的な思考をわれわれは訓練されているんだ。だから資本主義的な矛盾だけでなく、商品経済や私有財産制だってそこからすべての社会的な矛盾が出てきたわけだから、この矛盾の発展によっていつかは解決される時代がくる筈だという素朴な確信は棄てきれない。当分数世紀はスタンダードな原理だと認めても、だから未未永劫に克服できないとは考えたくないね。でも商品性は人間の生成以来本質的だ。もう一つの本質である共同性によって克服するのは、丁度四本足の動物が二本足で歩き始めるぐらい難しい。でも可能だったわけだろう。だから一本足で走るのだって絶対不可能とは言い切れない。私有財産制度の超克は人間が人間であることを越えて前進することに他ならないんだ。不可能だから止めるのではなくて、自己自身の限界を越えようとすることにこそ、人間の人間足る所以があるんじゃないかな。

B子〕二ーチェの「人間において偉大なのは、彼が橋梁であって、目的ではないことである。人間において愛すべきは彼が過渡であり、没落であることである。」(『ツァラトストラはかく語りき』)は印象的でした。でもマルクス主義の洗礼を受けていない世代にとっては、将来の共同体とか、商品経済の超克とか言ってもピンと来ないんです。具体的に資本主義や社会主義の矛盾は分かります。体制内で解決できるものはしたらいいし、体制を変えないと解決できない矛盾があって、どうしても辛抱できなければ、その体制を変えればいいと思うんです。ですから商品経済からくる金勘定中心的な生き方は私は嫌だからしないけど、やりたい人はやったらいい。私も商品経済の中で生きていく限りで採算の合うように努力しますが、それは私にとっては本質的なことじゃないから辛抱できます。ところが商品経済じゃなくなって、共同体みたいになって、なんでも集団で決定されてしまうようになったら、それこそ我慢できっこないって思うんです。

〔保井〕商品経済を克服した新しい自由人の共同体が、何でも集団決定してしまう窮屈な体制にしかならないのだったら、私も遠慮するよ。どうすれば自由と民主主義を前提とし、しかも市場性を払拭した経済関係が構築できるかはまだ未知数なんだ。ソ連・東欧のいわゆる「現代社会主義」は労働者が企業の運営権を行使できたまともな社会主義ではまるでなかった。むしろ「社会主義」というイデオロギー的な看板で糊塗されてきたけれど、その正体は国家資本主義の官僚独裁だった。集団決定というのも実際には行われたわけじゃないんだ。職場にも地域にもソビエト(人民会議)なんか無かったんだから。

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