第二章  中世の思想

1 浄土教の流行

末法思想 

期間
正法 500年間
像法 1千年間 ×
末法 1万年間 × ×

 『大集月蔵経』では釈迦入滅後約 500年間は正法で, 教えが伝えられ, 修行をやり遂げ, 悟りに達する者が出ますが, その後千年間は像法で,もはや悟りに達する者はいなくなります。そしてついに末法になれば,釈迦の教えだけは経の形で残ってはいても, だれも修行をやり遂げることすらできなくなるというのです。中国では 551年に末法が到来するとされました。末法では自力で救われることは出来ず,ただ阿弥陀仏の助けによってのみ救われるという浄土教が,6世紀以降,曇鸞(どんらん),道綽(どうしゃく),善導(ぜんどう)らによって広められたのです。

 日本では平安末期の1052年(永承7年)より末法に入るという説が唱えられ,浄土教の信仰が盛んになったのです。浄土教を痛烈に批判した日蓮によれば,源信,永観(ようかん),法然によって日本人のそれぞれ3分の1ずつが念仏に帰したということです。 

恵心僧都源信『往生要集』

   源信(942 1017) の『往生要集』は,六道輪廻の世界を苦の世界とし,阿弥陀仏のおられる極楽浄土に行く為に念仏を勧めています。特に『往生要集』は地獄の描写が生々しいので,地獄に堕ちる恐怖心が人々を捉え, 熱心に念仏を唱えるようになったと言われています。

 六道は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天がありましたね。源信によれば,地獄には八つあります。等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄があるのです。梅原猛は名著『地獄の思想』で次の二つを選んで紹介しています。

 一つは邪淫の罪を犯した者が落ちる衆合地獄です。そこには刃葉林という林があって男が木の上を見ると愛しい女がいる。必死で木を攀じ登りますが,葉が刃になっていて男の肉を切り裂きます。木に登ったと思ったら女は下にいて「早く抱いて」と呼び掛けます。無我夢中で降りようとしますが,刃の葉にまた切り裂かれるのです。男はこれを無量百千万億年繰り返えすのです。

 次は焦熱地獄の中の分荼離迦(ぶんだりか)です。焦熱地獄で苦しんでいますと「早くこっちへこい,ここには蓮の池がある,水も木陰もあるぞ」と誘う声がするのです。いくたびか火の燃え盛る穴におちて,さんざん苦しんだ挙げ句に,やっと辿り着きますが,そこはまさに大火災の場所でして,猛火に焼かれて死にますが,すぐ生き返ってまた焼かれるのです。これが何億年か続きます。実はこれは実現できない未来国を説いて,自己と他人を惑わした者が落ち込むのです。ということは仏国土の建設を説く法華経の行者や,社会変革を説く革命家たちも分荼離迦(蓮)行きなのでしょうか。

 地獄の次は餓鬼道です。欲望が満たされない不満が嵩じて,飢餓に陥った者の境涯です。欲望に執着すればするほどかえって満たされないものです。それはますます永久の飢餓に駆り立てるのです。その空を悟って,脱却しなければ救われないと分かっていてもどうしようもないのが,無明なのです。

 次に理性に欠けた畜生の境涯です。愚かで不安で暗い境涯です。仲良く共生し合うことができず,傷つけ合い殺し合わなければなりません。動物たちはこの境涯に苦しんでいるわけですが,人間も餓鬼や畜生の境涯を生きなければならないことは,天台宗の十界互具の思想で示されています。

 阿修羅は怒りに捕らわれた境涯です。娘を帝釈天(たいしゃくてん)に嫁がせようとしますが,かえってカずくで奪われたので,誇りを傷つけられた阿修羅は,とても叶わない帝釈天に絶望的な戦いを挑み続けるのです。怒りに捕われても自分を不幸にするばかりなのに、怒りから離れられないのは、おそらく自分の存在を世界や他人が正当に認知してくれないからです。自分だけで自分を評価しても存在の手応えは得られませんから。

 次の人間は不浄・苦・無常の相で捉えます。汚く苦しくはかない人生から早く離れて、浄く、楽しい永遠の世界をあこがれ求めるよう源信は勧めるのです。それを厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)と言います。

 六道で最上の世界は天です。それは快楽に満ち満ちた世界です。寿命も何万年もあります。でも何万年の時も過ぎてみれぱうたかたの夢のようで,快楽が強かった分だけ、そこから離れる苦しみも大きいのです。栄華を極めた者ほど衰えの辛さはひとしおなのを「天人の五衰」と言います。藤原道長は「この世をぱわが世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」と天下を謳歌しましたが,老いが迫るにつれ死で全てが失われるのを恐れ,阿弥陀浄土を模した庭園をつくり,阿弥陀仏に念仏三昧の日
々を送ったと伝えられています。だから天もまた苦の世界なのです。

 それに対し阿弥陀仏のおられる極楽浄土は喜びと楽しみに満ちた浄い世界です。どうしたら極楽浄土に行けるのでしょうか。未法の人間は煩悩に囚われ。罪に陥って
いますから,普通なら地獄行は避けられません。でも阿弥陀仏は衆生済度の願(弥陀の本願)をかけておられますから,ひたすら願えぱ浄土に招いて下さるのです。

 源信は、六道を豊かなイマジ*一ションで生き生きと描き出しましたが、その方法で阿弥陀浄土を恩い浮かぺれぱいいのです。心がいつも阿弥陀浄土にあるようにする
ことで,浄土に招かれることができるのです。でも一挙に浄土全体を恩い浮かべるのは無理でしょうから,まず阿弥陀仏に意識を集中します。それも無理なら、仏の眉間の白毫(ぴゃくごう)に心を集中するのです。それから広げていけぱよろしい。この方法が観想念仏です。道長らの寝殿造りの庭園や建築こそ、その極致なのです。

 

2鎌倉新仏教

信心に生きる民衆

 浄土教の流行によって姶めて仏教が民衆の心を捉え、生きる最大の支えとなったのです。難しい哲理など一切分からなくても、一心に念仏や唱題を唱えるだけで救われるというのですから,この世の生活の厳しさに耐えかねていた民衆に歓迎されたのです。そこで民衆の心に浸透した鎌倉新仏教には次の四つの共通点がみられます。

@易行一行選択一民衆の信仰ですから信仰もできるだけ単純で簡単なものが好まれます。浄土教では「南無阿弥陀仏」と仏の名前を唱えるだけでよく、法華宗でも「南無妙法蓮華経」と法華経の題目を唱えるだけでよいのです。武土階級に支持された禅宗もただひたすら坐禅をする只管打坐(しかんたざ)が求められただけです。しかもそれらを兼ねることは禁じられました。ただ一つだけ主体的に選択して行えぱよいのです。
A信心為本ー肝心なことは信心が本物かどうかです。外形的な修行の長さや中身よりも、どれだけ全身全霊で信仰しているかが肝心なのです。
B真俗一如ーそこで信心が全ての基準になりますから,出家しているか在家であるかの差別は超越していました。
C絶対平等思想ー法然は遊女に罪に苦しむ人間ほど阿弥陀仏の加護があると諭しましたが,貴賎男女を問わずに,全ての人間を絶対平等に救うという立場は共通しています。

 聖道門と浄土門

 法然(1133〜1212)は13歳で比叡山に入り、18歳で黒谷の叡空に入門,24歳で山を降りて京や南都で諸宗を学び,『知恵策一の法然房」と呼ぱれました。しかし煩悩に悩jまされ,再び黒谷に籠もって経典を読み漁り.ついに43歳の時に善導の『観経疏』で開眼して,専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰依しました。

 つまり彼は長い仏道修行の末に、「戒(戒律)を守れず、定(精神を統一すること)もできず、解脱のための慧(智慧)も得ることができない」自分に気づき.自力で悟りを開く「聖道門」は自分にはとても実践できないと考えました。時は末法であり,いかに優れていても『聖道門』による悟りは末法では無理だと言います。そこで純粋な慈悲の権化である阿弥陀仏によって救われる他力本願の「浄土門」によるしか,救済されないと悟ったのです。

『観無量寿経」の世界   


 法然の専修念仏は、称名念仏です。つまり「南無阿弥陀仏」と繰り返し繰り返し唱えれぱよい。それ以の修行は要らないというもので,それを善導の『観経疏』から学んだということになっています。しかし善導は『観経疏』で果たして,称名念仏だけでよいとしているでしょうか。かなり法然の思い込みがあるようです。

 元々『観経』は『観無量寿経』のことでして,そこには仏経典最大の運命劇「阿闍世王物語』が書かれています。阿闍世王は仙人の生まれ変わりですが,予言で仙人が王子に生れ変わると知って,卑く子僕が欲しかったので,王は仙人が死ぬのが待てずに殺してしまったのです。しかし王子は未生怨(生まれる前からの怨み)を抱いて生まれてきます。これはヤバイと王は考え、塔の上で子を生ませて殺そうとしますが,小指を折っただけでした。大人になってから釈迦のライバル,ダイバダッタからその話を聞いた阿闍世は父王を幽閉し,食を絶って殺そうとしますが,母の韋提希(イダイケ)夫人が密かに食を与えていたのです。それを知った阿闍世は母も殺そうとしました。しかし臣下に父殺しはかってあったが、母殺しはなかったと諫言され,母を幽閉します。

 韋提希夫人はこの世をはかなんで,未来の世界を望みます。その願いを釈迦が叶えて清浄な極楽世界を見せてくれるのです。そして釈迦は極楽浄土に行く方法を教え
ます。瞑想によって、極楽世界を日・水・地・宝樹・宝池・宝楼・華座・三尊像・真身(阿弥陀仏の体)・観音・勢至と思い浮かべ、最後に自分がそこに居ると思うので
す。しかしこれは大変だから,極楽の池の水に阿弥陀仏が居るのを恩い浮かべれぱよいとされます。このように瞑想によるのを定善観(じょうぜんかん)と呼びます。

 しかし瞑想の苦手な人はどうすれぱ良いのでしょう。それは散善といって善を積めばよいのです。その人の徳に応じた九つの階位があり,それぞれにそれに相応しい
極楽浄土が用意されています。

  じゃあ悪いことばかりした悪人は極楽浄土へ行けないのでしようか。いや大丈先そういう者でも死の間際に「南無阿弥陀仏」と御名を称えれば「阿弥陀仏」は救ってくださるのです。これが「悪人成仏」の信仰です。

 善導の『観経疏』では,彼自身が夢で阿弥陀仏や極楽浄土をみた体験が語られています。「南無阿弥陀仏」を何万遍も唱えて寝ると阿弥陀仏や極楽浄土が夢にあらわれるのです。これを善導は極楽浄土の証と考えたようです。これも観想念仏に含まれますから、善導が称名念仏だげの専修念仏を説いたわけではありません。

法然の専修称名念仏

 法然は善導が称名念仏だけの専修念仏を説いたと誤解したわけですが,それがかえって民衆には受けたわけです。善導も自分の内心の悪を見据えて、下の下のまだ下
の悪人に自己を同一視しながらも、やはり観想念仏に励んでいたわけです。その意味では菩薩の中の悪人だったと言えるかもしれません。

 法然は『選択本願念仏集』で、称名念仏だけの専修念仏を説くことによって、自己を最下位の悪人に落として、その称名念仏を唯一の行として選択したのです。

『観無量寿経』の世界では、悪人は、悪人に分相応の最低の極楽へ招かれる筈です。しかし法然は『観経』を悪人成仏のための経と思い込み,韋提希夫人のことも罪業に悩む凡夫と捉えていましたから,むしろ阿弥陀仏の極楽浄土は悪人の為にこそあると思われたのです。それで遊女に「弥陀はそのような罪人の為にこそ弘誓(ぐせい)の願を立てたのだ。ただ深く本願をたのんで、あえて卑下することはない」と諭したのです。
 また法然は遺言にあたる『一枚起請文』で、たとえ万巻の経を読んでいても,何も学問のない愚か者になってただひたすら念仏を称えるように愛弟子に言い残したの
です。つまり法然は徹底的に罪人、愚者など犬衆の立場に降りることによって。金ての民衆を包み込む南無阿弥陀仏の大合唱を演出することに成功したのです。それは
きっと阿弥陀浄土以上の法悦を民衆と共に法然に与えたことでしょう。

念仏為本から信心為本へ


 親鸞(1173〜1262)は、法然の他力本願の立場を徹底して、「絶対他力信仰」を強く打ち出しました。自カの要素を徹底的に排除しますと,念仏を称えることすら往生
をもたらす業ではないことになります。絶対他力なら極楽往生するのは一切阿弥陀仏の計らいであり,念仏も自力ではなく,阿弥陀仏の力によってなのです。つまり阿弥陀仏に救われた喜ぴが,恩わず「南無阿弥陀仏」と称えさせるのです。これを「非行非善の念仏」「報恩感謝の念仏」と呼びます。

 そこで念仏は往生の原因ではなく,むしろ結果だということになり,念仏を以て本となす「念仏為本」から,阿弥陀仏の慈悲で救われることを信じる「信心為本」の立場に進んだのです。

肉食妻帯の肯定

 僧侶は煩悩から脱却し,身を清浄に保つ為に「肉食妻帯」をしないことになっていました。肉食は別にして、親鷲は妻帯の禁を破ってしまいます。聖徳太子の化身である六角堂の救世観音は,親鸞の夢に出てきて法然への第子入りを勧めましたが、建仁3年(1203年)再び夢のお告げで次のように告げましたo

「行者宿報設女犯 ,我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(行者よ,お前が前世からの報いで女なしではいられないなら、私が玉のような女に成って、犯されてあげよ
う。そして一生の間お前の人生を荘厳(立派に美しく飾ること)し、臨終には極楽に導いてあげよう。」

 親鸞は夢のお告げということで、妻帯を観音菩薩の意志として正当化し,肯定している1わけです。僧たるもの色や欲に惑わされてはならず、妻帯などはもっての他の事なのです。少なくともそれまでの建前では。でも親鸞の前の師匠だった慈円も,建前では妻帯まではしないものの,恋歌の名手として知られていました。おそらく色恋の経験も豊富だったのでしょう。でも肉食妻帯を慎むという僧侶の体面が無くなったら,僧侶は権威も信用も無くしてしまうと心配していたのです。

 親鸞は素直に色欲を認め,その煩悩から離れられない自分に正直でした。女を抱かないでは念仏に身が入らない。念仏修行の為にも女を抱くぺきだと思ったのです。それに陰で破戒行為をしているくせに,表面はいかにも煩悩に囚われていないかに取り繕っている僧侶の偽善が我慢できなかったのです。
 善導も法然も自己の内繭の煩悩を見鋸え,そこに貧りの心、瞋りの心、邪の心、偽りの心,人を陥れようとする奸詐の心を見つけ、自力作善による成仏を諦め,ひたすら念仏による往生を願ったのです。でも彼らも一応僧侶でした。いやむしろとても真面目で熱心な僧侶だったのです。心でどんなに煩悩に苦しんでいても、行いでは善を積もうと努力していたのです。そして僧侶としてのけじめを守って妻帯などはしませんでした。親鸞は妻帯という破戒を通して,僧侶と俗人の垣根を取り払い,在家信者と全く同じ立場に立って、民衆と共に往生しようとしたのです。

     悪人正機説


 「善人なほもて往生とぐ、いはんや悪人においておや」と親鸞は悪人正機説を説いたと、弟子の唯円著『歎異抄』にあります。阿弥陀如来は生きとし生けるものの全てを救いたいと.「衆生済度」の「弥陀の本願」を立てられたのですから、善人でももちろん救済されますが、それなら悪人が往生できない筈はないという意味です。

 どちらかというと悪人の方を阿弥陀仏は救いたいとより強く願われているのです。それは善人は自分が善を積み、悪を退けていると考えているので、阿弥陀仏に頼む気持がそれほど切実ではないのに対して、悪人は自分の罪業の深さを自覚し、阿弥陀仏によらなはれぱ救われないことをじゅうじゅう承知して切実に阿弥陀仏の救いを求めているからです。

 『観無量寿経』では最後に全く善を積まなかった悪人でも、「南無阿弥陀仏」を称えれぱ救われるとして,悪人成仏を最後に置いていました。ところが親鸞は悪人を救済の最優先においたのです。それは阿弥陀仏に対する信仰の強さ切実さで、悪人の方が善人よりも優っているからでした。これは道徳からの宗教の自立、宗教的原理の純化です。もちろんイローニッシュ(皮肉的)に見れば、善人ぷっている人は内心の悪性を隠して、表面を取り繕う欺瞞に陥っているから、本当は自分の悪性を正直に見据えるる悪人よりもまだ悪いんだという告発が籠められています。

 「悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに、虚仮(こけ)の行となづけたる。」これは善導の文章を和讃に親鸞が訳したものですが,善を取り繕う自分の心には蛇やサソリのごとく黒々と情欲がとぐろを巻いて、本性の悪が隠れているので、どうせ一時的な偽善に過きず,その内本性を現すものだという意味です。

 それに自分が善人だと思っている人は、自分が善だと考えていることを実現する為だと理由を付けて,どんな悪いことだってやってしまうものです。逆に自分が悪人だと自覚していれぱ、目的によってし自分の悪行を聖化しているのではないかと常に反省しますから、手段の選択も慎重です。

 こころの闇の深さを見据えれば見据える程、その対極の光を求める心が切実になり、阿弥陀仏への信仰が深まります。悪人としての自覚が強いほど、救済の喜ぴもひとしおですから、その招かれる浄土も真仏土なのです。『観無量寿経』や『阿弥陀経』で説かれる浄土は,親鸞によれぱ、瞑想による観想念仏や散善による往生を説くという限界があります。それで行ける極楽は、大きな喜ぴに欠けているので、極楽でも辺地でしかないというのです。

自然法爾

 あるがままに法に包まれている境涯を親鸞は「自然法爾(じねんほうに)」と呼びました。もちろん親鸞は死後の極楽往生を信じていたでしょうが、だれも死後、極楽浄土に行って、また娑婆に舞い戻った者はいませんから、死後の極楽往生は絶対確実な実証された事実ではありませんね。信仰の教条に過ぎないのです。

 もし死後の極楽浄土が単なるフィクションだったとしても、阿弥陀仏の慈悲に全てを任せて、「南無阿弥陀仏」の6文字に生き致くことで、死後ではなく、この六道輪廻の苦しみの世界、生き地獄の中で、御仏の慈悲に包まれた法悦の絶頂を体験できるのです。この大いなる喜ぴの心「大慶喜心(だいきょうきしん)=信楽(しんぎょう)」を得た境涯が「自然法爾jに他ならないのです。

 あるいは親鸞は「自然法爾」の体験自体を極楽往生の体験と同一視していたのかもしれ凄せん。信楽を極楽往生の保証と考え、信楽の境地を「等正覚くとうしょうがく>』という弥勒(みろく)と等しい境地だとしているのですから。

 この境涯ではもはや過去に対する悔恨や未来に対する不安など消えて、ただ時閥空閥を超越した「永遠の今」に生きる喜びの感情で満たされています。この境地こそが輪廻の川の彼岸であるニルバーナ(涅槃)なのです。

人々皆仏法の器なり

 中国では8世紀から華厳と密教と禅が流行しまレた。華厳や密教では法身仏である毘盧遮那仏や大日如来が世界を照らし、世界に顕現しています。世界は法の現れであり、我々も本来は法身仏なんですが、そのことを悟ることができないで、生死にとらわれ、煩悩に苦しんでいるわけです。しかし我々が本来仏の現れとして生きているとすれば、欲望に生き、煩悩に生きる事自体の中に永遠不滅な「常楽我浄(じょうらくがじょう)ー常に楽しく、滅びることのない清らかな境地)」がある筈ですo

 禅は、華厳や密教のように法身仏から衆生を聖化するのではありません。逆に我々が本当に法身仏の顕現だというのなら、我々自身から主体的に自己自身の仏性に迫ることができる筈だと考えたのです。つまり人間は煩悩に囚われているから、自力で悟りに達するなどできっこないというペシミズムを捨てて、法身仏の顕現なら必ず悟ることかできるとオプティミズムに立ったのです。それで法の為に身を捨てて(為法捨身)修行するのが禅なのです。 悟るも悟らないも、法の為に全てを投げ出す覚悟が有るかどうかにかかっているのです。

 禅は一見、自己修養によって悟りを得る点で、小乗仏教に似ていますが,一切衆生悉有仏性という大乗の信仰を踏まえて,それを身をもって実証することで,衆生を納得させ救済する菩薩道の実践ですから、やはり大乗仏教に含まれるのです。

 日本に臨済宗を伝えた栄西(1141〜1215)は『興禅護国論』で「大鈍小智の類といへども、もし専念に坐禅せば、すなわち必ず道を得ん」と馬鹿でも悟れるとしています。また曹洞宗を伝えた道元(1200〜1253)も「人々皆仏法の器なり。かならず非器なりと思うことなかれ、依行(修行)せば必ず証をうべきになり」と教えられたと、弟子懐奘著『正法眼蔵随聞記』に伝えられています。これは人間が仏であることを自らの修行によって体現すぺきだというヒューマニズム宣言です。

他力本願=自己疎外の超克

 阿弥陀仏信仰は、全く自己を悪の極点に置くことによって、対極である善の極点の阿弥陀仏からの磁力が極大になり、救い取られるという構図ですね。まるでマゾのように自分の悪、自分の地獄ばかり見つめるわけです。

 しかし本当に自己が悪てしかないのなら、悪は善を求めない筈ですし、悪であることに苦しむこともなく、阿弥陀の救いももとめないでしょう。阿弥陀仏が生死の苦しみを離れられず、煩悩に苦しむ衆生を救うことができるのは、衆生が善根を宿し、根源において仏であるという本性をもっているからに他ならないのです。この「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教共通の理念に立てぱ、仏性を自己の対極に置く立場は、自らの仏性に対する冒瀆ということになりますo

 むしろ阿弥陀仏は人間が自らの内にある善根、仏性を煩悩の苦しみによって見失い、自己の外に理想として対象化し、実体化したものに他ならないのです。ですから法に包まれる「自然法爾」は、衆生が自らの中に阿弥陀仏を取り戻し、阿弥陀仏と一つになることです。この境涯こそが涅槃に他な:らないのです。

 フォイエルバッハは、超越神信仰を人間の類的本質の自己疎外として批判し、人間の類的本質自体を神とする「人間教」の立場を打ち出しました。フォイエルバッハのキリスト教批判と、禅宗の他力信仰批判は自己疎外の論理に於いて共通しているのです。

 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。」と道元は『正法眼蔵』で説いています。

              只菅打坐・身心脱落・修証一等

  ただし禅宗には密教で見られたような、赤裸々な欲望肯定の「煩悩即菩提」の傾向は見られません。むしろ徹底した自己修養によって無我の真理を悟り、有無へのこだわりを捨てて、ダルマ(法)と一体化することを目指しています。

 それでは法と一体他するにはどうすればよいのでしょう。先程の『正法眼蔵』に「仏道をならふといふは、自己を忘するなり。自己を忘するといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり」と説かれています。この自己を忘れる方法としては、仏陀に習って樹の下で瞑想すること,つまり坐禅が最適だというのです。
 その場合大切なことは、仏に成るる為に坐禅しては駄目だということです。坐禅という修行の到達点に仏の境涯があるのではないのです。ただひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」自体が仏の境涯なのです。

 何故なら只管打坐していると、自己をわすれ、身も心も脱け落ちて、主観・客観が未分化になり、法と一体化した境地になっているからです。そこで只管打坐という修行がそのまま仏であるという証(あかし)なのです。

無にして有にして変易なり

  『涅槃経』に「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」という言葉があります。「一切の衆生はことごとく仏であるという本性が有る。如来は常におられて、変易(へんやくー変わること)することはない」という意味です。ところが道元はこれを「一切は衆生であり、悉有は仏性である。如来は常住にして、無にして有にして、変易なり」と読んだのです。

 一切の存在は生きとし生ける者としで衆生です。全ての存在は仏の現れであり,仏性なのです。如来(法身仏)は常に存在するものであり、従って無(無仏性)であり、有(有仏性)であり、変易(無常仏性)なのです。

 密教のように日如来から出発して衆生を照らしてしまいますと、煩悩即菩提となり修行が不要になってしまいます。人間は現実の煩悩から出発し、何者も滅ぴないものはないという無常観から出発するのです。つまり永遠なる仏性などないという無仏性から出発して発心するのです。

 ただひたすらの坐禅によって身心脱落を体験し、万物と一体になった忘.我の境地に入ります。そこに本源の世界が現れ、仏性が感得されるのです。これが有仏性です。しかし道元の仏性は、形而上学的な永遠不滅の実体ではなくて、無常仏性だと言うのです。永遠不滅を無限の長時間という意味にとるのではなく、無常のはかない有限な個々の衆生の生死の中に到来する不可思議な体験の中に見出されるのが無常仏性なのです。「生死すなわち涅槃」の体験です。この時を「時節到来の時」「公案現成の時」「身心脱落の時」と道元は呼んだのです。まさしく「永遠の今」ですね。

                  禅と日本文化

 栄西が『喫茶養生記』を著しましたように、禅宗によって喫茶や生け花の慣習が生まれます。それが臨済宗では坐禅だけでなく、掃除,洗濯、料理、生け花、喫茶などすべての立ち居振る舞いにおいて、仏性を現すべきだという禅の実践として捉えられますから、そこに洗練された美的世界が結晶します。それは全く華美やてらいなど余計なものは一切ない、簡素な 合理性に貫かれていますが、心静かに宇宙の摂理と融合できるような落ち着いた世界を造り出しています。その中にいますと身も心も洗われて、すぺての患いや悩みを忘れ、我執が消え去って、清浄な気持ちになれる気がするものです。

 元からは為法捨身の悲槍な決意の下に、只管打坐によって身心を脱落させる大上段の構えがうかがえますが、それでは力が入り過ぎて、修行を楽しむことができませんね。日常の立居振舞や身近な事物に仏性を見出す 喜ぴにカタルシスを求める生き方の方が,我々も親しみを感じ共感しやすいように思えますね。五山の文化が,行儀作法や茶道・華道・水墨画などを通して、日本文化を創造してきたことを思いますと、日本人の心性に与えた禅宗の影響の大きさが分かります。

  題目「南無妙法蓮華経」

  日蓮(122282) は二十歳で比叡山に入り天台教学を学び,すっかり法華一乗の思想に心酔し,法華経中心の信仰を守り布教しようと決意しました。当時は源信・永観・法然によって,日本国中が浄土教に洗脳されてしまっているように日蓮には思えたのです。

 特に法然は『浄土三部経』を『法華経』よりも優れて長く残る経典だと『法華経』を誹謗しているので,絶対に許せないと思ったのです。正法を讒謗する者は「無間地獄(絶えず鬼に苦しめられる最悪の地獄)」に堕るとしました。

 法然は今は末法だから『法華経』を読むなどの難行は無理である。だから「南無阿弥陀仏」と唱える専修念仏が,もっとも正しい信仰だと主張したのです。確かに『法華経』の説く真理は難解だと『法華経』にも書いてあります。でも『法華経』の功徳は絶大ですから,『法華経』を読めない人でも『法華経』で救われる筈だと,日蓮は考えたのです。そこで易行の『法華経』信仰を「南無妙法蓮華経」と題目を捉える称題だとしました。

 天台智の五時八教説では法華経は円教であり,法華経以前の経典はすべて法華経に導く為の方便ですから,法華経さえ読めば一切経を読むのと変わらない功徳があります。すべての仏はこの法華経の久遠実成の釈尊の分身に過ぎないのです。ですから「南無妙法蓮華経」という7文字の唱題にこそ,一切の経と仏,言い換えれば宇宙の真実が全て籠められているということなのです。これが一念三千の思想の日蓮的応用です。この唱題を繰り返すだけで,宇宙の巨大な生命力と一体化できるということになります。

 末法の時代で難行が無理だというのなら,「南無阿弥陀仏」と唱えて肝心の法華経を忘れさせるよりも,常に法華経という真実を繰り返す「南無妙法蓮華経」の唱題が易行として適切だというのです。こうしてたとえ中身は全く理解できなくても「南無妙法蓮華経」を繰り返す信心の連呼が,信仰の中心を占めることになりました。仏教の日本化の典型ですね。日本化というのは難解な儒教や仏教の教理を,単純な心情の純粋性に還元して捉える傾向を指します。

  立正安国論

  法華経を無視する連中を謗法者(ほうぼうしゃ)として退治し,正法による仏国土の建設に努力しなければ,七難が起こると法華経にあります。既に1258年頃天変地異が起こり五難まで到来してしまったのです。残りの二難は, 他国による侵略と,自国の内乱です。

これも遠からず起こるだろうと日蓮は『立正安国論』で予言したのです。そして彼の予言どおり蒙古の使者が来朝して,朝貢を迫ったのです。日蓮は正法の謗法者を放置しているせいだと,幕府の要人や代表的寺院に手紙を書いて,諸宗を禁止して,日蓮に帰依するように迫り,諸宗との対決を宣言したのです。その結果日蓮は佐渡に流罪になりました。鎌倉の建長寺の宋の禅僧蘭渓道隆には,あの有名な「四箇の格言」を書き送っています。「

 「念仏は無間地獄の業,禅宗は天魔の所為,真言は亡国の悪法,律宗は国賊の妄説」と断定しているのです。 

  法華経の行者

  『法華経』には法華経のみが正法だといって,その真実を広げようとする「法華経の行者」は,必ず法難(法を広めることによる迫害)に遭うと予言されているんです。佐渡の流罪はまさしく日蓮こそがその法華経の行者であったことを実証したわけです。ですからこの法難はむしろ自分の信仰の正しさを証明する素晴らしい出来事だったのです。

 日蓮は,流罪の途中,常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)について語ります。その菩薩は悪い比丘たちにいじめられる度に,その比丘たちを礼拝して「われあえて汝等を軽しめず,汝等皆まさに仏となるべきが故なり」と言ったのです。これはバイブルの「汝の敵を愛し,汝を迫害する者の為に祈れ」という態度と共鳴しますね。ただし大乗仏教ではキリスト教のように救われる人と救われない人を分けるのではなく,すべて救われるとするところが違います。ところが法華経によって全ての人が救われるのですから,法華経を広げることを邪魔する勢力は徹底的に除去すべきだということになります。

  二乗作仏の思想

   日蓮著『開目抄』では法華経の思想的特徴を「二乗作仏の思想」と「久遠実成の思想」に求めています。大乗仏教は,釈迦の教えを直接聞いた弟子たちである声聞とひとりさとった縁覚たちが,山に籠もって悟りに耽っている態度を小乗だと糾弾しました。『維摩経』では,在家の維摩にこの二乗の連中は見事に論破され,二乗は永久に成仏できないとされたのです。ところが『法華経』では二乗の成仏(二乗作仏)が約束されます。そればかりか阿闍世王に父殺しを唆し,自らも釈尊を殺めようとした提婆達多(ダイバダッタ)のような悪人も,それに女性も成仏できると説いています。それ程『法華経』の功徳が凄いのは,実は法華経が「久遠実成の思想」を説いているからなのです。 

                   久遠実成の思想

  日蓮は『観心本尊抄』で「今本時の娑婆世界は三災を離れ四刧(しこう)を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず,未来にも生ぜず,所化(しょけ)以て同体なり,此れ即ち己心の三千具足,三種の世間なり。」と説きました。今この時の現存在が永遠の浄土なんです。過去も未来もこの己の身体,己の心の中にあって,釈迦如来は「永遠の今」に常に住われているのです。それを死後の阿弥陀浄土に求めるのは間違いだというのです。

 『華厳経』や『大日経』も法身仏の永遠の世界を説いていますが,日蓮によれば,ではどうすれば己が身と心が法身仏と一体であるかを悟る,成仏の論理が欠けているのです。成仏の種が蒔かれ,成仏の期が熟して,ついに種を脱してさとりを開く「種・熟・脱」の論理です。それは大昔に大通智勝仏によって種が蒔かれ,その後の多くの仏や釈迦が説法して次第に期が熟し,とうとう『法華経』本門寿量品でさとりに達したのです。

 でも末法の衆生には「種・熟・脱」が一気に行われなければなりません。それを日蓮は題目を唱えることで達せられるとしたのです。「南無妙法蓮華経」と唱えることで,今この時の現存在のおいて身も心も久遠の釈迦と一つのものとなるわけです。

 永遠の今を真理と一体になって充実した慈悲の実践に生きようとする精神は感銘的ですが,それが表に現れると,「破邪顕正」の為の他宗攻撃の形をとりますので,独善的だと顰蹙をかいやすいのです。他宗からすれば「南無妙法蓮華経」を何万遍も繰り返えせば,御利益があるとするのは,言葉と真理を混同した言霊(ことだま)信仰だということになるでしょう。

   仏教的無常観と美意識 

   末法に入り,平安末期から戦乱や圧政で仏教的無常観がひとしお深まりました。濁世を離れ,人里離れた山奥に庵を結んで住んだり,旅から旅への生活を送る僧が珠玉の随筆や歌を詠んでいます。その中には仏教的無常観が溢れている作品が多いようです。

 西行(111890) は自然・歌・仏教の三位一体を求めて旅に生きました。『山家集』には「願はくは花の下にて春死なむ  そのきさらぎの望月のころ」とあります。美しい花に埋もれて,自然に抱かれるよう死ねたら最高だという気持ちを歌ったものです。自然との融合による宗教的救済がテーマになっています。この場合の「花」は,枯れ葉のイメージとは逆に,散り行く自然のはかなさという否定よりも,むしろ華やかな妖艶美として肯定的な「華」を思わせます。死という無常が華と融合して「三諦円融の美」を謳いあげているようです。

 「ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたる例なし,世中にある人と栖(すみか)と,またかくのごとし。」鴨長明は「方丈記」で「無常」を見事に「うたかた」にシンボライズしています。また『平家物語』の語りだしも心に響きますね。「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず,只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ,偏に風の前の塵に同じ。」

 鎌倉時代が終わる頃に書かれた吉田兼好(12831350) の『徒然草』は,「花は盛りに, 月は隈なきをのみ見るものかは」と無常観によって美がひとしお胸に迫ることを発見しています。これを後世の本居宣長は, だれでも盛りの花や望月を見て心晴れる思いがしたいのが素直な真情なのに,兼好法師はわざとらしく真情に背いて, 名残の花や欠けた月を風流がっていて「つくりみやび」だと批判したのです。宣長には否定を介して美がひときわ色めき立つという「滅びの美学」が理解できないのです。つまり神道には無常観が欠けているのです。

 この否定を介して美がひときわ色めきたつ場合に, 「無常」に力点を置きますと, 静寂な無我の境地が余情として象徴的にたたえられているのが胸に迫るのです。これを藤原俊成(1114 1204) は「幽玄」体として捉え, 『千載和歌集』で編纂を通してそれを追求しています。

「ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる(藤原実定)世の中よ 道こそなけれ 思い入る 山の奥にも 鹿 ぞ鳴くなる(藤原俊成)」

 それに対して「色めきたつ」という方に力点を置きますと「妖艶」美がものぐるおしく迫ってきます。これを俊成の子, 藤原定家(11621241) は「有心(うしん)」体と名付けました。

「春の夜の夢の浮橋とだえして 嶺にわかるるよこ雲の そら(藤原定家)しがのうらや遠ざかり行く浪まより 氷りて出づる有 明の月(藤原家隆)」

  室町時代になり, 能楽が大成されます。能楽の作者であり, 役者であった世阿弥元清(1363 1443) は『風姿花伝』で「幽玄」を妖艶美として捉え, ひときわ映える「花」に象徴させています。実際読めばよく分かるんですが,この花も散り行く無常を象徴するのではありませんから, 一見否定の美学ではないように思えます。

 それでも能楽では,煩悩に苦しむ地獄が, 死者の怨霊をシテ(主役) として表現され,弔われます。世阿弥の作品自体には痛切に無常が表現されているのです。

 たとえば『綾鼓』です。皇居で庭掃除をしていた老人が,女御を見そめて恋に落ちます。女御は綾で作った鼓を池の桂の枝に掛けて,それを老人が鳴らして御殿にまで響いたら一目会ってあげると約束します。老人は懸命に鼓を打ちますが鳴りません。それもその筈,綾で作った鼓では鳴る筈はありません。老人は悲観して池で入水自殺をします。

 女御は老人の死を聞いて物狂わしくなり,鼓の音が聞こえると叫びます。鬼となって現れた老人は,女御に鼓を打てと笞で責めます。さんざん責めた挙げ句,大蛇となった鬼は怨めしや怨めしやと叫びながら池に帰っていくという筋立てになっています。

 能楽における妖艶は命の煩悩の篝火の揺らめきなのです。暗闇の中で薪能が行われますと,その中に命の妖艶が燃え上がり,揺らめきます。無常であるが故に物狂わしく色めき立たずにはいられないのです。

 室町時代の後期に村野紹鴎が「侘茶」を始め,これを利休が完成させました。利休の弟子南坊宗啓の『南坊録』に「紹鴎がわひ茶の湯の心は新古今集の中定家朝臣の歌に『見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕くれ』此歌の心にてこそあれと被申しと也」と利休の教えが記されています。そして江戸時代の蕉門俳諧では「侘び・さび・しおり」等の,燃え立つ生命の妖艶が滅び去り,枯れきった後の安住の境地が好まれたのでした。 

 

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