第1章  古代日本の思想

  1 日本人の思想的特質

   清明心と神奈備

  和辻哲郎は『風土』で,日本は照葉樹林帯に属すので自然の幸に恵まれていましたので,西洋人のように自然と厳しく対決することなく,自然と融和して暮らしてきたことを強調しています。そこで人間関係でも互いの融和を大切にしてきたと言います。お互いに心に含むところなく,素直に真情で付き合っていたというのです。

 この心情の純粋性による他者との融和は,『古事記』では清き明き心つまり「清明心(せいめいしん)」と表現されます。透明で腹に異心を隠し持ってはいないのです。「二心なき心」です。このように共同体との融和に生きていますと,共同体で育まれた集団的な感じ方や観念が身について離れませんから,独立した人格としての「個」の自覚が欠如しがちです。

 また自然との融和は物事を情感で捉え,客観的な規範や価値基準に基づいて捉え返して行動することがありませんので,情緒に流されがちで理性的に行動できない欠陥を持っていました。そのため神や掟に背き,人倫を乱すことに関する罪の意識が明確ではありません。罪は穢れとして捉えられ,禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって取り除くことができるとされていたのです。

 日本人が物事を究極的な存在から一貫した原理で捉えないのは,日本古来の信仰が素朴な自然神信仰であり,一木一草にまで神が居ますという神奈備(かむなび)の多神教的信仰と関係がありそうです。究極的な絶対神とか,自然を超越した神の観念がなく,ただ驚異の存在,恐るべき存在が神として崇められ,人間に災難をもたらさないように祭られたのです。

 自然は豊かな恵みをもたらしてくれるので,融合すればよいだけのものではありませんでした。恐ろしい脅威でもあります。もちろん人間もいつでも融和できるものではなく,激しい葛藤や闘争があり,戦争による夥しい虐殺も繰り返えされました。

  祟りと護り神と祖先神信仰

  それで特に征服されたり,政争に巻き込まれて恨みを飲んで滅んでいった人々の霊が祟るのを恐れて,その霊を神として祭ることがよくあります。大和の三輪山の大神(おおみわ)神社は,大和朝廷に滅ぼされた大国主の命の守神である大物主を祭っています。梅原猛『隠された十字架』によりますと,法隆寺は死後蘇我氏に一族を皆殺しにされた聖徳太子の霊を封じ込める為のお寺だということです。学問の神様である天神様は,藤原氏に太宰府に流された菅原道真の霊だということは良く知られています。

 このように人が神として崇められる伝統は,祖先崇拝に由来しています。祖先が田畑を開いてくれた御陰で農耕ができることを感謝すると共に,祖先の霊に守ってもらおうと考えて崇拝したのです。巨大古墳は族長の霊によって氏族を守ってもらおうとしたものです。族長の死体と衣服を取り替えて,新しい族長が現れ氏の上として氏およびそれに隷属した部を統合して支配するのです。神と上は音が共通しているだけではなく,日本人の「神」観念の形成を考える手掛かりになります。この伝統が仏壇を造って,祖先を仏として祭り,祖先の位牌に手を合わせる信仰に生きているのです。

  外来思想に対する包容性

  日本は大陸から適当な距離のある島国でしたから,大陸から征服されて,無理やり大陸の思想や文化を押しつけられることがありません。また大陸から伝わってくる思想や文化を無碍に排斥するのではなく,主体的に日本に合った形に造り変えて吸収することもできました。もちろん受容に当たってはさまざまな軋轢や葛藤がありましたが,大陸や西欧の新しい文化を吸収して発展したいという進取の気持ちや好奇心が強かったのです。

                                    日本文化の重層性    西洋近代合理思想
                                  ↑
                               近世儒学思想
                                  ↑
                               鎌倉仏教思想
                                  ↑
                                弥生文化
                                  ↑
                                縄文思想

 古い既成の日本の思想に新しい外来の思想文化が積み重なっています。その場合,外来の思想は単純な心情の純粋性に還元されて捉えられているのです。 鎌倉新仏教を信心 江戸儒学を愛と誠 西洋近代思想を科学的合理性に還元してしまいます。大変分かり易いのですが、単純すぎますから、深めるという点では期待できません。

2仏教の伝来と聖徳太子

仏教の伝来

   百済の王仁(わに)が『千字文』と『論語』を伝え, 538年あるいは 552年に百済の聖明王が仏像と経論を献じたとされています。これが氏姓制度の下で豪族連合国家に過ぎず, それぞれ氏神を信仰していた当時の状態を改め, 東アジアの諸国がこぞって信仰している普遍性のある仏教を皆で信仰することで, 信仰の統一を計り, 大王(おおきみ) を中心にした集権的な国家統合をなし遂げようとしたのです。その急先鋒が蘇我氏で,反対したのが物部氏でした。両者は結局戦争で決着をつけたのです。

 仏教に帰依していた橘豊日大王(用明天皇,当時は天皇の称号はない)の治世で崇仏論争から物部征伐が起こりました。その時14歳の廐戸皇子は劣勢の折りに白膠木(ぬりで)で四天王の像を造り,勝たせてくれたら四天王の為に寺塔を建てると約束して味方の指揮を鼓舞しました。

  馬子・推古・太子のトロイカ体制

 蘇我馬子を除きたい胸の内を洩らした泊瀬部大王(祟峻天皇)は馬子の命令で暗殺され,豊御食炊屋姫大王(推古天皇)が即位し,廐戸皇子が皇太子になります。こうして三者のトロイカ体制ができあがったのです。この事件を慈円は『愚管抄』で,王法に対して仏法の優位が証明された事件だったとして肯定的に評価しました。後の国学者達は馬子の大逆を弾劾できなかった太子を非難しています。

 馬子が随一の実力者として睨みを効かしていたとはいえ,太子の事業を全てフィクションか,馬子の事業のように見なすのは極端です。馬子は最高実力者であったとしても,太子の能力を高く評価して,様々な革新的な事業を太子を中心に行わせていたと考えられます。太子も決して独断で行ったのではなく,集団的に行ったと考えた方が自然です。『憲法十七條』に「それ事は獨り定むべからず,必ず衆と與に論ふべし」とあります。

 『憲法十七條』

 『憲法十七條』は役人の心得を示したもので,仏教・儒教・法家の思想が散りばめられています。当時は儒教・老荘・仏教の思想の織りまぜて教養を示す四六駢麗体で文章を綴る作法になっていました。性格上老荘思想は入れられませんから,法家思想が入っているわけで,まさしく思想の五重の塔となる見事なものです。

「一曰 以和爲貴 無忤爲宗(和を以て貴しとなし,さからうことなきをむねとせよ。)」これはまさしく日本的集団主義の原点ともいうべき思想です。党派をつくってゴリ押ししようとしたり,自分の我を通そうとするので,いたずらに君父に背くことになるのです。穏やかで謙虚な態度で,共同の問題としてきちんと話し合えば,事理は自ずから通じるというのです。

               梅原猛『聖徳太子・憲法十七條』より

            仏教的  儒教的    法家的

              2      1       3       仁(和) ・・・・原則論   

                                       5,6     4     7,8       礼   ・・・・組織論   

              10     9      11     信     ・・・・人間関係論 

              14     12      13     義     ・・・・人間関係論     

                                       15              17         16     智      ・・・・智性論  

 

 「二曰 篤敬三宝 三宝者仏法僧也 (篤く三宝を敬え三宝とは仏・法・僧である。)」すべての生けるものはこの三宝がよりどころであり,全ての国に通じる最高の教えである。この普遍的な教えによって心を統一し,枉れるものをただそうというのである。

 「四曰 群卿百寮 以礼為本(群卿百寮,礼を以て本とせよ)」身分を定め,礼によってそれぞれの分を弁えさせる、これが政治の根本です。

 「五曰 絶餮棄欲 明弁訴訟(あじわいのむさぼりを絶ち,たからのほしみを棄てて,明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ)」これは欲に眩んで供応や贈賄を受けてはならない,公正に裁判を行えというものです。貧しい者の訴えは相手にされず,財ある者の訴えはなんでも通るようでは駄目だと付け加えています。

 ここで全ての条文を解説するわけにはいけません。最後にいわゆる「凡夫の自覚」と言われている第十条を検討しましょう。「十曰 絶忿棄瞋 不怒人違 人皆有心 々各有執 彼是則我非 我是則彼非 我必非聖 彼必非愚 共是凡夫耳(こころのいかりを絶ち,おもてのいかりを棄てて,人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば,われは非とす。われ是とすれば,かれは非とす。われ必ずしも聖にあらず。かれ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。)」

  人が自分の考えを聞き入れないと腹が立つものですね。しかしそれは自分が人よりもえらいと思っているからです。人はそれぞれ心を持っており,各々判断に違いが出来て,正しいと考える内容が食い違っているのです。人が正しければ,自分は間違っており,自分が正しければ人が間違っています。ところで自分は必ずしも聖人ではなく,人は必ずしも愚か者と決まっていません。共に凡夫でしかないのです。

 そこでどちらが正しいかは誰も決めつけることができません。だから相手が怒っていれば,自分に過ちがないか一応反省してみるべきです。そして自分一人が正しいと分かっていても,大勢が決した方向に従って行うべきだと指摘しています。たとえその結果不味い結果になっても,自分の正しさが証明され,後から自分の意見が入れられます。それに無理に専断的に行いますと,独善的だと反発されて皆の協力が得られず失敗するものです。

 この場合の「凡夫」は太子自身のことではありません。大王(推古帝から「天皇」の称号を使用したという説があります。)や皇太子は自ら凡夫だというわけにはいかないのです。あくまで役人の心得として「凡「二曰 篤敬三宝 々々者仏法僧也(あつく三宝を敬夫の自覚」を持てと諭しているのです。もちろん仏教徒の一人としては「凡夫の自覚」はあったでしょう。

  菩薩太子

 廏戸皇子は高句麗僧慧慈(えじ),百済僧慧聡(えそう)から直々に仏教の教養を教え込まれ,菩薩太子として育てられました。当時梁(りょう)を中心に東アジアでは天子が深く仏門に帰依し,衆生済度を願う菩薩天子になることで,徳を示し,信仰を統一して,強力な集権国家を形成していました。推古女帝に代わって太子は仏教を深く極め,衆生済度に尽くすべく期待されていたのです。そこで彼は『勝鬘経』『維摩経』『法華経』などの講経を行い,帝から褒美に田畑をもらい,それを元手に寺院を建立するなど,仏教の興隆に尽くしたのです。太子が著したとされる『三経義疏』は,この講経の為のノートと思われますが,現存しているものが太子の遺作であるかどうかは明確ではありません。

  「世間虚仮 唯仏是真」

 「世間虚仮 唯仏是真(世の中は仮の宿であり,ただ仏のみが永遠の真実である。)」この言葉は太子が生前に正妻の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)によく話していた言葉です。その言葉を太子が死後住んでいると思われる天寿国を描いた繍帳に縫い込ませて,太子を偲んでいたのです。この言葉には従って仏教的な無常観と涅槃への信仰が現れています。太子は政治的改革が思うようにいかず,この世ではなすべきことが無くなり,捨身して生まれ変わりたいと洩らしていたのです。

 『法華経』ではこの世に生まれ変わることが大切で,この世を離れた浄土国を否定しますが,『浄土三部経』では死後浄土に往生することが大切です。聖徳太子は死後法華経関係者からも浄土教関係者からも,日本における先駆者として,崇められていたのです。この言葉だけですと,どちらの意味かはっきりしませんが,橘大郎女の思いには浄土への憧れが籠められています。

 太子は膳部妃(かしわでひめ)と生前は暮らしていました。実は膳部妃は推古30年2月21日に亡くなり, 太子はその翌日に亡くなっているのです。そして終の病の床にある時家族は平癒と,もしもの際の浄土への往生を願って釈迦三尊像を造りました。本尊は太子,脇侍は太子の母間人(はしひと)皇后,そしてもう一人は膳部妃を模して造られたのです。これは祖先神信仰の現れでもありますが,釈迦三尊像を造ることで浄土で三人が一緒に暮らせるようにとの願いが籠められていました。

 橘大郎女は,太子とこの世では一緒に暮らせなかったけれど,せめて天寿国では一緒に暮らしたいと願っていたのです。橘大郎女は,その天寿国は高貴な身分の者しか入れない,自分は推古天皇の孫だから入れるけれど、膳部妃などはお呼びでないのだと思っていたようです。

  3奈良・平安の仏教

  鎮護国家の奈良仏教

 奈良時代は聖武天皇が自ら「三宝の奴」を名乗ったぐらい,仏教が栄えました。全国に国分寺,国分尼寺が造られ,都周辺には東大寺,興福寺など南都七大寺が建てられ,僧は南都六宗(倶舎,成実,三論,法相,華厳,律)と呼ばれた宗派の教理を兼学していたのです。

 「倶舎」はヴァスヴァンドゥ(世親)の小乗時代の著作『倶舎論』を研究する学問宗で,法相宗の付属として諸宗に兼学されました。

 成実宗は,『成実論』を著したインドのハリヴァルマンが開祖です。仮名心,法心,空心の三心をたてて滅諦を実現しようとするやはり小乗の教えです。鳩摩羅汁の漢訳で梁代には盛んに研究されましたが,日本では三論宗の寓宗(必要な教養として学ばれる)として研究されただけです。

 三論宗は,ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』と『十二門論』および提婆の『百論』の三論を典拠に諸法皆空,八不中道の大乗の真義を強調し,破邪即顕正と称して小乗や外道を論駁しました。日本では聖徳太子以来重要な地位を占めていました。

 法相宗はヴァスヴァンドゥらの唯識論を学ぶ学派で興福寺を本拠にしていました。

 華厳宗は,『華厳経』の一切即一,一即一切の華厳哲学を強調します。法身である毘廬遮那仏と釈迦とが同一であるように,我々もまた毘廬遮那仏と同一であり,仏性を持つものとして煩悩に満ちた生がそのまま肯定されて,歓喜の内に救済されるのです。東大寺の大仏は毘廬遮那仏ですから,宇宙の本体仏を都に安置することによって,奈良を中心にした律令国家を仏の光で照らし輝かそうとしたのです。

 律宗は戒律の躬行(口で言うだけでなく,実際に行うこと)を成仏の因とする宗派です。僧になる資格として受戒(戒律を授けられる)して,それを守って実践することが大切ですが,当時日本では戒律を授けられるだけの高僧がいなくて,食い詰めて僧になり,悪行を働く者も多かったのです。そこで律宗の鑑真和上(がんじんわじょう)を唐から招き,戒壇院を設けて律を授けたのです。

 これらの宗派は教団として布教活動を行う宗派ではありません。当時の仏教は仏の力で国を護り鎮めようとするもので,僧侶はその為に仏教の教理を学ぶ必要があったのです。当時の遣唐僧が持ち帰った経典の研究が行われていたのです。

  加持祈祷の山岳仏教

 奈良時代は仏教が厚く保護されたので,寺院は強大な力を誇りました。特に広大な荘園を持つ奈良の寺院は経済的基盤もしっかりしています。高い身分の僧侶は中央の政治にも強い影響力を与えるようになり,これを排除しようとする藤原氏等の貴族勢力との軋轢が大きくなりました。桓武天皇は山城国に遷都して,仏教の影響を排除しようとしたのです。

 そこで平安初期に新たな宗派を興すのは大変困難になりました。荘園も持たず,国家の保護が無いので,自力で収入を得る必要ができます。そこで山岳に修行所を作り,修験者を養成して加持祈祷を行い,経済的基盤をつくろうとしたのです。それで最澄が比叡山に延暦寺を,空海が高野山に金剛峯寺を建立しました。

 加持祈祷を行って霊験を現すにはオカルト的な信仰が最も相応しいですね。それには法華経中心の天台宗よりも,真言密教の方がぴったりです。それで最澄も真言密教の講習会に出たりしているんです。高野山が真言密教一乗(一本)で通したのに対して,比叡山延暦寺は天台宗を名乗りながらも密教や浄土教,禅の研究など大乗仏教全体を兼学していたのは対照的です。鎌倉新仏教はいずれも延暦寺の僧が開祖になったのです。

  天台智の教え・・・五時八教

 最澄は天台智の教えに惹かれ,遣唐僧になって天台宗を学び法華一乗の思想を唱えました。その開祖天台智の教えを極く簡単に説明しておきましょう。重要なのは「五時八教」「一念三千」「三諦円融」の思想です。これらの思想は以後の中国及び日本の仏教に決定的な影響を与えたといわれています。

 五時とは釈迦の説いた教えを順番に並べたものです。沢山の経典が伝えられていますが,そのどれもが釈迦の教えをそのまま伝えた形式をとっています。ところがそれでいて内容はまるで相容れないように思われます。とても同一人物の教えとは思えないのです。しかしまさか釈迦直伝といわれているものを疑うわけにもいかず,どのように統一的に理解すべきかが非常な難問でした。

 西洋の文献学が明らかにしたことですが,実は経典は釈迦滅後五百年以上かかって様々な悟りに達した多くの仏陀たちによって書かれてきたのです。ところが彼らは自己と釈迦牟尼を同一視したので,釈迦牟尼の伝記的な体裁をとり,登場する弟子たちまでみんな同一人物になっていました。そこで相矛盾する思想がいずれも釈迦牟尼の教説になってしまったのです。

 そこで天台智は五時つまり五つの時期に釈迦の人生を分けて教説を整理したのです。彼は,釈迦が@華厳 A阿含(あごん) B方等(ほうどう) C般若 D法華の順に異なる教えを説いたとするのです。          

@華厳は一即多,多即一の純粋な大乗哲学です。これはだれにも理解できませんでした。
Aそれで次に煩悩を取り除くための四諦・八正道の実践的な阿含の教えを説いたのです。しかしこの欲望否定の 余りに倫理的な教えでは生命の喜びがありません。これでは修行者だけの悟りの哲学です。
Bそれでその次に個々人が勝手に悟ってしまう小乗の立場を否定する方等の教えを説いたとします。
Cそして更に次には大乗仏教独自の空の思想を説いたのが,般若の時期なのです。
Dそして入滅の8年前になって説かれたのが法華経だったとしたのです。『法華経』は釈迦が久遠の本仏であり,永遠の過去から未来に生まれ変わり出現して,衆生を救うと宣言します。法華経の教えによって全ての衆生が仏性に目覚め,自らの生命の歓喜を肯定できるようになるのです。大乗仏教では真の成仏から取り残されるとされた声聞(しょうもん・釈迦の教えを聞いた弟子たちで自己一身の悟りを目指した。)や縁覚(えんがく・独自の悟りに閉じ籠もって衆生済度を願わない者)も法華経で救われると「法華一乗の思想」を展開しています。そして法華経以前の教えは完全ではなく,最後に法華経で救われるようにする為の方便だったというのです。

 「八教」は教義の説き方(化儀)や教義の内容(化法)による各経典のランク付けです。先ず化儀の四教は,

@頓教(とんぎょう)−直ちに悟りに入らせる教説でして,性急で難解過ぎます。華厳がこれに当たります。
A漸教(ぜんきょう)・段階を追って悟りに入らせる教説です。阿含・方等・般若がこれです。
B不定教(ふじょうきょう)・聞き手の心構えでそれぞれ違った受け止め方をする教えです。華厳・阿含・方等・般若が含まれます。
C秘密教・不定な結果にも係わらずそれぞれ会得しますが,互いの内容は理解できません。やはり華厳・阿含・方等・般若が含まれます。

 次に化法の四教ですが,@蔵教 A通教 B別教 C円教に分類されます。

@蔵教は三蔵(経・律・論)を完備したもので,小乗の阿含経はこれを完備しています。
A通教は説教を聞く人次第でどうにでもなる教えで,声聞・縁覚・菩薩に共通するものです。方等・般若がこれにあたります。
B別教は華厳にあたります。これは全く純粋な大乗の教えですが,純粋すぎて現実的ではありません。
C円教とは円融・円満・円備にして完全なる真実教すなわち法華経のことです。華厳の理想を現実に沿ったものにしているのです。

  天台智の教え・・・一念三千

 『華厳経』では,微細世界即大世界,大世界即微細世界,少世界即多世界,多世界即少世界,一毛の孔の中で一切世界を分別し,一切世界の中で一毛の孔の性を分別するという曼陀羅的世界観が展開されていますが,天台智 はこの思想に啓発されて一念の中に三千世界があるという「一念三千」の思想を説きました。

 六道輪廻説では此の世界を地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の境涯に分けましたね。それで悟りを得て輪廻の河を越えれば彼岸の涅槃(ニルバーナ)に到ることになっていました。ところが大乗仏教では声聞・縁覚・菩薩ではそれぞれ異なった境涯に到ります。それを声聞乗・縁覚乗・菩薩乗と呼びます。この三乗の上に仏乗を加えて六道とで合計十の世界,つまり十界を考えます。この十界はそれぞれ相互に十界を宿しているというのです。っまり地獄には地獄から仏乗までがあり,反対に仏乗にも地獄から仏乗まであることになります。ですから百界がこれでできましたね。地獄の境涯に生きている者にも仏の世界は宿っていて、仏のような慈悲に満ち溢れた者にも地獄の妄執は潜んでいるというのですから、大変鋭い心理分析ですね。そしてどんな境涯にいてもその中に仏性はあるのですから.目分を信じて生きるべきだということです。
  そしてこの百の世界にそれぞれ十の性格があります。それはr相・性・体・カ・作・因・縁・果・報・本末究竟です。これで千の世界ができました。そしてまたそのそれぞれが物質面の五陰世間と,そこに生きる主体に即した衆生世間と,環境面の国土世間の三世間の面を持っているというのです。こうして人間はその時,その場の実存主義的に言えぱ,現に今ここに有る一念の中に三千世界を宿しているのです。

  天台智の教え・・・三諦円融

 「諦」は真理という意味です。四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)というのがありましたね。天台智の「三諦」は空諦・仮諦(けたい)・中諦です。

 空諦は般若の教えに則り,全ての存在するものを無常で空しいと観ずることです。この真理によって欲望への執着つまり渇愛を脱却できるのです。しかしこれに止まっては消極的なニヒリズム,小乗の立場で終わってしまいます。

 いったん否定された存在を,仮のものとして肯定することを仮諦というのです。空諦の真理だって,存在するものが仮のものであり,空しく滅び去るから感得されるのです。ということはこの仮の存在こそ,法の現れであって,仏性を示している尊き愛しき存在だということです。しかしこの仮諦に固執しますと,存在するものの空しさを忘れて渇愛から脱却できなくなります。華厳の教えは仮諦に止まって現実存在の全面肯定になってしまったと批判されているのです。

 そこで空諦と仮諦が相互に否定し合い,全てのものを空として否定しつつ,仮として肯定する,この中に中諦が有るのです。その上で空諦の中に仮諦・中諦を含み,仮諦の中に空諦と中諦を含み,中諦の中に空諦と仮諦を含んで,三種の真理が渾然一体となっている状態が「三諦円融」なのです。

 このような否定を介した存在への慈しみが,日本思想の中で仏教的無常観に基づく「物の哀れを知る心」として,主情主義的な心情を育む宗教的背景になっていると思われます。本居宣長は仏教伝来以前に「物の哀れを知る心」の形成を求めていますが,『源氏物語』などの歌・物語や中世・近世の美意識の形成には仏教的無常観の深い影響を見逃すことはできません。

  一向大乗戒壇設立請願

  最澄(767年〜 822年) は天台教学を忠実に日本に伝えました。その意味では独自性はありませんが, 法華一乗の思想を強調しました。声聞は声聞なりの悟り,縁覚は縁覚なりの悟りがあって,菩薩による悟りとは違うとして,声聞・縁覚には決して真の成仏はできないという法相宗を批判し,みんないつかは法華経を知って,真の成仏ができるようになると主張したのです。

 ただし法華経一点張りになる日蓮宗とは違い,天台宗は本場の中国でも密教や禅や律を学ぶ総合的な宗派でした。密教から見事に様式化された儀式の体系と修行法を学び,禅から思索を練る修行を学び,律から戒律のありかたを学ぶ必要があったのです。最澄も兼学に熱心で特に密教には深い関心を示しました。

 彼は僧になる儀式を行う戒壇で, 未だに小乗仏教から伝えられた 250戒律が使われていることが納得いかなかったのです。小乗仏教の戒律は煩瑣で形式的なもので, 決して真の内面的な仏性の自覚の下にたつものではなかったのです。だってインドで作られた戒律にはインドの風土や慣習の中では意義深いものであっても,いったんインドを離れると全く意味を持たないものも多かったでしょうから。

 小乗仏教では3人の清浄持戒僧が戒を授け,それを7人の清浄持律僧が証明するしきたりでした。ところが最澄の構想した大乗戒は,釈迦牟尼仏,文殊師利菩薩,弥勒菩薩に戒を授けてもらうのです。つまり仏の前で戒を守って僧になることを誓うのです。そして伝戒の師は一人でいいとします。もし伝戒の師がいなければ,たった一人で仏の前で自誓受戒せよとあります。つまり僧職の中で階位を登っていく第一段階としての儀式ではなく,真に主体的で精神的な仏への誓いとして大乗戒を確立しようとしたのです。これは南都の僧たちの反対で生前は実現しませんでしたが,死後許可されました。

 最澄は特権にあぐらをかき,小乗的な儀式に固執する南都の僧と激しく論争して次のように自負しています。「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり,道心あるの人を名づけて国宝となす。故に故人曰く,径寸十枚,これ国宝にあらず,一隅を照す,此れ則ち国宝なり。」

             空海の真言密教

 空海(774835)は貴族としての栄達を願う佐伯一族の期待を背負って,儒学に励みましたが,藤原氏以外は出世できない現実に反発し,かといって故郷にも帰れず,進退極まって僧になることを考えたようです。24歳で書いたといわれる『三教指帰』で空海は,儒教・仏教・老荘思想が結局同一の真理を説いていて, しかも仏教が最も優れていることを論証しました。そうして仏門に入り行者として厳しい修行をし,多くの経の中から真の仏教を探しました。その中で『大日経』に出合い, 真理らしいものを掴んだ気がして,それを深めようと入唐を決意しました。

  当時の唐での真言密教の権威であった恵果から直接法を伝えられ,20年の留学期間を1年余りに短縮して帰国し,真言密教を伝えたのです。彼は最先端の仏教を伝えたのです。つまり久遠の本仏を説く天台宗は中国ではもう古く,その後に釈迦の本身であるが同時に釈迦を越えている法身仏である「毘廬遮那仏」を崇拝する華厳宗が栄えました。 空海は、華厳経で説く「毘廬遮那仏」を「大日如来」という法身仏とし、壮大な曼荼羅の中に釈迦さえも共におき、また、輪廻転生を乗り越えるが如く即身成仏の秘法を説くインド伝来の真言密教の正統派伝授者となりました。

 そこで『十住心論』で空海は,思想のレベルを低いものから順に並べます。まず性欲と食欲のみで生きる異生羝羊心から始めます。そして生の欲望を否定する儒教,老荘そして声聞,縁覚,法相,三論と続いた後に,天台を第八住心,華厳を第九住心に置きます。これら欲望の否定に偏した立場を脱却し,大日如来の現れに他ならない大いなる生命と欲望を肯定する密教を第十住心に置いて,天台宗の「五時八教」説を批判したのです。

  大日如来に照らされて

    仏教的無常観では全ての事象には実体がなく,一切皆空だとします。その場合空は否定の原理として捉えられがちですが,色即是空に続き空即是色とされた時,空は仏性として全ての存在を肯定の光で照らす原理になるのです。この空の形而上学的実体化が毘廬遮那仏だと言えましょう。さらにこれを全ての存在を生み出し,全ての存在として自己を顕示する主体として捉え返したのが大日如来です。大日如来は金剛界と胎蔵界から成り,金剛界には無量最上の智恵を宿し,胎蔵界にはそれらを事象として発出する全ての種子を宿しているのです。

 大日如来は身(身体)と語(ことば)と意(心)を持っています。森羅万象は大日如来の現れですから,全ての山河草木,花月風鳥はみんな身・語・意を持っているのです。そこでこの身のままで仏になる即身成仏は,手に印契を結び,口に真言を誦し,心に本尊を観ずることによって可能だということになります。このように大日如来を真似れば大日如来に成れるというのはオカルト信仰の典型ですね。加持祈祷には梵語を唱えて,印契を結び何やら念じている姿は,いかにも霊験あらたかな気持のするものでうってつけです。

 空海は世界を六大(6つの原理)からできているとしました。質料的な四大(地・水・火・風)に空大と識大を加えた六大です。世界は質料的には色即ち四元の混合であると共に,法としては空の働きであり,またそれらの顕現としては識の諸相でもあると捉えたのです。かくして龍樹の空の立場,世親の唯識の立場を密教に包摂したのです。こうして宇宙の絶対的統一原理である大日如来は,自らその原理を衆生に示す応化身である釈迦として顕現したり,それぞれの現象を司る諸神となって力を示したりもできるのです。

 このような密教の教説に影響されて,仏が本地(本体)で,神が垂迹(現れ)であるという本地垂迹説が平安末期から盛んになりました。これは神社を守る神宮寺,寺を守る僧形八幡神像などの神仏習合の風習を盛んにしたのです。神仏習合の風習は超越神による絶対的統一原理に固執する欧米の原理からは,随分一貫性のない粗雑な信仰のように思われがちです。でも六道輪廻の天は神々の境涯にあたります。ですから,神々が仏に帰依し,仏教を守るのはインド仏教にも見られる傾向なのです。ただし天人である神は不死ではなく何万年かで寿命が尽きることになっています。

            ●「中世の思想」に進む   ●「日本思想史の概観」に戻る

    ●目次に戻る