第一節、                  若き保井温の「人間=商品」論の成立

B子〕先生は確か学部時代は日本史学専攻だったのに、大学院は哲学に変わられたそうですね。何か「キルケゴールの大地震」のような精神的体験があったのですか。

〔保井〕学部時代、日本史に限定しないで社会科学書を読んでいたんだ。当時、若きマルクスの『経済学・哲学手稿』がよく読まれていてね、疎外論に熱中してたんだ。一九六〇年代中頃だから高度経済成長の真っ最中だけど、いわゆる「経済成長の歪み」が深刻だった。大阪の大正区に住んでいたんだが、当時大気汚染が酷くて、近所の小学生が沢山小児喘息に罹っていたし、近くの尻無川なんか油汚れでプカプカ泡が出てたんだ。人間が生み出した物が人間のものにならず、人間に敵対的に立ち向かってくる「自已疎外」をひしひしと実感したんだな。

A雄〕現在の方がグローバルに観ると深刻じゃないですか。フロンガスによるオゾン層の破壊はもう取り返しがつかない程危機ですし、海洋や極地の汚染が凄く進んでいます。熱帯林の伐採、砂漠化、酸性雨による森林・湖の破壊、チェルノブイリ原発や核実験による汚染の凄さ、今後の産業発達がもたらす資源枯渇問題、人口爆発による食糧危機等々挙げれば切りがありません。

B子〕日本だって国民所得は増えたけれど、ウサギ小屋や通勤地獄は変わらないし、過労死するほど働かされて、豊かさを実感するゆとりなんてないって、父もこぼしています。物価は異常に高いし、特に教育費なんてべらぼうだから、許せませんね。

〔保井〕若い君達がしっかりその課題を認識して、全力をあげて格闘してくれないと人類に未未はないよ。ところでマルクスの疎外論の魅力は、疎外論を通して人間の自己現活動としての本来の労働の論理を打ち出していることだ。たとえ疎外されていようと人間は労働によって自己の能力を発揮し、自己実現する存在なんだ。大工さんが家を建てれば、その家は大工さんの自己実現だ。いい出来ばえだと嬉しくなるし、そこに住む人が喜んでくれれば白分の存在意義が確証されたことになる。疎外は自己実現していながら、その成果が奪われることによる自己喪失を意味している。これに対抗して、労働者は労働を自己実現として認識し、それが疎外されている現実を変革すべきだ。

A雄〕ところが商品経済だと、目的はどれだけ高く売れるかだけです。付加価値をつける為に過剰包装でごまかしたり、誇大広告で騙したり、実際必要のないものでも作為的に欲望を作り出して売りつけようとします。それを文化や豊かさと勘違いしていて大切な資源を無駄遣いしているわけですね。価値の基準が貨幣の獲得だから、本来の自己実現や人間同士の共同や結びつきということが見失われています。

B子〕そういう傾向はあるわね。でも自分だけはそうはなりたくないわ。私はジャーナリスト志望ですが、社会の現実を正確に捉えて、進むべき方向を明らかにするような報道をするつもりです。決して興味本位や商業主義的な売れればいいみたいなジャーナリストにはなりません。A雄君だって、まさか医者は儲かるから成りたい口じゃないでしょうね。

A雄〕もちろんさ、でも事は単純じゃないんだ。病院経営だってそれなりの収入がなければ設備を整えた医療ができないんだ。採算や資本蓄積は無視できない。

〔保井〕それでさっきの「大地震」だけど。私の父母は小中学校の教員だったんだ。教育に情熱を燃やしているように見えた。よく夜遅く迄教材作りをしていたからね。だからあくまで生徒たちへの愛情と教育を通しての自己実現の為に教師をしているんであって、安月給はその活動を維持し、子供を育てられるために、社会から支給される手当てに過ぎない筈だろう。自分の子供を育てる為に働いているわけではないと思い込んでいたんだ。だから自分の親たちに関する限り、疎外されない労働だと確信していたんだ。ところがその父が自分が働いているのは自分の子供を育てる為だ、そうじゃなければ仕事なんかしないみたいな事を言ったんだ。

B子〕キルケゴールの場合は、父親が熱心なクリスチャンでそれが彼の誇りだった。ところがその父親が子供の頃、貧しくて牛の番をしていたとき落雷があり、寒さと恐怖の余りあろうことか神を呪った。また成人して豊かになってから、妻に先立たれた寂しさを紛らわすために女中だったキルケゴールの母を犯してしまった。そして自分はその罪の子だという打ち明け話を聞いてしまった。そのときのショックと似てますね。あるべきキリスト者や教師の偶像があって、それがその子にとって唯一の正しい生き方を示していた。大袈裟に言えば自分が生きる意義を支えていた。それが崩れたわけですから。

A雄〕悲惨な体験をして神を呪うのは決して悪魔的じゃなくて、それこそクリスチャン的ですし、若気の過ちで女中を手籠めにしたのは罪だけど責任を取って結婚しているんですから、青春のエピソードとして温かく受け止めるのが子としての愛情の筈なのに、硬直しすぎてますね。先生の場合も自分の尺度でだけ親の言動を裁断してしまったから同罪です。自分の子供のためだけ他人の子供を教育していたわけじゃないでしょう。

〔保井〕分かっていたけどショックだったんだ。そこで思い知ったのが人問の商品性なんだ。教師なんて一番商品経済から無頓着でいられる筈の職業の人間でさえ、労働力商品としての疎外された意識から縛られているんだから、恐らくあらゆる職業の人が金の為に自分の家族の為に働くという意識から逃れられないに違いない。潔癖症みたいに疎外論にこだわっていたから、逆にこれは人間の本質かも知れないって突然悟ってしまったんだ。

B子〕一定の条件で商品経済の影響を意識せざるを得ませんから、その限りで商品性を持ちますが、それは人間が社会性を持つことから付随してくる枝葉の事に過ぎません。金勘定が人間の本質だなんて卑しい根性を持ったら思想家としても教師としても失格です。

〔保井〕そういやあ、よく大阪商人的唯物論なんて批評をされたもんだよ。それは元々正反対なんだ。私としては人間のあるべき姿、自分の生き方の格率、方向性と言ってもいい、それを金勘定で決めてはならないというところから出発したんだ。だけどよくよく考えてみると商品的な関係というのが市民社会の原基みたいな関係に成っていて、商品として通用しなければ社会的な存在資格が与えられない。自分の労働の生産物やサービスもそれなりの商品価値を認められないと駄目なわけなんだ。経済的な関係を基礎に人間を論じる場合は、だからどうしても先ず、人間の商品性を根本に置かないといけない。無視できないけれど、従属的な要素でしかないと甘く見るわけにはいかないんだ。

A雄〕でも結局人間は商品なんだと割り切っちゃえば、金勘定を最大の格率として生きる生き方を認める事に成らざるを得ないでしょう。

〔保井〕まだ学生だったので、人並みの生活の為とか、家族の為に働くとかに不純なものを感じてたんだな。でも世間の人々の普通の生活を見ていると労働それ自体に生きがいを見出すのも、それが家族の生活を支える限りなんだな。労働による自己実現や社会や他人への貢献それ自体を目的に生きるなんていうのは、賛沢な価値観なんだ。そこまで達する前に、それで生計が立つかどうかで精一杯なんだよ。つまり金勘定が基本的な格率でいいんだ。とは言え、その為なら何をやってもいいというわけじゃない。公共の福祉に反することは政治的・社会的・道徳的サンクション(制裁)によってやりにくくなっている。それに自分の個性や能力にあったことをすれば、楽しくやれるし能率的でもあるから個性を磨くのは大切だよ。でも自己実現の為や社会貢献の為に働くというのは第一義的な労働の動機ではないんだ。それは生活の為の労働を充実させる為の受け止め方なんだ。私としては労働それ自体を自已実現と捉えて働きたいと願っているよ。そして仕事を私的生活の手段として受け止めがちな自分が決していいとは思っていない。でも生活の上での責任を果たせるかどうかは仕事を選ぷ際にウェイトが大きい。井上陽水の『傘がない』じゃないが「君のこと以外は、考えられない、それはいいことだろ」も大切な認識なんだよ。つまり、一方でしっかりとした商品的な価値意識を持ってないといけないんだ。

B子〕生計を建てるために真面目に働くということは、金勘定を最大の格率として生きていくということとはまるっきり違うと思います。それは最低限市民として果たすべき倫理的義務です。それだけでは駄目で自已実現や社会貢献を目指して働くべきだと捉えるのがまともでしょう。それを金勘定で利已的に浅ましく生きることと生活の為に清く正しく生きることをごちゃ混ぜにしているんです。嫌いです、そういうの。ひねくれてますよ。

A雄〕おいおい興奮するなよ。君の気持ちも分かるけど、敢えて家族主義的な生き方の持つ利己主義的な面を抉り出し、共同主義的な生き方と対置させる事に積極的な意義も認めるよ。血縁の近い疎いで愛情に差を付けるのが本来の人の道だと儒家が孝道を強調したのに対して、墨家はそれこそ利己主義の根源で家族対家族、宗族対宗族、国家対国家の利害対立を先鋭化させ全ての争いや差別、社会矛盾を惹き起こす原理だとやっつけたじゃなか。墨家の批判は確かに当たっているんだけれど、かといって家族を形成して現実に生活している以上、白分の親と他人の親を分け隔てなく愛するという兼愛ばかり強調して生きるわけにはいけないだろう。言い換えれば自已利害を追求して、それぞれが生きていくように社会関係が出来ている以上、それを無視する生き方は現実的ではない。でも開き直って利己主義で徹底すればよいことでもないわけだ。その矛盾を人間として生きる場合に誠実に自覚的に苦悩すべきだと先生は言われているんだよ。

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